10 / 34
◆エンジェルフィッシュ◆
Ⅹ
しおりを挟む
旭はあの場所へ続く非常階段を登っていた。五階のその扉の前に立ち、ふとその上に続く階段を見上げる。
秋を告げる肌寒い風が足元に微かに吹いていた。旭はその風の出どころを辿って登っていった。階段の一番上に光が漏れているのが見え、半開きの扉の隙間から外の風が入ってきていた。
旭は屋上に出た。隅に置かれた物干し竿では、水族館のスタッフが使用したタオルや作業着が風に靡いている。ゴーっという排気用のファンの音以外は何も聞こえない。
旭の頭には希望も絶望も悲しみも怒りも無い。ただ真っ直ぐ風がする方へ向かって歩いた。安全柵を乗り越えてその縁に立つ。足元を横切っていく風が、旭と千歳を分かつ境界線、ここを飛び越えれば同じところへ行けるだろうか。
旭はふわっと柵を持つ手を離した。だが落ちる直前に旭の身体は引き戻された。五十代半ばの白髪の男性が引き攣った顔をして旭の腕を掴んでいる。放心状態の旭を力一杯引き上げ、柵の内側へと連れ戻した。
「大丈夫かい?」
旭はその人の胸に館長と書かれた従業員バッジがついているのに気が付いた。
「・・・・新飼千歳を知っていますか?」
その男性の眉がピクッと動き、旭の顔をじっと見た。
「ああ、もちろん知っているよ。きみはよく彼に会いに来ていた子だね」
旭は何も言わずに頷いた。
五階の扉の前、どうぞと促されて中に入る。あの水槽は変わらず美しい姿のまま、そこに鎮座していた。
旭は水槽を見上げた。相変わらず空っぽの水の塊と、旭の中で繋がった真実。この水槽はきっと千歳とお兄さんの思い出の海を模している、兄を失って永遠に埋まらない千歳の心そのものだった。
「もうここには誰も来なくなっちゃったから、誰にも見てもらえないのは寂しいね」
隣で館長が微笑んだ、シワのある目元が悲しげに細められる。旭はゆっくりとその場に腰を下ろした。この光景を永遠に目に焼き付けておきたいと思った。千鶴と千歳どちらであっても、旭の前で笑ってくれたその人を愛していた、それを忘れたくない。
遠くの方で「ザーザー」と音がして、館長が外を覗いた。
「降ってきちゃったね。一緒においで、少し話をしよう」
旭は立ち上がった。案内されたのは六畳のワンルームほどの広さの部屋だった。あるのは古いソファとテーブル、そして山積みの本。ブラインドのかかった小さな窓の側に流し台があり、そこに置かれた新品同様のコーヒーメーカーがやけに目立って見えた。
「お待たせ」
コトっとテーブルに置かれたコーヒーから香ばしい良い香りが漂ってくる。
「良い香りですね」
「わかるかい?わたしはコーヒーが好きでね。よくこうして自分で煎れるんだ」
旭はカップを手に取り一口飲んだ。口に広がる苦味と鼻からぬける少し甘酸っぱい香り。煎れたてのコーヒーが喉を通り、身体が暖かくなる。
「実はねこの部屋は新飼くんが、この水族館に来たばかりの時に使っていたんだよ」
初めて聞く話だった。でもよく周りを見ると、山積みの本の中には、千歳の部屋で見た見覚えのあるタイトルも含まれている。本の隙間には埃がたまっており、長期間置きっぱなしにされている様を物語っていた。床や流し台が比較的綺麗なのは、館長が定期的に掃除をしてくれているのだろう。
「このコーヒーメーカーは私が彼にプレゼントしたんだ。彼もコーヒーを美味しいと言ってくれてね。見た目に似合わず大人な子だったよ。なんて言ったら怒るかね」
館長は愛おしむように笑った。膝の上に乗った大きく皺のある分厚い手。温厚な優しさがその手から滲み出てくるようだった。千歳が彼を慕っていたのもわかる気がした、この手が父のように千歳を今まで支えてきたのだ。
「あの、館長さんは千歳の過去のこともよくご存知なんですか?」
「いや、それを知ったのはごく最近でね」
「ではなぜ千歳の世話を?」
「私が新飼君を気にかけているのはね、ちょっとした罪滅ぼしからなんだ」
「罪滅ぼし?」
「こう見えて私は息子と折り合いが悪くて。反抗的だった息子を話も聞かずに、一方的に怒ってしまったのがきっかけでね。もうずっと口も聞いてないんだ。結局息子がその時、何に悩んでいて何を伝えたかったのか分からずじまい。息子と真剣に向き合わなかった罰だね。」
館長は一度ここで言葉を切った。
「それがなんの因果か、新飼くんという、父のように慕ってくれる存在ができて、本当に嬉しかった。だから息子にしてやれなかった分、父親らしいことでも出来たらいいって思ってたんだよ。」
