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◆エンジェルフィッシュ◆

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 その時は生意気で変な男だな程度の印象だった。出会ったことないタイプの人間だから、関わることに異様なざわつきを感じるのだろうと思っていた。
 連絡先の交換をしたものの、旭から連絡する気は無かった。元々、人付き合いが嫌いということもある。どの人にも必要な時以外は余計な連絡は避けていた。
 ふとした拍子にやたらと浮かんでくる、可愛らしくも憎たらしい笑顔にその都度仕事の手が止まる。咳払いをしてその影を振り払い、PCの画面に視線を戻す。カタカタカタと一律のリズムを刻み、文字を打ち込んでいく。が、どうしても顔が浮かんで無性に苛々が募る。
 旭は煙草を吸いに席を立った。周りに機嫌の悪さを悟られぬよう、何気ない顔をしてデスクの合間を進む。
「あ・・」
 その時パシッとあの時のデートの相手、栗下クリシタあずさと目が合う。栗下はあの日から旭に対してわかりやすく気まずそうに接していた。人嫌いな旭だが流石に少し罪悪感が湧いた。目を逸らして去っていく彼女の腕を掴む。
「わ!なんでしょうか・・?」
 びっくりして怯えた目で旭を見上げる。華奢で細く柔らかい腕の感触、雄の本能を煽るような表情と弱さ。異性に対しての感じ方が変わってないことに旭は安心した。下心を隠して優しい顔を作る。
「栗下さんこの間はごめんね。今夜埋め合わせをさせてくれないかな」
 旭の言葉に栗下はぽっと顔を赤らめる。彼女の頬を飾っていたピンク色のチークがさらに深みを増し、目が潤む。期待どうりの反応に旭は満足して顎を撫でた。旭が異性を誘う光景にオフィス内が騒めき出す。
「それじゃあまた後で」
 未だ夢見心地の栗下を残し颯爽とその場から抜けた。
 旭は喫煙スペースで煙草を咥えて考えた。アイツのことはもう忘れよう、水族館には近づかない連絡にも出ない、これで今まで通りの生活に戻れる。
 その日は仕事を早めに切り上げて、待ち合わせ場所に向かう前にフラワーショップに寄った。店員が花束を見繕っている間は店内の花をなんとなく眺めていた。
「これ・・」
 やたらと心に引っかかる花。
「こちらもお包みしましょうか?」
 旭の視線に気づいた店員が声をかける。
「いや、いい。・・あー、やっぱりお願いします」
 塗り直そう、この花の印象も忌々しいあの男の顔も全て。旭は出来上がった花束を受け取り、栗下の待っているレストランへ向かった。
「ごめんね、お待たせ。会社の近くだと周りの連中がうるさいから」
「いえ、平気です。」
 恥ずかしそうにはにかんで栗下が座っていた。デートのためにわざわざ直したのか髪型が少し変わっている。横を通った時に甘い香りがふわっと宙を舞う。
「なんか今日可愛いね」
「・・ありがとうございます」
 艶のある赤い唇が可愛らしく動く。旭はすかさず花束を彼女に渡した。彼女の目が驚きに見開いたかと思ったらトロンとした表情で旭を見つめる。上々すぎる反応だ。その後はもう旭の思うがままだった。
 食事を終えた後はホテルで身体を重ねた。眠る栗下の横でベッドに腰掛けその顔を眺める。不満があるわけではない、けれどなんだ?物足りなさを感じる。
 この行為に心の繋がりはいつも求めない。男としての欲求が満たせればそれで良かった。容姿も気立てもいい、そして何より女だ。欲求を満たすなら今日は完璧だったはずなのに。解消されないもやもやに旭は無性に苛々した。
