奇跡の歌姫

四季

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87話「ウィクトルの雨降り」

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 病室の空から見える窓の外は薄暗い。灰色の空、降り注ぐ雨、漂うのは水の匂い。窓から見下ろせば、傘を差し歩く人々の姿が見える。ウィクトルは、何もすることがない退屈な時間を潰すため、道行く人の傘を見下ろしていた。白、赤、橙、青、色とりどりの円が並び動いていて、しかしながら、降り注ぐ雨粒が鮮やかさを掻き消している。

「失礼致します、主」

 スライド式のドアを開け、真顔のリベルテが病室へ入ってくる。
 ベッドの上のウィクトルは静かに振り返り、何かを察したかのように問う。

「報告か?」
「……はい」

 そう返すリベルテの表情は、窓の外と同じくらい薄暗いものだった。

「フーシェが死亡したと連絡を受けました」
「……正確な情報か?」
「はい。ビタリーの部隊より直接送られてきた情報でございます」

 リベルテは眉をハの字にしつつも、きちんと報告する。一方のウィクトルも、大きく取り乱すことはしなかった。リベルテの言葉を耳にした際、一度瞼を閉じはしたが、再び瞼を開けて以降は、表情を動かすことは特にない。

 ただ、病室内に流れている空気が明るいものでないことだけは確かだ。

「そうか。分かった」

 ウィクトルは淡々と述べ、言葉を切る。

 以後しばらく、音のない時が流れた。
 何も言葉を発さない二人だけがいる病室に声は存在しない。音すらも、ほとんどない。時折、窓ガラスを雨粒が叩くだけである。

「……あと何度失えば終わるのだろうな、この人生は」

 長い沈黙の後、窓の向こう側の空を見上げながらウィクトルは呟いた。

 二人以外に誰もおらず誰かが覗き見ることもない空間、そこに漂うのは、空虚さをはらんだ空気だ。涙が流れるわけでもなく、嘆き叫ぶ声が響くわけでもない。ただ、秋の夕暮れの空のように、物体ではない要素のすべてが物悲しさを漂わせている。

「それは、どういう意味でございますか?」

 ベッドの上で上半身を起こしているウィクトルに、リベルテは問う。

「私の帝国へ来て一番最初の任務はフリントの民の殲滅だった。地球を滅ぼし、ウタくんの母親もこの手で殺めた。……そしてフーシェも失った。結局私は肝心な時に何もできない。護りたいものは護れず、いつも失うばかり。思えば……そんな人生だった」

 そこまで言って、ウィクトルはリベルテの方へと面を向ける。

「多くの命を奪ってきた身で何も失わない人生を求めるなど……おこがましいだろうか」

 ウィクトルは切なげに微笑む。そんな彼の表情を見て、リベルテは俯いた。いつもなら大抵明るい調子で返すリベルテだが、今に限っては、すぐに言葉を返すことができない。

 それから、また静寂が辺りを包んだ。

 指が空気を掻く音さえしない。
 リベルテは唇を真一文字に結んで顎を引いたまま。ウィクトルはぼんやりと雨空を見つめている。

「……この後はどう致しましょうか」

 長い長い時を経て、リベルテが口を開く。

「リベルテがウタ様を迎えに上がりましょうか?」

 窓の外へ視線を向けているウィクトルは何も返さない。懐かしい過去を夢みているかのように、意味もなく、遠いところだけを見つめていた。今のウィクトルは、心がどこにあるのかすら分からないような目つきをしている。

「まさかとは思いますが、万が一ウタ様の身に何かあれば大問題でございますからね。では、少しばかり準備に取り掛かって参ります」

 心ここにあらずな様子のウィクトルに気を遣ってか、リベルテは退室しようとした——が、ウィクトルが止める。

「行かなくていい」

 ウィクトルの片手が、リベルテの上衣の裾を掴んでいた。

「……主?」
「もう死なれたら困る」

 きょとんとした顔になるリベルテ。

「一人生き延びても意味がない」

 ウィクトルがリベルテに顔を向けることはなかった。
 それでもリベルテは何か察したようで、笑みを向ける。

「リベルテはそう簡単に死にませんよ、主」
「口で言うのは簡単だ」
「主はリベルテが嘘つきだと申されるので?」

 数秒の沈黙の後。

「……いや、そうではない」

 ウィクトルは顔を上げない。だが、リベルテの上衣の裾を掴む力は、毎秒強くなっていっている。もう誰も失いたくない、そう訴えるかのように。

「そう言っていただけると光栄でございます。信頼第一と育てられて参りましたから」
「信頼はしている。それでも行かせるわけにはいかない」

 リベルテは困り顔。

「ウタ様のことが大切なのではないのですか? 星外へ行ってられた時も、あれほど心配なさっていたではないですか。あの方が傷つかれることが、辛いことなのではないのですか。あの方の価値は、リベルテと天秤にかける程度のものなのでございますか?」

 ウィクトルは素早く答えられない。
 彼が言葉を発するまでの間、雨粒が窓を叩く音ばかりが空気を揺らしていた。

「ウタくんはきっと上手くやるだろう、すぐに殺されはしないはずだ」
「それはリベルテも思っております。ですから、調査する時間もできるというもの。だからこそ、力自慢でないリベルテでも迎えに行けるのでございます」
「行くな」
「待って下さい、主。話が滅茶苦茶でございます」

 リベルテは不快感を露わにしてはいないが、僅かに呆れたような顔をしている。それに対しウィクトルは、思考が上手くまとめられない、というような表情だ。二人共、互いに対して負の感情を抱いてはいない。両者共に互いを思う心を持ってはいるのだが、すれ違ってしまっている部分がある。

「とにかく、リベルテはウタ様を連れて帰るべく努力を致します。ですから、主はどうか、傷を回復することに努めていて下さい」

 気まずい空気に耐えきれなかったのか、リベルテは話をまとめるような発言をした。

「……だが」
「大丈夫! 大抵のことは上手くいきますよ!」

 ウィクトルはまだやや不満げだ。

「根拠がない」
「この際、根拠など必要ございません。リベルテは失敗しませんので」
「無事帰る保証がなければ行かせない」
「う……。で、では! 今ここで誓います。無事帰ると!」

 病室の扉の外、廊下からは、人が通り過ぎていく規則的な足音が聞こえていた。それでも、足音程度ではさほど騒音にはならないもので。扉が一枚あるだけで、音は案外小さくなるものだ。無論、大きな音が響いたなら話は別だろうが。

「発言に根拠がない」
「そ、そんなに根拠ばかり求めないで下さい!」
「なぜ、無事戻れるという根拠がないのに、そこまで危険な地へ赴こうとするのか」

 ウィクトルが冷たく放った言葉。それに対する返答をどのようなものにするか迷ったらしく、リベルテは一度口を閉じた。丸い目を細め、何やら考え込む。リベルテがすぐに返答を発さなかったことを意外に思ったのか、ウィクトルは横目でリベルテを見る。ウィクトルが話し相手の様子を窺う側、というのは珍しい。

「それは……そうでございますね。ウタ様が心配ですし、何より、主の明るい顔を早く見たいですから」
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