40 / 42
第3章・レイフィス獣王国
40,新たな任務
しおりを挟む 水色の満月が夜空に高く浮かんでいる。最上の形状、最高の色合いの月だというのに、隣を歩く女性は沈痛な面持ちで俯き、一言も喋らない。
この鄙には稀な美女と道連れになった当初から、この女性をなんとかものにしたい、という下心をわたしは抱いていた。しかし、こちらがいくら話しかけても返事をしてくれないので、取りつく島がない。
さて、どうしたものか。
思案を巡らせていると、突然、女性が足を止めた。
「どうされましたか。ご気分が優れないのですか?」
「いいえ。とても尊いものが近くにあるのに、あたし一人がそれに気がついていないような気がして……」
わたしは身震いを禁じ得なかった。女性の声が実に美しかったからだ。絶対にわたしのものにしてやる。そう強く胸に誓った。
「近くにある尊いもの――それはあれのことではないですか? ほら、見てください」
夜空の満月を指し示す。顔を上げた女性は、水色に染まった天球を目の当たりにして、双眸を見開くと共に歓声を上げた。
「凄い! 水色の月! 綺麗……!」
「でしょう。月でさえも、予告なく色を変える時代なのです。人間一人の些細な悲しみなど――」
「ちょうだい、ちょうだい!」
女性は道路脇の叢の中に入っていった。足が地面を踏み締めるたびに上体が大きく揺れていて、足取りはかなり危なっかしい。眼差しは一直線に水色満月に注がれている。
女性の背丈は、歩くごとに少しずつ縮んでいる。
「待ってください!」
自らも叢の中に入ってみて、その理由が分かった。叢ではなく、湿地だったのだ。柔らかい泥の地面に足が沈んでいるのだ。
面食らったわたしが立ち竦んでいる間も、女性は届くはずのない月に向かって前進する。あっという間に肩まで水に浸かった。
「待って! これ以上行ってはいけない!」
しかし女性はなおも歩き続け、頭のてっぺんまで水中に沈んだ。
すぐに助け出せば、命は助かる。
女性が沈んだ地点まで走ろうとしたが、両足が動かない。わたしの両足が沈んだ付近の泥だけ、コンクリートのように固まってしまったのだ。懸命に足を引き抜こうと試みたが、何度やっても抜けない。
やがてわたしは悟る。もうこんなに時間が経ったのだから、女性は窒息死してしまったに違いない、と。
きっと顔を上げ、憎らしいまでに平然と夜空に浮かぶ水色満月を睨みつける。憎くて、憎くて堪らない。殴れるものなら殴ってやりたかったが、遠すぎて届かない。届くはずもない。
女性を救えなかったこと。女性の命を奪った水色満月に復讐する力がないこと。二種類の無力感に同時に襲われ、両目から涙が溢れ出した。
するとどうだろう。涙が流れ出れば流れ出るほど、満月の水色が薄らいでいくではないか。
やがて涙が涸れた時、水色満月が浮かんでいる場所には、輪郭の大きさと形が満月と全く同じの巨大な穴がぽっかりと開いていた。
その穴から、死んだはずの女性が顔を覗かせた。
目が合うと、彼女は表情を綻ばせた。わたしに向かって控えめに手を振り、穴から顔を引っ込める。それと同時に、穴と夜空との境目が急速に曖昧になり、視線の先には漆黒が広がるばかりとなった。
この鄙には稀な美女と道連れになった当初から、この女性をなんとかものにしたい、という下心をわたしは抱いていた。しかし、こちらがいくら話しかけても返事をしてくれないので、取りつく島がない。
さて、どうしたものか。
思案を巡らせていると、突然、女性が足を止めた。
「どうされましたか。ご気分が優れないのですか?」
「いいえ。とても尊いものが近くにあるのに、あたし一人がそれに気がついていないような気がして……」
わたしは身震いを禁じ得なかった。女性の声が実に美しかったからだ。絶対にわたしのものにしてやる。そう強く胸に誓った。
「近くにある尊いもの――それはあれのことではないですか? ほら、見てください」
夜空の満月を指し示す。顔を上げた女性は、水色に染まった天球を目の当たりにして、双眸を見開くと共に歓声を上げた。
「凄い! 水色の月! 綺麗……!」
「でしょう。月でさえも、予告なく色を変える時代なのです。人間一人の些細な悲しみなど――」
「ちょうだい、ちょうだい!」
