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前編
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彼岸の花畑に、いつも佇んでいる人がいる。
見慣れない西洋の洒落たレース頭巾を被り、ふわりと風になびく美しいワンピースを着たその人。
出逢いはひと月前。近道は無かろうかと寄り道をした日に偶然見かけ、結局は遠回りだとわかったのだが、僕はとても良い拾い物をした気分がしていた。
だが僕は知っているのです。
かれは、中学を卒業した少年。
れっきとした、男の子であることを。
子綺麗でこぢんまりした鼻筋と、長いまつ毛にふちどられた二重瞼。可憐な面立ちは中世的でどちらともつかないが、頭を隠しているのは、短い髪を見られないようにするためでしょうか。
いったい何のために女性の格好をしているのか。
僕は気になって仕方がなく、勤め先の大学の帰りに、わざわざ遠回りをして林道を通っている。
ここで、少しばかり話を逸らせよう。
彼岸花とは赤く華奢な花びらが特徴的な美しい花だ。
古い伝え話や確証のない迷信から不吉なイメージをもたれている哀しい花でもある。花は毒性をもつため、毒抜きなしに食すと人体に害をもたらす。
けれどもそんなことよりも僕が注目したいのは、彼岸花が草原一面に咲き誇っているこの場の、血濡れて真っ赤な絨毯のごとき様よ。
艶やかで、妖しく、魂ごと心を奪われてしまうような、別世界に迷い込んだかの錯覚を引き起こすのだ。
話を戻せば、そんなところにいつも立ちすくんでいるものだから、彼——彼女は、この世の者ならざる化身。神か悪魔の使いなのではないのかと、僕は疑ってしまうのであった。
ある日。急な土砂降りで、僕は駅で立ち往生していた。自転車で通勤していたために、傘を差すのも難しく、濡れながらの帰宅を余儀なくされる。
さらに僕は林道の入り口で足を止めて迷った。
こっちの経路を通ると、倍の時間がかかる。おまけに道がぬかるんでおり、まともな思考であればやめておこうとなるのが正常な判断だ。
しかしながら、どうしたことか、僕は考えるよりも早く自転車の前輪を林道に向けていた。
ひどい雨の日だ、あの人はおらんだろう。
そう思いつつも足を止められなかったのは、彼岸の花畑に惹き寄せられていたから・・・とでも表現すれば、僕の普通ではなかった心情を想像してもらえるでしょう。
ときおり泥に足を取られ、じつを言えば今朝方おろしたての革靴が見事に汚れていた。
だが気にならないほど、僕は彼——彼女に意識を奪われていた。
そして彼岸の花畑にたどり着き、僕は息を呑んだ。
花畑の中心に、その人はいたのです。
じっとりと雨に濡れながら、肌に張りついたワンピースと、レースの頭巾にやはり短い黒髪を透かせて、目を閉じている。
手には、何かを持っていました。
初めて見る光景です。
それまでは遠くから眺めるだけにしていた僕ですが、自転車をわきに止め、おそるおそると近づいてみることにした。
ぐしゃと水たまりを踏み締めた音に、彼——彼女はゆっくりと振り向いた。
こちらを見つめる瞳の色は榛色。まるで表情は動じていなかった。
これまでの僕の視線に、気づいていたのかもしれません。
「やぁ———」
と、口を開きかけ、その人の右手に視線を落とす。
口を突いて出るはずの賛美の言葉は、当惑に変わった。
僕の心は盛大にうろたえる。
手に握りしめられていたのは包丁だった。
しかも刃渡り全体がべっとりと赤く濡れて、彼岸花と同じ色に染まっているではないか。
見たところ、ワンピースに飛び散ったようなシミはあれど、刺し傷切り傷の類いは見受けられない。
となれば襲われたのではなく襲った、と考えてしまうのが人間の頭だ。
ばくばくと早鐘を打つ胸。
この場の成り行きで僕が刺されてしまってもおかしくはないのだ。
だがそうはならなかった。
彼——彼女は僕に対して口を開く。
「もし?」
「はっ、ハイ」
変声済みの男性の声。彼は、少女めいた非現実的な愛らしさで言葉を続けた。
「いつも、そこに立っているお方ですよね?」
「はい・・・不躾な真似をしてしまい深く反省しています。この場で謝罪いたします」
「くふふ、いいですよ。怒ってはいません。私もあなたに逢えるのを楽しみに毎日通っておりましたから」
どきりとする。しかし嬉しいはずの会話も、全く頭に入ってこなかった。
麗しの彼岸花の人から一転、猟奇的にすらうつる彼の双眸。
殺される。もしくは捕えられて、いたぶられる。
どっちの予想も最低最悪。
僕も男だが、相手も男なら、百歩譲って負ける可能性は大きい。まして、向こうは包丁という武器持ちだ。
「そんな顔をしないで。悲しい。これで驚かせてしまいましたか?」
前に差し出された血まみれの包丁を、僕はちらりと見やる。
「ええ、そりゃあ・・・驚いたってもんじゃないです。怖いですよ」
素直に答えれば、彼はこくりと頷き、僕の近くに包丁をぽーんと放った。
べちょっと地に落ちた包丁は泥の上を滑り、カラカラと回って、つま先で止まった。
僕は後ずさる。血のついた包丁に吐き気をもよおしそうだ。気持ち悪い。
「・・・これで私は丸腰、あなたの方が上背がありますし、負けることはないでしょう?」
「それは、まあ、たしかに」
謎は深まる一方だった。
彼の素性、名前、まことに人間なのかという疑惑。
それから僕は自分も恐ろしい。人を殺したのではという嫌悪の中でも、僕自身が抱いていた彼への想いは消えなかった。
凛と研ぎ澄まされた横顔に、僕は相も変わらず見惚れてしまう。
摩訶不思議で神秘的な存在ゆえに気になる。その程度であったはずなのに、いつの間に恋慕に変わっていたのだろう。
そう気づいた途端に、吐き気がぴたりと止まっていた。
気持ち悪いと遠ざけた包丁に、僕はゆっくりと手を伸ばす。
泥と、血。僕は指先を汚し、包丁を拾い上げると、彼にそれを手渡したのだ。
驚いて目を見開いたのは今度は彼の番。
はたして、どうしたもんかと思う。
「僕はあなたが好きなのでしょう。もしも、あなたが僕を殺したいと思うのならば好きにしてください」
数分間考え抜いて口にした懇願とも呼べる愛の台詞に、彼は頬を染めて大笑いをした。
「・・・・・・ふふふ、もう、照れさせるか、笑わせるか、どっちかにしてほしいものです」
彼の返答を聴き、僕も頬を熱くする。
「すみません」
「素直な人。あなたからの気持ちを嬉しく思います。私は父を刺して殺しました。私の話を聞いてくださいますか?」
ほんのわずかに怖気づいたが、僕は顎を引いた。たとえ何が出てきたとしても、受け入れる覚悟を決めたのだ。
見慣れない西洋の洒落たレース頭巾を被り、ふわりと風になびく美しいワンピースを着たその人。
出逢いはひと月前。近道は無かろうかと寄り道をした日に偶然見かけ、結局は遠回りだとわかったのだが、僕はとても良い拾い物をした気分がしていた。
だが僕は知っているのです。
かれは、中学を卒業した少年。
れっきとした、男の子であることを。
子綺麗でこぢんまりした鼻筋と、長いまつ毛にふちどられた二重瞼。可憐な面立ちは中世的でどちらともつかないが、頭を隠しているのは、短い髪を見られないようにするためでしょうか。
いったい何のために女性の格好をしているのか。
僕は気になって仕方がなく、勤め先の大学の帰りに、わざわざ遠回りをして林道を通っている。
ここで、少しばかり話を逸らせよう。
彼岸花とは赤く華奢な花びらが特徴的な美しい花だ。
古い伝え話や確証のない迷信から不吉なイメージをもたれている哀しい花でもある。花は毒性をもつため、毒抜きなしに食すと人体に害をもたらす。
けれどもそんなことよりも僕が注目したいのは、彼岸花が草原一面に咲き誇っているこの場の、血濡れて真っ赤な絨毯のごとき様よ。
艶やかで、妖しく、魂ごと心を奪われてしまうような、別世界に迷い込んだかの錯覚を引き起こすのだ。
話を戻せば、そんなところにいつも立ちすくんでいるものだから、彼——彼女は、この世の者ならざる化身。神か悪魔の使いなのではないのかと、僕は疑ってしまうのであった。
ある日。急な土砂降りで、僕は駅で立ち往生していた。自転車で通勤していたために、傘を差すのも難しく、濡れながらの帰宅を余儀なくされる。
さらに僕は林道の入り口で足を止めて迷った。
こっちの経路を通ると、倍の時間がかかる。おまけに道がぬかるんでおり、まともな思考であればやめておこうとなるのが正常な判断だ。
しかしながら、どうしたことか、僕は考えるよりも早く自転車の前輪を林道に向けていた。
ひどい雨の日だ、あの人はおらんだろう。
そう思いつつも足を止められなかったのは、彼岸の花畑に惹き寄せられていたから・・・とでも表現すれば、僕の普通ではなかった心情を想像してもらえるでしょう。