 その後幾度か栗下と関係を持った。旭に抱かれながら栗下は「愛してる」や「好き」と何度も口にした、旭もそれに対して同じように返した。中身のない愛の言葉は彼女の心にどれだけ響いたんだろうか。だが所詮気付かない。人は実際に目に見え感じることにしか興味がないのだ。
 旭はカチッとPCの電源を切った。
「旭さん。今日はどうしますか?」
 後ろから栗下の声がする。栗下との付き合いは二ヶ月目に入っていた。正式に付き合っていたわけじゃなかった、だがいつの間にか周りは暗黙の了解で、栗下は彼女顔で旭に声をかける。
「今日はやめておくよ」
「えー、またですかぁ。後で電話して下さいね」
 旭はため息を押し殺した。笑顔で彼女の頭を撫で席を立つ。最近皆が見てる前で頻繁に誘われる。栗下が旭を使って、周りにマウントを取っているのはわかっている。
「面倒くさいな」
 ぽろっと口をついて出る。まだオフィスを出る前、皆が聞いていた。しまったと口を押さえた。栗下がデスクの横で呆然と立ち尽くし、旭を見ている。次の瞬間、旭に近づいたかと思うと頬を思い切り叩き、そのまま横を抜けて走り去った。
 クスクスと笑う声が聞こえる。旭に対してではない栗下を馬鹿にした下卑た笑いだ。
 旭は栗下が気にかかった。でも心配ないだろう。予想通り、次の日出勤した栗下はもう旭との関係は最初からなかったことだったかのような他人の顔をしている。笑っていた同僚たちも何事も無かったように彼女に接する。そして旭もそれに合わせる。
 作った笑顔の下に隠した人間の弱くて汚い本性。もう慣れてきたはずなのに、胸に巣食う忌々しい記憶がいつまでも旭を苦しめていた。

 幼い頃の旭の家庭は共働きの両親、二歳離れた姉が一人、どこにでもいるごく普通の家族だった。友達もいたし、思春期にはそれなりに反抗期が来て、何もかもが普通だったように思う。ただ一つを除いては。
 活発な姉と大人しい自分、女である姉と男である自分、忙しいながらも教育熱心な母親とほとんど育児に口を出さなかった父親。本当にちょっとした原因だった。俺達姉弟には小さな差があった。
 同性であるが故に母と姉は分かり合えることが多かった、頻繁に言い合いをしていたけれど不思議と二人はよく似ていた。父は俺に優しかったが当時は分かり合えるだけの会話は出来なくて、父の背中には何も見えなかった。
 だから姉の方が自分よりもちょっとだけ目をかけられていたのは必然だったのかもしれない。
 姉の部屋は家庭教師の先生や彼氏、友達で賑やかだった。隣り合わせの俺の部屋には楽しそうなおしゃべりがいつも聞こえてきていた。雨の日は外に出て時間を潰せないから嫌いだった。
 おしゃべりの声をかき消すために雨音で耳をいっぱいにした。「ざーざー」という単調な音は次第に騒音では無くなり、旭の心を落ち着かせる精神安定剤となった。いつしか雨音を聴きたくて、傘を持っては玄関の前で雨が降るのを待つようになった。
 そんなある日、いつものように賑やかな部屋から逃げ外へ出た。昨晩降り出した雨で水溜りが道路の至る所にできていた。
 「ばしゃん、ばしゃん」と靴が濡れるのも厭わず、思いっきり水溜りの上を走った。いけないことをしているという背徳感と爽快感、「はは!」と思わず笑みが溢れた。
 ひとしきり走ると、ある空き家の影にぽつんと古いバケツが置きっぱなしになっているのを見つけた。中を覗くと雨水がいっぱいに溜まり、ゆらゆらと光を反射していた。泥だらけのバケツと余りにもアンバランスな美しさに旭は時間も忘れ、ずっとそれを眺めていた。
 次の日もその次の日も旭はそのバケツの元へ行った。天気や時間、外の明るさによってバケツの水は旭に毎回違った景色を与えてくれた。
「あれ?」
 その日はいつもとさらに様子が違っていた。透明な水の中に透明な丸いモノが連なっている。どこかで見覚えのある丸い塊。旭は学校鞄の中から教科書を全て引っ張り出しペラペラとめくった。生物の教科書の二十三ページ目。
「あった!」
 そのカエルの卵はどこからやってきたのか。そんなことはどうでもよかった。旭は水の中に生まれたその生き物がとても愛おしかった。やがてオタマジャクシが卵から孵り、水の中を元気に泳ぎ回る、その姿を一日に何度も見にきては「へへへ」と心を躍らせた。
「お前もいつかは脚が生えてカエルになって居なくなるのかな」
 ぼんやりと、寂しさと期待とが織り混ざった気持ちを旭は感じた。水面に指を這わせて濡れた指先を太陽へかざす。
「俺もお前みたいになれたらいいのに」
 旭は自分の性格を自覚していた。他者への違和感を上手く隠すことが出来ない。いつも誰かに囲まれている姉とは違う、旭は孤独だった。でもその孤独を作っているのは自分自身だということもわかっていた。自らを囲った水槽を飛び出していける脚を旭はオタマジャクシ達に重ねていた。
 だが突然それらは消え去った。
 学校帰り旭が空き家に寄ると、バケツは無残に倒れ虚しく転がっていた。急いで駆け寄り中身を確認するが、雨水は全て土に吸い込まれ、オタマジャクシ達は動かなくなっていた。一匹を優しく拾い上げ手のひらに乗せると、オタマジャクシの腹の下に小さな脚が少しだけ見えているのに気づいた。
 旭は無性に悲しくなった。でも涙は出なかった。自分の中に生まれた黒い塊が心で蠢いて、怒りや憎悪で満たされていた。こんな事をしたのは誰なのか、犯人に対しての苛立ちを抱えながら旭は家に帰った。家では姉がいつものように誰かを連れて来ている、「ガヤガヤ、ザワザワ」うるさい声が旭の耳を犯す。
「うるさい!」
 ハッとした。一瞬部屋の話し声が止み、ガチャっとドアが開いて姉がひょこっと顔を出した。
「おかえり旭、ごめんね~!」
 姉は作り物の猫撫で声で旭に言うと、すぐに部屋の中へ戻って行った。そして再び繰り返されるおしゃべりの声、旭は肩を落とした。
 夕食後、旭が部屋に入ろうとすると姉に引き止められた。
「旭、あんたさぁ、いつも外で何してんの?私の友達があんたが汚い空き家に居るところを見たって言ってたんだけど、まさか変な事してるんじゃないでしょうね?」
「‥ちがう」
 旭は言葉を絞り出す。
「ふーん、どうでもいいけど私に八つ当たりしないでよね!あとあんな汚いところ行くのやめなよー」
 姉の言葉はそれだけだった。
 旭の中で渦巻く黒い塊、「もやもや」、この人は何を言ってるんだ?姉が汚いと言ったあの場所が俺にとってどれほど綺麗な場所だったか。
 旭は壁を思い切り殴りつけた。驚いた姉が振り返る。振り返った姉の顔は無慈悲だ。旭は悟った、姉にとって自分自身を良く見せてくれる物以外は全て汚い物なんだと。どうしようもない「もやもや」した気持ち、旭は枕に顔を押しつけて思い切り叫んだ。
 上部だけの人間が姉だけでは無いのだと知ったのはそれから少し後、中学3年生の時、旭は1人のクラスメイトと仲良くなっていた。
 話すきっかけは隣の席になった、そんな些細なことだった。
「お前頭いいなあ!」
 人懐っこい顔で絡んできた山田健ヤマダケンという男。ケンケンと愛称で呼ばれ、クラスでムードメーカー的な立ち位置のやつだった。大人しかった旭とは正反対の性格で、初めは警戒していた。しかし。
「ケンケンって呼んでいいぜ!」
「ノート見してー!」
「一緒に帰ろうぜ!」
「おはよー!旭!」
 毎日のように話しかけてくる山田に遂に根負けした。
「‥おはよう」
 挨拶を返しただけの旭の一言に嬉しそうに笑ってくれた事が印象的だった。そこからは話す事も多くなった。連れ合う時間も増えた。旭にとっては久しぶりの友達と呼べる存在だった。
 当時の旭は学校の成績が良かった。教育熱心な母親に振り向いて欲しいという子どもらしい思いもあったが、理系の学校に進みたいという希望が強かったからだ。残って勉強する旭の横で、山田が何か言いたげな顔をしているのに何度か気づいた。
「どうした?」
「いや何でもない、帰るわ!」
 何でもないふりをして教室を後にする山田。旭は勉強に集中しすぎて退屈させてしまったのかと思っていたが、それは違ったとすぐにわかった。一学期の終わり、期末テストの一日目が終わった後、旭は担任の教師に呼ばれ衝撃的な事を聞かされた。
「飯田、カンニングさせてないよな?」
「‥え?何のことですか?」
 「そうだよなぁ」と頭を掻く担任教師を目の前に旭は頭が真っ白になった。まさか。疑念が拭えぬまま、二日目、三日目、全ての日程が終了した次の日、旭はまた担任教師に呼び出された。うしろに着いて教室に入ると、クラスメイトが数人とそして、俯く山田の姿があった。
「‥‥」
 山田は旭と目を合わせようとしなかった。俯いた山田の頬には痛々しい青紫色の痣がいくつも出来ていた。席に着いた担任教師が話し出す。ここにいる全員のテストの点数が同じだった事、その回答が旭のテストと全く同じだった事。旭は事情を聞くために呼ばれた事。
「飯田君から見せてやるって言ってきたんですけど~」
「俺たちは一応断ったんですけどね~」
 あまりにもお粗末な弁解に、旭は膝の上で拳を握りしめた。担任教師はそんな彼らを嗜める。
「君たちねぇ!自分たちがやった事わかってるのか?」
「ちっ」
 担任教師の叱責に聞こえるように舌打ちをして、ガンと隣の山田の椅子を蹴り上げた。短く「ひぃっ」と山田が悲鳴を上げたのが聞こえた。
「ケンケーン!発案者はコイツなんでぇ、コイツに話聞いて下さーい」
「‥‥‥」
 長い沈黙の後、山田が震える声で旭の名を言った。
「飯田君から‥言われました‥」
 横で担任教師のため息がした。そのあと旭だけが残されて話をされた。旭が被害者であると先生はわかっているから安心して、そういう内容の事を言っていたような気がする。旭はそんな話どうでもよかった。ショックと言うには重すぎる事実だった。
 三年生に進学してすぐの頃はいつも一人でこの廊下を歩いていた。気づけば隣には山田が居た。
 旭はふと足を止めた。渡り廊下から覗く紫陽花の花壇、その奥の校舎の陰から聞こえていた、男子生徒たちの笑い声と泣き声を思い出す。
 何かを殴りつけるような鈍い音と「げほっげほっ」という嗚咽の声、啜り泣く声。
「‥ごめんなさい、‥ごめんなさい」
「なんかつまんねぇなぁ」
 つまらないと言うたびに殴りつけ蹴りつける。それを見て下品に笑う取り巻きたち。
「あっ!俺さぁ、いい事思いついたわ。俺たちのクラスにさ使えそうなやついるじゃん?ガリ勉みてぇなやつ。そいつにカンニングさせれば良くね?俺らテスト満点じゃん!」
「ギャハハハ、お前天才じゃねー!」
「学年1位取っちゃう?」
「ギャハハハ!やっぱ馬鹿じゃん!」
 心底くだらない奴らだなと思った、でもそうか、ガリ勉は俺の事で、山田は最初からその目的で俺に近づいた。そして俺はイジメられている山田をあの時見捨てた。
 その事に気づいた時、旭の心は「もやもや」で覆い隠され、窒息しそうなほどに締め付けられた。俺たちは最初から友達でも何でもなかった・・・旭は頭がズキズキと痛み、しばらくその場にしゃがみ込んで動くことが出来なかった。
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