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第三章『悪魔と天使のはざま』

101 ジョエルの弱さ

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 ジョエル。可愛いジョエル。
 母の声。抱かれている赤子だった自分。幸せだった。温かかった。母と二人っきりだった記憶に、もう一人。
 優しい手。
 母と幼いジョエルを守る、優しい誰か。 

「え・・・?」

 怒涛と流れ込んできた思い出の切れ端に、ジョエルは呆然とし目の前のやり取りがかすんだ。

「あなたは。どうして、お父様が二人いる?」

 母と自分に接する態度が、そう思ってもおかしくない距離感だった。

「はっ」

 オスカーが大声で笑った。

「ジョエルよ。お前に父と呼ばれるといつも不愉快だった。もはやこの状況で隠す必要もないな。お前と私にいっさいの血の繋がりはない」
「血が繋がっていない?」

 ジョエルは情けない声を出す。

「私がお前の母を連れ帰った時にはすでに妊娠していたんだ。しかしそうかそうか、私に内緒で潜り込み密会を続けていたのか。これは傑作だな。して私をどうするつもりだ?」

 オスカーの目がミリーを捉える。

「今まで隠れていた姿を表したということは、何かしらの理由があるのだろう? 恋人を奪った私を殺すか?」
「お望みならば」

 ミリーが威圧しながら一歩前に出ると、オスカーは降伏する真似をして一歩下がる。

「くくく、・・・うおぅと」

 ミリーは嘲笑的に喉を鳴らしたオスカーの胸ぐらを掴み上げた。

「貴殿の考える低俗な関係と一緒にするな」

 払うようにして手を離すと、オスカーはバランスを崩して尻をつく。

「ソルト家は偉大な神に忠誠を尽くしている。好き嫌いというちんけな愛というものよりも優先せねばならないことがある」
「しっかり子どもを作っておいてか?」
「・・・・・・なんだと」
「言いわけできないだけ愛し合っておいて、好きなオメガを奪い返そうともしなかった。私を騙すだけあってどれほど切れる男かと思えば、なんだただの腰抜けだったんじゃないか」

 オスカーは立ち上がり、帰るぞと、呆然としていたジョエルの頬を叩いた。

「っう」
「ぼうっとするな。過去がどうあれ、お前が私の唯一の汚点であることに変わりない。話すだけ時間の無駄だった」
「・・・ごめんなさい」
「さっさとついて来い」
「はい」

 ジョエルはびくりと肩を震わせ、口答えできなくなる。
 横暴な父のもとから救い出してくれるかと思ったのに、ミリーは追ってこなかった。
 いったんは感じた希望は、瞬く間に消えてしまった。
 寮から出ると口を利くことを許されず、馬車に揺られ、アルトリア家の屋敷に連れ戻されたジョエルは屋根裏部屋に入れられた。入学前まで使っていた部屋だが、片手で数えるほどしか掃除されていなかったのだろう、床全体が埃をかぶり、鼻がむずむずしてくる。ジョエルは急いで小さな窓を開けて空気を入れ替えた。
 質素なベッドに腰掛け、そのまま薄っぺらなシーツの上に横たわった。

「これからどうしよう」

 とは口に出してみたものの、自分の将来すら考える必要がなくなったのだ。
 ジョエルは絶望感に苛まれる。あれこれと頭を悩ませていた騒動も、全部夢のような出来事に変わってしまった。
 その時、出入り用の床の扉が浮いた。

「ジョエル・アルトリア様、黒兎でございます」

 隙間から女性の声がする。

(・・・・・・!)

 口を押さえ、ジョエルは喜びの声を我慢する。
 黒兎は黒装束で隠されていない目元を細めて、微笑みかけてくれる。沈みかけていた心が明るくなり、どれほど安堵したことか。

「声を出さないで聞いていてくださいね。屋敷であなたの姿を見て驚きました。ハワード殿下とセス様に連絡させていただきましたからね」

 シーレハウス学園の外に出されたことはある意味で幸運だったのかもしれない。
 しかし、ミリーのことを思い出して首を横に振った。
 声を極限まで絞り、忠告する。

「逃げてください。モーリッツと名乗る男がいましたよね。彼は貴女がたの侵入に気がついていたはずです。何か仕掛けてくるかも」

 オスカーに伝えるという方法を取らずに、単独で動いてくるかもしれない。何を企んでいるのか想像もつかない男だが、ジョエルがハワードたちの仲間でいるのを望まなかった。

(そして僕の本当の父親かもしれないひとだ・・・・・・)

 ジョエルに危害を加えなくても、必要と判断すれば他の人間には躊躇わず攻撃してくる。ギュンターの例があるので油断できない。
 だが黒兎は逃げも隠れもせず、ジョエルに問う。

「ジョエル様はこの先もアルトリア家にいたいのですか?」

 ジョエルは目を丸くして否定した。

「いたくないですよっ、僕はこんなところで暮らしたくないです。コタローにだって二度と会えなくなってしまう」

 すると黒兎は頷いて言う。

「では、少し頑張れますか?」
「へ、何がでしょう」
「実はわたくしたちもジョエル様の出自について聞いておりました。告発するための証拠を探っているところなのです」
「告発って、そりゃ悪事には手を染めているでしょうけれど」

 不審な顔をしたジョエルに黒兎は教える。

「あなたの母君は密入国されて来たのですよ。その証拠を探しているのです」

 ジョエルは息が止まった。身内の自分が知らなかった父の秘密を見抜いたハワードたちの推察力と聡明さに感心し、同時に恥ずかしくなって俯いた。己れで考え行動し成し遂げる、不可能を可能に変えていく力があることが自分とは大きく違う点だ。
 思えば救いの白翼でも自分はそうだった。
 ジェイコブに尻を叩かれるまで、ミリーの操り人形から脱却することを諦めていたのだから。
 父に意見する勇気も持てず、今も嫌だ嫌だと言いながらも大人しく閉じ込められている。

「僕なんかにできることがありますか」

 卑屈な口ぶりで問うてしまってから、ジョエルは唇を噛んだ。

(黒兎たちは任務でたまたまここにいるだけなのに、僕の弱音を聞いたって困るよな)

「ごめんなさい、なんでもないですから」

 正直もう帰ってほしくて、誰とも話したくない気分で、ジョエルは背を向けようとする。

「あなたが大切にしていることはなんですか」

 黒兎の隠れた表情が見えるような穏やかで凪いだ声だった。

「・・・・・・大切」
「そうです。わたくしが屋根裏寝屋に来られる機会はもう巡ってこないでしょう」

 よく考えてと言われ、ジョエルは諦めの悪い自分を見つめた。
 お前の心の中にはコタローがいるんじゃないのか。
 ジョエルが何度も忘れそうになって、でも忘れない、ジョエルを元気づけて生きる力になってくれるひとの存在だ。

「僕は何をすればいいんですか」

 かすれた声が出てしまったが、ジョエルは心を決めた。

「はい、ジョエル様の母君が住まいとしていた別宅の在処を探しています。母君から遺されたもの、こと、なんでもいいのです。覚えていらっしゃいませんか?」
「わかりません。物心ついた頃には本邸に移されていたので・・・すみません。でも、僕は役に立てませんがモーリッツ・・・ミリー・ソルトが確実な場所を把握していると思います。僕が証言を頼みます」

 それならできますと力強く言うと、黒兎はありがとうと目を細めてくれる。

「ジョエル様、最後に、覚悟はよろしいですか」

 ジョエルは首を傾げた。

「オメガの密輸は重罪と聞いております。罪が明るみになった暁には、おそらく当主のフローレス侯オスカー様は投獄され、一家は財産を没収されます。侯爵婦人とご兄弟姉妹たちは路頭に迷う。当然、あなた自身も貴族ではなくなる」
「ああ。そのことですか。僕のことはどうでもいいんです。酷いと思われるでしょうがこの家の人間のことも、どうなろうと知りません。でも、コタローに会えなくなるのは何よりも嫌です」
「ならば、ご自分の想いのままに動かれるのが正解かと」

 黒兎は滔々と答え、一礼すると、「今夜に迎えに来ます」と言い残して降りて行った。
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