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第三章『悪魔と天使のはざま』

98 変革

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 ジョエルがひとりきりで見つめていたのは教会の聖母像だった。
 またここに来れば琥太郎に会えるんじゃないかと思ってしまう。彼が訪れないことは知っていて、とっくに見限られていることも身に染みているけれど。
 何かが、微妙にずれていっている。
 琥太郎を守るためにしているつもりなのに、どんどん琥太郎が見えなくなっていく。
 ジョエルを取り囲んでいるのは欲しくもない有象無象だ。守るべきだという信念は正しかったのか今はわからない。

(教会の外に出たくないな。琥太郎に会いたい)

 寮に帰れば、ミリーが待っている。早く帰らないときっと探しにくるだろう。
 ミリーはジョエルをオメガの救いの天使に仕立て上げることに執心していた。
 正直なところ、ジョエルは起きている出来事を把握していなかったが、ミリーの言うがままに学園生たちの前に座り、言葉を話せばいいだけだった。完全なる操り人形だがジョエルを突き動かす原動力は消えかけのマッチの火くらいの弱さなのだ。

「こうすれば本気でコタローが手に入るって思ってた・・・。どうしてかな」

 聖母像を見上げ、今ならこの像に許されたいと願った。
 取り返しのつかないことをし、もう戻れない。仲間を遠ざけたのはジョエルだ。でも戻れるなら・・・戻りたい。

「ああ、ジョエル。こんなところにいたんだね」

 扉が開くと、ミリーの声が響き渡った。
 やっぱり来た。反射的にそちらを見てしまったジョエルは、がっかりして俯く。

「帰ろう。セラス寮生たちが君のありがたい言葉をお待ちかねだよ」

 ミリーは絨毯の上を歩き、ジョエルにハグをする。短期間で彼はすっかりセラス寮生に馴染んでしまった。

「うん」
「コタローが心配?」
「・・・・・・うん」

 ジョエルは頷いた。

「元気でやってるかな」
「その心配はいらないんじゃないかな。案外、豪勢に暮らしてるかもよ」

 ミリーが肩をすくめて言う。ジョエルの心は沈むばかりだ。

「だよね。ハワード様もいることだし。ローレンツ寮長もついてる」

 無理をして笑顔を作ると、頬がひび割れたみたいに痛む。

「ジョエル・・・・・・」

 ミリーは真面目な顔つきでベンチに腰掛けた。

「それより君に相談がある」
「相談?」
「最近になってヘリオス寮生が自警団のような組織を指揮して教師やシスターへ過度に反発する学園生を取り締まっているって知ってた?」
「あ、うん。多少は聞いてる」

 しかしジョエルの受けている授業クラスは比較的勤勉な学園生が多く、それほど不満を抱いていない。教師への尊敬の念も深かった。暴動を起こしている場面に直面したわけでもないので、ずっとかなたの国の争いの様子を聞かされているような心地でいた。
 この穏やかなオメガたちの学園内にそんなことが起こりえるのかと、未だに受け入れがたい事実だったのだ。

「ジェイコブがリーダーをしてるってね」

 ジョエルは苦々しく口にする。

「取り締まりの対象はほとんどが救いの白翼の支持者だから、ジェイコブは僕らを良く思っていないよね」
「グルーバーくんの真意は知らないけど、まぁ、普通は平穏な学園生活が脅かされて憤りは感じるよ。早くしないと向こう側に味方についちゃうかもね」

 ミリーが深刻な声で言い、ジョエルの手を取った。

「ハワードシスター長がグルーバーくんと接触したんだ。ヘリオス寮生が救いの白翼を信じないのは、裏切り者たちの魔の手が及んでいるからだよ」
「え・・・・・・」

 ギュッと手を握られ、ジョエルは困惑する。

「このままでは学園生たちが穢されてしまうよ」
「僕にどうしろって言うの?」
「グルーバーくんを仲間に引き入れよう」

 ミリーは断言した。

「大丈夫。ジョエルの色仕掛けならころっと堕ちるよ。グルーバーくんはジョエルが好きだもんね?」
「ひとの気持ちを弄ぶようなことできないよっ」

 手を払い、無理だと告げたが、ミリーはしつこく覗き込んでくる。上目使いに見つめられ、ジョエルは逃げるように目を逸らした。

「わかったってば、やるよ」
「ありがとう。やはり君は救世主だね」

 薄っぺらい言葉がジョエルの胸を打ちはしない、けれど、無駄に持っている正義感は煽られる。

「僕らの活動を認めさせればいいんだよね」
「うん、彼の影響は大きいから大事な勢力だ。グルーバーくんが堕ちれば様子見していた女オメガ寮の学園生たちも味方についてくれる。そうなればいよいよもってシーレハウス学園は学園生のものになるよ、楽しみだね」

 目をキラキラさせたミリーがジョエルの胸に顔を擦り寄せた。ジョエルは琥太郎とは違う柔らかい髪を撫でて、ため息をついた。

(もう何処に向かっていけばいいのか前が見えないよ・・・・・・)

 結局ジョエルは示された方向にしか進めない。翌日はジェイコブを待ち伏せ、中庭に誘った。

「ジェイコブと顔を合わせるの久しぶりな感じ」
「監督生の朝礼がなくなったしな」

 声色がかたい。かつては気兼ねなく話せていたけれど、うっかりキスされそうになった時も会うのをやめなかったのに、変わらない微笑みの下で膜一枚くらいの距離を取られているのが伝わり、心がツキリと痛んだ。

「最近どう? ・・・・・・コタローには会った?」

 気まずさの中でジョエルが声を絞り出すと、ジェイコブは一秒ほどジョエルを見つめ、あろうことか「ぶふっ」と吹き出した。

「はー、なんだよもう、ジョエルはジョエルだな」

 うつつの抜けた声にジョエルはきょとんとする。

「俺を懐柔したかったんじゃないのか。それなのに想いびとの心配なんかして、全然駄目じゃないか」
「ぁ、確かに・・・ごめんなさい」
「いいや、ノリノリでのしかかってきたらどうしようかと思ってたんだ。俺は心を無にできるかって、緊張してたんだぜ?」
「ノリノリ・・・・・・」

 ジョエルは中庭のど真ん中でジェイコブを押し倒す滑稽な自分を想像して赤面した。

「色仕掛け、するべきだったかな」
「しなくていいよ。されても困る。俺とどうにかなる気あるのか?」
「ない」

 即答すると、傷ついた様子もなくジェイコブが笑う。

「だろ?」
「だよね。ふふ」

 久しぶりに安心できる顔を見て、久しぶりに肺いっぱいに空気が吸えた気分だった。頬もほころんだ。
 ジェイコブは深呼吸をするように肩から力を抜き、適当な場所に腰を下ろす。ジョエルも座れと隣を手でぽんぽんと叩くと、少しだけ表情を引き締めた。

「実は俺も君と話ができればと思っていたんだよ。学園は非常に難しい局面にいる。オメガたちの暴動が外に漏れるのも時間の問題だと思う。いつ一方的に家族への反発や婚約破棄を主張する学園生が出てもおかしくないところまで救いの白翼の熱は高まってる」
「けど、オメガたちの生活を変えるためには大事な通過地点だって。いつかは誰かが勇気を持ってそうしなきゃ、世界の仕組みは変わらない」
「それは誰が言ったんだ?」

 ジェイコブは答えようとする口を人差し指で封じる。

「ミリー・ソルトというウラノス寮生だな?」
「ん」

 こくりと、ジョエルは頷いた。

「あの子は信用できるのか」
「え、できる・・・よ」
「ジョエルは今、ミリー・ソルトにあらゆる選択を一任しているだろう」
「だから、何?」

 ジョエルは図星で目を逸らした。自分の行いを後ろめたいと思っていたことに今さら気づく。ジェイコブに両肩を掴まれる。

「ちゃんと自分で考えろジョエル。頭を働かせろ。これから起こりえる変革は本当にオメガたちのためになるのか? コタローを守ることに繋がるのか?」

 そして最後に一段と声を震わせて付け加えた。

「俺はいずれこの地が戦場になる未来しか見えない」
「・・・っ、ジェイコブ」

 ジョエルは瞼を引き攣らせて目を見開いた。

「ジェイコブ・・・僕は」

 だがジョエルの声は遮られてしまう。

「うちの大切な天使様を虐めるのはやめてくださいね。グルーバー先輩」

 近くで見張っていたのだろう、ミリーが邪魔に入った。
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