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◆テンシノオヒレ◆
Ⅲ
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一ヶ月、二ヶ月、時の経過と共に、旭の日常から千歳の存在は再び影の薄いものへと変わっていた。職場は同じ敷地内にあっても、旭の方から工場に出向かない限りは顔を合わさずに済んだ。
七月末、旭は用事を済ませタクシーを降りると景色がいつもと違うことに気付いた。どうやら運転手が誤って裏門に停車してしまったらしい。
車通りの多い大通りに面した正門とは違い、裏門には植樹された木々が並び印象がまるで異なる。その中でも小さく白い花を咲かせたナナカマドの木が旭の目を惹いた。
旭はその木に近寄って、ピタリと足を止める。木の下で魂が抜けたように天を仰ぐ一人の青年がいた。それは千歳だった。時計の時刻はまだ午後の始業開始まで少し余裕があるが、成瀬から聞いた話が頭をよぎる、旭は気になって陰から見守った。
「そろそろ戻らないと・・」
旭は刻々と動く時計の針とまんじりとも動かない千歳を交互に見て苛々とした。そろそろ時間だと声をかけてやろうかと思った時に、停止していた千歳の足が草を踏みしめる音がした。ギリギリだが間に合いそうだとホッとするも、千歳が歩いて行った先は門の外。
「おいおい!」
旭はギョッとして、その背中を追いかけて呼び止める。何で自分が呼び止められたのか、まるで分かっていない顔の千歳に焦燥を隠せない。よほど怖い顔をしていたのか、千歳は身を縮こませてボソボソと「ごめんなさい」と呟いている。
旭は無性に居た堪れなくなり舌打ちをした。状況を理解できずに棒立ちの千歳の腕を強く掴んで、工場の入り口まで連れて行き、腕時計を指差す。
「まだ仕事の時間!」
叫ぶように言ってしまった後で、咳払いをして努めて優しく言い直した。
「・・早く仕事に戻らないと叱られるよ」
ハッとして千歳の顔は青ざめる。
その顔に千歳が怒鳴られている姿を想像してしまう。「ああもう!」と頭を掻くと、千歳と一緒に班長に謝りに行ってやることにした。
「俺が怒られないように説明してやるから大丈夫」
そう言うと千歳の固かった表情が少し和らいだ。
班のリーダーは旭がついて行くと、恐縮した様子で千歳を引き取った。自分が居なくなった後に怒られないか気になったが、これ以上は自分の仕事がある。旭は近くで見ていた成瀬をチラリと見てから、大丈夫だろうと自らの職場に戻った。
その日から七日後。八月に入り夏らしい気候が目立ちはじめる。関東ほどでなくても日中はちりちりと照る日差しに汗がどっと湧き出た。本社にいた時は寒いくらいの冷房が常に付いていたが、ここでは扇風機とうちわが欠かせない。当然それでは全然暑さは凌げなくて、旭の首を伝う汗は止まらない。
ここ最近の夏はぐっと暑さが増したようで、そろそろクーラーを導入しようと、社長に申請するための話し合いがちょうど昨日行われたところだ。
あと三十分ほどで終業時間になるのに、旭はPC画面に今打ち込んだばかりの数字を全て削除した。今日は一日中慣れない書類と格闘している。残業はしたくないが、明日に持ち越したくもない。急いで手を動かすも暑さで頭がぼんやりして、さっきから簡単な打ち間違いばかりを繰り返してしまう。苛々と何度もマウスをクリックする。
「ちょっと、落ち着いて!」
何やら騒々しい声がオフィスの方へ近づいてくる。バンっ!と荒々しく開けられたドアから、工場の作業着を着た二人がもつれ込むように入ってきた。驚いて、オフィス内は一斉にその二人に注目する。
一人は成瀬で、もう一人はよく見ると、千歳の班のリーダーだった。
「おい、塩谷落ち着けよ」
困り果てた顔で成瀬は塩谷という班長を取り押さえている。一方、塩谷は鼻息荒く怒りが身体中から感じ取れた。
「どうしましたか?」
工場責任者のマネージャーが慎重に尋ねた。
「新飼千歳!アイツは辞めさせてください!」
いきなり千歳の名前が出てきて、旭は唾を飲み込む。
「ただでさえ今日は欠勤が出て仕事が回ってないのに、また遅れてきたと思ったら勝手に教えてない作業をし出して、案の定、最終ラインの製品まで全部パーですよ!」
宥める声も聞かずに、塩谷はこれまでの鬱憤をオフィス内に大声で撒き散らす。
「それで、新飼くんは今どこに?」
「工場内の休憩室に待機させてます」
「新飼くんにはこちらから話をするから、君はとりあえず落ち着きなさい」
マネージャーに言われて塩谷は口をつぐむ、他の社員に連れられて成瀬と共に奥の応接室に入っていった。
オフィス内の緊張が解け、次第に皆がそれぞれの仕事に戻ってゆく中で、旭は集中出来ずに手を止めたままだった。今の二人の話を聞いて、オフィスを出て行ったマネージャーが千歳に何を話すのか気になって仕方がない。まさか、クビという事は無いだろうが今以上に仕事がし辛い環境になってしまうのは想像に難くない。
頭の中で立ち尽くす千歳が真っ青な顔で旭を見つめているように思えた。
旭はPCを閉じて立ち上がった。終業時間はとっくに過ぎている、通勤カバンを手に掴むとオフィスを出て走った。
工場内を駆け抜ける旭に従業員たちの視線が集まる。休憩室まで数メートルというところで、扉が開いて中から千歳が出てきた。しょぼくれた顔で室内に向かって一礼している。
ここまで来たは良いがこの後はどうする?なんて言う?旭は足を止めた。処分の内容次第ではこれで最後になるかもしれないのに、グズグズと迷っている内に千歳は行ってしまう。
「・・・大丈夫ですか?」
焦りの中で千歳の声が聞こえた。
顔を上げると千歳が心配そうに覗き込んでいる。
「出入り口こっちだから」
旭は目を泳がせる千歳の身体を思わず引き寄せてしまいそうになった。チカチカと目の前がスパークして線香花火の灯火が鮮明に蘇る。暗闇を照らす小さな丸い火、シュボッシュボッと花が咲くように火花が散る、眩い光が「ぽたん」と落ちた瞬間に我に帰った。
出しかけた手を自分の胸に当てる。懐かしい面影に間違いなく激しく感情が昂ぶっていた。いつもより早い鼓動が容赦なくそれを証明している。微かに生まれた衝動のカケラを握り潰すみたいに、旭はその手をぐぐっと握り締めた。
七月末、旭は用事を済ませタクシーを降りると景色がいつもと違うことに気付いた。どうやら運転手が誤って裏門に停車してしまったらしい。
車通りの多い大通りに面した正門とは違い、裏門には植樹された木々が並び印象がまるで異なる。その中でも小さく白い花を咲かせたナナカマドの木が旭の目を惹いた。
旭はその木に近寄って、ピタリと足を止める。木の下で魂が抜けたように天を仰ぐ一人の青年がいた。それは千歳だった。時計の時刻はまだ午後の始業開始まで少し余裕があるが、成瀬から聞いた話が頭をよぎる、旭は気になって陰から見守った。
「そろそろ戻らないと・・」
旭は刻々と動く時計の針とまんじりとも動かない千歳を交互に見て苛々とした。そろそろ時間だと声をかけてやろうかと思った時に、停止していた千歳の足が草を踏みしめる音がした。ギリギリだが間に合いそうだとホッとするも、千歳が歩いて行った先は門の外。
「おいおい!」
旭はギョッとして、その背中を追いかけて呼び止める。何で自分が呼び止められたのか、まるで分かっていない顔の千歳に焦燥を隠せない。よほど怖い顔をしていたのか、千歳は身を縮こませてボソボソと「ごめんなさい」と呟いている。
旭は無性に居た堪れなくなり舌打ちをした。状況を理解できずに棒立ちの千歳の腕を強く掴んで、工場の入り口まで連れて行き、腕時計を指差す。
「まだ仕事の時間!」
叫ぶように言ってしまった後で、咳払いをして努めて優しく言い直した。
「・・早く仕事に戻らないと叱られるよ」
ハッとして千歳の顔は青ざめる。
その顔に千歳が怒鳴られている姿を想像してしまう。「ああもう!」と頭を掻くと、千歳と一緒に班長に謝りに行ってやることにした。
「俺が怒られないように説明してやるから大丈夫」
そう言うと千歳の固かった表情が少し和らいだ。
班のリーダーは旭がついて行くと、恐縮した様子で千歳を引き取った。自分が居なくなった後に怒られないか気になったが、これ以上は自分の仕事がある。旭は近くで見ていた成瀬をチラリと見てから、大丈夫だろうと自らの職場に戻った。
その日から七日後。八月に入り夏らしい気候が目立ちはじめる。関東ほどでなくても日中はちりちりと照る日差しに汗がどっと湧き出た。本社にいた時は寒いくらいの冷房が常に付いていたが、ここでは扇風機とうちわが欠かせない。当然それでは全然暑さは凌げなくて、旭の首を伝う汗は止まらない。
ここ最近の夏はぐっと暑さが増したようで、そろそろクーラーを導入しようと、社長に申請するための話し合いがちょうど昨日行われたところだ。
あと三十分ほどで終業時間になるのに、旭はPC画面に今打ち込んだばかりの数字を全て削除した。今日は一日中慣れない書類と格闘している。残業はしたくないが、明日に持ち越したくもない。急いで手を動かすも暑さで頭がぼんやりして、さっきから簡単な打ち間違いばかりを繰り返してしまう。苛々と何度もマウスをクリックする。
「ちょっと、落ち着いて!」
何やら騒々しい声がオフィスの方へ近づいてくる。バンっ!と荒々しく開けられたドアから、工場の作業着を着た二人がもつれ込むように入ってきた。驚いて、オフィス内は一斉にその二人に注目する。
一人は成瀬で、もう一人はよく見ると、千歳の班のリーダーだった。
「おい、塩谷落ち着けよ」
困り果てた顔で成瀬は塩谷という班長を取り押さえている。一方、塩谷は鼻息荒く怒りが身体中から感じ取れた。
「どうしましたか?」
工場責任者のマネージャーが慎重に尋ねた。
「新飼千歳!アイツは辞めさせてください!」
いきなり千歳の名前が出てきて、旭は唾を飲み込む。
「ただでさえ今日は欠勤が出て仕事が回ってないのに、また遅れてきたと思ったら勝手に教えてない作業をし出して、案の定、最終ラインの製品まで全部パーですよ!」
宥める声も聞かずに、塩谷はこれまでの鬱憤をオフィス内に大声で撒き散らす。
「それで、新飼くんは今どこに?」
「工場内の休憩室に待機させてます」
「新飼くんにはこちらから話をするから、君はとりあえず落ち着きなさい」
マネージャーに言われて塩谷は口をつぐむ、他の社員に連れられて成瀬と共に奥の応接室に入っていった。
オフィス内の緊張が解け、次第に皆がそれぞれの仕事に戻ってゆく中で、旭は集中出来ずに手を止めたままだった。今の二人の話を聞いて、オフィスを出て行ったマネージャーが千歳に何を話すのか気になって仕方がない。まさか、クビという事は無いだろうが今以上に仕事がし辛い環境になってしまうのは想像に難くない。
頭の中で立ち尽くす千歳が真っ青な顔で旭を見つめているように思えた。
旭はPCを閉じて立ち上がった。終業時間はとっくに過ぎている、通勤カバンを手に掴むとオフィスを出て走った。
工場内を駆け抜ける旭に従業員たちの視線が集まる。休憩室まで数メートルというところで、扉が開いて中から千歳が出てきた。しょぼくれた顔で室内に向かって一礼している。
ここまで来たは良いがこの後はどうする?なんて言う?旭は足を止めた。処分の内容次第ではこれで最後になるかもしれないのに、グズグズと迷っている内に千歳は行ってしまう。
「・・・大丈夫ですか?」
焦りの中で千歳の声が聞こえた。
顔を上げると千歳が心配そうに覗き込んでいる。
「出入り口こっちだから」
旭は目を泳がせる千歳の身体を思わず引き寄せてしまいそうになった。チカチカと目の前がスパークして線香花火の灯火が鮮明に蘇る。暗闇を照らす小さな丸い火、シュボッシュボッと花が咲くように火花が散る、眩い光が「ぽたん」と落ちた瞬間に我に帰った。
出しかけた手を自分の胸に当てる。懐かしい面影に間違いなく激しく感情が昂ぶっていた。いつもより早い鼓動が容赦なくそれを証明している。微かに生まれた衝動のカケラを握り潰すみたいに、旭はその手をぐぐっと握り締めた。
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