館長の目にかすかに涙が滲んでいた。バーで知った千歳とはまた違う千歳が、ここには居たのだと思った。
「ここにいた頃の千歳のことを教えていただけますか?」
館長は柔らかく微笑んで「もちろんだよ」と頷いた。千歳はここではとても穏やかに過ごしていたそうだ。最初こそ館長いわく「野良猫のような目」をしていたが、次第にスタッフとも打ち解け明るくなっていったという。だが、「でも」と館長が目を伏せた。
「どうしたんですか」
「突然、発作が起きるようになってしまってね。仕事の途中でうずくまって動けなくなることが増えて。顔を真っ青にして、ぶるぶる震えて、只事ではないと思ったよ。それで話を聞いて、ようやくわたしは彼の過去のことを知った」
館長の眉間のシワがさらに深くなったように見えた。「もっと早く知れていれば」と後悔の言葉を口にする。旭は自分が恥ずかしくなった。自分がくだらないことで悩んでいる間に、千歳はもっと苦しい過去をたった一人で背負って懸命に生きていた、自分に気づかせないように明るく笑ってだ。情けなくて、やるせなくて、収まりきらない感情が目からポロポロと溢れた。
館長はおもむろに立ち上がり、山積みの本の中から一冊を拾い上げ、挟まれていた写真を手に取った。「役に立てるかどうかわからないけど」とそれを旭に差し出した。
その写真には瓜二つの二人の少年と夕焼けの海が写っていた。少年の一人が金髪でブレザーにだぼだぼのカーディガンを羽織っている、隣のもう一人は切り揃えられた黒髪にきっちりとボタンを閉めた学ラン姿。出立ちはこんなに違うのにすごく良く似ている。
「掃除をしていた時にたまたま見つけてね、きみが持っているべきだと思うから」
旭は頷き、それを大切にしまった。
外に出た時には雨は上がっていた。雲から差し込む光が眩しくて旭は手をかざす。旭は水族館に「サヨナラ」と呟いた。だが足を踏み出そうとして振り返る、こちら側からは見えない水槽の窓に向かって目を凝らした。
「やっぱり、もう一度」
秋を告げる肌寒い風が足元に微かに吹いていた。旭はその風の出どころを辿って登っていった。階段の一番上に光が漏れているのが見え、半開きの扉の隙間から外の風が入ってきていた。
旭は屋上に出た。隅に置かれた物干し竿では、水族館のスタッフが使用したタオルや作業着が風に靡いている。ゴーっという排気用のファンの音以外は何も聞こえない。
旭の頭には希望も絶望も悲しみも怒りも無い。ただ真っ直ぐ風がする方へ向かって歩いた。安全柵を乗り越えてその縁に立つ。足元を横切っていく風が、旭と千歳を分かつ境界線、ここを飛び越えれば同じところへ行けるだろうか。
旭はふわっと柵を持つ手を離した。だが落ちる直前に旭の身体は引き戻された。五十代半ばの白髪の男性が引き攣った顔をして旭の腕を掴んでいる。放心状態の旭を力一杯引き上げ、柵の内側へと連れ戻した。
「大丈夫かい?」
旭はその人の胸に館長と書かれた従業員バッジがついているのに気が付いた。
「・・・・新飼千歳を知っていますか?」
その男性の眉がピクッと動き、旭の顔をじっと見た。
「ああ、もちろん知っているよ。きみはよく彼に会いに来ていた子だね」
旭は何も言わずに頷いた。
五階の扉の前、どうぞと促されて中に入る。あの水槽は変わらず美しい姿のまま、そこに鎮座していた。
旭は水槽を見上げた。相変わらず空っぽの水の塊と、旭の中で繋がった真実。この水槽はきっと千歳とお兄さんの思い出の海を模している、兄を失って永遠に埋まらない千歳の心そのものだった。
「もうここには誰も来なくなっちゃったから、誰にも見てもらえないのは寂しいね」
隣で館長が微笑んだ、シワのある目元が悲しげに細められる。旭はゆっくりとその場に腰を下ろした。この光景を永遠に目に焼き付けておきたいと思った。千鶴と千歳どちらであっても、旭の前で笑ってくれたその人を愛していた、それを忘れたくない。
遠くの方で「ザーザー」と音がして、館長が外を覗いた。
「降ってきちゃったね。一緒においで、少し話をしよう」
旭は立ち上がった。案内されたのは六畳のワンルームほどの広さの部屋だった。あるのは古いソファとテーブル、そして山積みの本。ブラインドのかかった小さな窓の側に流し台があり、そこに置かれた新品同様のコーヒーメーカーがやけに目立って見えた。
「お待たせ」
コトっとテーブルに置かれたコーヒーから香ばしい良い香りが漂ってくる。
「良い香りですね」
「わかるかい?わたしはコーヒーが好きでね。よくこうして自分で煎れるんだ」
旭はカップを手に取り一口飲んだ。口に広がる苦味と鼻からぬける少し甘酸っぱい香り。煎れたてのコーヒーが喉を通り、身体が暖かくなる。
「実はねこの部屋は新飼くんが、この水族館に来たばかりの時に使っていたんだよ」
初めて聞く話だった。でもよく周りを見ると、山積みの本の中には、千歳の部屋で見た見覚えのあるタイトルも含まれている。本の隙間には埃がたまっており、長期間置きっぱなしにされている様を物語っていた。床や流し台が比較的綺麗なのは、館長が定期的に掃除をしてくれているのだろう。
「このコーヒーメーカーは私が彼にプレゼントしたんだ。彼もコーヒーを美味しいと言ってくれてね。見た目に似合わず大人な子だったよ。なんて言ったら怒るかね」
館長は愛おしむように笑った。膝の上に乗った大きく皺のある分厚い手。温厚な優しさがその手から滲み出てくるようだった。千歳が彼を慕っていたのもわかる気がした、この手が父のように千歳を今まで支えてきたのだ。
「あの、館長さんは千歳の過去のこともよくご存知なんですか?」
「いや、それを知ったのはごく最近でね」
「ではなぜ千歳の世話を?」
「私が新飼君を気にかけているのはね、ちょっとした罪滅ぼしからなんだ」
「罪滅ぼし?」
「こう見えて私は息子と折り合いが悪くて。反抗的だった息子を話も聞かずに、一方的に怒ってしまったのがきっかけでね。もうずっと口も聞いてないんだ。結局息子がその時、何に悩んでいて何を伝えたかったのか分からずじまい。息子と真剣に向き合わなかった罰だね。」
館長は一度ここで言葉を切った。
「それがなんの因果か、新飼くんという、父のように慕ってくれる存在ができて、本当に嬉しかった。だから息子にしてやれなかった分、父親らしいことでも出来たらいいって思ってたんだよ。」
館長の目にかすかに涙が滲んでいた。バーで知った千歳とはまた違う千歳が、ここには居たのだと思った。
「ここにいた頃の千歳のことを教えていただけますか?」
館長は柔らかく微笑んで「もちろんだよ」と頷いた。千歳はここではとても穏やかに過ごしていたそうだ。最初こそ館長いわく「野良猫のような目」をしていたが、次第にスタッフとも打ち解け明るくなっていったという。だが、「でも」と館長が目を伏せた。
「どうしたんですか」
「突然、発作が起きるようになってしまってね。仕事の途中でうずくまって動けなくなることが増えて。顔を真っ青にして、ぶるぶる震えて、只事ではないと思ったよ。それで話を聞いて、ようやくわたしは彼の過去のことを知った」
館長の眉間のシワがさらに深くなったように見えた。「もっと早く知れていれば」と後悔の言葉を口にする。旭は自分が恥ずかしくなった。自分がくだらないことで悩んでいる間に、千歳はもっと苦しい過去をたった一人で背負って懸命に生きていた、自分に気づかせないように明るく笑ってだ。情けなくて、やるせなくて、収まりきらない感情が目からポロポロと溢れた。
館長はおもむろに立ち上がり、山積みの本の中から一冊を拾い上げ、挟まれていた写真を手に取った。「役に立てるかどうかわからないけど」とそれを旭に差し出した。
その写真には瓜二つの二人の少年と夕焼けの海が写っていた。少年の一人が金髪でブレザーにだぼだぼのカーディガンを羽織っている、隣のもう一人は切り揃えられた黒髪にきっちりとボタンを閉めた学ラン姿。出立ちはこんなに違うのにすごく良く似ている。
「掃除をしていた時にたまたま見つけてね、きみが持っているべきだと思うから」
旭は頷き、それを大切にしまった。
外に出た時には雨は上がっていた。雲から差し込む光が眩しくて旭は手をかざす。旭は水族館に「サヨナラ」と呟いた。だが足を踏み出そうとして振り返る、こちら側からは見えない水槽の窓に向かって目を凝らした。
「やっぱり、もう一度」
0
お気に入りに追加
32
あなたにおすすめの小説
春風の香
梅川 ノン
BL
名門西園寺家の庶子として生まれた蒼は、病弱なオメガ。
母を早くに亡くし、父に顧みられない蒼は孤独だった。
そんな蒼に手を差し伸べたのが、北畠総合病院の医師北畠雪哉だった。
雪哉もオメガであり自力で医師になり、今は院長子息の夫になっていた。
自身の昔の姿を重ねて蒼を可愛がる雪哉は、自宅にも蒼を誘う。
雪哉の息子彰久は、蒼に一心に懐いた。蒼もそんな彰久を心から可愛がった。
3歳と15歳で出会う、受が12歳年上の歳の差オメガバースです。
オメガバースですが、独自の設定があります。ご了承ください。
番外編は二人の結婚直後と、4年後の甘い生活の二話です。それぞれ短いお話ですがお楽しみいただけると嬉しいです!
キミと2回目の恋をしよう
なの
BL
ある日、誤解から恋人とすれ違ってしまった。
彼は俺がいない間に荷物をまとめて出てってしまっていたが、俺はそれに気づかずにいつも通り家に帰ると彼はもうすでにいなかった。どこに行ったのか連絡をしたが連絡が取れなかった。
彼のお母さんから彼が病院に運ばれたと連絡があった。
「どこかに旅行だったの?」
傷だらけのスーツケースが彼の寝ている病室の隅に置いてあって俺はお母さんにその場しのぎの嘘をついた。
彼との誤解を解こうと思っていたのに目が覚めたら彼は今までの全ての記憶を失っていた。これは神さまがくれたチャンスだと思った。
彼の荷物を元通りにして共同生活を再開させたが…
彼の記憶は戻るのか?2人の共同生活の行方は?
この噛み痕は、無効。
ことわ子
BL
執着強めのαで高校一年生の茜トキ×αアレルギーのβで高校三年生の品野千秋
α、β、Ωの三つの性が存在する現代で、品野千秋(しなのちあき)は一番人口が多いとされる平凡なβで、これまた平凡な高校三年生として暮らしていた。
いや、正しくは"平凡に暮らしたい"高校生として、自らを『αアレルギー』と自称するほど日々αを憎みながら生活していた。
千秋がαアレルギーになったのは幼少期のトラウマが原因だった。その時から千秋はαに対し強い拒否反応を示すようになり、わざわざαのいない高校へ進学するなど、徹底してαを避け続けた。
そんなある日、千秋は体育の授業中に熱中症で倒れてしまう。保健室で目を覚ますと、そこには親友の向田翔(むこうだかける)ともう一人、初めて見る下級生の男がいた。
その男と、トラウマの原因となった人物の顔が重なり千秋は混乱するが、男は千秋の混乱をよそに急に距離を詰めてくる。
「やっと見つけた」
男は誰もが見惚れる顔でそう言った。
トップアイドルα様は平凡βを運命にする
新羽梅衣
BL
ありきたりなベータらしい人生を送ってきた平凡な大学生・春崎陽は深夜のコンビニでアルバイトをしている。
ある夜、コンビニに訪れた男と目が合った瞬間、まるで炭酸が弾けるような胸の高鳴りを感じてしまう。どこかで見たことのある彼はトップアイドル・sui(深山翠)だった。
翠と陽の距離は急接近するが、ふたりはアルファとベータ。翠が運命の番に憧れて相手を探すために芸能界に入ったと知った陽は、どう足掻いても番にはなれない関係に思い悩む。そんなとき、翠のマネージャーに声をかけられた陽はある決心をする。
運命の番を探すトップアイドルα×自分に自信がない平凡βの切ない恋のお話。
キンモクセイは夏の記憶とともに
広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。
小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。
田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。
そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。
純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。
しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。
「俺になんてもったいない!」
素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。
性描写のある話は【※】をつけていきます。
ハッピーエンド
藤美りゅう
BL
恋心を抱いた人には、彼女がいましたーー。
レンタルショップ『MIMIYA』でアルバイトをする三上凛は、週末の夜に来るカップルの彼氏、堺智樹に恋心を抱いていた。
ある日、凛はそのカップルが雨の中喧嘩をするのを偶然目撃してしまい、雨が降りしきる中、帰れず立ち尽くしている智樹に自分の傘を貸してやる。
それから二人の距離は縮まろうとしていたが、一本のある映画が、凛の心にブレーキをかけてしまう。
※ 他サイトでコンテスト用に執筆した作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる