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◆エンジェルフィッシュ◆
Ⅰ
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全身ずぶ濡れのまま、飯田旭は部屋のドアを勢いよく開けた。
無遠慮にずかずかと中へ上がり込み、一通り全ての部屋をぐるっと見て回ると、しんと静まり返った室内はすっからかんの何もない状態になっていた。
荷物は全て運び出されていて、窓際にあったシングルベッドも、大きな本棚と山積みの本も、ゲームセンターで取った変な魚のぬいぐるみも、全部、全部無くなっている。
取り忘れのレースの遮光カーテンだけが、この部屋の元主人の気配を微かに残して寂しげに揺れていた。
旭は愕然とし、荒い息を吐きながら座り込んだ。あいつと連絡が取れなくなってから二週間。部屋の中で野垂れ死んでなくて良かったと胸をなでおろしたものの、余りにも突然の出来事に状況を理解できないでいた。
旭はやりきれない思いを乱暴に床に放り投げる。握りしめていたスマートフォンが鈍い音を立てて叩きつけられ、拍子にケースから紙切れが一枚飛び出す。旭はそれを拾い上げた。柄にもなく撮った写真を、柄にもなく大事に持ち歩いていたなんて笑える。
写真の中、照れて俯いた旭の横で嬉しそうな表情を浮かべ写る男。
旭は壁に寄りかかり窓を開けた。「ざーざー」と朝から降り続けている雨が、今も旭の耳を支配している。
「千鶴」
半年前の土砂降りの雨の日、俺たちは出会った。
「おにいさん、誰かと待ち合わせ?」
一目見た時は女かと思った。透き通るような瞳に長い睫毛が少女のような可憐さを感じさせていた。しかしその印象も、声変わり済みの低い声と傘に隠れた明るく短い髪を見て一瞬で消え去った。
旭に男を相手にする趣味は無い。聞こえていないふりをして無視を決め込んでいた。
だが千鶴と名乗るこの男はしつこく話しかけてくる。
「お兄さん、俺、千鶴ってゆうの。暇なら遊ぼうよ」
「・・相手間違えてるんじゃないですか?」
素っ気ない旭の態度にも可愛らしい顔を見せて笑う。
足元にまとわりつく捨て猫のようにうるさく鳴きやまぬ様に、旭はじりじりと苛々が募ってくる。その日は元々酷く酔っていたこともあり、仕方なく少女のようなこの男の誘いに乗った。ヤケになっていたのかもしれない。
男を抱くのはもちろん初めてだった。旭は人に対してよくわからない「もやもやした黒い塊」を抱えて生きてきた。アルコールで興奮していたこともあった、苛立ちをぶつけるようにひどく乱暴に抱いた。けれどもこの男は泣くでもなく怒るでもなく、ただ笑って旭を受け止めていた。
次の朝、昼前に目が覚めるとホテルの部屋に男はもう居なくなっていた。部屋の中に僅かに残る昨晩の行為の残骸に気恥ずかしくなる。旭はやってしまったという罪悪感と、何故かスッキリとした爽快感を感じている自分に戸惑った。
淡い記憶の中で旭の腕の上に頭を乗せ目を閉じ眠っている男が浮かぶ。ぽつんと一人分空いたベッドの隙間がやけに寂しい。ベッド脇のテーブルにどこかの土産店で買ったようなメモ用紙が一枚残してある。手に取り見ると「ありがとう、楽しかった」の文字と、その横に下手くそなサカナの絵が描かれてあった。
旭は煙草に火をつけながらそれを眺めた。よく見ると歪で不恰好なサカナがだんだんと癖になってくる。
「ふっ、変なの」
思いがけない出来事ではあったが、結果的に旭の心はいつの間にか昨晩の苛々を解消出来たようだ。少しだけ名残惜しい気持ちを感じながらホテルの部屋を後にし、その日のことはしだいに忘れていった。
もうあの男には会うことは無いだろうと思っていた。しかし会社の同僚に誘われて行った水族館で奇跡的に再会した。
その時のことは鮮明に覚えている。
その水族館はリニューアル工事中だった。父親がリニューアルのデザインに関わっているという同僚の女性のおかげでオープン前に観に来ることが出来た。
旭は以前から水族館によく来ていた。魚をというより水の中を何時間でも眺めているのが好きだった。その事をなぜか周りに知られ、デートの誘い文句にされたのだ。旭は会社内では割と人気のある方で、無口なところが逆にクールでかっこいいと噂されていた。
俺のことを何も知りもしないでどこを好きになれるんだろうか。外見ばかりで人を見る周りの人間に、旭はいつも心底嫌気がしていた。
横ではしゃぐ同僚の女。可愛らしくクルクル変わる表情と高い声は、普通の男達の目には魅力的に映るのだろう。けれども、旭にとっては騒音と同じでうんざりしていた。旭は手洗いに行くと言って女から離れ1人になった。先程通ったトンネル型の水槽のある場所まで戻る。
やっぱりここが一番好きだ。
上も下も、右も左も、ぐるっと水槽に囲まれた空間。ひんやりと心地よく、青くきらきらと光るトンネルを旭はゆっくりと通った。空を泳ぐように頭上を通り過ぎていく魚の群れ。手を広げて深呼吸をすれば、人の誰もいない、澄んだ海の空気を吸い込める気がして気分が良い。
このまま一生ここに閉じ込められて、時が止まってしまえばいいのにとぼんやりと考えた。
突然、静寂を破ったのはポコポコっと水中に現れた気泡。小さく丸い泡の群れの向こうにウェットスーツに身を包み優雅に泳ぐ人影が見えた。
旭はその姿に一瞬で目を奪われた。外の光が入るように設計されたこの水槽では、水の中で太陽光がゆらゆら揺れる。その人影が泳ぎ回るたびに、かき混ぜられた水流に乗って光が溶けて、マーブル模様を描いているようだ。
なんて美しい。旭とその水槽の中、そこだけが世界から切り離され、皆とは違う速度の時間を共有している、そんな至極の心地がした。
旭の胸はどきんどきんと高鳴り、夢中だった。
「飯田さん?」
同僚の女の声が旭を現実に引き戻す。思わず旭は舌打ちをした。なんて邪魔な人間だろう。侮蔑的な表情を隠しもせずに、女に適当に礼を言い駆け出す。
旭はその人を探して水族館中を走り回った。従業員の目を盗んで、非常階段から一般客立ち入り禁止のスペースに入ることができた。水族館の建物は六階建て、三階までは公開されている水族館のエリア、四階は従業員のみのフロア、五階六階は空白。四階にはその人は居ない、自ずとその上の階が気になってくる。
無性に胸がざわつく。一段一段踏みしめるように階段を上がり、扉を開けた。ギィっと軋んだ音がやけに響き、旭の胸のざわめきを煽る。何もない通路を抜けると、ついに見つけた、あの美しい人影の主。
濡れた前髪を後ろにかきあげ、整った横顔から長いまつ毛が覗く。その瞳は微動だにせず、ただ目の前の大きな水槽を眺めていた。旭の近づく気配に気づき振り返る。
「だれ?」
その声に旭は息を呑んだ。聞き覚えがある男の声。薄暗がりから水槽の明かりに照らされ、その人影が姿を現す。
「あれ、なんでこんなところにいるの?」
千鶴は大きな目を見開いて駆け寄ってくる。シラフで見る千鶴は、旭の酔っ払った思い出の中に残った姿に比べ、やはり当然男の風体をしている。旭の背が高いせいで見下ろす形になるものの、一般男性平均の身長はあったし、程よく焼けた肌と引き締まった筋肉は間違いなく男のものだった。
けれど何だろう、けして女のように華奢なわけではないのに、一瞬で消えてしまいそうな危うさというか、独特の魅力を持っている男だった。
男の自分でもその雰囲気だけで飲み込まれてしまう。実際にこうして勘違いしてやって来てしまったのだから、ほかの男にも相当モテるのだろう。旭は途端にこの男がはたして自分のことを覚えているかどうか不安になった。かける言葉を探して黙り込む旭を、千鶴はくすくすと笑って見て楽しんでいる。
「お兄さん久しぶりだね。もしかして俺のこと追いかけて来てくれたの?嬉しいな。でも前も思ったけどさ、お兄さんノンケだよね。女の子じゃなくてごめんね」
旭はかあっと顔に熱が籠るのを感じた。全てを見透かしたように見つめられ、咄嗟に目を逸らす。なんだか随分とこの前と態度が違うようだ、潮らしく旭に抱かれたのは誰だ。旭は踵を返すと、先程入ってきた扉へと向かった。
「勝手に入ってきてしまってすまない。帰るよ」
きっとあれは幻だったのだ、あの夜は酒が作り出したマボロシだった。旭は自分をそう納得させた。
「待ってよ。あ、この前お花ありがとね。ちゃんと大事に飾ったんだよ。写真見る?」
旭の背に千鶴が楽しげな言葉と共に近づいてくる。
「花・・?ああ」
思い出した。あの日の夜、旭は確か花束を持っていた。ホテルを出た時には跡形も無かったから忘れていた。記憶の無いところでこの男にあげたのかもしれない。
旭はどうしたもんかと頭を抱えた。やはりこの男を抱いたのは紛れもない事実。ずっと止まない胸さわぎに、得体の知れない不安と困惑が募る。この男にこれ以上関わるのは何とか避けたい。
「なあ、なんで引き留めるんだ?ああいうのは後腐れのない関係のはずだろう?こうして押しかけてしまって期待させたのなら謝る。でもさっき君が言った通り俺の恋愛対象は女だ。君に渡した花は捨てるなりなんなりしてくれて構わない。俺はこれで失礼する」
お前に好意はないと伝えたつもりだった。けれど期待外れにこの男には全く響いていない。
「捨てないよ?お兄さんから貰った大切なものだもの。それにそう言われるのには慣れてる。」
旭はこの男が何をしたいのか欠片も理解出来ない。困り果ててため息がでる。
「お前俺とどうにかなりたいのか?」
「どうにかしてくれるの?」
やる気のない態度に動じることなく千鶴が言い返し、誘い込むように旭の前に回り目を合わせる。
数秒の沈黙が続いた。時間が止まったみたいに旭は呼吸を忘れていた。慣れない動悸に胸が苦しい。
「ふはぁーっっ!!」
大きく息を吸い込んだと同時に時間が解ける。膝に手を当てて、「はぁはぁ」と苦しげに呼吸をする旭を千鶴は満足げに見下ろした。
「俺の勝ちね」
「はぁ、はぁ、何がだ」
その質問には答えずに、千鶴はすたすたと先程までいた場所に戻っていく。旭の今いる場所からでも微かに漏れて見える光。こっちに来てと手招きされて仕方なく歩み寄る。
「綺麗でしょ。これね俺がデザインしたの。でもまだ未完成でさ、このフロアは公開する予定はないんだ。だからお兄さん特別だよ」
誰にも見せないなんてもったいない、そう言いたくなるほど圧巻の景色だった。天井から床までの高さがあり、こちら側のガラスの表面は弧を描き半円柱型になった大きな水槽。ガラスの向こうが吹き抜けになっていて、そのまま向こう側が繋がって見える。まるで空と海が一緒になったような神秘的な空間だった。
だが、たしかに千鶴の言う通り水が入れてあるだけで空っぽ、魚たちが泳ぐことで演出される賑やかさは一切なかった。
「これでも十分綺麗だよ」
それは嘘の無い感想だった。とても物悲しいのに目が離せない。底は深くて暗くて恐怖さえ感じる。それなのになぜか懐かしい。
「ふふふ、ありがとね。お兄さんならそう言ってくれると思ってた。お兄さんといるともうすぐ完成できるような気がする」
千鶴は嬉しそうにガラス面に指を這わす。
「ねえ!お兄さん名前は?俺たちいい仲になれると思うんだ」
ついさっきまでは試すように俺を弄んでいたくせに、今はキラキラと少年のように瞳を輝かせて喋る。目まぐるしく変わる表情に調子が狂わされて、頭がおかしくなりそうだった。
「下世話な意味でじゃないよな?」
「もちろん。お兄さんがそうなりたいなら考えてあげるけど?」
「はぁ、良くもまぁ男相手にそんなこと言えるな。ほら」
旭は諦めてため息をつき、名刺を取り出して渡した。
「ふーん、飯田旭ってゆうんだ。あさひって呼んでいい?」
無遠慮にずかずかと中へ上がり込み、一通り全ての部屋をぐるっと見て回ると、しんと静まり返った室内はすっからかんの何もない状態になっていた。
荷物は全て運び出されていて、窓際にあったシングルベッドも、大きな本棚と山積みの本も、ゲームセンターで取った変な魚のぬいぐるみも、全部、全部無くなっている。
取り忘れのレースの遮光カーテンだけが、この部屋の元主人の気配を微かに残して寂しげに揺れていた。
旭は愕然とし、荒い息を吐きながら座り込んだ。あいつと連絡が取れなくなってから二週間。部屋の中で野垂れ死んでなくて良かったと胸をなでおろしたものの、余りにも突然の出来事に状況を理解できないでいた。
旭はやりきれない思いを乱暴に床に放り投げる。握りしめていたスマートフォンが鈍い音を立てて叩きつけられ、拍子にケースから紙切れが一枚飛び出す。旭はそれを拾い上げた。柄にもなく撮った写真を、柄にもなく大事に持ち歩いていたなんて笑える。
写真の中、照れて俯いた旭の横で嬉しそうな表情を浮かべ写る男。
旭は壁に寄りかかり窓を開けた。「ざーざー」と朝から降り続けている雨が、今も旭の耳を支配している。
「千鶴」
半年前の土砂降りの雨の日、俺たちは出会った。
「おにいさん、誰かと待ち合わせ?」
一目見た時は女かと思った。透き通るような瞳に長い睫毛が少女のような可憐さを感じさせていた。しかしその印象も、声変わり済みの低い声と傘に隠れた明るく短い髪を見て一瞬で消え去った。
旭に男を相手にする趣味は無い。聞こえていないふりをして無視を決め込んでいた。
だが千鶴と名乗るこの男はしつこく話しかけてくる。
「お兄さん、俺、千鶴ってゆうの。暇なら遊ぼうよ」
「・・相手間違えてるんじゃないですか?」
素っ気ない旭の態度にも可愛らしい顔を見せて笑う。
足元にまとわりつく捨て猫のようにうるさく鳴きやまぬ様に、旭はじりじりと苛々が募ってくる。その日は元々酷く酔っていたこともあり、仕方なく少女のようなこの男の誘いに乗った。ヤケになっていたのかもしれない。
男を抱くのはもちろん初めてだった。旭は人に対してよくわからない「もやもやした黒い塊」を抱えて生きてきた。アルコールで興奮していたこともあった、苛立ちをぶつけるようにひどく乱暴に抱いた。けれどもこの男は泣くでもなく怒るでもなく、ただ笑って旭を受け止めていた。
次の朝、昼前に目が覚めるとホテルの部屋に男はもう居なくなっていた。部屋の中に僅かに残る昨晩の行為の残骸に気恥ずかしくなる。旭はやってしまったという罪悪感と、何故かスッキリとした爽快感を感じている自分に戸惑った。
淡い記憶の中で旭の腕の上に頭を乗せ目を閉じ眠っている男が浮かぶ。ぽつんと一人分空いたベッドの隙間がやけに寂しい。ベッド脇のテーブルにどこかの土産店で買ったようなメモ用紙が一枚残してある。手に取り見ると「ありがとう、楽しかった」の文字と、その横に下手くそなサカナの絵が描かれてあった。
旭は煙草に火をつけながらそれを眺めた。よく見ると歪で不恰好なサカナがだんだんと癖になってくる。
「ふっ、変なの」
思いがけない出来事ではあったが、結果的に旭の心はいつの間にか昨晩の苛々を解消出来たようだ。少しだけ名残惜しい気持ちを感じながらホテルの部屋を後にし、その日のことはしだいに忘れていった。
もうあの男には会うことは無いだろうと思っていた。しかし会社の同僚に誘われて行った水族館で奇跡的に再会した。
その時のことは鮮明に覚えている。
その水族館はリニューアル工事中だった。父親がリニューアルのデザインに関わっているという同僚の女性のおかげでオープン前に観に来ることが出来た。
旭は以前から水族館によく来ていた。魚をというより水の中を何時間でも眺めているのが好きだった。その事をなぜか周りに知られ、デートの誘い文句にされたのだ。旭は会社内では割と人気のある方で、無口なところが逆にクールでかっこいいと噂されていた。
俺のことを何も知りもしないでどこを好きになれるんだろうか。外見ばかりで人を見る周りの人間に、旭はいつも心底嫌気がしていた。
横ではしゃぐ同僚の女。可愛らしくクルクル変わる表情と高い声は、普通の男達の目には魅力的に映るのだろう。けれども、旭にとっては騒音と同じでうんざりしていた。旭は手洗いに行くと言って女から離れ1人になった。先程通ったトンネル型の水槽のある場所まで戻る。
やっぱりここが一番好きだ。
上も下も、右も左も、ぐるっと水槽に囲まれた空間。ひんやりと心地よく、青くきらきらと光るトンネルを旭はゆっくりと通った。空を泳ぐように頭上を通り過ぎていく魚の群れ。手を広げて深呼吸をすれば、人の誰もいない、澄んだ海の空気を吸い込める気がして気分が良い。
このまま一生ここに閉じ込められて、時が止まってしまえばいいのにとぼんやりと考えた。
突然、静寂を破ったのはポコポコっと水中に現れた気泡。小さく丸い泡の群れの向こうにウェットスーツに身を包み優雅に泳ぐ人影が見えた。
旭はその姿に一瞬で目を奪われた。外の光が入るように設計されたこの水槽では、水の中で太陽光がゆらゆら揺れる。その人影が泳ぎ回るたびに、かき混ぜられた水流に乗って光が溶けて、マーブル模様を描いているようだ。
なんて美しい。旭とその水槽の中、そこだけが世界から切り離され、皆とは違う速度の時間を共有している、そんな至極の心地がした。
旭の胸はどきんどきんと高鳴り、夢中だった。
「飯田さん?」
同僚の女の声が旭を現実に引き戻す。思わず旭は舌打ちをした。なんて邪魔な人間だろう。侮蔑的な表情を隠しもせずに、女に適当に礼を言い駆け出す。
旭はその人を探して水族館中を走り回った。従業員の目を盗んで、非常階段から一般客立ち入り禁止のスペースに入ることができた。水族館の建物は六階建て、三階までは公開されている水族館のエリア、四階は従業員のみのフロア、五階六階は空白。四階にはその人は居ない、自ずとその上の階が気になってくる。
無性に胸がざわつく。一段一段踏みしめるように階段を上がり、扉を開けた。ギィっと軋んだ音がやけに響き、旭の胸のざわめきを煽る。何もない通路を抜けると、ついに見つけた、あの美しい人影の主。
濡れた前髪を後ろにかきあげ、整った横顔から長いまつ毛が覗く。その瞳は微動だにせず、ただ目の前の大きな水槽を眺めていた。旭の近づく気配に気づき振り返る。
「だれ?」
その声に旭は息を呑んだ。聞き覚えがある男の声。薄暗がりから水槽の明かりに照らされ、その人影が姿を現す。
「あれ、なんでこんなところにいるの?」
千鶴は大きな目を見開いて駆け寄ってくる。シラフで見る千鶴は、旭の酔っ払った思い出の中に残った姿に比べ、やはり当然男の風体をしている。旭の背が高いせいで見下ろす形になるものの、一般男性平均の身長はあったし、程よく焼けた肌と引き締まった筋肉は間違いなく男のものだった。
けれど何だろう、けして女のように華奢なわけではないのに、一瞬で消えてしまいそうな危うさというか、独特の魅力を持っている男だった。
男の自分でもその雰囲気だけで飲み込まれてしまう。実際にこうして勘違いしてやって来てしまったのだから、ほかの男にも相当モテるのだろう。旭は途端にこの男がはたして自分のことを覚えているかどうか不安になった。かける言葉を探して黙り込む旭を、千鶴はくすくすと笑って見て楽しんでいる。
「お兄さん久しぶりだね。もしかして俺のこと追いかけて来てくれたの?嬉しいな。でも前も思ったけどさ、お兄さんノンケだよね。女の子じゃなくてごめんね」
旭はかあっと顔に熱が籠るのを感じた。全てを見透かしたように見つめられ、咄嗟に目を逸らす。なんだか随分とこの前と態度が違うようだ、潮らしく旭に抱かれたのは誰だ。旭は踵を返すと、先程入ってきた扉へと向かった。
「勝手に入ってきてしまってすまない。帰るよ」
きっとあれは幻だったのだ、あの夜は酒が作り出したマボロシだった。旭は自分をそう納得させた。
「待ってよ。あ、この前お花ありがとね。ちゃんと大事に飾ったんだよ。写真見る?」
旭の背に千鶴が楽しげな言葉と共に近づいてくる。
「花・・?ああ」
思い出した。あの日の夜、旭は確か花束を持っていた。ホテルを出た時には跡形も無かったから忘れていた。記憶の無いところでこの男にあげたのかもしれない。
旭はどうしたもんかと頭を抱えた。やはりこの男を抱いたのは紛れもない事実。ずっと止まない胸さわぎに、得体の知れない不安と困惑が募る。この男にこれ以上関わるのは何とか避けたい。
「なあ、なんで引き留めるんだ?ああいうのは後腐れのない関係のはずだろう?こうして押しかけてしまって期待させたのなら謝る。でもさっき君が言った通り俺の恋愛対象は女だ。君に渡した花は捨てるなりなんなりしてくれて構わない。俺はこれで失礼する」
お前に好意はないと伝えたつもりだった。けれど期待外れにこの男には全く響いていない。
「捨てないよ?お兄さんから貰った大切なものだもの。それにそう言われるのには慣れてる。」
旭はこの男が何をしたいのか欠片も理解出来ない。困り果ててため息がでる。
「お前俺とどうにかなりたいのか?」
「どうにかしてくれるの?」
やる気のない態度に動じることなく千鶴が言い返し、誘い込むように旭の前に回り目を合わせる。
数秒の沈黙が続いた。時間が止まったみたいに旭は呼吸を忘れていた。慣れない動悸に胸が苦しい。
「ふはぁーっっ!!」
大きく息を吸い込んだと同時に時間が解ける。膝に手を当てて、「はぁはぁ」と苦しげに呼吸をする旭を千鶴は満足げに見下ろした。
「俺の勝ちね」
「はぁ、はぁ、何がだ」
その質問には答えずに、千鶴はすたすたと先程までいた場所に戻っていく。旭の今いる場所からでも微かに漏れて見える光。こっちに来てと手招きされて仕方なく歩み寄る。
「綺麗でしょ。これね俺がデザインしたの。でもまだ未完成でさ、このフロアは公開する予定はないんだ。だからお兄さん特別だよ」
誰にも見せないなんてもったいない、そう言いたくなるほど圧巻の景色だった。天井から床までの高さがあり、こちら側のガラスの表面は弧を描き半円柱型になった大きな水槽。ガラスの向こうが吹き抜けになっていて、そのまま向こう側が繋がって見える。まるで空と海が一緒になったような神秘的な空間だった。
だが、たしかに千鶴の言う通り水が入れてあるだけで空っぽ、魚たちが泳ぐことで演出される賑やかさは一切なかった。
「これでも十分綺麗だよ」
それは嘘の無い感想だった。とても物悲しいのに目が離せない。底は深くて暗くて恐怖さえ感じる。それなのになぜか懐かしい。
「ふふふ、ありがとね。お兄さんならそう言ってくれると思ってた。お兄さんといるともうすぐ完成できるような気がする」
千鶴は嬉しそうにガラス面に指を這わす。
「ねえ!お兄さん名前は?俺たちいい仲になれると思うんだ」
ついさっきまでは試すように俺を弄んでいたくせに、今はキラキラと少年のように瞳を輝かせて喋る。目まぐるしく変わる表情に調子が狂わされて、頭がおかしくなりそうだった。
「下世話な意味でじゃないよな?」
「もちろん。お兄さんがそうなりたいなら考えてあげるけど?」
「はぁ、良くもまぁ男相手にそんなこと言えるな。ほら」
旭は諦めてため息をつき、名刺を取り出して渡した。
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