Avaloncity Stories(掌編集)

明智紫苑

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恋するアラストール ―『緋色の果実とファウストの聖杯』断片―

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 中国浙江せっこう省X市。とある雑居ビルにそのオフィスはあった。
〈春秋探偵事務所〉
 それがそのオフィスの名だった。
 表向きは探偵事務所。しかし、その実態は別の稼業を行なっている。そして、この事務所の所長は、自身の子孫という事になっている人物の名義で、このオフィスを借りている。
 彼の現世での名前は伍高文ご こうぶんだが、この名はアーサー王伝説の円卓の騎士ガーウェインの中国語名「Gao-wen」に由来する。
 伍員ご うん、字は子胥ししょ。すなわち、春秋時代の呉の宰相だった伍子胥ご ししょである。彼は筋骨たくましい長躯をアルマーニのスーツに包み、窓辺に立つ。
 かつての彼は非業の死を遂げて、祟り神になっていた。しかし、それから数百年経ち、呉も越も楚も滅び、秦も漢もなくなり、敵はすでになく、自分が祟り神であり続ける必然性がないのに気づいて呆然とした。そんな彼に「人類の進化を司る神々」に加わるように呼びかけたのが太公望呂尚りょ しょうであり、かつての親友である。
 孫武そん ぶ、字は長卿ちょうけい。かつて「兵法の神様」と呼ばれた男である。
「また、マルセイバターサンド食べたいな」
 孫武はキッチンで紅茶を淹れる。盆にティーカップ二つとクッキーを載せて、事務室に入る。
「マルセイバターサンドねぇ…。レーズン嫌いの俺が唯一食えるレーズン菓子だ」
 伍子胥はカップを受け取る。孫武はクッキーをかじる。
「また、果心かしんが持ってきてくれないかな?」
「ふん、奴がここに来るのは、たいていろくでもない事態だぞ」
 子胥は眉をひそめつつ、カップに口をつける。わずかに砂糖を入れただけのストレートティーだ。
「ねぇ、子胥」
「何だ、長卿?」
「誰か、デメルのスミレの砂糖漬け持ってきてくれないかな? グラスに入れて、炭酸水を注ぐと、きれいな青い色になるの。いかにもインスタ映えしそうで面白そうだな」
「お前、ミーハーだな」
「それから、白ワインを注いでみてもインスタ映えするだろうし。例えば、シャンパンとかね」
「お前、下戸だろ」

「こんにちは」
 突然の来客に、二人は身構えた。細身で小柄な中年の男が一人、身長が165cm近くの女が二人だ。
「久しぶりだね」
「何だ、少伯しょうはくじゃないか」
 伍子胥は再び眉をひそめる。とっくの昔に和解したとはいえ、彼はこの男に対していまだに苦手意識を抱いている。
 范蠡はん れい、字は少伯。かつては伍子胥や孫武相手に熾烈な争いを繰り広げた男である。
 昨日の敵は今日の友とはいえ、二人の仲は微妙な距離感がある。子胥は、怜悧でマイペースなこの男との付き合いに対して、いまだに苦手意識があった。
「今日はあなたたちにお土産をあげたくてね」
 孫武は范蠡から手土産を受け取る。
「どうもありがとう」
「デメルのスミレの砂糖漬け。日本の人気漫画で取り上げられていたのを読んで気になったのでね」
「わぁー、本当にありがとう!」
 子胥は無邪気に喜ぶ相棒を横目で見つつ、用心深く范蠡に尋ねる。
「今日は何のようだ? またイシュタルが何かやらかしたか?」
 范蠡は意味深長に微笑む。その端正な顔立ちからは本心が読めない。
「今日はあなたたちに紹介したい人たちがいる。おいで、緋奈ひな緋月ひづき
 范蠡の後ろに二人の若い女たちがいる。この二人は一見、姉妹のように似ている。澄み切った黒い目に艶やかな黒い髪、なめらかな白い肌。均整の取れた肢体をシンプルな服に包んだ女たちは、愛らしく整った顔立ちである。
「はじめまして、伍先生、孫先生。松永緋奈まつなが ひなと申します」
「緋奈の義妹いもうと、緋月です。どうかよろしくお願いいたします」
「え…?」
 伍子胥は、緋奈を見て絶句した。

