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90話 「あの雨の夜」
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結局今日もエンジェリカは平和だった。
宣戦布告をしてもすぐに攻めてくるとは限らないということか。とにかくいつもと何も変わらない時間がすぎていった。
特に何も起こらないなら外へ遊びに行きたかったな。街で買い物をしたりとか。ずっと部屋にいて、一日を無駄にしてしまった。実に残念なことだわ。
その夜。
あまり動かなかったからかなかなか眠れず、私は届いた荷物の中から母の日記帳を取り出した。
送られてきたあの時はちゃんと読めなかった。だから眠れない夜のうちに読もうと思ったのだ。
母・ラヴィーナのことを知れる。そう思うと何だかウキウキしてくる。
日記帳とは記憶を記すもの。つまり、彼女の体験だけではなく、何をどう捉え何にどんな思いを抱いたのか、それが分かる。
とても興味深いことだ。
「それは王妃の日記帳ですか?」
テーブルの上で日記帳を開いた時、エリアスが声をかけてきた。
そういえば見たいって言っていたものね。「一緒に見よう」と声をかけながら彼を手招きする。
すると彼は素早く近づいてきた。王妃の日記帳、余程見たかったのね。
「構わないのですか?」
エリアスは遠慮がちに確認してくる。
いくら死後とはいえ、他人に自分の日記帳を読まれるというのは嫌なものだろう。私だったとしても、あまり良くは思わない。
でもエリアスは私の護衛隊長、大切な天使だ。娘の親しい者に見られるくらいなら、ラヴィーナも許してくれるはず。
「もちろんよ」
私は笑顔で返し、流し台のところにいるヴァネッサへ聞く。
「ヴァネッサも一緒に見る?」
「いいえ。私は結構です」
見事に断られた。
まぁそうよね、想定の範囲内だわ。気にしない気にしない。エリアスと二人で読めてむしろラッキーと捉えましょう。
それから私とエリアスは日記帳を見た。妙に面白くて笑ったり、昔の話を聞いたり、楽しい時間をすごした。
早く寝ろとは言わないでね。
私たちは日記帳の内容をのんびりと読んでいたが、最後のページに記された一行に、暫し言葉を失った。
【助けて。堕ちた天使に殺される】
それ以降は白紙になっていた。
だいぶ時間が経過してから、私は沈黙を破って言う。
「これって、ルッツのこと?」
エリアスは青くなってまだ固まっている。瑠璃色の瞳だけが揺れていた。冷たい汗が彼の青ざめた頬を落ちる。エリアスはいつになくショックを受けている様子だ。
そんな彼の背後からヴァネッサが歩いてくる。
「そうよ、エリアス」
とても冷たい声だった。私も今までに聞いたことがないような、感情のこもらない冷淡な声。
そうか。母が、ラヴィーナがどんな風にこの世を去ったのか……ヴァネッサは知っていたのね。言われてみればおかしな話じゃないわ。侍女が傍にいるのは普通のことだもの。
「あの夜、私はラヴィーナ妃が殺害される一部始終を見てしまったのです」
ヴァネッサが話してくれたことを整理するならこうだ。
ある雨の夜。見知らぬコートを着た天使が、「雨宿りさせてほしい」と言って突然ラヴィーナの部屋を訪ねてきた。私はディルク王の部屋に行っていたらしいが、ヴァネッサはいる時間だったので、ラヴィーナはその天使を部屋へ招き入れた。
その時は数分後に起こる惨劇を予想もしなかった——。
「コートを着た天使がルッツでした。彼は『奪ってやる』と叫んでラヴィーナ妃を剣で一突きしました」
ヴァネッサは「次は自分が殺される」と思い、恐怖のあまり部屋から逃げ出してしまったらしい。
それで彼女は助かった。
