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1話「ウィクトルの双剣」
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室内には、私とウィクトルの二人だけしかいない。そして窓の外に見えるのは、星々が切なげに輝く、暗幕を張ったような世界。ただ見つめているだけで、吸い込まれそうになる。
「もう少しそこで休むといい。明日にでも、部下を紹介しよう」
「……部下?」
「私の部下、だ。これからしばらく共に過ごすことになるだろうから、紹介しておかねばなるまい」
部下の紹介でも何でもいいが、今は、なぜこんなことになったのかが知りたい。
控えめに生きてきたはずだった。辛いことにも耐えてきた。それなのに、どうして私がこんなことに巻き込まれてしまったのか。もし本当に神というものが存在するのなら、私がこんな目に遭う理由を教えてほしい。
ウィクトルが部屋から出ていくと、私は一人になった。
私は自分の体を見下ろし、不思議に思う。持っていなかったはずの白いワンピースを身にまとっていたからだ。ウィクトルが貸してくれたのだろうか。
それはさておき。
まずは、ここから出て、何がどうなっているのかを確かめたい。しかし、扉には鍵がかけられていて、それはできそうにない。一応、一度は扉をこじ開けようとしてみたのだが、びくともしなかった。
眺めることができるのは、果てしなく続く宇宙だけ。
宇宙なんて一生目にすることはないと思っていた。窓越しであってもこうして目にすることができたのは、信じられないくらいの奇跡。
どのみち、地球というあの星に未練はなかった。だからべつに、どうなってもいい。死のうが見知らぬ星へ連行されようが、私にすれば大したことではないのだ。
それなのに。
地球はどうなったのだろう、なんて考えて、馬鹿ね、と苦笑する。
私は地球のことを考えなくてはならないほど大きな存在ではない。それに、私がここでああだこうだと考えても、それによって何かが変わるわけではない。私がいてもいなくても、地球の状態は同じだろう。
「美しい宙……」
あの青い空を見上げることはもうできないかもしれない。
でも今は、輝きに満ちた宇宙を見ることができる。ガラス越しではあるけれど、数多の星が輝く宇宙は美しかった。
その幻想的な光景をじっと見つめていたら、唐突に込み上げる。
——歌いたい。
そんな衝動が、胸の内に溢れてきた。
母親との繋がりである、歌。それは、彼女が亡くなってから、苦痛を与えてくる存在でしかなかった。母親との唯一の繋がりであるがゆえに、それは、私に現実を突きつけるものだった。
でも、どうしてだろう。
今は歌が愛おしくすら感じられる。
「……響く歌、遠くから聞こえてくる……希望の声……」
歌おうとして、でも、声が掠れる。
私以外誰もいないその部屋に控えめに響く声は、あまりにもちっぽけで。
数年ぶりに歌うその声は、お世辞にも上手くはなかった——厳密には『緊張し過ぎ』というような上手くなさだ。
滑稽だ、こんな下手な歌。
でも、歌うこと自体は嫌ではなかった。
むしろ、楽しい。
歌が好きだった頃を少しは思い出せた気がする。
ちょうどそのタイミングで、背後の扉が開いた。聴かれたかもしれない、と思い、心臓がバクンと鳴る。
数秒後、ウィクトルの声。
「……今のは、君の歌か?」
やっぱり聴かれてた!