「おのれ、少伯ぅ…。いや、少伯は別に悪くない。たまたまあのはんに似ているだけなんだ」
 来客たちが帰り、子胥は一人、所長室の椅子に座り、机に上半身を伏せている。何て事だろう? あの緋奈という女は、あまりにも自分の亡き妻と瓜二つであり過ぎた。
 孫武はそんな子胥をそっとしておいている。古くからの親友である彼は、当人の心境を分かっている。だから、当人のほとぼりが冷めるまで放っておくしかない。
 伍子胥は、緋奈に恋した。しかし、彼女は果心居士の事実上の妻だった。
 かつての自分の一族は、身勝手な主君の略奪愛によってズタズタにされた。いや、その前にも、ある男が湖のランスロットのような暴挙に出た。かつての楚国は、女たちの魔力と男たちの色欲に狂わされた。
 そんな一族の過去があるからには、自身が略奪愛の当事者になる訳には行かない。汎を楚王の後宮から連れ出したのだって、楚王に奪われたのを取り返しただけだ。
「なりふり構わぬ復讐鬼アラストールだった俺が、こんな恋心に狂うなんて」
 胸が締め付けられる。二千年以上体験していない情動だ。熱く、苦しく、そして甘酸っぱい。
「緋奈」
 その名を呼ぶ。
「ひな、ヒナ、Hina…」
 人の形をした、美声の小鳥。しかし、その華奢な肢体の内には、凄まじい力が宿っている。そう、神をも殺すほどの。
 愛らしく、爽やかな笑顔。子胥の瞼の裏に映る。しかし、彼女の彼への微笑みは、あくまでも礼儀としてのものに過ぎない。
「あの娘は汎の生まれ変わりなのだろうか?」
 子胥はため息をつく。甘く苦しい時間はさらに続く。しばらく経ち、彼は孫武を呼ぶ。

「この砂糖漬けを、こうしてグラスに入れる」
 孫武は伍子胥の机にグラスを二つ置き、スミレの砂糖漬けを七つずつ入れた。青紫の塊、自分と子胥と七つずつ。
「まずは、僕のグラスに炭酸水を入れるね」
 弾ける水に青が溶け込む。グラスの中の空色だ。
「そして、子胥のグラスにはシャンパンを注ぐと…」
 淡い金色の液体が、青を泡立て、融かす。
「おお…!」
「天上の青を地上の命の水に融かす。『飲む芸術』だね」
 孫武は微笑む。あの頃と変わらない、屈託のない笑顔だ。子胥は苦笑いし、自分のグラスを手にする。
「乾杯!」
「何に?」
「この世に幸あれ」
 子胥は空色のシャンパンを口にする。まだ日は沈んでいないけれど、今日はもう休業だ。
 もう、自分は陰鬱な祟り神などではない。スミレの花の慎ましくも艶やかな香りが通り過ぎる。だんだんと落ち着きと気力が蘇る。緋奈の笑顔を思い出しても、先ほどまでには自分を苦しめない。
 あの娘は、ただの通りすがり。そう思おう。
「長卿」
「何?」
「次に日本に行くなら、マルセイバターサンドを忘れないでくれよ」
「分かってるよ」
 伍子胥は渋い微笑みを浮かべる。孫武は彼が精神的に安定したのを察し、微笑みを返す。
 夕焼け空が見事なグラデーションを描いている。バラ色からスミレ色に、そして、藍色に変わっていく空を眺め、子胥は空になったグラスを机に置いた。
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