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episode.142 カレーが美味しすぎたせい
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目の前に置かれた、カレーとご飯が乗った皿。焦げ茶色のカレーと白色の米、という色みが、いかにも美味しそうだ。それに加えて、立ち上るコクのある香りがこれまた美味しそうで、食欲をそそる。
朝からカレーなんて。
そんな風に思っていた心は、一瞬にして吹き飛んでいってしまった。
今はただ、目の前に出されたものを食べたい、という欲に満ちている。目と鼻からの情報だけでも、絶対に美味しいと確信が持てるほどのカレーだ。食べたくならないわけがない。
「マレイちゃん、どうかしたのっ?」
カレーの乗った皿を凝視しているのを不思議に思ったらしく、フランシスカが尋ねてきた。眉をひそめ、怪訝な顔をしている。
「あ、いえ。何でもないわ」
「本当にっ?」
一応答えはしたのだが、フランシスカは「信じられない」といった顔をしたままである。
確かに、仲間が周囲にいるにもかかわらず皿だけを凝視している人なんて、明らかにおかしな人だ。そう考えると、フランシスカが訝しむような顔をするのも無理はないのかもしれない。
「えぇ、本当よ」
私がもう一度答えると、鍋の前に立っていたゼーレが口を挟んでくる。
「……カトレアはカレーに夢中なのでしょう」
ゼーレの発言に、フランシスカはその愛らしい顔を持ち上げ、「あ、そうなの?」と返す。彼女が目をぱちぱちさせると、丸い瞳を彩る睫毛が大きく動いて、とても華やかだ。
「えぇ……恐らく」
ゼーレは呟くような小さな声で述べ、それから、私の方へと視線を向ける。そして、ニヤリと笑った。マスクを装着しているため口元を視認はできないのだが、それでも彼の表情が変わったことは、容易く分かった。
「……でしょう? カトレア」
馬鹿にされている感が否めない。
だが、露骨に無視するのもどうかと思ったため、仕方なく答える。
「そうよ。美味しそうだったんだもの、仕方ないじゃない」
するとゼーレは軽く目を伏せる。
「……やはり。そんなことだろうと思いました」
そう言ってから、ゼーレは一人、「ふふ」と笑みをこぼしていた。彼が笑うなんて、不気味だ。
「やはり食欲に敵うものはありませんねぇ……」
「な、何よ! 食い意地が張っているみたいに言わないでちょうだい!」
「……何を必死になっているのです? カトレア。食欲旺盛なのを悪いことだと言ってはいませんが」
ひよこ柄の水色のエプロンを着ているが、やはり、ゼーレはゼーレだった。根っこの性格というものは、服装くらいで変わるものではないらしい。
そんな風に言葉を交わしながらのんびりと過ごしていると、それまで黙っていたトリスタンが、突然口を開いた。
「ところでマレイちゃん。ゼーレと一緒に行くって、本当?」
えええっ!?
どうしてトリスタンが知ってるの!?
……なんて驚いたのは隠し、まるで平静を保てているかのように振る舞いつつ返す。
「その話、どこで聞いたの?」
まだトリスタンには話していなかったはずなのに。
一体どんな経路で情報を入手したのやら……。
「先に僕の質問に答えてほしいな」
「そ、そうね……」
こんな時に限ってトリスタンは厳しい。
「本当なのかな?」
トリスタンの青い双眸から放たれた視線は、まるで胸を貫くかのように、真っ直ぐ向かってきている。彼に真剣な眼差しを向けられると、ごまかせる気がしない。
「えぇ……本当よ」
非常に言いにくいが、嘘をつくわけにもいかない。
今私は、ただ、真実を述べるしかなかった。それ以外に選ぶことのできる道など、存在しなかったのだ。
私の返答に、トリスタンは微かに俯く。
辺りの空気が一気に冷えた気がした。
「……そっか」
私はゼーレを選んだ。彼と生きる道を選んだ。だからもう引き返せはしない。それに、もし仮に引き返せるとしても、そちらを選択することはないと思う。
トリスタンには、ずっと世話になってきた。だから、こんな形で彼を傷つけてしまうのは、心苦しいものがある。
でも——。
もし今ここで、私が、曖昧な態度をとったら。
彼に希望の欠片を残すような態度をとったとしたら。
余計にトリスタンを傷つけてしまうことは、間違いない。
選んだ道を告げることは辛くて、罪悪感もある。
けれど、はっきりと告げるのが、一番トリスタンのためになるだろう。
だから私は正直に告げたのだ。
「それが君の、マレイちゃんの、選んだ道なんだね」
「……ごめんなさい」
「謝ることはないよ。君は、君が望む人生をゆけばいいんだから」
トリスタンは優しかった。
彼の優しさに、何度も救われてきた。
「僕はマレイちゃんに幸せになってほしい」
そして今も、私は、その優しさに救われている。
切なげに伏せられた青を見ると胸が痛くなるけれど、トリスタンが私の選んだ人生を受け入れようとしてくれていることは、純粋に嬉しく思う。
「だから、謝らなくていいよ」
「……ありがとう」
今は、躊躇いなく、感謝を述べることができた。
トリスタンが温かく受け止めてくれたからだ。
「さ! カレー食べよっか!」
私とトリスタンの会話が一段落する時を見計らっていたのか、言葉が途切れるなりフランシスカが言った。彼女らしい、はつらつとした声色だ。
「そうだな。美味しそうなカレーだ」
「いっただっきまーすっ!!」
グレイブとフランシスカがそれぞれ述べていた。
私は、スプーンに山盛りになるくらいがっつりすくったカレーを、一気に口に含む。重い気分を振り払うかのように。
濃厚な汁と甘みのあるご飯が、絶妙の組み合わせだ。にゅるりととろける玉ねぎ、ほくっとしたジャガイモ、そして柔らかくてほろりと崩れる肉。
ゼーレのカレーは美味だった。
「へぇー、案外美味しいね……って、マレイちゃん!?」
「え?」
フランシスカは私の皿を見て、何やら驚いている。
「食べるの早くないっ!?」
「そう?」
まだ半分くらい食べただけなのだが……。
「早いよ! 早すぎだよっ!」
なぜ、と思ったが、周囲の皿を見て納得した。確かに、みんなはまだ半分も食べていない。ということは、フランシスカが言う通り、私は食べるのが早いのだろう。
だがそれは、私が食い意地が張っているからではない。カレーが美味しすぎたのが原因だ。
朝からカレーなんて。
そんな風に思っていた心は、一瞬にして吹き飛んでいってしまった。
今はただ、目の前に出されたものを食べたい、という欲に満ちている。目と鼻からの情報だけでも、絶対に美味しいと確信が持てるほどのカレーだ。食べたくならないわけがない。
「マレイちゃん、どうかしたのっ?」
カレーの乗った皿を凝視しているのを不思議に思ったらしく、フランシスカが尋ねてきた。眉をひそめ、怪訝な顔をしている。
「あ、いえ。何でもないわ」
「本当にっ?」
一応答えはしたのだが、フランシスカは「信じられない」といった顔をしたままである。
確かに、仲間が周囲にいるにもかかわらず皿だけを凝視している人なんて、明らかにおかしな人だ。そう考えると、フランシスカが訝しむような顔をするのも無理はないのかもしれない。
「えぇ、本当よ」
私がもう一度答えると、鍋の前に立っていたゼーレが口を挟んでくる。
「……カトレアはカレーに夢中なのでしょう」
ゼーレの発言に、フランシスカはその愛らしい顔を持ち上げ、「あ、そうなの?」と返す。彼女が目をぱちぱちさせると、丸い瞳を彩る睫毛が大きく動いて、とても華やかだ。
「えぇ……恐らく」
ゼーレは呟くような小さな声で述べ、それから、私の方へと視線を向ける。そして、ニヤリと笑った。マスクを装着しているため口元を視認はできないのだが、それでも彼の表情が変わったことは、容易く分かった。
「……でしょう? カトレア」
馬鹿にされている感が否めない。
だが、露骨に無視するのもどうかと思ったため、仕方なく答える。
「そうよ。美味しそうだったんだもの、仕方ないじゃない」
するとゼーレは軽く目を伏せる。
「……やはり。そんなことだろうと思いました」
そう言ってから、ゼーレは一人、「ふふ」と笑みをこぼしていた。彼が笑うなんて、不気味だ。
「やはり食欲に敵うものはありませんねぇ……」
「な、何よ! 食い意地が張っているみたいに言わないでちょうだい!」
「……何を必死になっているのです? カトレア。食欲旺盛なのを悪いことだと言ってはいませんが」
ひよこ柄の水色のエプロンを着ているが、やはり、ゼーレはゼーレだった。根っこの性格というものは、服装くらいで変わるものではないらしい。
そんな風に言葉を交わしながらのんびりと過ごしていると、それまで黙っていたトリスタンが、突然口を開いた。
「ところでマレイちゃん。ゼーレと一緒に行くって、本当?」
えええっ!?