焦りと恥じらいで、全身の皮膚から冷や汗が湧き上がる。
「ごめんなさい、騒いで」
「いや、気にすることはない」
「ありがとう。……で、何しに来たの」
出ていってから、それほど時間は経っていないはずだ。時計がないから厳密には分からないが、経ったのは長く見積もっても一時間くらいだろう。それなのに、もう戻ってくるなんて。
「部下を紹介しようと思ってな」
「今から?」
「そうだ。目覚めたと伝えたら早く紹介してくれとごねられてな」
「そう……分かったわ」
敢えて拒否する意味もない。
ウィクトルの方へ歩み寄る。
今、私の胸の内は、不気味なほどに澄み渡っている。死すら怖くはないのだ、先の見えぬ道を歩くことにも恐れはない。
「じゃあ、案内してちょうだい」
「話が早くて助かる」
ここへ来てから、初めて部屋を出た。
廊下だ。
絵の具で塗りつぶした画用紙のような黒の床。灰色の壁。天井には電球が設置されているが、周囲が暗い色をしているからか、電球の効果があまりない。
「この辺りは暗い。転けないよう気をつけろ」
「えぇ」
日頃なら何もないところで転倒するなんてことはないだろう。だが、今は慣れないワンピースを着ているから、少しは気をつけておいた方が良いかもしれない。
ウィクトルに先導されてたどり着いたのは、スライド式の扉の前。人が近づくと自動で開く仕組みだった。先に行っていたウィクトルが扉を押さえて待ってくれている。私は一度だけ軽く頭を下げ、扉を通過した。
部屋の中には人が二人。
入っていった私に気づき、同時に振り返る。
「……貴女」
一方は女性だった。
ただ、完全な大人ではないように見える。少女から女性に変わってゆく、といった感じの年齢だ。
紺色の詰め襟の上衣を身にまとった彼女は、くちなし色のセミロングヘアが柔らかな雰囲気を醸し出していて、しかしながら瞳には光がない。かといって、絶望しきっているというような顔をしているわけではなく。どちらかといえば無表情という言葉が似合うだろうか。そして、ズボンは上衣と同じ色をしている。若干膨らんでいるものだ。そして、膝までのブーツ。
「お……!」
そんな彼女に続けて声を発したのは、菜種油色のボブヘアの少年。
クリーム色のシャツの上には、赤茶色のベスト。そのベストは、後ろ側だけが長くなっており、まるで燕尾服のようだ。穿いているのは、隣の彼女と同じデザインのやや膨らんだズボン。ブーツもデザイン的には隣の彼女とお揃いのようだが、これまた、やはり色違い。女性のブーツが黒に限りなく近い紺であるのに対し、彼のブーツは暗い赤茶である。
「では、ウタくんに紹介しよう」
二人の方へ進んでいったウィクトルが、くるりと身を返して、私の方へ視線を向けてくる。
女性も、少年も、私を凝視していた。
「彼女がフーシェ。優秀な私の部下だ」
無表情な女性——フーシェは、一度だけ小さく頭を下げる。
何か発することはなかった。
「そして、こちらがリベルテ」
「よろしくお願い致します! 仲良くして下さいませ!」
菜種油色のボブヘアの少年——リベルテは、フーシェとは違って、物凄くハキハキした調子で挨拶してくれた。彼は案外明るい性格なのかもしれない。
「以上、私の部下の紹介だ」
「もう少しそこで休むといい。明日にでも、部下を紹介しよう」
「……部下?」
「私の部下、だ。これからしばらく共に過ごすことになるだろうから、紹介しておかねばなるまい」
部下の紹介でも何でもいいが、今は、なぜこんなことになったのかが知りたい。
控えめに生きてきたはずだった。辛いことにも耐えてきた。それなのに、どうして私がこんなことに巻き込まれてしまったのか。もし本当に神というものが存在するのなら、私がこんな目に遭う理由を教えてほしい。
ウィクトルが部屋から出ていくと、私は一人になった。
私は自分の体を見下ろし、不思議に思う。持っていなかったはずの白いワンピースを身にまとっていたからだ。ウィクトルが貸してくれたのだろうか。
それはさておき。
まずは、ここから出て、何がどうなっているのかを確かめたい。しかし、扉には鍵がかけられていて、それはできそうにない。一応、一度は扉をこじ開けようとしてみたのだが、びくともしなかった。
眺めることができるのは、果てしなく続く宇宙だけ。
宇宙なんて一生目にすることはないと思っていた。窓越しであってもこうして目にすることができたのは、信じられないくらいの奇跡。
どのみち、地球というあの星に未練はなかった。だからべつに、どうなってもいい。死のうが見知らぬ星へ連行されようが、私にすれば大したことではないのだ。
それなのに。
地球はどうなったのだろう、なんて考えて、馬鹿ね、と苦笑する。
私は地球のことを考えなくてはならないほど大きな存在ではない。それに、私がここでああだこうだと考えても、それによって何かが変わるわけではない。私がいてもいなくても、地球の状態は同じだろう。
「美しい宙……」
あの青い空を見上げることはもうできないかもしれない。
でも今は、輝きに満ちた宇宙を見ることができる。ガラス越しではあるけれど、数多の星が輝く宇宙は美しかった。
その幻想的な光景をじっと見つめていたら、唐突に込み上げる。
——歌いたい。
そんな衝動が、胸の内に溢れてきた。
母親との繋がりである、歌。それは、彼女が亡くなってから、苦痛を与えてくる存在でしかなかった。母親との唯一の繋がりであるがゆえに、それは、私に現実を突きつけるものだった。
でも、どうしてだろう。
今は歌が愛おしくすら感じられる。
「……響く歌、遠くから聞こえてくる……希望の声……」
歌おうとして、でも、声が掠れる。
私以外誰もいないその部屋に控えめに響く声は、あまりにもちっぽけで。
数年ぶりに歌うその声は、お世辞にも上手くはなかった——厳密には『緊張し過ぎ』というような上手くなさだ。
滑稽だ、こんな下手な歌。
でも、歌うこと自体は嫌ではなかった。
むしろ、楽しい。
歌が好きだった頃を少しは思い出せた気がする。
ちょうどそのタイミングで、背後の扉が開いた。聴かれたかもしれない、と思い、心臓がバクンと鳴る。
数秒後、ウィクトルの声。
「……今のは、君の歌か?」
やっぱり聴かれてた!
焦りと恥じらいで、全身の皮膚から冷や汗が湧き上がる。
「ごめんなさい、騒いで」
「いや、気にすることはない」
「ありがとう。……で、何しに来たの」
出ていってから、それほど時間は経っていないはずだ。時計がないから厳密には分からないが、経ったのは長く見積もっても一時間くらいだろう。それなのに、もう戻ってくるなんて。
「部下を紹介しようと思ってな」
「今から?」
「そうだ。目覚めたと伝えたら早く紹介してくれとごねられてな」
「そう……分かったわ」
敢えて拒否する意味もない。
ウィクトルの方へ歩み寄る。
今、私の胸の内は、不気味なほどに澄み渡っている。死すら怖くはないのだ、先の見えぬ道を歩くことにも恐れはない。
「じゃあ、案内してちょうだい」
「話が早くて助かる」
ここへ来てから、初めて部屋を出た。
廊下だ。
絵の具で塗りつぶした画用紙のような黒の床。灰色の壁。天井には電球が設置されているが、周囲が暗い色をしているからか、電球の効果があまりない。
「この辺りは暗い。転けないよう気をつけろ」
「えぇ」
日頃なら何もないところで転倒するなんてことはないだろう。だが、今は慣れないワンピースを着ているから、少しは気をつけておいた方が良いかもしれない。
ウィクトルに先導されてたどり着いたのは、スライド式の扉の前。人が近づくと自動で開く仕組みだった。先に行っていたウィクトルが扉を押さえて待ってくれている。私は一度だけ軽く頭を下げ、扉を通過した。
部屋の中には人が二人。
入っていった私に気づき、同時に振り返る。
「……貴女」
一方は女性だった。
ただ、完全な大人ではないように見える。少女から女性に変わってゆく、といった感じの年齢だ。
紺色の詰め襟の上衣を身にまとった彼女は、くちなし色のセミロングヘアが柔らかな雰囲気を醸し出していて、しかしながら瞳には光がない。かといって、絶望しきっているというような顔をしているわけではなく。どちらかといえば無表情という言葉が似合うだろうか。そして、ズボンは上衣と同じ色をしている。若干膨らんでいるものだ。そして、膝までのブーツ。
「お……!」
そんな彼女に続けて声を発したのは、菜種油色のボブヘアの少年。
クリーム色のシャツの上には、赤茶色のベスト。そのベストは、後ろ側だけが長くなっており、まるで燕尾服のようだ。穿いているのは、隣の彼女と同じデザインのやや膨らんだズボン。ブーツもデザイン的には隣の彼女とお揃いのようだが、これまた、やはり色違い。女性のブーツが黒に限りなく近い紺であるのに対し、彼のブーツは暗い赤茶である。
「では、ウタくんに紹介しよう」
二人の方へ進んでいったウィクトルが、くるりと身を返して、私の方へ視線を向けてくる。
女性も、少年も、私を凝視していた。
「彼女がフーシェ。優秀な私の部下だ」
無表情な女性——フーシェは、一度だけ小さく頭を下げる。
何か発することはなかった。
「そして、こちらがリベルテ」
「よろしくお願い致します! 仲良くして下さいませ!」
菜種油色のボブヘアの少年——リベルテは、フーシェとは違って、物凄くハキハキした調子で挨拶してくれた。彼は案外明るい性格なのかもしれない。
「以上、私の部下の紹介だ」
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