上 下
20 / 34
◆カフェオレ・ボウル◆

しおりを挟む
 三ヶ日も過ぎ、仕事始めを迎える。旭はその日から会社に復帰した。久しぶりにスーツに腕を通すと、数ヶ月前までの会社員の感覚が蘇って気持ちが引き締まる。
 オフィスに着いたその足で上司の元へ向かった。休職していたことに対する謝罪とお礼を何度も頭で復唱しながら、その前に立った。
「この度は私ごとでお休みを頂いてしまい申し訳ございませんでした。本日から復帰させて頂きますので宜しくお願い致します」
「ああ、身体はもう良いのか?当分は無理をしないでやってくれ」
 嫌味のひとつでも言われるかと思っていたのに旭は拍子抜けした。にこやかな上司の口からは今まで聞いたことも無いような優しい調子で、労いの言葉や励ましの言葉がズラズラと列を成して出て来る。もしかして河原が火事のことや旭の様子を上手く伝えてくれていたのかと思い顔が綻んだ。
 自分のデスクの椅子に腰掛けると早速スマートフォンを開いて河原に感謝のメッセージを送った。
 何事もなく午前中は過ぎて、和やかな気分のまま昼休憩から戻ると、先程とは一転して、しんとオフィス内が静まり返っていた。
 旭が男性社員に話しかけるとわざとらしく余所余所しく返事を返される。素っ気ないその態度が気にかかって「おい」と呼び止めると、コソコソと周りが騒めき出したのが分かった。
 すぐに上司に呼ばれ嫌な予感に首元がざわついた、足早に駆け寄ると「ここじゃちょっと」とオフィスの外へ連れ出された。煮え切らない態度の上司に不安が募り旭は自分から何があったのかを尋ねた。
「いやね、さっき不審な電話があったらしくて、その内容が君が男性と付き合ってるってものだったそうなんだ。こんな悪戯電話の根も葉もない話を誰も信じて無いとは思うんだが、落ち着くまでは辛抱してくれ」
 目を泳がせた上司の顔が旭の心を曇らせる。信じてないと言いつつも、その顔には疑いの色が見て取れる。
 旭は平静を装ってデスクに戻った。歩くたびに集まる視線を気にしないように努めた。何でもない顔をしていれば、そのうちみんな忘れるだろうと思っていた。
 ふと、河原のことが気にかかる。二人のことは当然社内では秘密で、バレてしまえば自分と同じように晒し者にされるに決まっている。河原にかかる迷惑と負担を思うと旭の心はさらに沈んだ。このことは黙っていた方がいい。
 翌日も出勤するとオフィス内の様子は変化は無かった。じろじろと不躾に見られる視線を背中に感じながら仕事を続けた。昨日の今日では仕方がないかとため息をつく。
 休憩時間には逃げるように席を立った。河原の耳に変な噂が届いていないかずっと気を揉んでいたせいで、必要以上に疲労感が身体にのし掛かる。今この場にいるどれだけの人が自分の噂のことを知っているのだろうか、旭は酷く疑心暗鬼に駆られた。
 暗い顔で休憩から戻ると、タイミングよくPC画面にメールが届いた。特に気にもせずにそのメール画面を開くと目を疑うような内容が書かれていた。
『お疲れですか?煙草はほどほどにしましょうね』
 ゾワゾワと背中が逆立つ、旭は立ち上がって周囲を見回した。不審げに隣の席の社員が顔を上げただけで、皆それぞれの仕事に取り組んでいる、一見して怪しい奴は見受けられない。
 旭は脱力したように椅子に座り直した。焦りと恐怖に心臓がバクンバクンと暴れて、煩く鳴った。

「旭さん大丈夫?」
 その言葉で旭は自分が今夕食中であることを思い出した。
「帰ってきてからずっと変ですよ?」
 旭は首を振る、神経質に声色を確かめながら慎重に「何でもない」と口に出した。その後もずっと食事の味が感じられずに箸が進まない、半分以上も皿に残した状態で箸を置いて席を立つ。
「ごめん、食欲無いみたい。ごちそうさま」
「久しぶりに仕事して疲れが溜まってるんじゃないですか?」
「そうかもな、さっさと風呂に入って寝ることにするよ」
 ベットの中ではずっと眠れなかった。誰かわからないが自分を監視して陥れようとしている者がいる、考えているうちにガタガタと震えが出てきた。「寒いですか」と河原が起きて布団をかけ直してくれる。布団と河原の体温とで暑いくらいなのに震えはずっと止まらなかった。
 こんなに怖い思いをするならば河原に全部言ってしまいたいのに、迷惑をかけたくないという小さなプライドがそれを許さなかった。
 翌朝からはいつもよりも何時間も早く家を出た。誰かが自分を見ているのなら、待ち伏せてやろうと考えたのだ。犯人を捕まえて「もう変なことはするな」と言ってやるつもりだった。
 二人が住んでいるマンションの前、最寄りの駅の前、オフィスの前、思いつく限りの場所で毎朝犯人探しをした。だが何日経ってもそれらしい人物は見当たらず、朝だけでなく会社の帰りにも怪しい場所を見て回った。
 それでも何の手がかりも得られなくて、旭は困惑した。やっぱりただの一時的な悪戯だったのか、それならそれで構わない。河原を誤魔化し続けるのもそろそろ限界だった。きっと悪戯は終わったんだと旭は自分に言い聞かせ、その日で犯人探しはやめにした。
 数日後、旭が時間ギリギリに出勤をすると、またタイミング良くPC画面にメールが届く。恐る恐るカーソルを合わせ開いてみると、旭と河原が仲良くマンションに入っていく写真が画面いっぱいに表示された。その下には『探偵ごっこはやめたのですか?』という文字。慌ててその画面を消して周囲に顔を向けた。
 誰にも見られていないことを確認して頭を抱えた。本当に誰なんだ、社内用メールアドレスを使っているからこの会社の人間であるのは間違いないはずなのに・・・。一日中デスクの下で膝がガクガクと震えて止まらなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

恋した貴方はαなロミオ

須藤慎弥
BL
Ω性の凛太が恋したのは、ロミオに扮したα性の結城先輩でした。 Ω性に引け目を感じている凛太。 凛太を運命の番だと信じているα性の結城。 すれ違う二人を引き寄せたヒート。 ほんわか現代BLオメガバース♡ ※二人それぞれの視点が交互に展開します ※R 18要素はほとんどありませんが、表現と受け取り方に個人差があるものと判断しレーティングマークを付けさせていただきますm(*_ _)m ※fujossy様にて行われました「コスプレ」をテーマにした短編コンテスト出品作です

幼馴染は僕を選ばない。

佳乃
BL
ずっと続くと思っていた〈腐れ縁〉は〈腐った縁〉だった。 僕は好きだったのに、ずっと一緒にいられると思っていたのに。 僕がいた場所は僕じゃ無い誰かの場所となり、繋がっていると思っていた縁は腐り果てて切れてしまった。 好きだった。 好きだった。 好きだった。 離れることで断ち切った縁。 気付いた時に断ち切られていた縁。 辛いのは、苦しいのは彼なのか、僕なのか…。

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

いとしの生徒会長さま

もりひろ
BL
大好きな親友と楽しい高校生活を送るため、急きょアメリカから帰国した俺だけど、編入した学園は、とんでもなく変わっていた……! しかも、生徒会長になれとか言われるし。冗談じゃねえっつの!

学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語

紅林
BL
『桜田門学院高等学校』 日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である

【完結】運命さんこんにちは、さようなら

ハリネズミ
BL
Ωである神楽 咲(かぐら さき)は『運命』と出会ったが、知らない間に番になっていたのは別の人物、影山 燐(かげやま りん)だった。 とある誤解から思うように優しくできない燐と、番=家族だと考え、家族が欲しかったことから簡単に受け入れてしまったマイペースな咲とのちぐはぐでピュアなラブストーリー。 ========== 完結しました。ありがとうございました。

黄色い水仙を君に贈る

えんがわ
BL
────────── 「ねぇ、別れよっか……俺たち……。」 「ああ、そうだな」 「っ……ばいばい……」 俺は……ただっ…… 「うわああああああああ!」 君に愛して欲しかっただけなのに……

アルファとアルファの結婚準備

金剛@キット
BL
名家、鳥羽家の分家出身のアルファ十和(トワ)は、憧れのアルファ鳥羽家当主の冬騎(トウキ)に命令され… 十和は豊富な経験をいかし、結婚まじかの冬騎の息子、榛那(ハルナ)に男性オメガの抱き方を指導する。  😏ユルユル設定のオメガバースです。 

処理中です...