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1部
2.近づく距離、近づけない距離
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リベルがフィオーネの魔法の師となってから十日ほどが過ぎた。
最初はどことなくよそよそしさもあった二人だが今ではすっかり親しくなっている――もちろん、あくまで師弟として、だが。
そんなある日、前もって決まっていた剣の指導が急遽取り消しとなったフィオーネは、空いた時間を有効活用してより多くのことを教えてもらおうと考え、リベルについてまわっていた。
フィオーネはワインレッドのハードカバーがつけられた厚い本を開いた状態で大事そうに持っている。そして、自由気ままに歩いているリベルに自ら近づき、声をかけている。
「師匠! 教えていただきたいことが!」
「なになにー」
「先日の書物に関する話です、例のページの内容で」
「分かるかなー」
「ここの文字の――」
フィオーネがついてまわっていることによって自然と二人並んで歩くこととなるリベルとフィオーネ。
二人は、年齢性別のみならず種族も異なり肌の色も違っている。が、それでも、それらによる心の壁は特にない様子で。それなりに馴染んでいた。フィオーネは魔法を難なく使いこなし知識も豊富なリベルのことを尊敬しているし、リベルもまた積極的なフィオーネのことを嫌いとは思っていない様子である。
隣り合って歩いていた二人の目の前に、一人の大男が現れる。
橙色の髪は雑に伸ばされており男性にしては長く、茶色い防具を身につけている、おじいさんとまではいかないがある程度年を重ねていると思われる容姿の男性。角ばった灰色の顔面には、これまでの様々な経験が記録されているかのようにほどよくしわが乗っている。
「おい」
その男性が声をかけた対象は、分かりづらいが、厳密にはフィオーネではなくリベルだ。
だが先に反応したのはその男性のことをよく知るフィオーネだった。
「あ! こんにちは! アウディーおじさま!」
アウディーと呼ばれたその男性は明らかにリベルに不信感を抱いているようだった。しかしフィオーネはそれに気づいておらず、現にこうして無邪気さのある明るい表情で挨拶している。
「よ、フィオーネ。何してんだ?」
「色々習っています! 師匠は凄いですよ、トマトを出せますし!」
呑気なフィオーネを見たアウディーはふうと息を吐き出して「そうか」とだけ返す。少しばかり呆れているような表情だった。
「ところで、なぁ、お師匠さん?」
「僕に何か用かなー?」
アウディーに低い声を発されてもリベルの笑みは崩れない。
目を細めて、口角を持ち上げる。そうすれば彼の笑みは完成される。それは一種の仮面のようでもあるが、歪さがあるかといえばそれほどなく、そこそこ完成された柔らかな笑顔となっている。少なくとも使い慣れていないということはなさそうな笑みの表情である。
「似てるだけで人違いかもと思ってたんだが――あんた、あん時の魔術師だろ」
「何のことかなー?」
「俺、昔、一時期よそで傭兵やってたんだ。確か一度会ったよな? 戦っただろ」
「……悪いけど、忘れちゃったかなー」
唐突に出た話題。話が呑み込めないフィオーネはきょとんとしながら二人の顔を交互に見る。しかし無関係かつ無害な彼女へ意識を向ける者はいない。アウディーとリベルは、今、互いだけに意識を向けていた。
「それで何? 仕返し?」
リベルは目を細めた笑顔のまま対応する。
「何を企んでやがる」
アウディーは真剣かつ重苦しい表情でもリベルは笑みを浮かべたまま。
二人の表情に交わりはない。
「レフィエリに来て何をするつもりだ」
「何をする――って、僕はべつに害を与えるようなことはしないよ? 雇われの兵をするのには飽きたからここへ来ただけー」
軽やかに返されたアウディーはリベルの右手首を掴む。
