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episode.13「長い夜は終わり……」

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「ナスカはとってもいい子ね」
 母はいつも褒めてくれた。厳しく叱られたこともあったけれど、本当は心優しい母を、私は大好きだった。皆に囲まれてすごす幸せな日々を、私は当たり前だと思っていた。
 だけど、母は突然死んだ。最期を見送ることも、さよならを言うことすらできなかった。それは私に力が無かったから。私が無力だったから、母や父、リリーも守れなかったんだ。ヴェルナーだって、死んではいないけれど死んだも同然の状態になってしまった。もしかしたらもう一生、笑いあうことも話すこともできないかもしれない。あの大好きな笑顔は二度と見られないかもしれないのだ。
 エアハルトさんはとっても素敵な人。いつも私に優しくしてくれるし傍にいて守ってくれる。でも、それに甘えていてはいけない。このままでは、彼もいつか死んでしまう。
 ……私は一人で戦わなくてはならない。二度と大切な人を失わないために。
 またあんな目に会うのはもう……絶対に、嫌。


「おはよう、ナスカ」
 目をうっすらと開くとエアハルトの顔が大きく見えた。ナスカはしばしぼんやりしていた。状況が飲み込めない。何がどうなっていたのかを思い出そうと、脳をフル回転させる。
「大丈夫? 意識ある?」
 エアハルトが不安気に、ナスカの目の前で手のひらをひょいひょいと振る。
「エアハルトさん……」
 小さな声で言ってみると、彼はナスカの手を握った。とても温かな指。ごつごつとはせず滑らかだがしっかりとした強さを感じさせる指である。
「指が冷たい。もしかしてナスカ、冷え症?」
 その頃になったナスカはようやく思い出してきた。エアハルトを助けに行って、救出に成功して、帰ってきて喋っていて……この辺りまでしか覚えていない。その先の記憶は綺麗さっぱりなくなっている。
「私は……」
 ナスカが困っていると、エアハルトが尋ねる。
「どこまで記憶がある?」
「あ、えっと、外で喋っていた辺り……でしょうか」
 彼は親切に説明してくれる。
「あれっ、その辺から覚えてないの? えっとねー。一旦建物に帰ってきて治療をしてもらうことになったんだ。レディファーストとか何とかでナスカを先に手当てしてたけど、その頃だったかな? 急に気を失って、みんなびっくりだったよ。で、今に至るだね」
 ナスカは聞かされてもしっくりこなかった。何かを忘れている——そんな気がするのだ。
「そうでしたか……。ご丁寧にありがとうございます」
 言いながら上半身を起こし窓の外を見た時、ナスカは愕然とした。
「え、もう夜っ!?」
 驚きのあまり丁寧語も忘れるナスカ。
 エアハルトは不思議そうに、「そうだよ」と頷く。
「それがどうかしたの」
 ナスカは一気に飛び起きる。
「私、丸一日寝てるじゃないですか! こんなんじゃダメだわ。仕事……」
「いや、今日はもういいよ」
 慌てて立とうとするナスカをエアハルトは制止した。
「落ち着いて。もう夜だし、今日ぐらいは休みなよ」
 そう言うと、彼は透明な袋を差し出した。中には可愛らしく焼かれたクッキーが五枚くらい入れられている。星形のものやクロレア航空隊のシンボルマーク形のものがあった。「こんな複雑な形をどうやって焼いたのだろう」と不思議に思うくらいの精密なクッキーだ。
「これは、エアハルトさんがお作りになったのですか?」
「いやいや、違うよ。ヒムロさんが作ってくれたんだ。あ、心配しなくても、毒は入ってないよ。作るところ、ちゃんと監視してたから」
 袋はやや黒っぽい赤のリボンで結ばれていた。
「分かってます、あの人はそんなことをする人じゃない……。とても優しくて頼りになる人です。もういっそ、エアハルトさんがヒムロさんと結婚してくれればいいのに」
 するとエアハルトはギョッとした顔をした。
「いくらナスカの願いでもね。さすがにそれは勘弁してよ」
 ナスカはずっと忘れていた母や父のことを思い出す。ついさっき、珍しく夢で会ったからかもしれない。
「分かってます、わがまま言ってごめんなさい。諦めてはいるけど、つい期待してしまうの。ヒムロさんみたいなお母さんとエアハルトさんみたいなお父さんがいて、リリーとかも一緒に過ごせたなら、どんなに幸せかなぁって」
 あの日がなかったなら今も普通に過ごしていたのかな、なんて考えて、少し切なくなってしまう。
「あっ、何を言ってるんでしょう? ごめんなさい。湿っぽい話をして……それに、馴れ馴れしい発言をしちゃって……」
 ナスカが無理をして笑おうとしているのを察知したらしく、彼はそっと首を振って微笑む。
「無理して笑う必要は無いよ。今日だけは特別だから」
 彼の温かな指にそっと頭を撫でられるとナスカは少し恥ずかしかった。こんな感情になるのは初めてかもしれない。
「そうそう、ナスカ。お腹空いてない?」
 エアハルトが笑顔で聞く。
「ごめんなさい、あまり空いてません……」
 ナスカは何だか申し訳なくて小声で返した。
「そうだよね、ごめんごめん。気にしないで」
 エアハルトは立ち上がり、扉の方へ歩き出す。その背中に向かってナスカは言う。
「ごめんなさい!」
 突然頭を下げたのを見て、エアハルトは話が分からず驚いた顔をする。
「え?」
 彼は本当に意味が分かっていないらしい。
「ごめんなさい。私、まだ謝れてませんでしたよね」
 いきなりのナスカの言葉にエアハルトは戸惑いを隠せない様子だった。
「本当はもっと早く助けなくてはいけなかったのに。遅くなってしまって……エアハルトさんも危うく死んでしまうところでした。本当にごめんなさい」
 ナスカは深く頭を下げる。
「私の軽率な行動のせいでエアハルトさんを傷付けてしまって……何と言えば良いか……」
「いや、謝らないで。そんなの気にしていない。それに、もう済んだことだしさ」
 話が噛み合わない。
「言って下さい。お詫びに何でもしますから」
「大丈夫、気にしないで」
 エアハルトは引き返してナスカに近寄る。
「何でもします!」
 ナスカは真剣に言った。
「空爆でも、特攻でも……貴方が望むなら!」
 それを聞いたエアハルトは呆れ果てた。明らかに年頃の女の子の発想では無い。
「発想がシュール」
 やや腰を屈めてナスカに顔を近付けると笑顔を浮かべる。
「ありがとう。もういいよ」
 そしてエアハルトは再びナスカの頭を撫でる。
 ナスカは優しいその手に嬉しさを感じている自分に少しばかり疑問を持ったが、そんなことはどうでもよく感じられた。ひたすら幸せである。
 そんな時、ふと彼の首に目がいく。
「ん、どうかした?」
 よく見ると首の所々に紫っぽい痣ができている。
「あっ、いえ! 何でも!」
 突然慌てるナスカに対してエアハルトは静かに言う。
「遠慮せず言ってよ?」
 彼の視線が意外と厳しくて、ナスカはつい言ってしまう。
「えっと、お怪我は……もう大丈夫ですか? と聞きたくて」
 するとエアハルトは笑う。
「それを心配してくれてたの? ありがとう。でも、もうすっかり回復したよ」
 ナスカはそれを聞いて「嘘ばっかり」と思ったが、心配させまいと気を遣ってくれているのは分かった。その流れでエアハルトはガッツポーズをする。
「今までの分を取り戻す活躍をしなくちゃ。まあ任せてよ!」
 妙に威勢よく言うのが色んな意味で心配な感じだった。


 ……翌日の朝。
 ナスカが怪我の治療に医務室を訪ねて扉を開けようとした瞬間だった。
「いけません。まだ精密検査もできていないというのに、何を仰るのですか!」
 いつもは棒読みなベルデの、珍しく感情的な声が聞こえる。ナスカは本能的に壁に隠れ、そっと様子を伺う。
「戦闘に出ると言っているわけではない。練習で飛行をしたいと言っているだけだ」
 相変わらず厳しい口調で言い返すエアハルトの声が聞こえる。どうやら二人が話しているらしい。
「いい加減になさって下さい! 練習とはいえ飛行は身体に負担をかけるのです。今のお身体で可能だとお思いですか!?」
 ベルデはエアハルトの返事を待たず続ける。
「しばらくはお休みになって下さい。精密検査で目に見えないダメージが無いことを確認してから怪我の様子をみて、すべてはそれからです。今のままでは到底戦闘機になんか乗れませんよ」
 ナスカは息を殺して陰から二人の問答を見つめる。
 しばしし沈黙があり、やがてベルデがいつも通りの平淡なハスキーボイスを漏らす。
「期待に応えようと思ってられるはよく分かりますが、無理は禁物です。傷を受けているのは体だけではありませんし……心の傷は本当に恐ろしい。それは一番分かっていらっしゃるでしょう」
 エアハルトは何だか浮かない表情だ。いつもより暗い雰囲気が漂っている。
「まぁそれはそうだが、このままじっとしてはいられない」
 ナスカが壁越しにチラチラと中の様子を伺い見ていた、そんな時。
「あら、何してるの?」
 突然背後から女性の声が聞こえ、ナスカは飛び上がりそうになった。心臓がバクバク鳴る。恐る恐る振り返ると、そこにはヒムロが立っていた。
「ひ、ヒムロさん……」
 まだ心臓の拍動が加速を続けている。呼吸が荒れる。
「中に入らないの?」
 ヒムロは不思議そうな顔でナスカを見ていた。ナスカは苦笑して答える。
「あ、えっと……お話中みたいなので何だか入りづらくって」
「そういうこと。そんなの気にせず入れば良いのよ! 航空隊の仲間でしょーよ」
 ヒムロはいたずらに微笑んでナスカの腕を掴むと、遠慮なく医務室へツカツカと入っていく。いつものことながら、彼女の堂々としているところを、ナスカは尊敬した。
「おはよう、アードラーくん。彼女さんがお待ちよ」
 エアハルトは反射的に鋭い目付きでヒムロを睨む。
「彼女ではない」
「あらぁ、相変わらずだこと。やっぱりそこに反応するわよねぇ」
 ヒムロが楽しそうに冗談めかすのに対し、エアハルトは不快な顔をする。
「そのような発言はナスカに失礼だと思わないのか?」
 エアハルトの発言に対してベルデが意見する。
「それはないでしょう。クロレアの英雄であるアードラーさんと親しくできるなんて、クロレア人の至上の喜びですから!」
「いや、引かれるから止めて」
 エアハルトは呆れてベルデを黙らせ、それからヒムロに向かって強く述べる。
「とにかくこれ以上失礼な発言をしないように。今後こういうことが何度もあれば、それなりの処分をする」
 彼はすっかり怒ってしまっている。
「膨れているの? あらあら、可愛いわね。だけど、あたし何か悪いこと言ったかしら?」
 ヒムロは余計に挑発するようなことを言う。
「いつも失礼なんだ!」
「まぁまぁ、イライラするのはよしなさいよ。欲求不満はあたしが解消してあげるから」
 小悪魔な笑みを浮かべるヒムロとは対照的にエアハルトは疲れた表情になる。
「それは今ここで言うべきことか? 他の者もいるというのに」
 そんなことはまったく気にしないヒムロはエアハルトに擦り寄る。
「まぁいいじゃない~~? たまにはこういうのも!」
 ナスカはヒムロの大胆さにその場で硬直して立ち尽くす。そんなナスカに見せびらかすかのようにエアハルトに近寄り、しっとりと腕を絡める。
「どうしてそんなにナスカちゃんじゃなきゃダメなの? やっぱり……あたしには魅力を感じられない?」
 ヒムロは悲しそうな顔を作る。いや、完全な演技ではないのかもしれない。冗談で作っているにしてはリアルな表情だ。
「酷い男ね。収容所じゃ何でもしてくれたのに……」
 もはやこれは定番の流れだ。
「逆だ! 何もしていない! 勝手に捏造するな」
「意地悪ね。収容所では抱いてくれたのに」
 ヒムロは彼に顔を近付けながら、不満そうな声を漏らした。彼女の危ない発言をエアハルトは訂正する。
「意味深な言い方をするんじゃない。抱き締めた、と言え」
 ナスカは愕然として発する。
「抱き締めたのは抱き締めたのですか!?」
「そんなバカな!」
 ベルデも被せて突っ込んだ。
 ヒムロは驚く二人の様子をニヤニヤと見ている。
「本当……なのですか?」
 エアハルトはベルデの問いに頷いてからナスカに視線を向ける。ショックを受けた顔で固まっているナスカを目にして急激に悪い気がしてきたエアハルトは言う。
「ちょっとナスカ、そんな顔しないでよ。僕が考えもなくそんな愚行をすると思う?」
 数秒の沈黙の後、ナスカは青い顔を持ち上げて返す。
「あ、お……思いません」
「あら、ナスカちゃんショック受けちゃった? ごめんねぇ」
 ヒムロが少々調子に乗ってエアハルトの首にぶら下がるような体勢で抱き着こうとした刹那、エアハルトはヒムロを振りほどく。予想外の力で振り落とされたヒムロは地面に転倒して唖然としている。
「君、この女を連れていけ。リボソに返す」
 エアハルトは平淡な落ち着いた声でベルデに命じた。あまりの唐突さにさすがのベルデも戸惑いをみせる。エアハルトは続けてヒムロに視線を移す。
「い、いきなり何……ちょっと冗談言っただけじゃない……」
 ヒムロは強気な発言をしているが表情に余裕が無い。怒っているエアハルトの迫力に圧倒され、まるで小動物のように弱々しく怯えた顔をしている。
「リボソに戻り罪人となり、精々慰み者になるがいい」
 冷酷に言い放つと、ナスカに笑顔を向ける。
「そうだ、散歩でもどう?」
 行き過ぎた変化にナスカは怪訝な顔をする。いくらきつい冗談を言ったからといっても、彼女に対してここまで言う必要があるのか?とナスカは首を傾げる。ベルデもそれは同じだっただろう。
 エアハルトは穏やかに微笑み、ナスカに手を差し伸べる。
「少し時間あるし……」
 どうすれば良いのか分からずもたもたしていると、彼はガッとナスカの腕を掴んだ。
「行こう」
 とても優しく微笑む。
 だが……嬉しくなかった。いつもとは何かが違う。
 ナスカにはエアハルトの笑顔が、妙に悲しそうに見えたのだ。
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