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episode.95 君だけじゃなくて
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トリスタンは私の背に回した腕を離さない。
これまでにも抱き締められることはあった。だから、彼に抱き締められること自体は、さほど驚くことではない。
しかし、彼の様子は、これまで抱き締められた時とは違っていた。
「許してくれとは言わない。でも、本当にごめん」
「ちょっと、トリスタン?」
「あの夜、僕がもう少し早く着いていたなら、マレイちゃんが一人になることはなかったんだよね。失うことも傷つくことも知らず、幸せに生きられたかもしれなかったのに……」
トリスタンは謝り続ける。
謝ることではないのに、と私は内心思った。
あの夜、彼が間に合わなかったのは、色々な事情が絡んでのことだろう。トリスタンのせいではない。
それに。そもそも、彼が私の村を絶対に護らねばならないといった契約は、交わされていなかったはずだ。
私が助けてもらえたこと——それだけでも、十分奇跡なのである。
「あ、あの、トリスタン……謝らなくちゃならないのは、私の方よ」
すべてが失われたあの夜、トリスタンが助けに来てくれたから、私はこうして生きられている。私が今、こうやって話したり動いたりできているのは、彼のおかげだ。
だから、先の無礼はちゃんと謝らなくては。
「さっきは酷いことを言ってしまって、ごめんなさい」
勇気を出して、謝罪の言葉を述べた。
「トリスタンは何も悪くないのに、感情的になって当たり散らすなんて、最低よね」
するとトリスタンは、私を抱き締めた体勢のままで返してくれる。
「ううん。最低じゃないよ」
彼は迷いのない調子で言うと、数秒間を空けてから、腕の力を緩めた。密着していた体が、ようやく離れる。
それから、彼は二三歩下がった。
トリスタンの整った顔には、穏やかさの感じられる表情が浮かんでいる。
「最低なんかじゃない。マレイちゃんはいつだって最高だよ!」
……へ?
今の心境を素直に表現すると、「え、ちょ、何?」といった感じである。突如飛び出した予想外の発言に、脳がついていかない。
「可愛いし、謙虚だし、思いやりがあるし、可愛いし、非も認めるし、優しいし、温かいし、可愛い。だから、マレイちゃんは最低なんかじゃないよ」
トリスタンの海底のように青い双眸は、穢れのない輝きを放ちながら、こちらをじっと見つめていた。
それにしても、これほど褒め言葉をかけられ続けるというのは、どうも少し違和感がある。
胸の奥に湧くのは、嬉しいような恥ずかしいような複雑な感情。だがそれだけでもない。というのも、どこか他人事のような感じがする、という部分が結構大きいのだ。
「トリスタン……ありがとう。でも、無理矢理褒めようとしてはくれなくて大丈夫よ。最低なんかじゃない、だけで十分嬉しいわ」
すると、トリスタンは眉をひそめる。
「え。無理矢理褒めようとなんて、していないよ。僕は本心を言っているだけなんだけど、ちょっと伝わりにくかったかな?」
珍妙な動物を発見した人のような顔だ。
私の発言は、そんなに謎に満ちたものだったのだろうか。私としては、いたって普通のことを言っただけのつもりなのだが。
「じゃあ改めて言うね。さっき言ったことは、全部僕の本心だよ」
「本当? それはちょっと、おかしいと思うわ」
私がそう言うと、トリスタンは困ったように苦笑する。リラックスしていることが伝わってくる笑い方だ。
「そういうもの? べつにおかしくはないと思うけど」
「変よ。だって私は、可愛くなんてないし、謙虚でもないわ。それに、思いやりだって、評価してもらえるほどないわよ」
トリスタンは少し黙った。
そして、十数秒ほど経過してから、口を開く。
「マレイちゃんは少し、自己評価が低すぎると思うな」
そうだろうか。
私はそうは思わない。
個人的には、私の自己評価が低すぎるのではなく、トリスタンが高く評価しすぎているだけなのでは、と思う。もちろん、低い評価をされるよりかはずっと良いのだが。
