37 / 66
第二章 歌い手
僕は弱い
しおりを挟む
共通教育棟の二階の端の125号室。間違えないようにと教室のプレートを確認する。過去に何度か教室を間違え、教室を出るにも出られず、いきなり隣の人とのグループワークが始まった時は心臓が破裂しそうになったものだ。
教室のドアを開けると、すでに生徒が数人まばらに座っていた。真ん中より後ろの右端に座った。一番前は何かと当たりやすいし、後ろは友達と話す人が多くうるさいから、この席がお気に入りだった。
教授はやけに楽しそうに元気よくしゃべっている。何も見なずとも、次から次へと言葉が飛び出してくる。教授はマイクを顎に押し当てながら教室を仰々しく歩いていた。教授はスーツ姿に健康サンダルといういで立ちだった。目に染みるほどの青色のネクタイは黒板の磁石のそれと全く同じだった。時々、教授は白が混じったあごひげを満足そうになでた。
窓の外では木の上を雀が楽しそうに飛んでいる。目の前では寝てしまいそうな授業が広がっている。手元にはレジュメとノートとペンがあり、そして生きている僕がいる。
いつもと変わらない景色で、あくびがでてしまいそうなほど平穏な日常だ。それなのに、ふと自分だけがここに生きていないような感覚に襲われた。全部同じだけど、どこかがおかしいような、自分だけパラレルワールドにいるような気分になる。体のあちこちが、うまく風景に馴染めなかった。
僕は偽物なんだ、と訳もなくその思いがこみ上げてくる。
何者かにひゅっと喉を掴まれた。じわりじわりと酸素が無くなっていき、僕はだんだんと息ができなくなっている。ここから逃げないと死んでしまうかもしれないと思う。僕は机の上に広がった物をカバンの中に全て突っ込んだ。周りの人が異様な目で見てきたけど関係ない。僕は死んでしまいそうなんだ。何か言い続ける教授を背に講義室を急いで出た。
白衣を来た女子の横を通り過ぎ、近くのトイレに滑り込んだ。トイレには人は誰もいなかった。
苦しい。底なし沼でじたばたともがいているようだった。二本足でしっかりと陸の上に立っているのに、溺れてしまいそう。水や泥が肺に侵入しているのがわかる。
なんで生きているのだろう。乾いた笑みがこぼれてしまう。大学に入ってひたすら惰性で生きる日々。やりたいことも、学びたいこともない。恋人も友達もいない。一つ先の未来なんて何にも見えない。誰にも求められず、存在さえも無に近いのに、むやみに酸素を使ってしまっている。ごめんなさい。喉の奥底からせり上がってくる得体のしれない黒いものが止まらない。
バッグの中から筆箱に入っているカッターを取り出した。ギリギリと刃を出し、左腕の皮膚の上を滑らした。大学だから、と加減をしたせいか紙で切ってしまった程度にしか腕はきれなかった。皮膚の裂け目を手で強く押してみるが、ほんの少し血が滲んだだけだった。
もう一度深く切りたい欲望を抑えて、カッターを何とかしまった。喉にうずくまるどろどろとしたものを全て吐いてしまいたかった。
大きな声で叫びたかった。辛い。苦しい。助けてって。人間に向いていないんです。生きるの向いていないんですって。
いつだったか、自分が苦しいことをネットで相談したら、「皆つらいんだよ。アフリカに住む子供たちのことを考えてごらん」と言われたことがある。
そんなことは分かっている。百も承知だ。でも、今息をして、僕が意識をもって操るこの肉体が苦しんでいる。今、僕が僕として生きているのは僕だ。苦しんでいるのは今の僕だ。抽象的なアフリカの子供たち、ではない。僕自身なんだ。皆でも世間でもアフリカの子供達でもない。ねぇ、わかってよ。
顔面に空いた二つの穴からとめどなく涙がこぼれている。
死んでしまいそうだった。こんななんでもない日常で死にたくなる。安全で、飽和するほど食料があって、勉学の機会が与えられ、人間として権利を持っている。それでも死にたくなる。
僕はそうだよ。
弱いんだよ。
教室のドアを開けると、すでに生徒が数人まばらに座っていた。真ん中より後ろの右端に座った。一番前は何かと当たりやすいし、後ろは友達と話す人が多くうるさいから、この席がお気に入りだった。
教授はやけに楽しそうに元気よくしゃべっている。何も見なずとも、次から次へと言葉が飛び出してくる。教授はマイクを顎に押し当てながら教室を仰々しく歩いていた。教授はスーツ姿に健康サンダルといういで立ちだった。目に染みるほどの青色のネクタイは黒板の磁石のそれと全く同じだった。時々、教授は白が混じったあごひげを満足そうになでた。