女性は道路脇の叢の中に入っていった。足が地面を踏み締めるたびに上体が大きく揺れていて、足取りはかなり危なっかしい。眼差しは一直線に水色満月に注がれている。
女性の背丈は、歩くごとに少しずつ縮んでいる。
「待ってください!」
自らも叢の中に入ってみて、その理由が分かった。叢ではなく、湿地だったのだ。柔らかい泥の地面に足が沈んでいるのだ。
面食らったわたしが立ち竦んでいる間も、女性は届くはずのない月に向かって前進する。あっという間に肩まで水に浸かった。
「待って! これ以上行ってはいけない!」
しかし女性はなおも歩き続け、頭のてっぺんまで水中に沈んだ。
すぐに助け出せば、命は助かる。
女性が沈んだ地点まで走ろうとしたが、両足が動かない。わたしの両足が沈んだ付近の泥だけ、コンクリートのように固まってしまったのだ。懸命に足を引き抜こうと試みたが、何度やっても抜けない。
やがてわたしは悟る。もうこんなに時間が経ったのだから、女性は窒息死してしまったに違いない、と。
きっと顔を上げ、憎らしいまでに平然と夜空に浮かぶ水色満月を睨みつける。憎くて、憎くて堪らない。殴れるものなら殴ってやりたかったが、遠すぎて届かない。届くはずもない。
女性を救えなかったこと。女性の命を奪った水色満月に復讐する力がないこと。二種類の無力感に同時に襲われ、両目から涙が溢れ出した。
するとどうだろう。涙が流れ出れば流れ出るほど、満月の水色が薄らいでいくではないか。
やがて涙が涸れた時、水色満月が浮かんでいる場所には、輪郭の大きさと形が満月と全く同じの巨大な穴がぽっかりと開いていた。
その穴から、死んだはずの女性が顔を覗かせた。
目が合うと、彼女は表情を綻ばせた。わたしに向かって控えめに手を振り、穴から顔を引っ込める。それと同時に、穴と夜空との境目が急速に曖昧になり、視線の先には漆黒が広がるばかりとなった。
0
お気に入りに追加
103
あなたにおすすめの小説
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
社長室の蜜月
ゆる
恋愛
内容紹介:
若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。
一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。
仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。
交換された花嫁
秘密 (秘翠ミツキ)
恋愛
「お姉さんなんだから我慢なさい」
お姉さんなんだから…お姉さんなんだから…
我儘で自由奔放な妹の所為で昔からそればかり言われ続けてきた。ずっと我慢してきたが。公爵令嬢のヒロインは16歳になり婚約者が妹と共に出来きたが…まさかの展開が。
「お姉様の婚約者頂戴」
妹がヒロインの婚約者を寝取ってしまい、終いには頂戴と言う始末。両親に話すが…。
「お姉さんなのだから、交換して上げなさい」
流石に婚約者を交換するのは…不味いのでは…。
結局ヒロインは妹の要求通りに婚約者を交換した。
そしてヒロインは仕方無しに嫁いで行くが、夫である第2王子にはどうやら想い人がいるらしく…。
きっと、貴女は知っていた
mahiro
恋愛
自分以外の未来が見えるブランシュ・プラティニ。同様に己以外の未来が見えるヴァネッサ・モンジェルは訳あって同居していた。
同居の条件として、相手の未来を見たとしても、それは決して口にはしないこととしていた。
そんなある日、ブランシュとヴァネッサの住む家の前にひとりの男性が倒れていて………?
夫婦戦争勃発5秒前! ~借金返済の代わりに女嫌いなオネエと政略結婚させられました!~
麻竹
恋愛
※タイトル変更しました。
夫「おブスは消えなさい。」
妻「ああそうですか、ならば戦争ですわね!!」
借金返済の肩代わりをする代わりに政略結婚の条件を出してきた侯爵家。いざ嫁いでみると夫になる人から「おブスは消えなさい!」と言われたので、夫婦戦争勃発させてみました。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる