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第1章 ダオ編・壱

3 日常の瓦解③

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 離れた村から聴き慣れた生活音が聞こえてくると、一気に力が抜けた。ラオルに服を引っ張られながらなんとか小屋に入り、安堵した身体がふたたび震え出す。
 けっきょく、彼らはなんだったのだろう。抱きたいと思う女の身体じゃないし、食べても美味しくない。おまけに欠陥がある。逃されたのは、さしあたってそのあたりの理由だったのでしょうか。ぼくはラオルを引き寄せ、クゥンと鳴いて慰めてくれる獣の背中に顔を埋めました。
 命びろいしたのだから、よかった。そう気持ちを切り替えたときです、———コンコンコン! といたように小屋のとびらが叩かれました。
 旦那さまの留守中に訊ねてくる人など滅多にいない。普段、ぼくに用がある人は村にいないからです。次から次に今日はめまぐるしい。村人はぼくが危険な者たちに近づいてしまったのをとがめにきたのかもしれない。
 そわそわしているうちに、ノックの音は大きくなります。

「おーい、居ないのかい?」
「居るはずさね。帰ってくるのを見たんだから」

 まずい。ばれている。男も女もあわさって、何人もの声が聞こえました。唯一、信頼できる村長の声を聴き分けられたことで決心します。とびらの錠を外し外に顔を覗かせると、ぱっと騒がしい声が止みました。

「あぁ! やっぱり居たね、よかった」

 声を発したのは村長です。けれど、優しすぎる猫撫で声が気になってしまった。

「このまま村役場にこられるかい?」
「え・・・・・・」
「すまないね、あんたにしか頼めないことなんだ」

 村役場は村人どうしの結婚式や、揉めごとの話し合いに使われる場所。つまり、さっきの件を尋問されるということなのか? ですが、頼む・・・・・・とはなんでしょう。
 ぼくは頬を固くする。

「突然で戸惑う気持ちもわかるよ。ここの主人にはわたしから上手く説明しておくから心配しないでいい」
「ちょっと待ってください・・・・・・ぼくは」

 言葉がつまる。あれで許されたと思っていた。
 ぼくの考えは浅はかでした。これ以上ごねれば旦那さまに迷惑をかけます。罪を認め、償う以外に選択肢は無さそうです。瞬く間に重たくなった脚を動かし、ぼくは村長率いる村人の集団に着いていきました。
 すんと鼻先をただよう匂いが変わったら、村に着いた合図。活気づいた朝の市場は香ばしい焼きたてのパンの匂いがします。今日はとくに賑やかで、いつもなら夜にしか開いていない呑み屋の店主の声まで聴こえ、男たちの豪快な笑い声、女たちのクスクス声が混ざり合っていました。
 市場を横切ると、役場はその奥。
 全体のイメージはわきませんが、村いちばんに頑丈で大きな建物であることを、知識としてぼくも知っています。
 とびらが開けられ、膝を折り頭を下げるように言われました。言うとおりにすると、ぼくの周りから人が消えました。
 村長もいなくなり、きっと面白半分に着いてきていた野次馬もいなくなり、やがて森や草原から香る花々の匂いとは異なる、ぴりっと鼻腔を刺激する蠱惑的こわくてきな甘い香りが鼻をかすめた。きついほどの甘い香水の匂いに、むせてしまいそうになるのを堪えます。

「顔を上げろ」

 ・・・・・・上げられませんでした。あの男の鋭い声です。

「顔を上げろ、耳まで聴こえなくなったか?」
「申しわけありませんでした。必要な罰を受けます」

 沈黙の間が空きました。

「は、貴様はなにを言っている?」

 苛立っているのか、嘲笑しているのか判断できません。どうせ表情は見えないのですが、思わず顔を上げてしまいました。

「ふん。やっと、言うことを聞いたか。あ? なんだ? ちっ・・・・・・」

 満足げにつぶやいた男は、誰かに話しかけられています。たぶん村長だ。ここにいる彼らは盗賊か野盗で、ぼくを理由に村が脅されているのでしょう。
(あれ?)
 おかしいのです。村長の声は嬉しそうに聴こえました。この男と村長の繋がりはいったいなに?

「さて、話はついたな。んじゃ、もうこんな馬のクソ臭い村に長居する意味はなくなった」

 ひどい言われようにも、村長は嬉しそうな声の調子を崩さなかった。

「さようでございますね。ああ、まことにありがとうございます、ありがとうございます」

 それは何に対する礼なのだろう。
 ひとつも情報が入ってこないのに、心が冷たくなっていくのが不思議だ。凍りついた心臓が騒ぐ。昨晩の嫌な予感は的中したのかもしれない。ただそれは旦那さまではなくて、ぼく自身であったけれど。
 旦那さまでなくてよかったと、ぼくは喜べばよいのかどうか、わからなかった。
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