どうしてトリスタンが知ってるの!?
……なんて驚いたのは隠し、まるで平静を保てているかのように振る舞いつつ返す。
「その話、どこで聞いたの?」
まだトリスタンには話していなかったはずなのに。
一体どんな経路で情報を入手したのやら……。
「先に僕の質問に答えてほしいな」
「そ、そうね……」
こんな時に限ってトリスタンは厳しい。
「本当なのかな?」
トリスタンの青い双眸から放たれた視線は、まるで胸を貫くかのように、真っ直ぐ向かってきている。彼に真剣な眼差しを向けられると、ごまかせる気がしない。
「えぇ……本当よ」
非常に言いにくいが、嘘をつくわけにもいかない。
今私は、ただ、真実を述べるしかなかった。それ以外に選ぶことのできる道など、存在しなかったのだ。
私の返答に、トリスタンは微かに俯く。
辺りの空気が一気に冷えた気がした。
「……そっか」
私はゼーレを選んだ。彼と生きる道を選んだ。だからもう引き返せはしない。それに、もし仮に引き返せるとしても、そちらを選択することはないと思う。
トリスタンには、ずっと世話になってきた。だから、こんな形で彼を傷つけてしまうのは、心苦しいものがある。
でも——。
もし今ここで、私が、曖昧な態度をとったら。
彼に希望の欠片を残すような態度をとったとしたら。
余計にトリスタンを傷つけてしまうことは、間違いない。
選んだ道を告げることは辛くて、罪悪感もある。
けれど、はっきりと告げるのが、一番トリスタンのためになるだろう。
だから私は正直に告げたのだ。
「それが君の、マレイちゃんの、選んだ道なんだね」
「……ごめんなさい」
「謝ることはないよ。君は、君が望む人生をゆけばいいんだから」
トリスタンは優しかった。
彼の優しさに、何度も救われてきた。
「僕はマレイちゃんに幸せになってほしい」
そして今も、私は、その優しさに救われている。
切なげに伏せられた青を見ると胸が痛くなるけれど、トリスタンが私の選んだ人生を受け入れようとしてくれていることは、純粋に嬉しく思う。
「だから、謝らなくていいよ」
「……ありがとう」
今は、躊躇いなく、感謝を述べることができた。
トリスタンが温かく受け止めてくれたからだ。
「さ! カレー食べよっか!」
私とトリスタンの会話が一段落する時を見計らっていたのか、言葉が途切れるなりフランシスカが言った。彼女らしい、はつらつとした声色だ。
「そうだな。美味しそうなカレーだ」
「いっただっきまーすっ!!」
グレイブとフランシスカがそれぞれ述べていた。
私は、スプーンに山盛りになるくらいがっつりすくったカレーを、一気に口に含む。重い気分を振り払うかのように。
濃厚な汁と甘みのあるご飯が、絶妙の組み合わせだ。にゅるりととろける玉ねぎ、ほくっとしたジャガイモ、そして柔らかくてほろりと崩れる肉。
ゼーレのカレーは美味だった。
「へぇー、案外美味しいね……って、マレイちゃん!?」
「え?」
フランシスカは私の皿を見て、何やら驚いている。
「食べるの早くないっ!?」
「そう?」
まだ半分くらい食べただけなのだが……。
「早いよ! 早すぎだよっ!」
なぜ、と思ったが、周囲の皿を見て納得した。確かに、みんなはまだ半分も食べていない。ということは、フランシスカが言う通り、私は食べるのが早いのだろう。
だがそれは、私が食い意地が張っているからではない。カレーが美味しすぎたのが原因だ。
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