「エリアス、貴方が彼女と親しくなったから悲劇は起きた。だから私は、貴方を信じられなかったのよ」
口調は落ち着いているが、表情は陰っていた。
「でも、私が一番信じられないのはディルク王よ。裏切り者が出たという事実を隠すため、彼はラヴィーナ妃の死を闇に葬ったのだもの」
「……ならなぜ今もエンジェリカにいるのですか」
相当な心理的ダメージを受けているようで項垂れているエリアスが、掠れた声でヴァネッサに尋ねる。
「ラヴィーナ妃にアンナ王女を任されたからよ」
ヴァネッサは静かな声で答えた。
その瞬間、エリアスは項垂れていた頭を持ち上げる。驚いたような表情になっている。
「……そうでした。私はなぜか忘れていましたが……」
対してヴァネッサは怪訝な顔をする。
「私が王女のことを頼まれた時、王妃は侍女にも頼んでいると……ヴァネッサさん、王妃は貴女の名を仰っていました」
「そうよ。私は彼女に一番近い侍女だったもの」
ヴァネッサもエリアスもラヴィーナから私を頼まれていた。立場は違えど二人は母が信頼している相手だったということだ。
私は嬉しかった。
確かにエリアスの弟が母を殺したという事実は辛い。でも、今の私は母が信頼していた二人に傍にいてもらっている。それに気づけたことが何より嬉しい。
「嬉しいわ! お母様の信頼していた二人と一緒にいられて、私はとても幸せ者ね!」
明るく言うと、エリアスとヴァネッサは困惑した表情になる。
こんな時こそ明るくいかなくちゃね!
「……ヴァネッサさん。貴女は今も私を疑っているのですか」
少し顔色を取り戻したエリアスは躊躇い気味に尋ねる。
「いいえ。今はもう疑っていないわ。貴方がアンナ王女を大切に思っていることは分かっているわ」
二人は既にお互いを理解し合っている。様子を見ているだけでそれが分かった。
ちょっとおいていかれている感は否めないけれど……でも嬉しい。ずっと仲良くしてほしかったのだもの。願いが一つ叶ったわ。
宣戦布告をしてもすぐに攻めてくるとは限らないということか。とにかくいつもと何も変わらない時間がすぎていった。
特に何も起こらないなら外へ遊びに行きたかったな。街で買い物をしたりとか。ずっと部屋にいて、一日を無駄にしてしまった。実に残念なことだわ。
その夜。
あまり動かなかったからかなかなか眠れず、私は届いた荷物の中から母の日記帳を取り出した。
送られてきたあの時はちゃんと読めなかった。だから眠れない夜のうちに読もうと思ったのだ。
母・ラヴィーナのことを知れる。そう思うと何だかウキウキしてくる。
日記帳とは記憶を記すもの。つまり、彼女の体験だけではなく、何をどう捉え何にどんな思いを抱いたのか、それが分かる。
とても興味深いことだ。
「それは王妃の日記帳ですか?」
テーブルの上で日記帳を開いた時、エリアスが声をかけてきた。
そういえば見たいって言っていたものね。「一緒に見よう」と声をかけながら彼を手招きする。
すると彼は素早く近づいてきた。王妃の日記帳、余程見たかったのね。
「構わないのですか?」
エリアスは遠慮がちに確認してくる。
いくら死後とはいえ、他人に自分の日記帳を読まれるというのは嫌なものだろう。私だったとしても、あまり良くは思わない。
でもエリアスは私の護衛隊長、大切な天使だ。娘の親しい者に見られるくらいなら、ラヴィーナも許してくれるはず。
「もちろんよ」
私は笑顔で返し、流し台のところにいるヴァネッサへ聞く。
「ヴァネッサも一緒に見る?」
「いいえ。私は結構です」
見事に断られた。
まぁそうよね、想定の範囲内だわ。気にしない気にしない。エリアスと二人で読めてむしろラッキーと捉えましょう。
それから私とエリアスは日記帳を見た。妙に面白くて笑ったり、昔の話を聞いたり、楽しい時間をすごした。
