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110話 「いざ、戦場へ」
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そして、約束の日が訪れた。
今にも雨が降りそうな、どんよりした灰色の空。窓の外の木々を揺らす、いかにも冷たそう突風。
あまり明るい気分になれる日ではない。
緊張や不安が渦巻き、私は朝から何も話せなかった。元気よく言葉を発する気にはなれない。笑顔になることなどもちろん不可能だ。
着替えを終え、リビングの端でしゃがんでいると、漆黒のスーツに身を包んだ武田が現れた。しゃがみこむ私の方へ進んでくる。
「おはよう、沙羅。体調が悪いのか?」
「……いえ。別に」
「いつもより顔が青い。貧血気味か? 無理だけはするなよ」
彼はさりげなく私の前にしゃがみ、私の手を握り「大丈夫だ」と言ってくれる。
その言葉に私は救われた。
雪を溶かす日差しのように。泥を落とす雨粒のように。彼の言動は、私の中の緊張と不安を徐々に減らしていく。
「……ありがとうございます」
私は小さく礼を言った。
彼の体はまだ完全に回復してはいないかもしれない。そんな不安が付きまとう。
「武田さん……、無理だけはしないで下さいね」
「あぁ、もちろん。今日は鎮痛剤を飲んで行く。これで突然来る痛みは防げるだろう」
「なるべく怪我しないように気をつけて下さいよ」
「あぁ、そうだな。沙羅を悲しませないように頑張る」
小さくガッツポーズをしながら、彼ははっきりと宣言した。
何度も言い聞かせておけば、少しは怪我しないよう努めてくれるかもしれない……いや、それは幻想か。だが、少なくとも、負傷すること前提のような乱雑な戦い方はしないだろう。
本当は武田には無傷で切り抜けてほしいのだが、それはさすがに贅沢を言いすぎというもの。彼が受ける傷が少しでも減ればそれでいい。
「そういえば沙羅。護身用の、拳銃風のアレは持っているのか?」
「あ、はい」
私は武田に言われて思い出す。昨日ナギから渡された、本物ではないがおもちゃにしては危険な拳銃のことを。
私は拳銃とホルスターを武田に見せる。
「これですよね」
腰に装着するタイプのホルスターはナギのお古を借りた。
「ちゃんと着けられそうか? 無理なら早めにナギか誰かに頼むといい」
「武田さんはできませんか?」
「私はやってみたことがない。役に立てず、すまない……」
眉尻を下げ、しゅんとする武田。こんな顔をされては、こちらも辛い。
「い、いえ! 厚かましく頼んだ私が悪かったんですっ。本当は自分ですべきことなんでっ。武田さんは悪くないです!」
「そう言ってくれるか……」
「当然ですっ。武田さんは拳銃なんか使わないですもんね」
「肉弾戦しかできずすまん……」
「え!?いや、そんなつもりじゃないですよ!」
何か言うたび、いちいち落ち込んだような顔をする。今日の武田はいつもより厄介な感じだ。
私は彼の手をそっと握り、小さく呟く。
「……頼りにしてます」
すると彼は、驚いたように、何度か目をぱちぱちさせる。それから少しして、「そうか」と述べた時、彼は気恥ずかしそうな表情を浮かべていた。
武田の羞恥の感覚は実に謎だ。
彼は、普通照れ臭くて言えないようなことを、躊躇いなく堂々と言ったりする。なのに、こんな細やかな言葉に、気恥ずかしそうな顔をしたりする。
謎は深い。
それから私は、こっそりレイに電話をかけてみた。彼女が携帯電話を持っているのかはっきりしなかったのだが、電話に出てくれたので持っていたのだと分かった。
『もしもしー、あ、沙羅ちゃん?』
少し嬉しそうな声色。
私はほっとする。
ここのところ、レイはあまり元気そうではなかったからだ。ほんの僅かでも、明るい声を聞けると幸福を感じる。
「はい。今日、行ってきます」
『あっ……』
レイは言葉を詰まらせる。私は明るい空気に戻そうと努め、いつもよりはっきりした声を出す。
「頑張ってきます! って言っても私はお荷物同然ですけど……あはは」
明るく振る舞おうとしてみるも、なかなか上手くいかない。ぎこちない、不自然な明るさになってしまう。
『沙羅ちゃん、大丈夫? 無理しちゃ駄目だよ?』
「無理はしないよう気をつけます。レイさんはゆっくりしていて下さいね」
『ありがとう。……ごめんね』
彼女は少し寂しげだった。もちろん顔が見えるわけではないが、きっと暗い顔をしていたことだろう。そんな気がする。
『あたし、一緒に行けなくてごめんね』
「そんな! 謝らないで下さい。今はゆっくり休んで下さいね。元気になったら、またみんなですき焼きとかしましょう!」
思いつきでおかしな提案をしてしまった。
レイはくすっと笑みをこぼす。この状況で笑われるとは、少々恥ずかしい。
『ありがとう、沙羅ちゃん。きっとまた帰るから』
彼女は少し空けて続ける。
『今日は頑張ってね』
レイからの励ましの言葉が、今は何より嬉しかった。
大層な激励ではなく、細やかで純粋な励まし。運命を変えてくれるような大きなものではないけれど、その言葉は確かに、私を前向きな気持ちにさせてくれた。
全員が準備を終えた頃、私たちは車に乗り込む。宰次と約束した通り、この前の建物へ向かうべく。
運転席の武田は、小さく「では」と言ってから、アクセルを踏む。車は走り出した。ここまではそこそこスムーズにいけた方だろう。
「エリナさん、熱下がって本当に良かったっす!」
「そうね」
「もう本調子っすか?」
「……えぇ」
後部座席に座っているナギは、隣のエリナに、積極的に話しかける。しかしエリナはいい加減な返事しかしない。彼女は楽しく話せるような心理状態ではないのだろう。
「そういえばエリナさん。李湖は? 今日見かけてないっすけど」
「レイのところよ」
「えーっ! レイちゃんのとこ!? 何でっすか!?」
「レイだってエリミナーレの一員だもの、状況を伝えるくらいはしておきたいのよ。だから、李湖にはレイの荷物を届けに行ってもらったの」
「あー、なるほど。携帯ないとレイちゃんに連絡できないすもんね」
会話を聞き、私は嬉しかった。エリナがレイを切り捨てていないと分かったからだ。エリナは今でもレイをエリミナーレの一員と思っている。そのことに安堵した。
——やがて、エリナが口を開く。
「目標はただ一つ。宰次を捕らえることよ」
こうしてたわいない会話をしている間にも、宰次の待つ場所へ徐々に近づいていっていたのだ。エリナの宣言を耳にし、改めてそう感じた。
「今ここにいる五人、誰一人欠けることなく任務を完遂する!」
凛々しさを感じる声で言い放つエリナ。決して激しくはないが、熱いものを感じられる声色である。
今にも雨が降りそうな、どんよりした灰色の空。窓の外の木々を揺らす、いかにも冷たそう突風。
あまり明るい気分になれる日ではない。
緊張や不安が渦巻き、私は朝から何も話せなかった。元気よく言葉を発する気にはなれない。笑顔になることなどもちろん不可能だ。
着替えを終え、リビングの端でしゃがんでいると、漆黒のスーツに身を包んだ武田が現れた。しゃがみこむ私の方へ進んでくる。
「おはよう、沙羅。体調が悪いのか?」
「……いえ。別に」
「いつもより顔が青い。貧血気味か? 無理だけはするなよ」
彼はさりげなく私の前にしゃがみ、私の手を握り「大丈夫だ」と言ってくれる。
その言葉に私は救われた。
雪を溶かす日差しのように。泥を落とす雨粒のように。彼の言動は、私の中の緊張と不安を徐々に減らしていく。
「……ありがとうございます」
私は小さく礼を言った。
彼の体はまだ完全に回復してはいないかもしれない。そんな不安が付きまとう。
「武田さん……、無理だけはしないで下さいね」
「あぁ、もちろん。今日は鎮痛剤を飲んで行く。これで突然来る痛みは防げるだろう」
「なるべく怪我しないように気をつけて下さいよ」
「あぁ、そうだな。沙羅を悲しませないように頑張る」
小さくガッツポーズをしながら、彼ははっきりと宣言した。
何度も言い聞かせておけば、少しは怪我しないよう努めてくれるかもしれない……いや、それは幻想か。だが、少なくとも、負傷すること前提のような乱雑な戦い方はしないだろう。
本当は武田には無傷で切り抜けてほしいのだが、それはさすがに贅沢を言いすぎというもの。彼が受ける傷が少しでも減ればそれでいい。
「そういえば沙羅。護身用の、拳銃風のアレは持っているのか?」
「あ、はい」
私は武田に言われて思い出す。昨日ナギから渡された、本物ではないがおもちゃにしては危険な拳銃のことを。
私は拳銃とホルスターを武田に見せる。
「これですよね」
腰に装着するタイプのホルスターはナギのお古を借りた。
「ちゃんと着けられそうか? 無理なら早めにナギか誰かに頼むといい」
「武田さんはできませんか?」
「私はやってみたことがない。役に立てず、すまない……」
眉尻を下げ、しゅんとする武田。こんな顔をされては、こちらも辛い。
「い、いえ! 厚かましく頼んだ私が悪かったんですっ。本当は自分ですべきことなんでっ。武田さんは悪くないです!」
「そう言ってくれるか……」
「当然ですっ。武田さんは拳銃なんか使わないですもんね」
「肉弾戦しかできずすまん……」
「え!?いや、そんなつもりじゃないですよ!」
何か言うたび、いちいち落ち込んだような顔をする。今日の武田はいつもより厄介な感じだ。
私は彼の手をそっと握り、小さく呟く。
「……頼りにしてます」
すると彼は、驚いたように、何度か目をぱちぱちさせる。それから少しして、「そうか」と述べた時、彼は気恥ずかしそうな表情を浮かべていた。
武田の羞恥の感覚は実に謎だ。
彼は、普通照れ臭くて言えないようなことを、躊躇いなく堂々と言ったりする。なのに、こんな細やかな言葉に、気恥ずかしそうな顔をしたりする。
謎は深い。
それから私は、こっそりレイに電話をかけてみた。彼女が携帯電話を持っているのかはっきりしなかったのだが、電話に出てくれたので持っていたのだと分かった。
『もしもしー、あ、沙羅ちゃん?』
少し嬉しそうな声色。
私はほっとする。
ここのところ、レイはあまり元気そうではなかったからだ。ほんの僅かでも、明るい声を聞けると幸福を感じる。
「はい。今日、行ってきます」
『あっ……』
レイは言葉を詰まらせる。私は明るい空気に戻そうと努め、いつもよりはっきりした声を出す。
「頑張ってきます! って言っても私はお荷物同然ですけど……あはは」
明るく振る舞おうとしてみるも、なかなか上手くいかない。ぎこちない、不自然な明るさになってしまう。
『沙羅ちゃん、大丈夫? 無理しちゃ駄目だよ?』
「無理はしないよう気をつけます。レイさんはゆっくりしていて下さいね」
『ありがとう。……ごめんね』
彼女は少し寂しげだった。もちろん顔が見えるわけではないが、きっと暗い顔をしていたことだろう。そんな気がする。
『あたし、一緒に行けなくてごめんね』
「そんな! 謝らないで下さい。今はゆっくり休んで下さいね。元気になったら、またみんなですき焼きとかしましょう!」
思いつきでおかしな提案をしてしまった。
レイはくすっと笑みをこぼす。この状況で笑われるとは、少々恥ずかしい。
『ありがとう、沙羅ちゃん。きっとまた帰るから』
彼女は少し空けて続ける。
『今日は頑張ってね』
レイからの励ましの言葉が、今は何より嬉しかった。
大層な激励ではなく、細やかで純粋な励まし。運命を変えてくれるような大きなものではないけれど、その言葉は確かに、私を前向きな気持ちにさせてくれた。
全員が準備を終えた頃、私たちは車に乗り込む。宰次と約束した通り、この前の建物へ向かうべく。
運転席の武田は、小さく「では」と言ってから、アクセルを踏む。車は走り出した。ここまではそこそこスムーズにいけた方だろう。
「エリナさん、熱下がって本当に良かったっす!」
「そうね」
「もう本調子っすか?」
「……えぇ」
後部座席に座っているナギは、隣のエリナに、積極的に話しかける。しかしエリナはいい加減な返事しかしない。彼女は楽しく話せるような心理状態ではないのだろう。
「そういえばエリナさん。李湖は? 今日見かけてないっすけど」
「レイのところよ」
「えーっ! レイちゃんのとこ!? 何でっすか!?」
「レイだってエリミナーレの一員だもの、状況を伝えるくらいはしておきたいのよ。だから、李湖にはレイの荷物を届けに行ってもらったの」
「あー、なるほど。携帯ないとレイちゃんに連絡できないすもんね」
会話を聞き、私は嬉しかった。エリナがレイを切り捨てていないと分かったからだ。エリナは今でもレイをエリミナーレの一員と思っている。そのことに安堵した。
——やがて、エリナが口を開く。
「目標はただ一つ。宰次を捕らえることよ」
こうしてたわいない会話をしている間にも、宰次の待つ場所へ徐々に近づいていっていたのだ。エリナの宣言を耳にし、改めてそう感じた。
「今ここにいる五人、誰一人欠けることなく任務を完遂する!」
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