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episode.9「不思議な女」

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 クロレアが提示したエアハルト解放交渉を、リボソ国は拒否するどころか無視し続けた。上はエアハルトが利用されるのを物凄く恐れていた。解放のための資金要求ならまだ良いが、悪質な宣伝に利用されたり寝返ったりした日には、軍の士気が急激な低下をしかねない。そんなことでやけに慎重になっているせいか進展が無く、それがナスカも含む航空隊員たちを苛立たせた。交渉はまったく進みそうにない。そのようなままの状況で時間だけが過ぎていく。
 そんなうちに1950年が訪れた。
 マリアムは精神を病み、以前とは打って変わってあまり喋らなくなった。毎日自室に引きこもって泣いてばかり。ろくに食事も取らず、日に日に痩せ細っていく。あまりの状態に黙って見ていられなくなったナスカは、仕事の合間をぬって、時折食事を作りに行ったりした。放っておくと何日も何も食べていない時もあったからだ。
 この日もナスカはマリアムの部屋へ行って手作りの卵粥を振る舞った。見せても食べようとしないので、ナスカはスプーンですくって食べさせる。
「マリーさん、食べなくちゃ駄目ですよ。私の作ったのなんで美味しくないかもしれませんけど……」
 マリアムは口に入ったほんの少しの粥をゆっくり噛み、「美味しいよ」と弱々しい声で言った。ナスカはマリアムが飲み込むまでじっと待つ。
「美味しいなら良かったです。ゆっくり食べて……」
 マリアムのくすんだ頬を一粒の涙が伝った。
「ごめん、もう食べられない。お腹がいっぱいなの」
 目は虚ろで皮膚の血色も悪くなっている。こんな調子ではいつか本当に重度の栄養失調になってしまう。
「アードラーさんに……もし何かあったら……全部あたしのせい。もう生きていけない。あわせる顔がない。帰ってきたって……あたしは整備士をクビになる。……どうしよう」
 マリアムはこんな弱気な言葉ばかりを繰り返す。ナスカは「きっと大丈夫」と慰めることしかできなかった。
「大丈夫です、信じましょう。上の方々が解放交渉をしてくれてますから」
 静かな部屋で彼女の手を優しく握り、静かに励ます。
 そんな時だった。
「ジレルだ。ナスカくん、いるか?」
 扉の向こう側からナスカを呼ぶ声がする。ナスカは「はい」と明るめに返事をして扉を開ける。すると立っていたジレル中尉はつまらなさそうな顔で「客が来ている」と言った。彼らしいそっけない言い方である。談話室で待ってもらっている、と彼はそれだけを伝えにわざわざ来てくれたらしい。
「すぐに行きます。あ、ジレル中尉、お時間ありますか?」
 彼は不思議な顔で頷く。
「あそこに置いてある卵粥を、マリーさんに食べさせてあげてもらえないでしょうか?」
 彼の表情が凍り付く。
「は? 今、何と?」
 マリアムが塞ぎ込んでしまったのは今までエアハルトに依存し続けていたからだ、と推測したナスカは、新しく親しい人が増えれば少しでも傷が癒えるかもしれないと考えた。それにジレル中尉を使おうという企みである。
「とにかく、マリーさんに卵粥を食べさせてあげて下さい」
 ついでにジレル中尉にも友達が増えれば一石二鳥。
「なぜ私がしなくてはならん? 私が他人を苦手だと知っているだろう」
「戦闘機に乗れないんですからその分働いて下さいよー」
 ナスカは冗談のつもりだったのだが彼は真面目に納得したらしく「それもそうだな」と呟き頷いていた。そしてナスカはやや早足で談話室へと向かった。


 扉をノックすると、はい、と返事があったので、ナスカは中へ入る。
「ごめんなさいね、突然」
 ソファに腰を掛けた女が笑顔で馴れ馴れしく手を振る。片手はティーカップを握っている。ナスカは記憶を辿ってみるが、今までにその女に会った覚えがない。
「掛けて頂戴ね」
 礼をして向かいのソファに座る。その間もナスカは一生懸命思い出そうとしていた。
「初めましてよね。ヒムロ・ルナよ、よろしく」
 長い睫やすっきりしたアーモンド型の目、顔付きはとても大人っぽいが、桜色のリップが若々しさを感じさせる良い雰囲気の女性である。ナスカが無意識のうちに見とれていると、彼女は少しはにかんだ。
「何かおかしいかしら? 薄い化粧には慣れていなくて……」
 ナスカは首を振る。
「いえ。綺麗な口紅だなぁと」
 すると彼女は花が咲くように微笑み、優しく「ありがとう」と言った。
「ところで、今日は私に何か用事で?」
 ナスカが尋ねると、ヒムロは話し始める。
「あたし、リボソ国で尋問官をしていたのだけど、アードラーくんって凄くいい男ね。凛々しくてとても魅力的」
 ナスカは怪訝な顔をする。
「……エアハルトさんをご存知なのですか?」
「そうよ。彼を知っているの。警戒しないでね。あたしは貴女たちの敵ではないわ」
 ヒムロはテーブルに置かれた紅茶をそっと口へ注いだ。