「もっと自信を持っていいと思うよ」
柔らかな顔つきのトリスタンから放たれる言葉。それは、春の木漏れ日のように優しい。木々の隙間から差し込む太陽光のように、しっとりと心へ沁み込んでくる。
「……ありがとう」
なんとなく気恥ずかしくて、彼の顔を真っ直ぐに見ることはできない。
ただ、感謝の気持ちを伝えたい、という思いは、この胸にしっかりと存在している。それだけは確かだ。風に煽られふっと消えるような、曖昧な存在の仕方ではない。
「私が貴方に返せるものはないけれど、その、心から感謝しているわ」
文章にして口から出してしまうと、薄っぺらいものになってしまわないか不安ではある。
だが、胸の内にしまい込んでおくだけでは、相手には伝わらない。だから私は、こうして口から出してみたのである。
たとえ薄っぺらい言葉と認識されたとしても、黙っていて一切伝わらないままという状態に比べれば何十倍もましだと、私は思う。
「ありがとう、トリスタン」
勇気を出して、そう告げた。
すると彼は、ガシッと手を掴んでくる。
「こちらこそありがとう。これからも僕はずっと君の傍にいるから」
私の手より一回りほど大きなトリスタンの手。いかにも男、といったごつごつ感はないけれど、それでも頼もしさは感じられた。
すっと伸びる指と、女性に比べれば筋張ったラインのギャップが、握る者の心を惹きつける。トリスタンは、そんな、不思議な魅力のある手をしている。
「もしマレイちゃんが望むのなら、君だけじゃなくてゼーレも護るよ」
「えっ?」
「マレイちゃんがもう二度と何も失わずに済むように、僕も頑張る。君の心を護るためなら、化け物とだってボスとだって、いくらでも戦うから」
トリスタンがふっと笑みをこぼすと、彼の絹糸のような金の髪はさらりと揺れた。幻想的だ。
「でも、怪我は? 足首とか痛めていたんじゃ……」
「そんなのは気にしない。完治してはいなくても、戦えないわけじゃないから。できる限り戦うよ」
なぜ彼はこうも親切なのだろう、と密かに思った。
「だから、安心してね」
そう言って、トリスタンは笑う。
彼の浮世離れしてしまうほどに美しい顔立ちを見るのは、何だか、久しぶりな気がした。
これまでにも抱き締められることはあった。だから、彼に抱き締められること自体は、さほど驚くことではない。
しかし、彼の様子は、これまで抱き締められた時とは違っていた。
「許してくれとは言わない。でも、本当にごめん」
「ちょっと、トリスタン?」
「あの夜、僕がもう少し早く着いていたなら、マレイちゃんが一人になることはなかったんだよね。失うことも傷つくことも知らず、幸せに生きられたかもしれなかったのに……」
トリスタンは謝り続ける。
謝ることではないのに、と私は内心思った。
あの夜、彼が間に合わなかったのは、色々な事情が絡んでのことだろう。トリスタンのせいではない。
それに。そもそも、彼が私の村を絶対に護らねばならないといった契約は、交わされていなかったはずだ。
私が助けてもらえたこと——それだけでも、十分奇跡なのである。
「あ、あの、トリスタン……謝らなくちゃならないのは、私の方よ」
すべてが失われたあの夜、トリスタンが助けに来てくれたから、私はこうして生きられている。私が今、こうやって話したり動いたりできているのは、彼のおかげだ。
だから、先の無礼はちゃんと謝らなくては。
「さっきは酷いことを言ってしまって、ごめんなさい」
勇気を出して、謝罪の言葉を述べた。
「トリスタンは何も悪くないのに、感情的になって当たり散らすなんて、最低よね」
するとトリスタンは、私を抱き締めた体勢のままで返してくれる。
「ううん。最低じゃないよ」
彼は迷いのない調子で言うと、数秒間を空けてから、腕の力を緩めた。密着していた体が、ようやく離れる。
それから、彼は二三歩下がった。
トリスタンの整った顔には、穏やかさの感じられる表情が浮かんでいる。
「最低なんかじゃない。マレイちゃんはいつだって最高だよ!」
……へ?
今の心境を素直に表現すると、「え、ちょ、何?」といった感じである。突如飛び出した予想外の発言に、脳がついていかない。
「可愛いし、謙虚だし、思いやりがあるし、可愛いし、非も認めるし、優しいし、温かいし、可愛い。だから、マレイちゃんは最低なんかじゃないよ」
トリスタンの海底のように青い双眸は、穢れのない輝きを放ちながら、こちらをじっと見つめていた。
それにしても、これほど褒め言葉をかけられ続けるというのは、どうも少し違和感がある。
胸の奥に湧くのは、嬉しいような恥ずかしいような複雑な感情。だがそれだけでもない。というのも、どこか他人事のような感じがする、という部分が結構大きいのだ。
「トリスタン……ありがとう。でも、無理矢理褒めようとしてはくれなくて大丈夫よ。最低なんかじゃない、だけで十分嬉しいわ」
すると、トリスタンは眉をひそめる。
「え。無理矢理褒めようとなんて、していないよ。僕は本心を言っているだけなんだけど、ちょっと伝わりにくかったかな?」
珍妙な動物を発見した人のような顔だ。
私の発言は、そんなに謎に満ちたものだったのだろうか。私としては、いたって普通のことを言っただけのつもりなのだが。
「じゃあ改めて言うね。さっき言ったことは、全部僕の本心だよ」
「本当? それはちょっと、おかしいと思うわ」
私がそう言うと、トリスタンは困ったように苦笑する。リラックスしていることが伝わってくる笑い方だ。
「そういうもの? べつにおかしくはないと思うけど」
「変よ。だって私は、可愛くなんてないし、謙虚でもないわ。それに、思いやりだって、評価してもらえるほどないわよ」
トリスタンは少し黙った。
そして、十数秒ほど経過してから、口を開く。
「マレイちゃんは少し、自己評価が低すぎると思うな」
そうだろうか。
私はそうは思わない。
個人的には、私の自己評価が低すぎるのではなく、トリスタンが高く評価しすぎているだけなのでは、と思う。もちろん、低い評価をされるよりかはずっと良いのだが。
「もっと自信を持っていいと思うよ」
柔らかな顔つきのトリスタンから放たれる言葉。それは、春の木漏れ日のように優しい。木々の隙間から差し込む太陽光のように、しっとりと心へ沁み込んでくる。
「……ありがとう」
なんとなく気恥ずかしくて、彼の顔を真っ直ぐに見ることはできない。
ただ、感謝の気持ちを伝えたい、という思いは、この胸にしっかりと存在している。それだけは確かだ。風に煽られふっと消えるような、曖昧な存在の仕方ではない。
「私が貴方に返せるものはないけれど、その、心から感謝しているわ」
文章にして口から出してしまうと、薄っぺらいものになってしまわないか不安ではある。
だが、胸の内にしまい込んでおくだけでは、相手には伝わらない。だから私は、こうして口から出してみたのである。
たとえ薄っぺらい言葉と認識されたとしても、黙っていて一切伝わらないままという状態に比べれば何十倍もましだと、私は思う。
「ありがとう、トリスタン」
勇気を出して、そう告げた。
すると彼は、ガシッと手を掴んでくる。
「こちらこそありがとう。これからも僕はずっと君の傍にいるから」
私の手より一回りほど大きなトリスタンの手。いかにも男、といったごつごつ感はないけれど、それでも頼もしさは感じられた。
すっと伸びる指と、女性に比べれば筋張ったラインのギャップが、握る者の心を惹きつける。トリスタンは、そんな、不思議な魅力のある手をしている。
「もしマレイちゃんが望むのなら、君だけじゃなくてゼーレも護るよ」
「えっ?」
「マレイちゃんがもう二度と何も失わずに済むように、僕も頑張る。君の心を護るためなら、化け物とだってボスとだって、いくらでも戦うから」
トリスタンがふっと笑みをこぼすと、彼の絹糸のような金の髪はさらりと揺れた。幻想的だ。
「でも、怪我は? 足首とか痛めていたんじゃ……」
「そんなのは気にしない。完治してはいなくても、戦えないわけじゃないから。できる限り戦うよ」
なぜ彼はこうも親切なのだろう、と密かに思った。
「だから、安心してね」
そう言って、トリスタンは笑う。
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