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◆カフェオレ・ボウル◆
Ⅳ
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その日は部署の全員が帰るまで席を立てなかった。必要のない雑務を何度も繰り返して、オフィスの出入り口を睨みつけていた。皆が帰ってから十分後、足音が企画部の部署の方に近づいてくるのが聞こえた。オフィスに残っているのは自分一人のはず・・・旭は身体を強張らせた。
「旭さん」
営業先から直帰のはずの河原がひょこっと顔をだす。
「なんだ河原か・・会社では名前で呼ぶな」
「でも誰も居ないですよ?」
やけに刺々しい旭の物言いに河原は傷ついたように肩をすくめた。
「本当か?」
「どうしたんですか、本当ですよ」
旭はしばらく黙り込む。
「それなら早く帰らなきゃ・・・」
唐突にぽそりと呟くと、通勤カバンを握りしめて、矢のようにオフィスを飛び出した。急かされて河原は慌てて追いかけるが、そんなに速く走れたのかと思う程どんどんと差が開く。電車に飛び乗ってようやく追いついたと思ったら、カバンを抱き抱えるようにして立っている旭の瞳は酷く怯えた色をしていた。
マンションに着くまでその追いかけっこは続いて、息を切らして河原が部屋に入った時には、部屋中のカーテンを一心不乱に閉めている旭の姿があった。そうしてようやく穏やかな声が返ってきた。
「あ・・おかえり」
河原はズンズンと旭の前まで歩いて行き、肩をわざと力を入れて掴んだ。「ひっ」と旭の口から小さく悲鳴が漏れる。何も言わない旭を怖い顔をして問い詰めた。
「何かあったんですね?」
普通じゃない旭の行動に河原も動揺していた。以前のように自分を傷付けでもしたらと思うと余計に力が入ってしまう。ギリギリと掴まれた肩が痛み、旭が「痛い」と身を捩る。仕方なく手を離すと俯いてまた何も喋らなくなった。
「どうして言ってくれないんですか?明らかに旭さんおかしいですよ?俺は頼りないですか?」
畳みかけられるような質問にも旭は口をつぐんだままでいた。河原は頭を掻きむしり「もういいです」とスマートフォンを取り出した。
「・・どうするんだ」
「旭さんと同じ部署に知り合いがいるのでその人に聞きます」
旭が河原のその手を咄嗟に止めた。
「ごめん、俺が話すから・・」
弱々しくか細い声で旭は呟いた。
テーブルに向かい合って三十分、そろそろ三十一分に針が動こうとしている。透は口を開きかけては止めてを幾度も繰り返していた。何をこんなに悩むことがあるんだろうかと段々阿呆らしくなってくる、それでもどうしても最初の一言が出てこない。
やがて呆れたようなため息をついて、河原がイスから立ち上がり背を向けた。
「あ・・」
立ち去るその背中にようやく決意が固まる。
「だ・・・誰かに狙われてるかもしれないんだっ!」
振り返ったその目を見るのが怖い。
「今度は幻聴なんかじゃないんだ!職場に悪戯電話が掛かってきたり・・社内メールで俺とお前が写ってる写真が送られてきたり・・・!」
優しい手が頭の後ろに回されて引き寄せられる。
「誰も嘘だなんて思いませんよ。もっと早く教えてくれたら良かったのに」
その言葉に旭は勝手にぼろぼろと涙が出てきた。「ひぃっく、ひぃっく」と幼児みたいなしゃっくりに釣られて、さらに涙が止められなくなる。話したいのに上手く言葉に出来ない。
「かっ・・河原は知・・知らない・・・んだっ!男を・・すっ・すきだって・・・聞いた時の・・みんなの顔をっ・・!」
きっとこの顔を知ったら河原は離れていってしまうのではないか、心の奥底で旭はそれを恐れていた。
「気にしないって俺言いましたよね」
「・・・実際にっ・・経験しない・・と・・分からない・・・!」
信じたいのに不安で堪らなくて、旭は縋り付くように河原にキスをした。その身体を押し倒して馬乗りになって唇を押しつけた。涙が伝って口に入るせいで、すごくしょっぱい味がするキスだった。
裸のまま旭はベッドからそっと這い出た。適当に服を拾って身につけて、癖でベランダに出ようとした手を慌てて引っ込める。カーテンを締め直してから窓に寄りかかって座り込んだ。
旭を抱きながら河原は言い聞かせるように何度も愛の言葉をくれた。こんなにも愛し合っているのに、ちょっと突けば倒れてしまう不安定さが常に付き纏う。
「眠れませんか?」
河原の声がした。
旭の隣に寄り添って座った。
「・・・ジェンガみたいだな俺たちは」
「ジェンガ?おもちゃの?」
「そう、今にも倒れそうで倒れないジェンガ」
絶妙な組み合わせで重なり合って危なげに保たれているだけの。もうこれ以上一つも欠けてほしくない、旭は切実にそれを願った。
翌日からは普通に出勤した。河原とはしばらく外で一緒にならないようにしようと話し合った。河原に影響が及ばない限りは、気にしないで仕事に集中してほしいとも伝えた。
幸い、たまに掛かってくる悪戯電話とメール以上の危害は加えられることは無かった。無視していると一ヶ月もすれば部署の社員の誰も気にしなくなっていた。
二月の半ば、遅れてしまったが旭の復職を祝う歓迎会を催してもらえることになった。主役の旭にもちろん拒否権は無く、余り遅くならないようにすると河原に連絡を入れて、皆と共に居酒屋へと向かう。
そして居酒屋に着いた後から記憶が無くなった。
「旭さん」
営業先から直帰のはずの河原がひょこっと顔をだす。
「なんだ河原か・・会社では名前で呼ぶな」
「でも誰も居ないですよ?」
やけに刺々しい旭の物言いに河原は傷ついたように肩をすくめた。
「本当か?」
「どうしたんですか、本当ですよ」
旭はしばらく黙り込む。
「それなら早く帰らなきゃ・・・」
唐突にぽそりと呟くと、通勤カバンを握りしめて、矢のようにオフィスを飛び出した。急かされて河原は慌てて追いかけるが、そんなに速く走れたのかと思う程どんどんと差が開く。電車に飛び乗ってようやく追いついたと思ったら、カバンを抱き抱えるようにして立っている旭の瞳は酷く怯えた色をしていた。
マンションに着くまでその追いかけっこは続いて、息を切らして河原が部屋に入った時には、部屋中のカーテンを一心不乱に閉めている旭の姿があった。そうしてようやく穏やかな声が返ってきた。
「あ・・おかえり」
河原はズンズンと旭の前まで歩いて行き、肩をわざと力を入れて掴んだ。「ひっ」と旭の口から小さく悲鳴が漏れる。何も言わない旭を怖い顔をして問い詰めた。
「何かあったんですね?」
普通じゃない旭の行動に河原も動揺していた。以前のように自分を傷付けでもしたらと思うと余計に力が入ってしまう。ギリギリと掴まれた肩が痛み、旭が「痛い」と身を捩る。仕方なく手を離すと俯いてまた何も喋らなくなった。
「どうして言ってくれないんですか?明らかに旭さんおかしいですよ?俺は頼りないですか?」
畳みかけられるような質問にも旭は口をつぐんだままでいた。河原は頭を掻きむしり「もういいです」とスマートフォンを取り出した。
「・・どうするんだ」
「旭さんと同じ部署に知り合いがいるのでその人に聞きます」
旭が河原のその手を咄嗟に止めた。
「ごめん、俺が話すから・・」
弱々しくか細い声で旭は呟いた。
テーブルに向かい合って三十分、そろそろ三十一分に針が動こうとしている。透は口を開きかけては止めてを幾度も繰り返していた。何をこんなに悩むことがあるんだろうかと段々阿呆らしくなってくる、それでもどうしても最初の一言が出てこない。
やがて呆れたようなため息をついて、河原がイスから立ち上がり背を向けた。
「あ・・」
立ち去るその背中にようやく決意が固まる。
「だ・・・誰かに狙われてるかもしれないんだっ!」
振り返ったその目を見るのが怖い。
「今度は幻聴なんかじゃないんだ!職場に悪戯電話が掛かってきたり・・社内メールで俺とお前が写ってる写真が送られてきたり・・・!」
優しい手が頭の後ろに回されて引き寄せられる。
「誰も嘘だなんて思いませんよ。もっと早く教えてくれたら良かったのに」
その言葉に旭は勝手にぼろぼろと涙が出てきた。「ひぃっく、ひぃっく」と幼児みたいなしゃっくりに釣られて、さらに涙が止められなくなる。話したいのに上手く言葉に出来ない。
「かっ・・河原は知・・知らない・・・んだっ!男を・・すっ・すきだって・・・聞いた時の・・みんなの顔をっ・・!」
きっとこの顔を知ったら河原は離れていってしまうのではないか、心の奥底で旭はそれを恐れていた。
「気にしないって俺言いましたよね」
「・・・実際にっ・・経験しない・・と・・分からない・・・!」
信じたいのに不安で堪らなくて、旭は縋り付くように河原にキスをした。その身体を押し倒して馬乗りになって唇を押しつけた。涙が伝って口に入るせいで、すごくしょっぱい味がするキスだった。
裸のまま旭はベッドからそっと這い出た。適当に服を拾って身につけて、癖でベランダに出ようとした手を慌てて引っ込める。カーテンを締め直してから窓に寄りかかって座り込んだ。
旭を抱きながら河原は言い聞かせるように何度も愛の言葉をくれた。こんなにも愛し合っているのに、ちょっと突けば倒れてしまう不安定さが常に付き纏う。
「眠れませんか?」
河原の声がした。
旭の隣に寄り添って座った。
「・・・ジェンガみたいだな俺たちは」
「ジェンガ?おもちゃの?」
「そう、今にも倒れそうで倒れないジェンガ」
絶妙な組み合わせで重なり合って危なげに保たれているだけの。もうこれ以上一つも欠けてほしくない、旭は切実にそれを願った。
翌日からは普通に出勤した。河原とはしばらく外で一緒にならないようにしようと話し合った。河原に影響が及ばない限りは、気にしないで仕事に集中してほしいとも伝えた。
幸い、たまに掛かってくる悪戯電話とメール以上の危害は加えられることは無かった。無視していると一ヶ月もすれば部署の社員の誰も気にしなくなっていた。
二月の半ば、遅れてしまったが旭の復職を祝う歓迎会を催してもらえることになった。主役の旭にもちろん拒否権は無く、余り遅くならないようにすると河原に連絡を入れて、皆と共に居酒屋へと向かう。
そして居酒屋に着いた後から記憶が無くなった。
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