ときおり泥に足を取られ、じつを言えば今朝方おろしたての革靴が見事に汚れていた。
だが気にならないほど、僕は彼——彼女に意識を奪われていた。
そして彼岸の花畑にたどり着き、僕は息を呑んだ。
花畑の中心に、その人はいたのです。
じっとりと雨に濡れながら、肌に張りついたワンピースと、レースの頭巾にやはり短い黒髪を透かせて、目を閉じている。
手には、何かを持っていました。
初めて見る光景です。
それまでは遠くから眺めるだけにしていた僕ですが、自転車をわきに止め、おそるおそると近づいてみることにした。
ぐしゃと水たまりを踏み締めた音に、彼——彼女はゆっくりと振り向いた。
こちらを見つめる瞳の色は榛色。まるで表情は動じていなかった。
これまでの僕の視線に、気づいていたのかもしれません。
「やぁ———」
と、口を開きかけ、その人の右手に視線を落とす。
口を突いて出るはずの賛美の言葉は、当惑に変わった。
僕の心は盛大にうろたえる。
手に握りしめられていたのは包丁だった。
しかも刃渡り全体がべっとりと赤く濡れて、彼岸花と同じ色に染まっているではないか。
見たところ、ワンピースに飛び散ったようなシミはあれど、刺し傷切り傷の類いは見受けられない。
となれば襲われたのではなく襲った、と考えてしまうのが人間の頭だ。
ばくばくと早鐘を打つ胸。
この場の成り行きで僕が刺されてしまってもおかしくはないのだ。
だがそうはならなかった。
彼——彼女は僕に対して口を開く。
「もし?」
「はっ、ハイ」
変声済みの男性の声。彼は、少女めいた非現実的な愛らしさで言葉を続けた。
「いつも、そこに立っているお方ですよね?」
「はい・・・不躾な真似をしてしまい深く反省しています。この場で謝罪いたします」
「くふふ、いいですよ。怒ってはいません。私もあなたに逢えるのを楽しみに毎日通っておりましたから」
どきりとする。しかし嬉しいはずの会話も、全く頭に入ってこなかった。
麗しの彼岸花の人から一転、猟奇的にすらうつる彼の双眸。
殺される。もしくは捕えられて、いたぶられる。
どっちの予想も最低最悪。
僕も男だが、相手も男なら、百歩譲って負ける可能性は大きい。まして、向こうは包丁という武器持ちだ。
「そんな顔をしないで。悲しい。これで驚かせてしまいましたか?」
前に差し出された血まみれの包丁を、僕はちらりと見やる。
「ええ、そりゃあ・・・驚いたってもんじゃないです。怖いですよ」
素直に答えれば、彼はこくりと頷き、僕の近くに包丁をぽーんと放った。
べちょっと地に落ちた包丁は泥の上を滑り、カラカラと回って、つま先で止まった。
僕は後ずさる。血のついた包丁に吐き気をもよおしそうだ。気持ち悪い。
「・・・これで私は丸腰、あなたの方が上背がありますし、負けることはないでしょう?」
「それは、まあ、たしかに」
謎は深まる一方だった。
彼の素性、名前、まことに人間なのかという疑惑。
それから僕は自分も恐ろしい。人を殺したのではという嫌悪の中でも、僕自身が抱いていた彼への想いは消えなかった。
凛と研ぎ澄まされた横顔に、僕は相も変わらず見惚れてしまう。
摩訶不思議で神秘的な存在ゆえに気になる。その程度であったはずなのに、いつの間に恋慕に変わっていたのだろう。
そう気づいた途端に、吐き気がぴたりと止まっていた。
気持ち悪いと遠ざけた包丁に、僕はゆっくりと手を伸ばす。
泥と、血。僕は指先を汚し、包丁を拾い上げると、彼にそれを手渡したのだ。
驚いて目を見開いたのは今度は彼の番。
はたして、どうしたもんかと思う。
「僕はあなたが好きなのでしょう。もしも、あなたが僕を殺したいと思うのならば好きにしてください」
数分間考え抜いて口にした懇願とも呼べる愛の台詞に、彼は頬を染めて大笑いをした。
「・・・・・・ふふふ、もう、照れさせるか、笑わせるか、どっちかにしてほしいものです」
彼の返答を聴き、僕も頬を熱くする。
「すみません」
「素直な人。あなたからの気持ちを嬉しく思います。私は父を刺して殺しました。私の話を聞いてくださいますか?」
ほんのわずかに怖気づいたが、僕は顎を引いた。たとえ何が出てきたとしても、受け入れる覚悟を決めたのだ。
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