王太子殿下の執事様

萩 葵

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小説は現実よりも奇なり

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しばらく、ルーカスは額を抑えたまま、ベッドの上で放心していたようだ。
部屋に響くノックの音に、ビクリと体が揺れ、意識を取り戻した。

「はい」

返事をしてしばらくすると、天蓋の厚絹をめくって、ベオルグ医師が顔を出し、サッと周りに目を走らせた。

「…殿下たちは戻られたか」

そう呟くとベオルグ医師は、布団の上に出ていた、ルーカスの腕を取り上げた。

「少々、失礼致します」

目覚めた時、ルーカスが着替えさせられていた、白く柔らかなシャツワンピースのような寝着の袖を、ベオルグ医師はめくり、脈を図る。
そして、ルーカスの下瞼を親指で下げ頷くと、首を触る。

「痛みや、違和感のある場所はありますかな?」

「いいえ、ありません」

「それは上々じょうじょう。…入りなさい」

ルーカスの顔を見てニコリと頷くと、ベオルグ医師は後ろの厚絹の向こうに、声をかけた。

声をかけられて、続々と入ってくるのは、メイド達であった。
彼女達は静々と、しかしテキパキと己の仕事を開始した。

最初の一人は、ワゴンをベッドの足元に付け、何やら食器の音を微かに立てつつ、準備を始める。

その次も、ワゴンを引いたメイドが連なる。
湯気の立った、大きなボールをワゴンに乗せたメイドが、ルーカスの頭側に立った。
そのメイドは、ワゴンに重ねて置いてあったタオルを数枚とると、ボールに入ったお湯に浸し、きつく絞る。

メイド2人の姿をルーカスが、忙しなく交互に見ていると、ワゴンを引いたメイドたちの後ろから、ひと際恰幅の良い、年配のメイドが現れた。

「失礼します」

そう言うと、有無も言わさず、2枚の布団をめくって足元に寄せ、ルーカスが抵抗する間も無く、服を脱がせる。

そして後ろのメイドから、絞ったタオルを渡されると、ルーカスの体を拭き始めた。

「え?あ、ちょっと!」

どんどん拭いていくメイドに、ルーカスは為されるがままだ。
温かなタオルが冷える事無く、次々と温かな新しいタオルに変えられる。

波に翻弄される小舟のように、揉みくちゃにされるのに、ルーカスは耐える。
途中、ヒヤリと思うところまで拭かれ、新しい寝着を着せらる。
そして、薄い布団をかけられ、やっとルーカスは一息ついた。
すると、食器の音を立てていたメイドが、繊細な細工が施された銀色のローテーブルを、ルーカスの上に跨がせるように置く。
その上には、輝く銀の皿とは対照的な、どろりとした緑色の鈍い光を放つスープと、水の入ったグラスが置かれていた。

「失礼いたしました」

仕事を終えたメイド達は、サッと頭を下げると、また静々と戻っていく。
その後ろ姿を、茫然自失ぼうぜんじしつして見送ると、クツクツと笑う声が聞こえた。

そちらに目線をやれば、緩いウェーブのついた長い黒髪を後ろで結び、拳を口にあて、面白そうに狐目を細めている、見たことのない青年が立っていた。
そしてその青年は、ベオルグ医師と同じ黒いコートを着ている。

「これ、挨拶がまだでしょう」

眉をひそめ、とがめるようにベオルグ医師が言えば、胸に手を当て、大げさに頭を下げて挨拶をしてくる。

「これは、これは、失礼を致しました。貴方様のお可愛らしいお姿に、思わず心が緩んでしまいました。わたくしは、宮廷医師ベオルグの弟子、チェチェーリオと申します。以後お見知りおきを」

(うん、胡散臭い)

その赤い唇は弧を描いているが、狐目の奥は笑っていない。
印象深そうな顔なのに、目を離すと忘れてしまいそうな不安感を覚える。

(とりあえず、関わらない様にしたい…)

チェチェーリオの慇懃無礼いんぎんぶれいな態度に、ルーカスは不快感を通り越して、不安感を煽られていた。
それを見越したように、ベオルグ医師がチェチェーリオをたしなめた。

「チェチェーリオ、この方がオリバー様の弟君おとうとぎみ、ルーカス様だ。その態度は、改めよ」

「は、師よ。申し訳ありません。なにせ性分なもので」

チェチェーリオの態度に、ベオルグ医師は諦めたようにため息をつくと、ルーカスに向き合った。

「おお、申し訳ございません。せっかくの食事が、冷めてしまいますな。お食事中に申し訳ありませんが、少々お話させていただきたく存じます」

ベオルグ医師に勧められて、ルーカスは高そうな銀のスプーンを取り上げた。

ドロリとした緑色のスープを口に運べば、思ったほど緑臭い味はしなかった。
その代わりに、少しの塩気と野菜の優しい甘さが口に広がり、口よりも少し温かなスープの温度と共に、ルーカスの心をホッとほぐしてくれた。


スプーンを口に運ぶのが徐々に速くなるルーカスの姿を見て、ベオルグ医師は安心したように、笑みを浮かべた。

「食欲がおありのようで、何よりですな」

うん、うん、と頷いて、また口を開く。

「ルーカス様にお会い出来たばかりというのに、言いづらいのですがな…儂は、この通り年を取っておりまして、もうそろそろ引退を、と考えております。チェチェーリオは、このような態度ではありますが、我が弟子ながら、腕はなかなかのモノと評価しております。儂やチェチェーリオが手伝える事は少なかろうと存じますが、王宮におかれまして、何かあった際に、少しでも、こやつが役に立てばと思い、紹介させて頂きました。もし儂に用があるさいも、弟子をお使い下さいませ」

(えー…嫌だ…)

ルーカスの表情を読み取ったかのように、チェチェーリオの目が面白そうに光った。
それに気が付いて、ルーカスは慌ててスプーンを置いて、返事をした。

「はい、宜しくお願いします」

「ルーカス様、弟子に過分なお言葉をありがとうございます。ですが、こやつめに、その様なことは不要ですので、どうぞお食事をお続けください」

「いやはや、とてもお美しいのに加えて、このようにお可愛らしいとは…ランセント公爵家のご家族様は、さぞやご心配なことでしょう。このチェチェーリオ、是非ともルーカス様のお力になれればと存じます」

首を振りながら近づいてきて、ルーカスの手を取り、その指先にキスをするチェチェーリオに、ルーカスは白い眼を向けた。

(だが、断る)

絶対に、関わらないでおこうと、心に決める。

そして、ふと小説を思い出した。
権力を笠に着た、嫌みな黒髪男が、王太子殿下の後ろにいたことを。
これ世界が小説に沿っているならば、黒髪男も居るはずだ。

そいつは、いちいち主人公レイモンド鬱陶うっとうしく噛みついてきては、負け犬の遠吠えをテンプレ的に吐く、典型的なかませ犬キャラだった。

小説一、嫌いだったキャラである。

何であんな奴を王太子はともに付けているんだろうと、小説を読んで不思議に思っていたが、その男がチェチェーリオなのかと、ルーカスはチェチェーリオを改めて見た。

小説に出ていたのは、王太子殿下よりも年下で、何より一番特徴的なのが、チェチェーリオの顔に付いてない。
彼ではなさそうだ、と判断して、あれ?と思う。

年下で、黒髪、そして目には、これ見よがしに眼帯をはめていた。

(年下で、黒髪…そして眼帯?)

それに気がついた瞬間、ルーカスは血の気が引いた。

(もしかして、あのキャラって、俺だった!?)

現実の自分と、小説の自分の乖離が酷い。
1番なりたくない人物に、小説ではなっていると気がついて、ルーカスは気が遠くなり、後ろに倒れそうになった。

「おおっと…あぁ、何と初々しい…」

指に口づけた事で、ルーカスが気絶しそうになったと勘違いしたのだろう。
チェチェーリオに、頬を染めながら抱きとめられて、その腕の中でルーカスは凍りついた。
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