「実を言うと、あたしはやり方に賛同できなかった。あんないい男を壊そうとするなんて意味が分からなかったから逃げてきてやったのよ。だけど、捕まったらそこで終わりだわ。だからしばらくの間、ここに匿ってもらうことにしたの」
 ヒムロは楽しそうな調子で話すが、ナスカは話が理解できなかった。逃げてきたから匿え? 何とも自分勝手な話ではないか。
 そんな真っ只中、大きな爆音と共に怒声が響いた。扉越しのため怒声が何を叫んでいるのかはっきりとは聞き取れない。ヒムロの表情は微かに焦りを見せるが、その焦りすらも楽しんでいる様子だ。初対面の相手に笑顔で手を振ったり一人で敵陣にやって来て匿ってくれと頼んだり、ナスカは彼女を結構変わった女性だと思った。わけの分からない行動をする人、考えが読めない人は苦手である。
「何の騒ぎかしら」
 騒ぎの原因は一番分かっているはずなのにヒムロは白々しく言った。「見てこい」と言いたいのだろうなと察知したナスカは「見て参ります」と返す。
「そっと様子を見せてもらおうかしら。ふふっ、冗談よ」
 本当に意味が分からない。
「女を匿っているだろう! 大人しく出さないか!!」
 その声の主を見た時、ナスカは青くなった。覆面の男だったからだ。
 あの日、ナスカから両親と最愛の妹を奪った奴である。見るだけで吐き気がした。数人いて銃を構えている。中の一人は紙を持っていて、そこにはヒムロの写真が載っている。
「そう言われましても、そのような女性はまったく心当たりございません。ですから、お引き取り下さい」
 冷静に対応に当たっているベルデに銃口を向ける者もいた。
「平和的な退去を願います」
 ベルデはひたすらその姿勢を崩さずにいる。
 刹那、近くにいた女性の肩甲骨辺りを銃弾が撃ち抜いた。高い悲鳴を上げて女性は倒れる。場が凍り付く。それまでは威嚇に使っているだけだと軽視していたが、銃の意味が変わった。下手に動けば撃ち殺されてもおかしくない、と誰もが思う。
「これでもまだ隠せるのか?」
 覆面の男は問った。
「隠すも何も、知らないものは仕方無いでしょう」
 ベルデは平静を装い答えた。
 一人の覆面の男が人形のように倒れた女性に歩み寄り、脱力した彼女の体をいとも簡単に持ち上げる。四肢は力が抜けてだらりと垂れている。
「まぁいい。よく見ると美人な女だし、死ぬ前に遊ぶか」
 男はダガーナイフを取り出して女性の着ている衣服を切り裂く。ブレザーは分厚くて切りにくそうだった。衣服を完全に脱がせると、布一枚被せて担ぎ上げ外へ引きずって出ていった。一部始終を見ていたナスカの心には、恐怖と共に怒りがふつふつと沸き上がってくる。
「まだ言わないなら、ここの女を全員蹂躙してから捕虜も処刑するぞ!」
 極めて分かりやすい脅迫である。
「そう言われましても、知らないものは協力のしようがございません」
 あくまでその姿勢を貫くベルデの肩を銃器で強く殴った。ベルデは激痛に言葉を失った。男は調子に乗って言う。
「はっはっは、あの男がいなければ航空隊もあっという間に潰れるぞ。あいつ以外に脅威的な実力者などはいないだろう」
 さすがにこれにはほとんど皆がイラッときたが、その侮辱に対して言い返す者は一人もいなかった。有力者が他にいないと思われている方が得だからである。
「捕虜を処刑していいんだな」
 銃口がベルデの眉間を睨んでいる。彼はひたすら痛みを堪えて「知らないものは知らない」というスタンスを貫いた。いつ撃ち殺されてもおかしくはない状態である。当人も覚悟を決めているだろう。
「よし、決まりだ!」
 男たちは吐き捨てるように叫ぶと退散していく。
 そして、静寂が訪れた。ベルデは安堵と恐怖の混じった複雑な心境で溜め息を漏らす。
「大丈夫ですか?」
 ナスカは声をかけた。ベルデは肩を押さえながら深刻な顔付きで、
「追い払えたのは良かったですが……アードラーさんが心配です。そう簡単に殺すとは思えませんが、解放交渉を急いだ方が良いかもしれませんね」
 と言った。
 衛生科の数名が割れた窓ガラスを慣れた手付きで片付け始める。ベルデは他の警備科の人に待機所の警備を厳しくするよう相談を始めた。ナスカは再びヒムロの待つ談話室へと戻る。
「お客様はもうお帰りになったかしら?」
 ヒムロがひっそりとした声で尋ねてきたのでナスカは頷く。それを見たヒムロは少しリラックスした顔になって拍手をしながら、「さすがだわ」とクロレア航空隊を称賛した。
「で、これからはどうされるのですか?」
 ナスカが尋ねると彼女は明るい表情で、「しばらくここにいさせてもらおうかしら」と返した。
「もちろん無条件にいさせろとは言わないわ。ちゃーんと働いてあげる。あ、貴女の紅茶冷めちゃったわよ」
 ヒムロは既に自分の紅茶を飲み終えていた。テーブルに置かれた紅茶の入っているティーカップから湯気は出ていない。
「淹れ直しを頼めば?」
 ナスカは結構ですと断って一気に飲み干した。今のナスカからすれば紅茶の温度なんてどうでもいい。
 その様子を見たヒムロは愉快そうに笑う。
「ふふ、一気に飲み干したわね。可愛いじゃない」
 そして続ける。
「実は、あたしに良い考えがあるの」
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