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episode.74 それでも思う
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自身を責めるな、なんてゼーレらしくない。
ひねくれた性格の彼のことだから、「貴女のせいですよ」くらい言いそうなものなのに。
「らしくないわよ、ゼーレ。そんなこと言うなんて」
「そう……ですかねぇ」
「貴方が嫌みじゃないことを言うと、何だか不安になるわ」
何げに結構失礼なことを言ってしまっている気がするが、これはまぎれもない事実なのだ。
初めて出会った日から、つい最近まで、彼はいつだって嫌みを言っていた。どんな状況下であっても、彼の口がたどり着くのは、人を馬鹿にするような言葉。どうしようもないくらい、そうだった。
だから、嫌みのない発言をしている彼を見ると、不思議な感じがするのだ。良くないことの前兆、といった感じすらする。
「マレイちゃん。多分ゼーレは、嫌みを言う元気すらないんだよ」
一人不安になっていた私に、話しかけてきたのはトリスタン。
端整な顔立ちと、そこに浮かぶ曇りのない笑みが、極めて印象的だ。
「そうなの?」
「うん、多分ね。結構なダメージを受けているみたいだったし」
「そっか……」
トリスタンが教えてくれたおかげで、ゼーレが嫌みを言わない理由が分かった。それは良かった。だが、嫌みを言う元気すらない、というのは問題だ。そんなに弱っているのなら、放ってはおけない。
悶々としていると、唐突にトリスタンが質問してくる。
「誰がゼーレにこんなことを? あのカニ型? それともリュビエ?」
「ボスよ」
するとトリスタンは目を見開いた。中央に位置する青い瞳は震えている。
「ボスってあの、赤い髪の?」
「そうよ……って、どうして知っているの? 見ていたから?」
「捕らわれていた時に、一度だけ会ったからだよ」
それを聞き、その発想はなかった、と感心した。いや、感心している場合ではないのだが。
「そうだったの!」
「うん。まぁ、会ったと言っても、ほんの少しだけなんだけどね」
「何か言っていた?」
少しでも何か情報があるかと、軽く尋ねてみる。
しかしトリスタンは首を左右に動かすだけだった。
「ううん。情報は何も聞き出せなかった」
「そう……」
トリスタンが得た情報を隠すということはないだろうから、本当に何も聞けなかったのだろう。一つか二つくらいは何か聞けたものかと思っていただけに、残念な気分だ。だが、仕方がない。
その時、しばらく眠りに落ちていたゼーレが、もぞもぞと動き始めた。
すぐに顔をそちらへ向ける。すると彼の翡翠色の瞳と目が合った。
仮面が割れたことで目と目が合いやすくなったのはいいが、彼と目が合うことにまだ慣れないので、変に緊張してしまう。トリスタンと、ならだいぶ慣れたのだが。
「そうだ。ゼーレ、その仮面、もう外せば?」
私は思いつきで提案してみた。
どのみちもう仮面を装着する必要はないだろうから、と。
しかしゼーレは首を横に動かす。
「それは……お断りします」
「どうしてよ。もう要らないでしょう」
それでもゼーレは頷きはしなかった。
「人前で表情を晒すなど……恥を晒すも同然ですからねぇ」
なぜそんなことを思うのだろう、と、不思議で仕方がない。
表情を晒すことが恥を晒すことと同義であるのなら、私を含む誰もが、仮面か何かで顔を隠しているはずではないか。しかし実際のところ、顔を隠している者などほとんどいない。それが、表情を晒すことと恥を晒すことが同義ではない、という証拠だ。
ただ、ゼーレは心からそう思っている様子。
ということは、もしかしたら、育ってきた環境による影響かもしれない。
「誰にそんなことを教えられたの?」
私はゼーレに直接聞いてみることにした。本人に尋ねるのが一番早いと思ったからだ。
すると彼は、静かな声色で答える。
「……感情は無駄だと、そう私に教えたのはボスです」
そう話すゼーレの翡翠のような瞳は、どこか悲しげな色を湛えている。
「ただ、問題はそれ以前に……私が感情を持っていたこと……」
「違う!」
私は思わず声をあげていた。周囲が驚くような大きな声を。
「あ……ごめんなさい。でも、違うわ、ゼーレ」
周囲は彼が感情を持つことを責めたかもしれない。
環境は彼が感情を持つことを否定したかもしれない。
だが、それは違う。
「いいのよ、泣いたって笑ったって。それが他人に見えたって、何の問題もないの」
「……はぁ」
彼はこれまで多くのものに否定されてきたのだろう。
それゆえにこれほどひねくれたのだと、私は思う。
しかし、だからこそ、私は彼を肯定してあげたい。すぐにすべてを理解して肯定することはできずとも、少しずつでも近付けるように、そっと寄り添っていたいと思う。
「だから仮面を外して。貴方はもう、本当の貴方を見せていいの」
トリスタンは口出ししないで見守っていてくれた。ありがたいことだ。
「ね?」
私はゼーレの瞳をじっと見つめた。
思いが届くように、と。
暫し沈黙があった。
海のように深く、森のように静かな、そんな沈黙が。
ゼーレは私の顔に視線を向けている。眠っているわけではない様子だ。なのに何も言わない。それがよく分からなくて、この胸の奥に潜む不安を掻き立てる。怒らせてしまったのだろうか、などと余計なことを考えてしまう。
不安に駆られた私は、つい、彼から視線を逸らしてしまった。
怒らせただろうか。あるいは、傷つけただろうか。関係が壊れてしまったらどうしよう。そんな感情ばかりが込み上げてくる。
気になるなら聞けばいいじゃないか、と思われるかもしれない。だが、それはそれでできないのだ。尋ねようと思っても、「それによって余計に嫌われたら」と考えてしまうのである。
なんだかんだで、私は何も発することができずにいた。
やがて。
長い長い沈黙の果て、ゼーレはようやく口を開く。
「……ありがとう、ございます。ただ、私には……無理ですねぇ」
ゼーレは言いにくそうに、一言一言、紡いでいく。
「人はそれほど……すぐには変わりません」
最後まで言い切った後、彼はこれまでで一番切ない笑顔を作った。
それはまるで、世界の終焉の直前に見る、束の間の夢のようだ。儚さで作られたガラス細工のような、見る者まで切なくさせる表情である。
ただ、その何とも言えない表情は、ゼーレが変わったということを証明していた。
あの夜私からすべてを奪い、恐ろしい記憶を植え付けた男。彼はもう、この世界にはいない。私は今、迷いなくそう思う。
そんなことを言えば、あの夜犠牲となった者たちに、厳しく叱られるかもしれない。「許すのか!」と詰め寄られるかもしれない。
だがそれでも私は思う。
今この瞬間を生きるゼーレは、あの夜のゼーレではないのだと。
ひねくれた性格の彼のことだから、「貴女のせいですよ」くらい言いそうなものなのに。
「らしくないわよ、ゼーレ。そんなこと言うなんて」
「そう……ですかねぇ」
「貴方が嫌みじゃないことを言うと、何だか不安になるわ」
何げに結構失礼なことを言ってしまっている気がするが、これはまぎれもない事実なのだ。
初めて出会った日から、つい最近まで、彼はいつだって嫌みを言っていた。どんな状況下であっても、彼の口がたどり着くのは、人を馬鹿にするような言葉。どうしようもないくらい、そうだった。
だから、嫌みのない発言をしている彼を見ると、不思議な感じがするのだ。良くないことの前兆、といった感じすらする。
「マレイちゃん。多分ゼーレは、嫌みを言う元気すらないんだよ」
一人不安になっていた私に、話しかけてきたのはトリスタン。
端整な顔立ちと、そこに浮かぶ曇りのない笑みが、極めて印象的だ。
「そうなの?」
「うん、多分ね。結構なダメージを受けているみたいだったし」
「そっか……」
トリスタンが教えてくれたおかげで、ゼーレが嫌みを言わない理由が分かった。それは良かった。だが、嫌みを言う元気すらない、というのは問題だ。そんなに弱っているのなら、放ってはおけない。
悶々としていると、唐突にトリスタンが質問してくる。
「誰がゼーレにこんなことを? あのカニ型? それともリュビエ?」
「ボスよ」
するとトリスタンは目を見開いた。中央に位置する青い瞳は震えている。
「ボスってあの、赤い髪の?」
「そうよ……って、どうして知っているの? 見ていたから?」
「捕らわれていた時に、一度だけ会ったからだよ」
それを聞き、その発想はなかった、と感心した。いや、感心している場合ではないのだが。
「そうだったの!」
「うん。まぁ、会ったと言っても、ほんの少しだけなんだけどね」
「何か言っていた?」
少しでも何か情報があるかと、軽く尋ねてみる。
しかしトリスタンは首を左右に動かすだけだった。
「ううん。情報は何も聞き出せなかった」
「そう……」
トリスタンが得た情報を隠すということはないだろうから、本当に何も聞けなかったのだろう。一つか二つくらいは何か聞けたものかと思っていただけに、残念な気分だ。だが、仕方がない。
その時、しばらく眠りに落ちていたゼーレが、もぞもぞと動き始めた。
すぐに顔をそちらへ向ける。すると彼の翡翠色の瞳と目が合った。
仮面が割れたことで目と目が合いやすくなったのはいいが、彼と目が合うことにまだ慣れないので、変に緊張してしまう。トリスタンと、ならだいぶ慣れたのだが。
「そうだ。ゼーレ、その仮面、もう外せば?」
私は思いつきで提案してみた。
どのみちもう仮面を装着する必要はないだろうから、と。
しかしゼーレは首を横に動かす。
「それは……お断りします」
「どうしてよ。もう要らないでしょう」
それでもゼーレは頷きはしなかった。
「人前で表情を晒すなど……恥を晒すも同然ですからねぇ」
なぜそんなことを思うのだろう、と、不思議で仕方がない。
表情を晒すことが恥を晒すことと同義であるのなら、私を含む誰もが、仮面か何かで顔を隠しているはずではないか。しかし実際のところ、顔を隠している者などほとんどいない。それが、表情を晒すことと恥を晒すことが同義ではない、という証拠だ。
ただ、ゼーレは心からそう思っている様子。
ということは、もしかしたら、育ってきた環境による影響かもしれない。
「誰にそんなことを教えられたの?」
私はゼーレに直接聞いてみることにした。本人に尋ねるのが一番早いと思ったからだ。
すると彼は、静かな声色で答える。
「……感情は無駄だと、そう私に教えたのはボスです」
そう話すゼーレの翡翠のような瞳は、どこか悲しげな色を湛えている。
「ただ、問題はそれ以前に……私が感情を持っていたこと……」
「違う!」
私は思わず声をあげていた。周囲が驚くような大きな声を。
「あ……ごめんなさい。でも、違うわ、ゼーレ」
周囲は彼が感情を持つことを責めたかもしれない。
環境は彼が感情を持つことを否定したかもしれない。
だが、それは違う。
「いいのよ、泣いたって笑ったって。それが他人に見えたって、何の問題もないの」
「……はぁ」
彼はこれまで多くのものに否定されてきたのだろう。
それゆえにこれほどひねくれたのだと、私は思う。
しかし、だからこそ、私は彼を肯定してあげたい。すぐにすべてを理解して肯定することはできずとも、少しずつでも近付けるように、そっと寄り添っていたいと思う。
「だから仮面を外して。貴方はもう、本当の貴方を見せていいの」
トリスタンは口出ししないで見守っていてくれた。ありがたいことだ。
「ね?」
私はゼーレの瞳をじっと見つめた。
思いが届くように、と。
暫し沈黙があった。
海のように深く、森のように静かな、そんな沈黙が。
ゼーレは私の顔に視線を向けている。眠っているわけではない様子だ。なのに何も言わない。それがよく分からなくて、この胸の奥に潜む不安を掻き立てる。怒らせてしまったのだろうか、などと余計なことを考えてしまう。
不安に駆られた私は、つい、彼から視線を逸らしてしまった。
怒らせただろうか。あるいは、傷つけただろうか。関係が壊れてしまったらどうしよう。そんな感情ばかりが込み上げてくる。
気になるなら聞けばいいじゃないか、と思われるかもしれない。だが、それはそれでできないのだ。尋ねようと思っても、「それによって余計に嫌われたら」と考えてしまうのである。
なんだかんだで、私は何も発することができずにいた。
やがて。
長い長い沈黙の果て、ゼーレはようやく口を開く。
「……ありがとう、ございます。ただ、私には……無理ですねぇ」
ゼーレは言いにくそうに、一言一言、紡いでいく。
「人はそれほど……すぐには変わりません」
最後まで言い切った後、彼はこれまでで一番切ない笑顔を作った。
それはまるで、世界の終焉の直前に見る、束の間の夢のようだ。儚さで作られたガラス細工のような、見る者まで切なくさせる表情である。
ただ、その何とも言えない表情は、ゼーレが変わったということを証明していた。
あの夜私からすべてを奪い、恐ろしい記憶を植え付けた男。彼はもう、この世界にはいない。私は今、迷いなくそう思う。
そんなことを言えば、あの夜犠牲となった者たちに、厳しく叱られるかもしれない。「許すのか!」と詰め寄られるかもしれない。
だがそれでも私は思う。
今この瞬間を生きるゼーレは、あの夜のゼーレではないのだと。
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