「何考えてやがるか分からんとこが信用できねぇ」
「えー、そんなこと言われても」
困ったなぁ、とでも言いたげに、リベルは眉尻を僅かに下げる。
「もしレフィエリシナ様に迷惑をかけるようなことをしたら――その時には俺があんたを殺す」
アウディーの口から出る殺伐とした言葉。
瞬間、リベルは急に冷たい表情を浮かべ、敢えて一歩前へ出てから目の前の大男に顔を近づける。
「殺したいなら殺せば。できるならね」
圧に負けてか、アウディーは掴んでいた手首を離し後退する。
「……ま、それは、もしあんたがやらかしたら、だ」
どんぱちが始まりそうな空気にはらはらしていたフィオーネはこっそり胸を撫で下ろす。
アウディーが後退すれば、リベルの顔つきはまた柔らかなものへと戻った。
「ああ、それとな、もう一個伝えておく」
「もう一個?」
「あんた噂じゃ誰にでも手を出して回るって話だったよな。人の趣味にあれこれ言う気はないけどよ」
リベルはにこにこしているままで話を聞いている。
「フィオーネはレフィエリシナ様の娘みてぇなもんだ、大切な存在なんだ。だから手を出すなよ。弟子を言いなりにしようなんて――」
「大丈夫だよー。上下関係に物言わせて支配する趣味とかないしー」
「絶対だぞ!?」
「それに、全部過去のことだよ」
そこへ口を挟んでくるフィオーネ。
「アウディーおじさま、手を出す、ってどういうことですか?」
無邪気な問い。
聞いてはいけない。
しかしよりによってそこを深堀りしようとする。
「っ!?」
「おじさま? どうしてそんな言いづらそうなのですか? ……あ、もしかして、暴力のことですか!? そ、それは、駄目ですよね……力に物を言わせるのは良くないことですよね! だから言いづらいのですよね!? すみません、聞くべきでないことを聞いてしまって」
「――あ、ああ、そうだな」
説明を求められて気まずさに震えていたアウディーが安堵したような顔をしている様を見ていたリベルはさりげなくふっと笑みをこぼした。
「ふん、ま、あんたが一線を越えなけりゃこっちも何もしねぇ」
「そだね、平和が一番だもんねー」
「しっかしよくそこまで穏やかなやつみたく振る舞えるものだな。人の命を奪ってきたくせによ」
アウディーは嫌みを放つ。
しかし効果はさほどない。
「えー、そんなこと言い出したら君も同じだよね?」
「やっぱ覚えてんじゃねぇか!」
「そうじゃないよ。一時期よそで傭兵やってた、そう言ってたのを覚えていただけ」
「ぐっ」
「ふふ、じゃあねー」
リベルと彼に同行したいフィオーネは、アウディーの前を通り過ぎ、どこへということはないが歩き出す。
◆
神殿からそう離れていない丘の庭にて。
リベルは座り込んで空を見上げる。
フィオーネは遠慮がちに隣に腰を下ろした。
「師匠、すみません、アウディーおじさまは少し心配性で」
「いいよいいよー」
「それと、あの……私、師匠の過去が気になります。よく分かりませんが、多分、きっと厳しい人生を歩んでこられたのだろうと――」
「あー! 鳥! 飛んでる!」
フィオーネの言葉を遮るリベル。
丘から見える遥か向こうを指差している。
「え……」
「ほら! 鳥!」
「あ、えっと……その……は、はい、そうですね、鳥です」
「あれ? ごめん。何か言いかけてた?」
「いえ――いいんです、たいしたことじゃないので」
放ちたかった問いをフィオーネは呑み込んだ。
彼女はすぐに話題を変える。
「ところで、私、もっと強くなれますかね?」
「なれるなれるー」
「でも、君が花開くところが想像出来ないんだけど、って……」
「あの時はそう思ったんだよー。でも今はもうそう思ってないから、大丈夫だよー」
こうして近くにいても真の意味で寄り添うことはできていない。
表向きは親しくなれていても。
それで彼のすべてを知ることができているわけではない。
時間が足りていないのか、あるいは、鍵そのものが足りていないのか――いずれにせよ、彼の奥を見ることは容易くない。
その現実を突きつけられ、雨上がりに濡れ落ち葉を踏んだ時のような切なさを感じるフィオーネであった。
最初はどことなくよそよそしさもあった二人だが今ではすっかり親しくなっている――もちろん、あくまで師弟として、だが。
そんなある日、前もって決まっていた剣の指導が急遽取り消しとなったフィオーネは、空いた時間を有効活用してより多くのことを教えてもらおうと考え、リベルについてまわっていた。
フィオーネはワインレッドのハードカバーがつけられた厚い本を開いた状態で大事そうに持っている。そして、自由気ままに歩いているリベルに自ら近づき、声をかけている。
「師匠! 教えていただきたいことが!」
「なになにー」
「先日の書物に関する話です、例のページの内容で」
「分かるかなー」
「ここの文字の――」
フィオーネがついてまわっていることによって自然と二人並んで歩くこととなるリベルとフィオーネ。
二人は、年齢性別のみならず種族も異なり肌の色も違っている。が、それでも、それらによる心の壁は特にない様子で。それなりに馴染んでいた。フィオーネは魔法を難なく使いこなし知識も豊富なリベルのことを尊敬しているし、リベルもまた積極的なフィオーネのことを嫌いとは思っていない様子である。
隣り合って歩いていた二人の目の前に、一人の大男が現れる。
橙色の髪は雑に伸ばされており男性にしては長く、茶色い防具を身につけている、おじいさんとまではいかないがある程度年を重ねていると思われる容姿の男性。角ばった灰色の顔面には、これまでの様々な経験が記録されているかのようにほどよくしわが乗っている。
「おい」
その男性が声をかけた対象は、分かりづらいが、厳密にはフィオーネではなくリベルだ。
だが先に反応したのはその男性のことをよく知るフィオーネだった。
「あ! こんにちは! アウディーおじさま!」
アウディーと呼ばれたその男性は明らかにリベルに不信感を抱いているようだった。しかしフィオーネはそれに気づいておらず、現にこうして無邪気さのある明るい表情で挨拶している。
「よ、フィオーネ。何してんだ?」
「色々習っています! 師匠は凄いですよ、トマトを出せますし!」
呑気なフィオーネを見たアウディーはふうと息を吐き出して「そうか」とだけ返す。少しばかり呆れているような表情だった。
「ところで、なぁ、お師匠さん?」
「僕に何か用かなー?」
アウディーに低い声を発されてもリベルの笑みは崩れない。
目を細めて、口角を持ち上げる。そうすれば彼の笑みは完成される。それは一種の仮面のようでもあるが、歪さがあるかといえばそれほどなく、そこそこ完成された柔らかな笑顔となっている。少なくとも使い慣れていないということはなさそうな笑みの表情である。
「似てるだけで人違いかもと思ってたんだが――あんた、あん時の魔術師だろ」
「何のことかなー?」
「俺、昔、一時期よそで傭兵やってたんだ。確か一度会ったよな? 戦っただろ」
「……悪いけど、忘れちゃったかなー」
唐突に出た話題。話が呑み込めないフィオーネはきょとんとしながら二人の顔を交互に見る。しかし無関係かつ無害な彼女へ意識を向ける者はいない。アウディーとリベルは、今、互いだけに意識を向けていた。
「それで何? 仕返し?」
リベルは目を細めた笑顔のまま対応する。
「何を企んでやがる」
アウディーは真剣かつ重苦しい表情でもリベルは笑みを浮かべたまま。
二人の表情に交わりはない。
「レフィエリに来て何をするつもりだ」
「何をする――って、僕はべつに害を与えるようなことはしないよ? 雇われの兵をするのには飽きたからここへ来ただけー」
軽やかに返されたアウディーはリベルの右手首を掴む。
「何考えてやがるか分からんとこが信用できねぇ」
「えー、そんなこと言われても」
困ったなぁ、とでも言いたげに、リベルは眉尻を僅かに下げる。
「もしレフィエリシナ様に迷惑をかけるようなことをしたら――その時には俺があんたを殺す」
アウディーの口から出る殺伐とした言葉。
瞬間、リベルは急に冷たい表情を浮かべ、敢えて一歩前へ出てから目の前の大男に顔を近づける。
「殺したいなら殺せば。できるならね」
圧に負けてか、アウディーは掴んでいた手首を離し後退する。
「……ま、それは、もしあんたがやらかしたら、だ」
どんぱちが始まりそうな空気にはらはらしていたフィオーネはこっそり胸を撫で下ろす。
アウディーが後退すれば、リベルの顔つきはまた柔らかなものへと戻った。
「ああ、それとな、もう一個伝えておく」
「もう一個?」
「あんた噂じゃ誰にでも手を出して回るって話だったよな。人の趣味にあれこれ言う気はないけどよ」
リベルはにこにこしているままで話を聞いている。
「フィオーネはレフィエリシナ様の娘みてぇなもんだ、大切な存在なんだ。だから手を出すなよ。弟子を言いなりにしようなんて――」
「大丈夫だよー。上下関係に物言わせて支配する趣味とかないしー」
「絶対だぞ!?」
「それに、全部過去のことだよ」
そこへ口を挟んでくるフィオーネ。
「アウディーおじさま、手を出す、ってどういうことですか?」
無邪気な問い。
聞いてはいけない。
しかしよりによってそこを深堀りしようとする。
「っ!?」
「おじさま? どうしてそんな言いづらそうなのですか? ……あ、もしかして、暴力のことですか!? そ、それは、駄目ですよね……力に物を言わせるのは良くないことですよね! だから言いづらいのですよね!? すみません、聞くべきでないことを聞いてしまって」
「――あ、ああ、そうだな」
説明を求められて気まずさに震えていたアウディーが安堵したような顔をしている様を見ていたリベルはさりげなくふっと笑みをこぼした。
「ふん、ま、あんたが一線を越えなけりゃこっちも何もしねぇ」
「そだね、平和が一番だもんねー」
「しっかしよくそこまで穏やかなやつみたく振る舞えるものだな。人の命を奪ってきたくせによ」
アウディーは嫌みを放つ。
しかし効果はさほどない。
「えー、そんなこと言い出したら君も同じだよね?」
「やっぱ覚えてんじゃねぇか!」
「そうじゃないよ。一時期よそで傭兵やってた、そう言ってたのを覚えていただけ」
「ぐっ」
「ふふ、じゃあねー」
リベルと彼に同行したいフィオーネは、アウディーの前を通り過ぎ、どこへということはないが歩き出す。
◆
神殿からそう離れていない丘の庭にて。
リベルは座り込んで空を見上げる。
フィオーネは遠慮がちに隣に腰を下ろした。
「師匠、すみません、アウディーおじさまは少し心配性で」
「いいよいいよー」
「それと、あの……私、師匠の過去が気になります。よく分かりませんが、多分、きっと厳しい人生を歩んでこられたのだろうと――」
「あー! 鳥! 飛んでる!」
フィオーネの言葉を遮るリベル。
丘から見える遥か向こうを指差している。
「え……」
「ほら! 鳥!」
「あ、えっと……その……は、はい、そうですね、鳥です」
「あれ? ごめん。何か言いかけてた?」
「いえ――いいんです、たいしたことじゃないので」
放ちたかった問いをフィオーネは呑み込んだ。
彼女はすぐに話題を変える。
「ところで、私、もっと強くなれますかね?」
「なれるなれるー」
「でも、君が花開くところが想像出来ないんだけど、って……」
「あの時はそう思ったんだよー。でも今はもうそう思ってないから、大丈夫だよー」
こうして近くにいても真の意味で寄り添うことはできていない。
表向きは親しくなれていても。
それで彼のすべてを知ることができているわけではない。
時間が足りていないのか、あるいは、鍵そのものが足りていないのか――いずれにせよ、彼の奥を見ることは容易くない。
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