降る、ふる、かれる。

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第二章 歌い手

現実世界から消える

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いつもは気にならない時計の音が今日はやけに大きく聞こえる。

 最後にアップした、歌ってみた動画から今日で三週間がたとうとしていた。

 作業が中々進まないでいる。一応音源は出来上がるものの、何かがひっかかって聞こえる。あちこちを弄ってみるが、マイナーチェンジを繰り返してばかりいた。何度やってもうまくいかず、思わず拳を机に叩きつけてしまった。

 その時、メールに一件の新しい通知が飛んできた。

 メールのアイコンをクリックすると「成績表のお知らせ」という文字が目に飛び込んできた。学校から送られてきたこのメールによると、どうやら僕の殆ど取れていない単位表が三月末には実家に送られ、それと同時に留年のこともお知らせしますよ、というものだった。

留年することが知られてしまったら、母はどれほど発狂するだろうか。

真面目で、優しくて、頑張り屋のアカサカイオリちゃんが大学の単位を落として留年など母は間違いなく僕を地元に連れ帰すだろう。そして、郵便局にでも務めて、結婚して孫の顔を見せろとでもいうかもしれない。もしくは、母と同居する形で大学へ無理やり通わせられるかもしれない。

地元に帰る気もないし、大学に再び通う気なんてさらさらない。勉強をすることしか許されない十八年間が思い出される。母のロボットのような人生だった。やっと、大学を理由に母と離れたのだ。再び監視されるとか冗談ではない。

パソコンがブオンブオンと大きな音を立て、熱を発している。

パソコンにうつる文面を何度も読み返し、母のことを考え、だんだんと胃が重くなってきた。僕は深くため息をつく。

椅子から立ち上がり、布団の中に身をうずめた。


隣の部屋からベッドが軋む音と共に女の喘ぎ声が聞こえてきた。

目を閉じ、動物的なオスとメスの交じりあいを想像してみる。

太ももにからませるようにして、丸まった布団を抱きしめた。自分の中心にあるものが、自意志とは無関係に体液が零れる。それをそっと手で撫でてみる。おもわず低く、くぐもったうめき声が出た。

 記憶がよみがえる。ずっと、ずっと前の記憶だ。白濁してふわふわとした、記憶ともいえない代物だ。あれは、僕がいつの時だろう。

僕は天井からぶら下がっている色とりどりのベッドメリーを目で追っていた。瞬きをしても変わらず回り続けるそれらを不思議に思っていた。軽快な音楽の隙間に、人の声が埋まった。僕がちらりと目線をずらすと、柵の隙間から二つの身体がまるで最初から一つであったかのように絡まらせている。息が上がり、何かを叫んでいる。でも、僕はそれが一体何なのかは分からない。僕は頭上でまわるおもちゃに再び目を向け、楽しそうに笑った。


 僕は、なぜだがこのような行為をしている自分を気持ち悪く感じた。ズボンから手を抜き、洗面台でひたすらに手を洗った。


僕は、僕はいったいなんなのか。

タオルで手を拭き、ベッドに身を沈めた。壁の向こう側かわら相変わらず声と音はやまない。僕は手を頭の下に当て、どうするべきか考えを巡らせる。

脳みその中にある棚を一つ一つ取り出し、元に直す。匂いを嗅いだり、音を聞いたり、振り回してみたり、ぎゅっと抱きしめてみたりして、形も色も形状も何もかもが違うそれを再び体に通してゆく。


僕は一体何なのか。僕はどうするべきなのか。

僕は一つの考えにたどり着いた。

僕は、人間であることよりもお金や性欲や利益を不必要とする無夢という概念になるべきである。

これは、不完全で不十分な答えかもしれない。しかし、僕は決断を下さなければならない。例え間違いであっても、選ばなければならない。

 隣からの音はやがて消えた。短い時計の針は三を指している。

 大学を辞め、家族から消え、この世からアカサカイオリのものを全て消去する。三月末までの四か月半、僕はまとまったお金をつくり、家を変え、大学に退学届けを出さなければならない。

四月になれば、完全に新しい僕が始まる。何も煩わしいことは考えなくてよい。それまでの我慢だ。

 律儀に時を刻む時計を見つめる。概念的無夢の新生活のカウントダウンが始まった。


世界を殺せ(歌ってみた)/ 無夢
 無夢・六十万回視聴・三日前 
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