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一話「婚約取り消し」
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「申し訳ないが、君との婚約はなかったことにしたいんだ」
結婚式前日、私——マリエ・ルルーナは、婚約者カイ・エッカルトから、そう告げられた。
朝早く彼の家に呼び出され、何事かと思いながら駆けつけたら、婚約を取り消したいという申し出。
「え……」
「君との婚約をなかったことにしたい」
私は、それが真実だと、すぐには信じられなかった。婚約をなかったことにしたい、なんて、そんなことを言われる日が来るとは思わなかったから。
「そんな、なぜ……」
「君より大切な人ができたんだ。分かってくれ」
今から五年ほど前。エッカルト家が開くパーティーに参加したのがきっかけで、彼と知り合った。
あの時、私はまだ十五歳で、パーティーへ参加する予定はなかったのだが、風邪で行けなくなった姉の代わりに急遽参加したのである。
それ以降、私とカイは時折二人で会うようになり、お茶を楽しんだり、私が好きだった魔法関連の本を読んだりするようになって。交流を続けるうちに、段々距離が縮まった。
そして恋人になり、一年前、ついに婚約した。
決して派手な出会いではなく。電撃が走るような運命的な恋でもなく。それでも、彼と一緒にいる時間は楽しくて。
だから、彼となら幸せになれると思った。
信じて疑わなかった。
「……大切な人?」
なのにこんなことになるなんて、残酷すぎやしないだろうか。
「あぁ。昨年知り合った娘なのだが、彼女は病弱で誰かが傍にいないと生きていけない。そんな彼女が俺と共にありたいと言ってくれたんだ、断れるわけがないだろう」
病弱?
共にありたいと言ってくれた?
馬鹿ではないだろうか。
その程度のことで婚約を取り消すなんて、滅茶苦茶にもほどがある。それも、式前日に言い出すなんて、卑怯としか言い様がない。
体が弱いことを理由に婚約者がいる男を求める女も、上手く乗せられてそんな女に心奪われるカイも、どちらも私には理解できない。いや、理解したくもない。
「では……明日の式はどうなさるのですか?」
「明日の式は行うよ」
「え」
「彼女と、ね」
思わず「はぁ!?」と品のない言葉を吐きそうになったが、それは何とか飲み込み、平静を装って返す。
「では……私はどうすれば良いのですか?」
「突然の婚約取り消しの代わりに、お金は払う。それですべてなかったことにしてほしい」
カイは目を合わせない。
「……分かりました」
私も目を合わせなかった。
合わせたら、動揺していることがばれてしまいそうで、少し怖かったのだ。
「ありがとう! マリエ。君なら分かってくれると信じていたよ! あぁ、そうだ。もし良かったら、明日の式にも——」
「それは止めて下さい」
明日の式にも、何よ。
自分勝手に私を捨てておいて。
「では、失礼します」
それだけ言って、カイの家を後にした。
幸せになれると思った。
穏やかな日々が待っていると信じて疑わなかった。
それなのに、一瞬にしてすべてが壊れた。
カイの家の大門を過ぎ、私は走り出す。
頭の中は乱れていた。
何がこんな結末を招いたのか分からない! どうしてこんなことになったの! なぜ他の女なんかに!
胸の内で混じり合った怒りと悲しみが、涙になって溢れた。
まともなことは何も考えられず、私の脳に浮かぶのは「後悔させてやりたい」という思いだけ。もはやその思いに抗う気力すらなく、私は崖へ向かった。
カイの家を出て駆けることしばらく、崖へたどり着く。
上り坂は非常に険しかった。距離自体はそんなにないはずなのだが、途中からは走ることさえできず、ゆっくりと歩くことになってしまった。呼吸は荒れ、肩は激しく上下する。
それでも、崖の先端へたどり着いた時は清々しい気分だった。
手を伸ばしても届かない青。空が見える。雲一つない空は、女神のような温かな眼差しで、私を、世界を、見下ろしていた。あぁなんて美しいのだろう、と、いやに感動する。
崖より遥か下に広がる青。海が見える。波打つ水面は太陽の光を照り返し、天の川のように輝いている。今の私には眩過ぎるほどの輝きだ。
空を、海を、一度ずつ見て。
瞼を閉じる。
風が髪を揺らす感覚の中、深く息を吸い込む。
「カイ。裏切り者よ、貴方は。私は貴方を許さない」
静かに述べ、私は勢いよく飛び降りた。
結婚式前日、私——マリエ・ルルーナは、婚約者カイ・エッカルトから、そう告げられた。
朝早く彼の家に呼び出され、何事かと思いながら駆けつけたら、婚約を取り消したいという申し出。
「え……」
「君との婚約をなかったことにしたい」
私は、それが真実だと、すぐには信じられなかった。婚約をなかったことにしたい、なんて、そんなことを言われる日が来るとは思わなかったから。
「そんな、なぜ……」
「君より大切な人ができたんだ。分かってくれ」
今から五年ほど前。エッカルト家が開くパーティーに参加したのがきっかけで、彼と知り合った。
あの時、私はまだ十五歳で、パーティーへ参加する予定はなかったのだが、風邪で行けなくなった姉の代わりに急遽参加したのである。
それ以降、私とカイは時折二人で会うようになり、お茶を楽しんだり、私が好きだった魔法関連の本を読んだりするようになって。交流を続けるうちに、段々距離が縮まった。
そして恋人になり、一年前、ついに婚約した。
決して派手な出会いではなく。電撃が走るような運命的な恋でもなく。それでも、彼と一緒にいる時間は楽しくて。
だから、彼となら幸せになれると思った。
信じて疑わなかった。
「……大切な人?」
なのにこんなことになるなんて、残酷すぎやしないだろうか。
「あぁ。昨年知り合った娘なのだが、彼女は病弱で誰かが傍にいないと生きていけない。そんな彼女が俺と共にありたいと言ってくれたんだ、断れるわけがないだろう」
病弱?
共にありたいと言ってくれた?
馬鹿ではないだろうか。
その程度のことで婚約を取り消すなんて、滅茶苦茶にもほどがある。それも、式前日に言い出すなんて、卑怯としか言い様がない。
体が弱いことを理由に婚約者がいる男を求める女も、上手く乗せられてそんな女に心奪われるカイも、どちらも私には理解できない。いや、理解したくもない。
「では……明日の式はどうなさるのですか?」
「明日の式は行うよ」
「え」
「彼女と、ね」
思わず「はぁ!?」と品のない言葉を吐きそうになったが、それは何とか飲み込み、平静を装って返す。
「では……私はどうすれば良いのですか?」
「突然の婚約取り消しの代わりに、お金は払う。それですべてなかったことにしてほしい」
カイは目を合わせない。
「……分かりました」
私も目を合わせなかった。
合わせたら、動揺していることがばれてしまいそうで、少し怖かったのだ。
「ありがとう! マリエ。君なら分かってくれると信じていたよ! あぁ、そうだ。もし良かったら、明日の式にも——」
「それは止めて下さい」
明日の式にも、何よ。
自分勝手に私を捨てておいて。
「では、失礼します」
それだけ言って、カイの家を後にした。
幸せになれると思った。
穏やかな日々が待っていると信じて疑わなかった。
それなのに、一瞬にしてすべてが壊れた。
カイの家の大門を過ぎ、私は走り出す。
頭の中は乱れていた。
何がこんな結末を招いたのか分からない! どうしてこんなことになったの! なぜ他の女なんかに!
胸の内で混じり合った怒りと悲しみが、涙になって溢れた。
まともなことは何も考えられず、私の脳に浮かぶのは「後悔させてやりたい」という思いだけ。もはやその思いに抗う気力すらなく、私は崖へ向かった。
カイの家を出て駆けることしばらく、崖へたどり着く。
上り坂は非常に険しかった。距離自体はそんなにないはずなのだが、途中からは走ることさえできず、ゆっくりと歩くことになってしまった。呼吸は荒れ、肩は激しく上下する。
それでも、崖の先端へたどり着いた時は清々しい気分だった。
手を伸ばしても届かない青。空が見える。雲一つない空は、女神のような温かな眼差しで、私を、世界を、見下ろしていた。あぁなんて美しいのだろう、と、いやに感動する。
崖より遥か下に広がる青。海が見える。波打つ水面は太陽の光を照り返し、天の川のように輝いている。今の私には眩過ぎるほどの輝きだ。
空を、海を、一度ずつ見て。
瞼を閉じる。
風が髪を揺らす感覚の中、深く息を吸い込む。
「カイ。裏切り者よ、貴方は。私は貴方を許さない」
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