降る、ふる、かれる。

茶茶

文字の大きさ
上 下
42 / 66
第二章 歌い手

しおりを挟む
すぐに僕は動画投稿に夢中になった。

ずっと砂漠の中を歩き、喉が渇いて、喉が渇いていることも忘れ去っていたその時に目の前に大量の果実を渡されたのだ。その甘い果実を貪るように食べた。食べて、食べて、食べた。口の周りは赤い汁でべたべたしている。汁は腕を伝って、地球の上にポツリと落ちた。
 

 マスカットコンダクター(歌ってみた)/無夢
  無夢・十万回視聴・四日前


初めての投稿から一か月がたち、ユーチューブへの投稿本数は六本になった。登録者数も、再生回数も異常なくらいに伸び続けている。すでに僕はネットの一部で有名人になっているようであった。

動画の背景のイラストを自分で書くようになった。歌ってみた動画をつくる際にミックスとマスタリングという工程があることも知った。

 パソコンに向き合い、ネットの「ミックスの手順 初心者向け」を見ながら、自分の波形を動かしてゆく。ぱちり、ぱちりとマウスでクリックする音だけが部屋に響く。地道な作業だ。ピッチ補正、イコライザー、コンプレッサー、リバーブ、リズム補正、ディエッサー、リバーブいくつもの作業工程がある。
 波形を見ながらノイズカットを行っていると、ベッドに転がっていたスマホの電話が鳴った。離れがたかったが、腰を上げ、電話をとった。

 母の声を聞くだけで心臓が縮み上がり、母の完全なる支配下に置かれていたことを思い出す。

「留年しないか。大丈夫か」という問いの中には僕はいなくて、僕の評価と世間の目しかそこにはない。

正直のところ、ほとんど大学に出席していないため、いくつかは単位を落としていることは確実だが、何でもないふりをして「大丈夫だよ」と答えて電話を切った。

母は俗にいう毒親だった。

僕は小さなころから友達付き合いをやめさせられ、勉強ばかりさせられていた。

母が言うには「友達をつくると、馬鹿になる」らしい。毎日、今日は誰としゃべったかを言わされ、その子とその子の家族の悪口を言っていく。

「浜口さんのお父さんはね、高卒なの」

「安永くんちのお母さん、スーパーで冷凍食品ばっかり買っているのよ。冷凍食品は脳みそを溶かすのよ」

「ゆりかちゃんはね、まだおねしょをしているらしいの」

最後には「ね、悪い子でしょ?」とお決りのように言うのであった。今考えれば、本当かどうか分からない話ばかりだし、例え母の言った通りであっても悪い子と言われるほどのことではないことばかりだ。

だけど、小学生の頃は母の言うことは全て正しいと思っていたし、母に嫌われたくなかったから、ひたすら母の言うとおりに動いていた。

母が悪い子といった人たちにはならないように、おねしょは悪い子、冷凍食品を食べる子は悪い子、高卒は悪い子と一生懸命覚えていた。

中学生になると、母が他の家のお母さんよりおかしなことには気づいていた。けれど、反抗しようものなら母は鬼のように僕を叱り、家が壊す勢いで暴れまわるから、我慢するしかなかった。父は完全に家には寄り付かなくなり、いつしか父は家を出ていた。僕は大学までの辛抱だと必死に耐えたのだ。


パソコン横に置いてある大学から配布されたカレンダーを見れば、今日から三日後に赤丸がついている。前期のテスト週間が始まる印だ。

たびたび授業を休んでいるため、出席点は望めない。友達も先輩もいないから、休んだ分のレジュメを貰えないし、過去問も回ってこない。完全なる負け戦である。

しかし、苦労して入った大学だ。青春らしい青春を放り投げて、高校生を満喫する横目にひたすら勉強をしていた。その結果は第一志望も第二志望もこけて、第三志望の大学に進んだものの、苦しんだ過去の自分のためにも大学は卒業したい。そのためには単位を取らなければならない。

僕は、パソコンのミックスアプリを閉じ、大学のシラバスを検索した。

そこで、まだ望みのある期末テストと期末レポートが評価の八十%以上の講義名を近くの紙に書きつけた。棚の奥に沈んでいたルーズリーフと教科書とわずかながらのレジュメを引っ張ってきて、僕は頭を抱えながら、勉強を始めた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

パート先の店長に

Rollman
恋愛
パート先の店長に。

社長室の蜜月

ゆる
恋愛
内容紹介: 若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。 一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。 仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

処理中です...