ファウストの聖杯 ―Please Burn Me Out ―

明智紫苑

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本編、フォースタス・チャオの物語

喝采と祝福

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《俺を焼き尽くしてくれ》

 紅蓮の炎に彩られたポスター、戦国の世の激情を表す言葉。
 ついにこの日が来た。
 舞台版『ファウストの聖杯』の公開初日だ。チケットはすでに完売している。果心居士役の俺は衣装を着る。和服とも漢服とも言えそうで言えないような、エキゾチックな衣装だ。他のキャストの衣装も凝りに凝っている。
 俺が書いた原作には濡れ場があるが、さすがに舞台版では、それらは省略せざるを得ない。スコットは他にも、色々と話を合理化させている。
 緋奈役のアスターティは、長い黒髪を後ろで束ねたカツラをかぶっている。彼女は赤い着物を着ている。
「ミュージシャンとしてステージに立つのとはまた別の緊張感があるわ」
「いつもとは別の戦場か…」
 久秀役のスコットは微笑む。この男の笑顔には常に頼もしさがある。
「さあ、いよいよ出陣だ」

 幕が上がる。

 観客席は満杯だ。大学時代の演劇サークルでの様子とは訳が違う。俺は緊張感で震え上がり、膨れ上がる。
 しかし、同時に何かが降ってきたような感覚がある。俺が小説やエッセイを書いている時にたまにある何かだ。その何かに満たされ、俺は不思議と落ち着いた。
 俺は果心になりきる。アスターティは緋奈にしか見えないし、スコットも久秀にしか見えない。
 脇役俳優たちが踊るが、その振り付けは地球のジョージアグルジアの民族舞踊を元にしている。ある場面では忍者の黒装束で、またある場面では絢爛豪華な傾奇者の衣装で、観客たちを沸き立たせる。気合いの入った殺陣と共に、これらのダンスはこの劇の目玉の一つである。
 特殊効果で紅蓮の炎が舞台を包む。戦火の中を、俺たちは動き回る。場面は二転三転し、二人の男たちと一人の女の物語は続く。
 世界は劇場、俺たち人間は皆「世界劇場」の役者だ。この舞台で俺は語り、歌い、笑い、怒り、涙する。物語はさらに進み、クライマックスに突入する。



「果心よ。お前を本心から求めている者の思いを受け止められないならば、お前は死すべき凡夫と変わらぬぞ」
 久秀は言う。
「お前、緋奈を抱えて城から飛んで逃げられるだろう? さあ、行け!」
 果心はうなづいた。彼は緋奈を抱きかかえ、外に出た。

「果心、俺を焼き尽くしてくれplease burn me out。 あの時、大仏殿にでかい火の玉をぶち込んだように。俺は商鞅しょう おうのように『墓なき者』となるのだ」

 手前にある平蜘蛛の茶釜には火薬を詰めている。この釜も果心に譲ろうとは思った。しかし、そうすれば、あの信長は何としても果心から平蜘蛛を奪おうとするだろう。
 果心と緋奈と三人での茶会で用いた思い出の茶器。しかし、これからは自分と一緒に砕け散る。
「せめて、お前たちの心の中で生き続けたい。俺はお前たちの目や耳などを通じて、これからの世の中を知っていこう」
 久秀は短刀を鞘から抜いた。



 特殊効果で、大爆破が表現される。俺とアスターティが演じる果心と緋奈は宙を飛ぶ。
 場面は、沖縄の海辺に変わった。
 果心と緋奈は織田信長の軍勢から逃れて、薩摩へ、そして琉球へと逃れた。誰からも邪魔されない、夫婦水入らずの暮らし。果心は奇術を披露し、緋奈は琵琶や三線さんしんを弾いて歌い、住民たちの喝采を浴びた。それで十分食べていけた。
 しかし、緋奈は果心のように不老不死ではない。果心は、彼女の最後を看取った。
 かつて久秀を弔ったように、果心は緋奈の亡骸を焼いた。そして、彼女の遺灰を琉球の美しい海に撒いた。
 さらに場面は変わって、21世紀前半の日本。不老不死の果心はスタジオミュージシャンとして生きていた。俺は、ギターを生演奏した。
 俺は高校時代にギターを少しかじっていた。しばらくはギターに触れていなかったが、アスターティの教えによって、俺は演奏技術を取り戻し、さらに技術が上達していった。
 この曲は、アスターティがこの劇のために書き下ろしたものだ。
 そのアスターティ演じる緋奈。彼女が再び現れ、歌う。そして、俺も彼女を追って歌う。
 果心と緋奈…俺とアスターティは共に歌い、物語は幕を閉じた。
 カーテンコール。手応えがあった。俺たちは盛大な喝采を浴びた。

「全く、大した奴だよお前は!」
 ドクター・マツナガとユエ先生が楽屋を訪ねてきた。さらに、久しぶりに会う人間がいた。
 ランスロット・ファルケンバーグ。
 長い間、俺の「不実」を許さなかった潔癖な男。そいつが俺の芝居を観に来てくれたのだ。
「ランス、観に来てくれてありがとう」
 ランスは、やや困惑気味に答えた。
「フォースタス、俺は長い間お前を許せなかったけど、見直したよ。俺こそ、余計な意地を張ってしまって申し訳ない」
「ごめん、ランス。本当にありがとう」
 それから約一か月、劇場の観客席は常に満員御礼だった。ランスもドクターも何度か観に来てくれた。閉幕後、二人は楽屋に差し入れを持ってきてくれた。
 そして、舞台版『ファウストの聖杯』は無事に全ての公演を終えた。その評判のおかげで、俺は本業でも徐々に失地回復していける可能性が高まった。
 もちろん、いまだにかつての俺の醜聞に対して非難する者たちはいるが、そのような声は他のニュースにかき消されるだけだ。三文ゴシップレストランのメニューは常に更新されている。
 俺はマダム・コンピーの番組にゲスト出演したが、おおむね好評だった。
 名司会者グロリアーナ・デ・コンポステーラの本業は舞台女優だ。御年70過ぎのベテラン女優である彼女もまた、舞台版『ファウストの聖杯』を観劇していた。そして、俺たちの楽屋を訪問していた。
 シャーウッド・フォレストの主宰スコット・ガルヴァーニの知名度は一気に高まり、様々なメディアでの露出が増えた。彼が出演する映画やドラマはことごとく評価が高かった。




「ああ、いい写真が撮れるな」
「今年もドンドン撮るわ」
 桜吹雪が美しい4月。アスターティは、アヴァロン大学の入学試験に合格していた。そして、9月の大学入学に備えて、俺との二人暮らしを始めた。
 いや、俺たちだけではない。アガルタから来たサイボーグ犬メフィストも一緒だ。
 俺たちはすでに婚約を発表している。隠す必要のない、公然の仲だ。
 アスターティは、カメラのシャッターを切りながら言う。俺は、そんな彼女を目で追う。
「この絶妙な色加減がいいのね。濃過ぎても、薄過ぎても、バランスが良くないの」
「毎年撮っても飽きないか?」
「全然。毎年同じ桜の花なんてないわ」
「まあ、孫子の兵法なんかでも、全く同じ戦争なんて一つもないらしいし」
「やだ、フォースタス。そんな例え」
「ごめん」
 俺は、足元にいるメフィストに訊いた。
「おい、メフィスト。お前、大の方は大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ。さっき家でしっかり踏ん張って出し切ったからな」
「水、飲むか?」
「うん、ありがとう」
 俺はバッグから犬用の水の容器を取り出し、メフィストに水を飲ませた。
 アスターティは一通り桜の写真を撮り終え、俺たちに声をかけた。
「あのオープンカフェでお昼にしましょう」
 俺たちは、公園の中にあるオープンカフェに向かった。心地よい南風が、桜の木々の間を通り抜ける。
「ファウストの聖杯」
「え?」
「聖杯は人間に恵みの水を与える。俺にとってお前は聖杯なんだよ」
「フォースタス…」
「ありがとう、アスターティ」
 桜吹雪がさらに美しく映える。我らアヴァロンの民を祝福するように。




 百合の花が芳香を放つ。初夏の心地よさ、満足だ。
 あの頃の狂乱が嘘みたいだ。
 慎ましい我が家、ささやかな庭のある一軒家だ。俺たちは今までの印税でこの家を買った。その点でも、俺はアスターティに感謝している。
 この家は二階建てで、部屋数も十分だ。俺もアスターティも、それぞれ仕事部屋を確保している。以前住んでいたアパートでは蔵書などを持て余していたが、今はきちんと整理してある。これで仕事をするにも十分余裕がある。
 ラジオからロクシーの曲が流れてきたので、チャンネルを換えた。アスターティから聞いた話だけではない。それ以前からあの「ディーヴァ」の悪評が不愉快だったから、俺はロクシーを過大評価など出来ない。
 その悪評からして、俺は一人の男としてあの女を好きになる事は出来ない。
 今日の夕食は、ラム肉のトマトカレーとシーザーサラダだ。俺は材料の下ごしらえをしている。

「へえ、ラムセスって偉かったんだな」
 俺はメフィストに、かつての愛犬たちについて話した。
 ラムセスとは、俺が小学生だった頃にいた雄のグレートピレニーズだ。彼は、父さんに叱られて家出した俺を追って、慰めてくれた。
 俺はラムセスに諭された気になり、家に戻った。また父さんに叱られたけど、ラムセスは部屋に戻った俺に寄り添ってくれた。
「家康は?」
 家康。雄のフレンチブルドッグ。こいつは俺の高校時代の愛犬だ。
 俺の初めての「女」、だけど初恋相手ではない先輩女生徒にこっぴどく振られて傷ついているところを、この犬は黙って見守ってくれた。もちろん、家康はメフィストと違って普通の犬だったから、俺に対して慰めの言葉をかけようがなかったけどな。
 だけど、俺にはラムセスや家康の「言葉」が分かったような気がしたのだ。
 そして今、俺の目の前にいるメフィスト。
 犬や猫などの飼い主は、自分が飼っている動物を我が子のように思う人間が少なくないが、俺にとってのメフィストはむしろ、兄弟だ。そして、ラムセスや家康もそうだった。
「明日、ユエ先生と一緒にあの人の墓参りに行くんだろ?」
「うん」
 アスターティは自室で勉強している。彼女が勉強中か作詞作曲などの作業中は、メフィストが話し相手になってくれる。



「ようやっと、一緒にあいつの墓参りに行けるな」
 助手席のユエ先生が言う。俺は車を走らせ、墓地に向かっていた。
 海の見える丘の墓地。心地よい南風が通り抜ける。
 俺は白い百合の花束を抱えて、先生と一緒にライラの墓を目指した。
「ライラ、来たよ」
 先生と俺は墓前で手を合わせた。
 俺はアスターティと一緒に暮らし始めてからも、時々ライラの夢を見る。しかし、ライラは優しく黙って微笑んで、俺を見守ってくれる。
 しかし、マーク。忘れてはいけない。あの子は俺のせいで、自分の母親を殺してしまったのだ。俺はただ漫然と己の幸せに浸ってばかりではいられない。
 俺の罪は、死ぬまで消えない。いや、他人の記録や記憶がある限り。

「あまり辛気くさくなるのは良くない」
 帰り道、ユエ先生は車の中で奇妙な話を始めた。
「21世紀の日本の話だ。ある男子大学生は就職活動中だったのだけど、この学生は外出中に突然便意を催した。それで、ある商業施設にあるトイレの個室に入った」
 え? そんなシモの話?
「用を足してスッキリした学生は愕然とした。その個室にはトイレットペーパーがなかったんだ。さらに、便器にはシャワー機能がなかった。さて、彼はどう対応したと思う?」
「うーん、分かりません」
「彼はさんざん悩んだ結果、メンソールやエタノールを含んだ汗拭きシートで尻を拭いたんだ。そのメンソールやエタノールが粘膜にしみて、彼は悶絶しそうだった」
 なんて話だ。
「だけど、彼はくじけなかった。彼はインターネットで自らの武勇伝をさらし、色々な人たちから励まされた。次の日にまたしても紙のない個室に入っても、くじけずに、靴下で尻を拭いた」
「神ならぬ紙に見放された男…ですか?」
「いや、運命の女神は気まぐれだ。たまには人間社会に面白い奇跡をもたらす。ネット上で話題になった彼は、ある会社の面接を受ける事になった。それで彼は会社の待合室で自分の番を待っていた。だけど、彼は前日興奮のあまり寝不足だったので、つい居眠りしてしまったんだよ」
「アチャー!」
 しかし、青年の奇妙な武勇伝には、さらに意外な展開があった。
「問題の学生の無邪気な寝顔を見た社長は、彼を『こいつは大物になりそうだ』と見込んで、採用を決めたんだ。彼は数年間、そこで優秀な社員として働き、退職してからは作家になった。この作家は小説も面白いが、彼が本領を発揮したのはエッセイだった」
 先生の話を聞いているうちに思い出した。この話、どこかで聞いた。
 そうだ、これはまさしく、あの人のエピソードだ。間違いない。
「ノーベル文学賞候補にまでなった作家、神楽坂翔太かぐらざか しょうた。お前のご先祖様だ。お前のミドルネームはこの人に由来するんだな」
 そうだ。俺の遠いご先祖様、神楽坂翔太。確かに俺のフルネームは、フォースタス・ショウタ・チャオだ。
 ユエ先生は言う。
「大切なのは道のりそのものだ。そして、過去はあくまでも過去だ。ただ振り返るばかりでは、前には勧めないぞ。フォースタス」
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