窓の外では木の上を雀が楽しそうに飛んでいる。目の前では寝てしまいそうな授業が広がっている。手元にはレジュメとノートとペンがあり、そして生きている僕がいる。
いつもと変わらない景色で、あくびがでてしまいそうなほど平穏な日常だ。それなのに、ふと自分だけがここに生きていないような感覚に襲われた。全部同じだけど、どこかがおかしいような、自分だけパラレルワールドにいるような気分になる。体のあちこちが、うまく風景に馴染めなかった。
僕は偽物なんだ、と訳もなくその思いがこみ上げてくる。
何者かにひゅっと喉を掴まれた。じわりじわりと酸素が無くなっていき、僕はだんだんと息ができなくなっている。ここから逃げないと死んでしまうかもしれないと思う。僕は机の上に広がった物をカバンの中に全て突っ込んだ。周りの人が異様な目で見てきたけど関係ない。僕は死んでしまいそうなんだ。何か言い続ける教授を背に講義室を急いで出た。
白衣を来た女子の横を通り過ぎ、近くのトイレに滑り込んだ。トイレには人は誰もいなかった。
苦しい。底なし沼でじたばたともがいているようだった。二本足でしっかりと陸の上に立っているのに、溺れてしまいそう。水や泥が肺に侵入しているのがわかる。
なんで生きているのだろう。乾いた笑みがこぼれてしまう。大学に入ってひたすら惰性で生きる日々。やりたいことも、学びたいこともない。恋人も友達もいない。一つ先の未来なんて何にも見えない。誰にも求められず、存在さえも無に近いのに、むやみに酸素を使ってしまっている。ごめんなさい。喉の奥底からせり上がってくる得体のしれない黒いものが止まらない。
バッグの中から筆箱に入っているカッターを取り出した。ギリギリと刃を出し、左腕の皮膚の上を滑らした。大学だから、と加減をしたせいか紙で切ってしまった程度にしか腕はきれなかった。皮膚の裂け目を手で強く押してみるが、ほんの少し血が滲んだだけだった。
もう一度深く切りたい欲望を抑えて、カッターを何とかしまった。喉にうずくまるどろどろとしたものを全て吐いてしまいたかった。
大きな声で叫びたかった。辛い。苦しい。助けてって。人間に向いていないんです。生きるの向いていないんですって。
いつだったか、自分が苦しいことをネットで相談したら、「皆つらいんだよ。アフリカに住む子供たちのことを考えてごらん」と言われたことがある。
そんなことは分かっている。百も承知だ。でも、今息をして、僕が意識をもって操るこの肉体が苦しんでいる。今、僕が僕として生きているのは僕だ。苦しんでいるのは今の僕だ。抽象的なアフリカの子供たち、ではない。僕自身なんだ。皆でも世間でもアフリカの子供達でもない。ねぇ、わかってよ。
顔面に空いた二つの穴からとめどなく涙がこぼれている。
死んでしまいそうだった。こんななんでもない日常で死にたくなる。安全で、飽和するほど食料があって、勉学の機会が与えられ、人間として権利を持っている。それでも死にたくなる。
僕はそうだよ。
弱いんだよ。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ドSでキュートな後輩においしくいただかれちゃいました!?
春音優月
恋愛
いつも失敗ばかりの美優は、少し前まで同じ部署だった四つ年下のドSな後輩のことが苦手だった。いつも辛辣なことばかり言われるし、なんだか完璧過ぎて隙がないし、後輩なのに美優よりも早く出世しそうだったから。
しかし、そんなドSな後輩が美優の仕事を手伝うために自宅にくることになり、さらにはずっと好きだったと告白されて———。
美優は彼のことを恋愛対象として見たことは一度もなかったはずなのに、意外とキュートな一面のある後輩になんだか絆されてしまって……?
2021.08.13
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。



鬼上官と、深夜のオフィス
99
恋愛
「このままでは女としての潤いがないまま、生涯を終えてしまうのではないか。」
間もなく30歳となる私は、そんな焦燥感に駆られて婚活アプリを使ってデートの約束を取り付けた。
けれどある日の残業中、アプリを操作しているところを会社の同僚の「鬼上官」こと佐久間君に見られてしまい……?
「婚活アプリで相手を探すくらいだったら、俺を相手にすりゃいい話じゃないですか。」
鬼上官な同僚に翻弄される、深夜のオフィスでの出来事。
※性的な事柄をモチーフとしていますが
その描写は薄いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる