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episode.28 夜はまだ明けず
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結局その夜は眠れなかった。
襲いくるたくさんの蛇、毒に倒れたトリスタン、一切躊躇いを見せなかったグレイブ。恐ろしいことばかりが脳裏に浮かぶからだ。
自室へ帰りはしたものの眠りにつけない私は、暗い室内で水を飲み、一夜を明かすこととなった。
口に含んだ水は、鉄の味がした。
早朝。
まだ早い時間に、誰かがドアをノックする音が聞こえた。私はぼんやりした状態で何とかそちらまで歩き、ドアを開ける。
「……トリスタン!?」
脳内に広がっていたもやのようなものは、一瞬にして吹き飛んだ。
なぜって、毒にやられたはずのトリスタンが立っていたから。
「ごめん。驚かせた?」
中性的な美しさの顔立ち、絹のように輝く長い金髪——その姿は、間違いなくトリスタンである。
しかし、彼はリュビエの蛇の毒によって気を失っていたはずだ。あれからまだ数時間しか経っていない。だから、まだ回復するとは思えないのだが。
「本当に……トリスタン?」
「うん。さっき目が覚めてね」
トリスタンは曇りのない笑みを浮かべながら言った。
その笑顔は、明らかにトリスタンのそれだった。ということはやはり、目の前にいる彼は本物なのだろう。
「目が覚めたなら良かったわ。でも、大丈夫なの?」
「大丈夫、って?」
「大丈夫、って? じゃないわよ! 毒にやられていたんでしょ? もう症状はないの?」
尋ねると、彼は頷く。
「あぁ、そういうこと。それなら大丈夫だよ。救護班の人たちはまだ動くなって言うけど、あんなの余計なお世話だよね」
余計なお世話って……。
救護班の人がそう言っているなら、動かない方が良さそうな気がするのだが。
「動かないよう言われているのに来たの?」
「うん。もう平気だからさ」
「そう。それならいいけど」
もしここで私が「帰って休め」と言ったとしても、彼は頷きはしないだろう。トリスタンとはそういう人間だ。だから、敢えて言うことはしなかった。
トリスタンは話を変える。
「マレイちゃんは大丈夫だった? あの蛇女に何かされなかった?」
「えぇ、何もされていないわ。リュビエは、後から来たゼーレと口喧嘩になって、先に帰っていったの」
私が簡潔に説明すると、彼は安堵したように息を漏らし「そっか」と呟いた。それと同時に頬が緩む。心からほっとしたような表情である。彼は彼なりに心配してくれていたようだ。
それから数秒して、トリスタンは再び険しい顔つきになる。
「で、ゼーレには何かされたの?」
やはりそちらも気になるようだ。
「いいえ。彼は乱暴なことは何もしてこなかったわ。ただ、少しだけ話をしたの」
「話を?」
「えぇ。ボスとかいう者の目的について話したわ」
するとトリスタンは、大きく目を見開く。深海のような青の瞳が震えていた。
「そんなことを話したの? あいつが?」
「そうよ。質問したら答えてくれたの。確か……ボスの目的は『レヴィアス帝国を亡き国とし、土地を己のものとすること』って、そう言っていたわ」
「普通、自分たちの長の目的を口外するかな。聞かれたって答えないのが普通だよね」
トリスタンは冷静そのものだった。
ボスの目的を聞いて取り乱し、ゼーレへ当り散らした私とは、大違いである。
「変だとは思うわ。でも、嘘をついているようには見えなかった」
私は彼の瞳を真っ直ぐに見据えて返す。
敵であるゼーレを完全に信頼するわけではない。ただ、その言葉が嘘であるようには聞こえなかった。それに、そもそもそんな嘘をつく必要性がない。
「だとしたら……いや、それはないか」
「トリスタン?」
「ゼーレはあっちを……」
「トリスタン、どうしたの?」
独り言を漏らしていた彼は、その時になって、意識をこちらへ戻す。
「あっ、ごめん。何でもないよ」
ごまかすように苦笑するトリスタン。
これ以上聞かない方が良さそうなので、私は話を変えることにした。
「そうだ! そういえば、グレイブさんって凄く強いのね!」
結構な実力を持つゼーレとすら互角に戦い、ついには勝利を収めたグレイブ。彼女の華麗な槍さばきは、女性という枠を遥かに超えていると思う。
速度も迫力も、他の男性隊員らを凌駕していたもの。
「彼女の戦いを見たの?」
「えぇ。ゼーレと戦うところを」
いつもは静かで大人びた彼女の、勇ましく激しい声をあげる姿。あれはかなりの迫力だった。近くで見ているだけの私ですら怯んだほどである。
「凄かったわ。女の人とは思えないくらいの強さで、驚いてばかりだった。もしかしたら、トリスタンと同じくらい強いんじゃない?」
「グレイブさんの方が強いよ」
「そう? トリスタンだってかなり強いじゃない」
しかし彼は、首を左右に動かした。
彼は自分がグレイブより強いとは、微塵も考えていないようだ。
「グレイブさん、そんなに強いのね」
「そうだね。彼女の槍は部隊の主力だよ」
言ってから、彼は一度まぶたを閉じた。
そして、数秒後に目を開く。
青く輝く瞳は私の顔が映るほど澄んでいる。磨かれた鏡みたいだ。まるで、彼の無垢な心を映し出しているかのようである。
「それに、彼女の化け物への憎しみは凄まじい」
トリスタンは唐突にそんなことを言った。
「尋常でない憎しみの感情が、グレイブさんをさらに強くしているんだ」
どう返すか少し迷う。しかし、私は、思ってもいないことを言えるほど器用でない。なので、正直な言葉を返すことに決めた。
「それは分かる気がするわ。ゼーレと会った時、人が変わったかのように叫んでいたもの」
少し間を空け、続ける。
「グレイブさんって、過去に化け物と何かあったの?」
あの明るいフランシスカでさえ、以前何かあったかのような、暗い顔をしていたことがあったのだ。グレイブにも何かがあったとしてもおかしくはない。
帝国に化け物が現れるようになって、もはや、約十年が過ぎている。その間に出た犠牲者の数は、到底数えられないくらいの数だ。
だから、そこにグレイブの関係者がいるということは、十分考えられる。
「家族とか、友人とか、大切な人を失ったとか……」
するとトリスタンは口を開く。
「……二度」
首を傾げていると、彼は淡々と続ける。
「一度目は、まだ彼女が十代だった頃。勤めていた店に化け物が押し入り、客も店員も、まとめて惨殺されたらしい。それも、彼女の目の前でね。二度目は、数か月前。地方へ遠征に出ていた所属部隊が彼女だけを残して全滅」
私は何も言えなかった。今述べるに相応しい言葉を見つけられなかったのだ。
トリスタンから聞くグレイブの過去。その残酷さは、私の想像をずっと上回っていた。
しかし、その痛みは想像がつく。もっとも、ほんの一部にすぎないかもしれないが。
母親一人が目の前で灰になった——それだけでも、私はいまだに悪夢を見る。どんなに忙しくても、時折思い出す。もう八年も経ったというのに、今でも鮮明に思い出せ、赤い記憶はこの脳から消えてくれない。
「……そんな、ことって」
一人失っただけでもこれだ。
目の前で誰かが殺されるというのは、それだけ、見た者にも大きな傷を残す。
「だからグレイブさんは……あんなに」
今はただ、胸が痛い。
そして、改めて思い知らされた。
——この世界に、夜明けはまだ来ていないのだと。
襲いくるたくさんの蛇、毒に倒れたトリスタン、一切躊躇いを見せなかったグレイブ。恐ろしいことばかりが脳裏に浮かぶからだ。
自室へ帰りはしたものの眠りにつけない私は、暗い室内で水を飲み、一夜を明かすこととなった。
口に含んだ水は、鉄の味がした。
早朝。
まだ早い時間に、誰かがドアをノックする音が聞こえた。私はぼんやりした状態で何とかそちらまで歩き、ドアを開ける。
「……トリスタン!?」
脳内に広がっていたもやのようなものは、一瞬にして吹き飛んだ。
なぜって、毒にやられたはずのトリスタンが立っていたから。
「ごめん。驚かせた?」
中性的な美しさの顔立ち、絹のように輝く長い金髪——その姿は、間違いなくトリスタンである。
しかし、彼はリュビエの蛇の毒によって気を失っていたはずだ。あれからまだ数時間しか経っていない。だから、まだ回復するとは思えないのだが。
「本当に……トリスタン?」
「うん。さっき目が覚めてね」
トリスタンは曇りのない笑みを浮かべながら言った。
その笑顔は、明らかにトリスタンのそれだった。ということはやはり、目の前にいる彼は本物なのだろう。
「目が覚めたなら良かったわ。でも、大丈夫なの?」
「大丈夫、って?」
「大丈夫、って? じゃないわよ! 毒にやられていたんでしょ? もう症状はないの?」
尋ねると、彼は頷く。
「あぁ、そういうこと。それなら大丈夫だよ。救護班の人たちはまだ動くなって言うけど、あんなの余計なお世話だよね」
余計なお世話って……。
救護班の人がそう言っているなら、動かない方が良さそうな気がするのだが。
「動かないよう言われているのに来たの?」
「うん。もう平気だからさ」
「そう。それならいいけど」
もしここで私が「帰って休め」と言ったとしても、彼は頷きはしないだろう。トリスタンとはそういう人間だ。だから、敢えて言うことはしなかった。
トリスタンは話を変える。
「マレイちゃんは大丈夫だった? あの蛇女に何かされなかった?」
「えぇ、何もされていないわ。リュビエは、後から来たゼーレと口喧嘩になって、先に帰っていったの」
私が簡潔に説明すると、彼は安堵したように息を漏らし「そっか」と呟いた。それと同時に頬が緩む。心からほっとしたような表情である。彼は彼なりに心配してくれていたようだ。
それから数秒して、トリスタンは再び険しい顔つきになる。
「で、ゼーレには何かされたの?」
やはりそちらも気になるようだ。
「いいえ。彼は乱暴なことは何もしてこなかったわ。ただ、少しだけ話をしたの」
「話を?」
「えぇ。ボスとかいう者の目的について話したわ」
するとトリスタンは、大きく目を見開く。深海のような青の瞳が震えていた。
「そんなことを話したの? あいつが?」
「そうよ。質問したら答えてくれたの。確か……ボスの目的は『レヴィアス帝国を亡き国とし、土地を己のものとすること』って、そう言っていたわ」
「普通、自分たちの長の目的を口外するかな。聞かれたって答えないのが普通だよね」
トリスタンは冷静そのものだった。
ボスの目的を聞いて取り乱し、ゼーレへ当り散らした私とは、大違いである。
「変だとは思うわ。でも、嘘をついているようには見えなかった」
私は彼の瞳を真っ直ぐに見据えて返す。
敵であるゼーレを完全に信頼するわけではない。ただ、その言葉が嘘であるようには聞こえなかった。それに、そもそもそんな嘘をつく必要性がない。
「だとしたら……いや、それはないか」
「トリスタン?」
「ゼーレはあっちを……」
「トリスタン、どうしたの?」
独り言を漏らしていた彼は、その時になって、意識をこちらへ戻す。
「あっ、ごめん。何でもないよ」
ごまかすように苦笑するトリスタン。
これ以上聞かない方が良さそうなので、私は話を変えることにした。
「そうだ! そういえば、グレイブさんって凄く強いのね!」
結構な実力を持つゼーレとすら互角に戦い、ついには勝利を収めたグレイブ。彼女の華麗な槍さばきは、女性という枠を遥かに超えていると思う。
速度も迫力も、他の男性隊員らを凌駕していたもの。
「彼女の戦いを見たの?」
「えぇ。ゼーレと戦うところを」
いつもは静かで大人びた彼女の、勇ましく激しい声をあげる姿。あれはかなりの迫力だった。近くで見ているだけの私ですら怯んだほどである。
「凄かったわ。女の人とは思えないくらいの強さで、驚いてばかりだった。もしかしたら、トリスタンと同じくらい強いんじゃない?」
「グレイブさんの方が強いよ」
「そう? トリスタンだってかなり強いじゃない」
しかし彼は、首を左右に動かした。
彼は自分がグレイブより強いとは、微塵も考えていないようだ。
「グレイブさん、そんなに強いのね」
「そうだね。彼女の槍は部隊の主力だよ」
言ってから、彼は一度まぶたを閉じた。
そして、数秒後に目を開く。
青く輝く瞳は私の顔が映るほど澄んでいる。磨かれた鏡みたいだ。まるで、彼の無垢な心を映し出しているかのようである。
「それに、彼女の化け物への憎しみは凄まじい」
トリスタンは唐突にそんなことを言った。
「尋常でない憎しみの感情が、グレイブさんをさらに強くしているんだ」
どう返すか少し迷う。しかし、私は、思ってもいないことを言えるほど器用でない。なので、正直な言葉を返すことに決めた。
「それは分かる気がするわ。ゼーレと会った時、人が変わったかのように叫んでいたもの」
少し間を空け、続ける。
「グレイブさんって、過去に化け物と何かあったの?」
あの明るいフランシスカでさえ、以前何かあったかのような、暗い顔をしていたことがあったのだ。グレイブにも何かがあったとしてもおかしくはない。
帝国に化け物が現れるようになって、もはや、約十年が過ぎている。その間に出た犠牲者の数は、到底数えられないくらいの数だ。
だから、そこにグレイブの関係者がいるということは、十分考えられる。
「家族とか、友人とか、大切な人を失ったとか……」
するとトリスタンは口を開く。
「……二度」
首を傾げていると、彼は淡々と続ける。
「一度目は、まだ彼女が十代だった頃。勤めていた店に化け物が押し入り、客も店員も、まとめて惨殺されたらしい。それも、彼女の目の前でね。二度目は、数か月前。地方へ遠征に出ていた所属部隊が彼女だけを残して全滅」
私は何も言えなかった。今述べるに相応しい言葉を見つけられなかったのだ。
トリスタンから聞くグレイブの過去。その残酷さは、私の想像をずっと上回っていた。
しかし、その痛みは想像がつく。もっとも、ほんの一部にすぎないかもしれないが。
母親一人が目の前で灰になった——それだけでも、私はいまだに悪夢を見る。どんなに忙しくても、時折思い出す。もう八年も経ったというのに、今でも鮮明に思い出せ、赤い記憶はこの脳から消えてくれない。
「……そんな、ことって」
一人失っただけでもこれだ。
目の前で誰かが殺されるというのは、それだけ、見た者にも大きな傷を残す。
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