早く寝ろとは言わないでね。
私たちは日記帳の内容をのんびりと読んでいたが、最後のページに記された一行に、暫し言葉を失った。
【助けて。堕ちた天使に殺される】
それ以降は白紙になっていた。
だいぶ時間が経過してから、私は沈黙を破って言う。
「これって、ルッツのこと?」
エリアスは青くなってまだ固まっている。瑠璃色の瞳だけが揺れていた。冷たい汗が彼の青ざめた頬を落ちる。エリアスはいつになくショックを受けている様子だ。
そんな彼の背後からヴァネッサが歩いてくる。
「そうよ、エリアス」
とても冷たい声だった。私も今までに聞いたことがないような、感情のこもらない冷淡な声。
そうか。母が、ラヴィーナがどんな風にこの世を去ったのか……ヴァネッサは知っていたのね。言われてみればおかしな話じゃないわ。侍女が傍にいるのは普通のことだもの。
「あの夜、私はラヴィーナ妃が殺害される一部始終を見てしまったのです」
ヴァネッサが話してくれたことを整理するならこうだ。
ある雨の夜。見知らぬコートを着た天使が、「雨宿りさせてほしい」と言って突然ラヴィーナの部屋を訪ねてきた。私はディルク王の部屋に行っていたらしいが、ヴァネッサはいる時間だったので、ラヴィーナはその天使を部屋へ招き入れた。
その時は数分後に起こる惨劇を予想もしなかった——。
「コートを着た天使がルッツでした。彼は『奪ってやる』と叫んでラヴィーナ妃を剣で一突きしました」
ヴァネッサは「次は自分が殺される」と思い、恐怖のあまり部屋から逃げ出してしまったらしい。
それで彼女は助かった。
「エリアス、貴方が彼女と親しくなったから悲劇は起きた。だから私は、貴方を信じられなかったのよ」
口調は落ち着いているが、表情は陰っていた。
「でも、私が一番信じられないのはディルク王よ。裏切り者が出たという事実を隠すため、彼はラヴィーナ妃の死を闇に葬ったのだもの」
「……ならなぜ今もエンジェリカにいるのですか」
相当な心理的ダメージを受けているようで項垂れているエリアスが、掠れた声でヴァネッサに尋ねる。
「ラヴィーナ妃にアンナ王女を任されたからよ」
ヴァネッサは静かな声で答えた。
その瞬間、エリアスは項垂れていた頭を持ち上げる。驚いたような表情になっている。
「……そうでした。私はなぜか忘れていましたが……」
対してヴァネッサは怪訝な顔をする。
「私が王女のことを頼まれた時、王妃は侍女にも頼んでいると……ヴァネッサさん、王妃は貴女の名を仰っていました」
「そうよ。私は彼女に一番近い侍女だったもの」
ヴァネッサもエリアスもラヴィーナから私を頼まれていた。立場は違えど二人は母が信頼している相手だったということだ。
私は嬉しかった。
確かにエリアスの弟が母を殺したという事実は辛い。でも、今の私は母が信頼していた二人に傍にいてもらっている。それに気づけたことが何より嬉しい。
「嬉しいわ! お母様の信頼していた二人と一緒にいられて、私はとても幸せ者ね!」
明るく言うと、エリアスとヴァネッサは困惑した表情になる。
こんな時こそ明るくいかなくちゃね!
「……ヴァネッサさん。貴女は今も私を疑っているのですか」
少し顔色を取り戻したエリアスは躊躇い気味に尋ねる。
「いいえ。今はもう疑っていないわ。貴方がアンナ王女を大切に思っていることは分かっているわ」
二人は既にお互いを理解し合っている。様子を見ているだけでそれが分かった。
ちょっとおいていかれている感は否めないけれど……でも嬉しい。ずっと仲良くしてほしかったのだもの。願いが一つ叶ったわ。
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