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◆モノクロームと砂糖とミルクと◆

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 かちゃ、ぼっ。今日初めて触ったかのように辿々しく、旭はガスコンロのツマミを捻った。青い炎が円を象ってメラメラと揺れている。あの時の火事を思い出して気分が悪くならないかと、河原は隣でその様子をじっと見守っていた。
 がさがさと袋に手を突っ込んで、鷲掴みの鰹節を鍋に放り込んでいる姿からは、そんな気配は微塵も感じられない。河原は胸のつかえを小さなため息と共に吐き出した。眉を顰めて鍋と睨めっこをする可愛らしい男を後ろから抱き締めて手を重ねる。
「沸騰したら火を止めて」
 身体を密着させたまま次の動きをリードする。鍋を持ち上げて中身をざるで濾すと、湯気が顔の方にブワっと広がり、旭は目をぎゅっと瞑って「熱っ」と声を出した。くっくっと河原が笑うと、頬を赤く染めて唇を噛んだ。
「よく出来ました。上手です」
 旭の耳元に顔を近付けて囁き、出際良く味噌汁を完成させた。
 旭は「どうぞ」と置かれた器をしげしげと眺めてから、うやうやしく宝物のように手に取った。料理らしい料理などしたことのなかった旭にとってそれは初めての感覚だった。同じものなのに、全く違う価値を持った特別なものに見える。
「・・・いただきます」
 消え入るような声で言い、一口喉に流し込んだ。
「美味しい」
「良かったですね」
 河原の眉尻の下がった優しい顔に、じんわりと頬が熱を持つ。旭はふいっと顔を横に向けた。
「旭さん、今日はちょっと遠出をしませんか」
 河原から投げかけられた提案に顔を上げる。旭は不機嫌な顔で「そんなことしなくても」ともごもごと呟いた。
「実は昨日の帰りに車を借りてきたんです。連れて行きたい場所があって」
 どうですか?と言う健気な表情に旭は諦めて首を縦に振った。
 やたらと大きなリュックと見慣れない荷物をトランクに詰め込み、準備ができるとすぐに家を出た。よく考えたら今日は平日で、慌ただしく日常を駆けていく人々の波が街中に溢れている。
 二人の車はそれに逆らうように進んで走った。徐々に畑や自然の木々が増え、窓の外に映り込む。後ろを向けば地面から角が生えたような滑稽な高層ビルの塊がずっとずっと遠くに見えた。
「今更だけど会社は良かったのか」
「休みました」
「・・・クビになるぞ」
「ははは、旭さんこそ」
 途中休憩を挟み二時間半ほどで目的地に到着した。車のドアを開けると、目の前にまだ紅葉の残る色鮮やかな山の景色が広がっていた。冬の冷たくも透き通った風が朱・黄・橙の色とりどりに染まった葉っぱを楽しげに揺らして去っていく。
 事前に渡されていたダウンジャケットをその場で羽織るが、家で着せられた厚手の肌着のおかげか思ったよりも寒く感じない。河原が車のトランクから大荷物を抱えて顔を出した。
「旭さんはこれだけ持てますか?少し歩きます」
 ぱんぱんのリュックとアウトドア用の折り畳みチェア、それを持って河原の後ろを着いて歩く。小川のほとりから少し離れた場所に出ると、河原が「この辺にしましょうか」とテントを建てる道具を地面に並べていった。
 カチャカチャと金属がぶつかり合うような音をたてながら短いポールを器用に繋げてスリーブに通す。グイッとポールに力を入れるとテントが立ち上がった。最後にテントを固定するために地面に杭を打ち込む。それからテーブルを設置して、チェアを並べて・・。
 旭は最も簡単に作り出されていく完璧なアウトドア空間を呆気に取られて見つめていた。
「お前すごいな・・」
「実はこうゆうの結構好きで、よく一人でも来るんです。旭さん慣れてなさそうだからコテージでもいいかなって思ったんですけど、せっかくだし。寒い時期は人も居なくて穴場なんですココ」
 恐る恐る耳を澄ませてみた。
「・・・ほんとだ」
 河原の言うように今この場所で聞こえるのは、川の流れるせせらぎの音、木々が風で揺れて葉っぱが擦れる音、それに混じる鳥の鳴き声だけ。聞きたくない音や声はここには存在しない、知らず知らずのうちに緊張していた身体の筋肉が緩んでいく感覚がする。
 思いっきり深呼吸をして身体を伸ばした。久しぶりに息をしたのかと思うほど、たくさん空気を吸い込んだ。肺に新鮮な空気が溜まるのがわかる、それを乗せてどくんどくんと血液が身体中を巡っていく。旭は自分の心臓に手を当てて「俺の身体はちゃんと生きてる」と、そう思った。
 その時、旭の腹の虫が盛大に鳴った。
「あ・・・」
「お腹空きました?すぐ準備します」
 旭は腹を押さえて赤面した。腹の音など久しく聞いてなかった、空腹という感覚さえも忘れかけていた。
「やっぱり連れてきて正解でした」
 バーナーに火を起こしながら河原が嬉しそうに言う、その横顔が涙ぐんでいるようにも見えた。河原は旭が弱っていく様を目の当たりにしてきて誰よりも心を痛めていた。「なんとか元気になって欲しい」、その思いがひしひしと伝わった。
 河原が鍋をかき混ぜると、ほかほかといい匂いが漂ってくる。バーナーの上に乗せられた鍋にはミルク色のスープがぐつぐつと熱せられていた。
「どうぞ召し上がれ」
「いただきます」
 手に持った器からも温かさが伝わる。たまらなく美味しそうな香りが鼻腔を抜けて旭の脳を痺れさせた。パクリと一気にスプーンを口に含む。
「あっつ!」
 口内に広がる強烈な熱さにべぇと舌を出した。涙目になる旭を愛おしげに見つめながら、河原は笑っていた。
「・・笑うなよ」
「すみません、でも、食事しながら笑ったのは久しぶりじゃないですか」
「そうかもな」
 河原に釣られて、旭も笑った。
 昼食を終えてから辺りを散策して歩いた。木も葉も石も川も初めて見るものでもないのになんだか全てが真新しいものみたいで、旭の心をくすぐった。「あれは何だ、これは何だ」と手を引く旭に、河原は最後まで優しい眼差しで連れ添った。
 夜は真っ暗な中で煌々と燃える焚き火を二人で囲んだ。旭は不思議だなと思った。炎は自分の全てを奪ってしまった悪魔みたいな奴なのに、今感じる炎の暖かさはとても優しい・・。そんなことを思いながら、くべられた木からパチパチと音が鳴るのを聴いた。時計もスマートフォンも封印して、時間も気にせずに、ぼんやりと過ごした。
「こうやってると、全てを忘れられる気がしませんか?」
 一時間後か二時間後か、突然ぽつりと河原が呟いた。旭は黙ったまま河原の方へ顔を向けた。
「俺、実は会社辞めようと思ってたんですよ」
 河原が夜空を仰いで懐かしむように話す。
「旭さんは俺が入社したての頃のこと覚えていますか?」
 旭は首を横に振る。
「・・そうですよね、当然です。俺入社してすぐの時は地味で目立たなくて、なんてゆうか、自分の意見が言えないような奴だったんですよ。そのせいでやる気ないって思われたりもしてて、同期が活躍しだすなかで俺だけ取り残されて正直めっちゃしんどかったんですよね」
 話し続ける河原に旭は何も言わずに耳を傾けた。
「その時にたまたま旭さんと仕事を一緒にする機会が出来て。初めてだったんですよ、認めてもらったの。・・・ほんと何気ない会話のたった一言だったんですけど、嬉しかったんです・・すごく」
 覚えていないことだった。当時の自分は何事にも深く関わらないようにしていたし、人の顔などほとんど見ていなかったのだから。ずっと疑問に思っていた理由が聞けたのに、それは俺では無くて他人の空似だったのではと思ってしまう。
「・・俺はお前になんて言ったんだ?」
「ありがとうって、それだけなんですけど」
「それだけじゃ」
「・・・嬉しいですよ。自分のやったことをちゃんと受け取ってもらえたってだけで、また次も頑張ってみようって思えますから」
 眉尻を下げて微笑んだ河原が朧げな記憶の中に一瞬浮かんだ。旭は目を瞑る。喋らない代わりに周囲のいろんなことに目を配れる後輩がいた、納期前にうっかり漏れていた仕事にそいつが気付いてくれたおかげで、一大事にならずに済んだことがあった・・・。
「あの時の・・河原だったのか」
「思い出しました?影薄かったですからね俺」
「あれほんとにお前?」
「そうですよ、今の俺があるのは旭さんが居たからなんです」
 たったそれだけのことで律儀に俺の世話なんか焼いてたのか、と出かかった言葉はそのまま飲み込んだ。焚き火の灯りに照らされた河原の顔が何とも言えず柔らかに目を細めて笑ったのだ。甘ったるく胸を締め付けるような、慈愛の目を向けて「旭さんありがとう」とその顔は言った。
 それからまた何時間経っただろうか、暗く静まり返った森の中で穏やかに流れる川と暖かな焚き火の音、ひたすらにそれだけを感じていた。俯いた旭の頬に涙が伝って落ちた。それはやがて広く大きく並々と満ちて、旭の中にある悲しみも苦しみも全て呑み込んで流れて行く。
 「守られてる」「愛されている」、本来男として与えられることの無かったはずの幸せのカタチが胸で確かに鼓動している。もう自分は誰かに身を預けてもいいんじゃないかと思った。この気持ちが一種の諦めの果ての答えだったとしても、河原が大きく手を広げて待っていてくれる限り、その大きな流れにゆらゆらと揺られて眠っていたい。
 旭は河原に身を寄せた。逞しい手が肩に回され、唇が重なる。今まで自分をがんじがらめにしていた人としての道理、常識、この世界そのものが今はどうでもよく思えた。旭は河原の腕の中で思いっきり笑った。ここには本当に誰もいない、二人だけの世界、河原から与えられる感覚だけをその身に受けて旭は静かに目を閉じた。
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