Avaloncity Stories(掌編集)

明智紫苑

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Hina ―『ファウストの聖杯』前日談―

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 7月7日、アスターティの誕生日だ。しかし、俺にとってはそれ以上の意味を持つ日だ。
 医学生だった頃の俺の、甘く苦い思い出。
 ヒナ。
 俺はアガルタを離れて、アヴァロン大学医学部に通っていた。大学の近くのマンションでの、人生初めての一人暮らしだ。当然、家事をやる人間は俺一人しかいないから、何から何までしていた。
 ただ、俺は自分の料理の腕前がどれほどのものかは分からなかった。新入生の俺は友人らしい友人もおらず、学校から帰ったら勉強するか、読書をしながら音楽を聴くか、テレビで昔の映画を観るかのいずれかで時間をつぶしていた。そう、当時の俺は今の俺とは違って内向的だったし、人間関係のややこしさに縛られるのが嫌だったのだ。
 バール(baal)、すなわち人造人間。俺はアヴァロンシティにおける一種の「秘境」アガルタで生み出された人造人間だ。アガルタ生まれの「官製」バールたちは兵士や警察官や消防士、看護師や保育士などの卵として作られるが、マフィアの企業舎弟であるバールメーカー製のバールたちは裏社会で売春婦/男娼やヒットマンとして使われる。
 俺が「普通の人間」として世に出るのは一つの実験だった。
 バールたちは元々人間の亜種だ。かつての地球にいたデザイナーベビーの発展形であり、その能力や寿命や容姿は並の「天然」の人間をしのぐ。当然、少なからぬ「天然」の人間たちが俺たちの存在自体を拒絶した。かつての地球に比べて宗教的タブーが薄れたこの植民惑星アヴァロンとて例外ではない。
 アヴァロンの地球連邦からの独立戦争では、天然の人間だけでなくたくさんのバールたちも犠牲になった。かつての天然の人間同士の人種差別のように、我々バールも「奴隷」として扱われたが、アヴァロン連邦の独立宣言を機に、我々バールたちも「人権」を認められた。

 ヒナは医学部の一年先輩だった。ヒナ・マツナガ。奇しくも俺と同じ苗字の日系人の女だ。
 艶やかな長い黒髪に色白のなめらかな肌、毅然とした意志と鋭い知性を匂わせる目鼻立ちの美女。均整の取れた体型に、スラリと長い脚。いわゆる清純派路線が十分務まる可憐な美貌だが、彼女は活動的でセクシーな格好を好んだ。誰にも頼らない「強い女」、彼女はそう見られたがっているようだったし、俺もあざとく「弱さ」をアピールするバカ女よりもずっと彼女に惹かれた。
 俺にとってヒナは外界に出て初めての友人だったが、彼女と俺の関係はほどなく「恋愛」に変わった。
「ねぇ、フォースタス」
 ヒナが鈴の音のような清冽な声で俺の名を呼ぶ。
「何だい、ヒナ?」
「あなた、卒業して研修医になってからは軍医になるの?」
「うん。俺、アガルタ生まれだし、普通の医者になるよりそっちを選ぶよ。それも宇宙軍。俺は大気圏外に出てみたいんだ」
 アヴァロンが地球連邦から独立して250年以上経つ今でも、宇宙軍を含めた軍隊はある。地上軍は内戦でも勃発しない限りは災害救助がメインの仕事だが、宇宙軍は他の植民惑星との関係次第では本来の「軍」の役割を求められる。
「軍隊って上官や先輩からのしごきがひどいんでしょう? 私、心配だわ」
「ん…。心配してくれてありがとう。でも俺、宇宙そらに惹かれるんだよ」
「まあね、行かないでくれなんて言うのは重い女みたいで嫌だけど、それでも寂しいわ」
 聡明なヒナは俺に色々な事を教えてくれた。何でも知っている女神。そう、彼女の名前はポリネシアの月の女神に由来するというけど、俺は彼女と宇宙に等しく惹かれていた。俺は彼女のアドバイスのおかげで料理の腕前がだいぶ上達したし、夜の秘め事でも彼女に導かれて色々とテクニックを身につけてお互いを満足させた。俺は他のほとんどの男性型バール同様、生まれついての無精子症だが、それでも避妊具は欠かせなかった。

 俺はヒナとの関係によって自信を持てるようになったので、校内でも何人かの友人を作れるようになった。俺とヒナは同棲していたが、彼女は俺が男友達と遊びに行くのを穏やかな笑顔で見送った。互いの誕生日やクリスマスイヴではプレゼントを交換したし、俺は彼女と居られるのが幸せだった。
 7月7日はヒナの誕生日だった。
 俺とヒナは家庭教師のアルバイトをしていたが、その日はちょうどどちらも休みだった。いや、この日のために休んだ。俺たちはセントラルパークの近くのホテルのレストランで食事をした。もちろん、食事代はヒナへの誕生日プレゼントの一部だし、俺が全額払った。ヒナもまた、俺の誕生日での外食では全額おごってくれた。
「海に行きましょう」
 俺たちはホテルを出て、海に向かった。当時、俺は運転免許を取り立てだったので緊張していたが、ヒナの微笑みを見ている内に落ち着いてきた。俺は海岸に車を走らせた。
 今夜は海辺のホテルに泊まろう。
 夕暮れまでまだ時間がある。海辺は海水浴客でいっぱいだ。家族連れやらカップルやらでごった返している。俺とヒナも水着に着替えていた。
 ヒナは真っ赤なビキニに花柄のパレオを身につけていた。長く艶やかな黒髪に白い肌、真っ赤なビキニ。彼女の肌はこの季節の割には白かったが、決して不健康な青白さではない。むしろ、強靭な生命力を感じさせる瑞々しさがあった。
 他の海水浴客たちもヒナの艶姿に惹かれていた。俺は何だか誇らしかった。この「女神」と一緒にいられる。そう、これからも彼女と共にありたい。俺は本心からそう願っていた。
「大変だ!」
「何だ!?」
 異変。突然、波が荒くなり、子供が波にさらわれたようだ。俺とヒナは子供が溺れている方向に泳ぎだした。プロのライフセーバーを待つよりも、自分で助けようとした。
《む? あの子か!》
 俺とヒナは6歳くらいの男の子が溺れているのを見つけて捕まえた。段々と波が荒くなっている。早く岸辺に戻らなくては! 俺は男の子を右腕に抱きかかえ、左手でヒナの右手を握って岸に向かった。
《何だ!?》
 波はますます荒ぶり、俺たちは翻弄された。俺は男の子を抱える右腕とヒナの手を握る左手にさらに力を加えたが、それも虚しく、俺は徐々に意識が弱まった。

《フォースタス、ありがとう。あなたに会えてよかった》
《ヒナ…!?》

「あれ、ヒナ?」
「おお、目が覚めたね!」
「あれ、ヒナは?」
 俺は病院の一室で目覚めていた。俺はプロのライフセーバーに助けられ、意識不明のまま海岸近くの病院に搬送されていた。俺は医師にヒナがどうなっているかを訊いたが、最悪の事態になっていた。
 幸い、問題の男の子は何とか蘇生したらしいが、ヒナはすでに死んでいた。
 ヒナは孤児だった。彼女の葬式の喪主は、彼女が子供の頃にいた養護施設の関係者だった。俺はぐっと涙をこらえて葬儀に参列したが、耐えきれず泣き崩れた。
「ずっと一緒にいたかったのに」
 あれ以来、俺は様々な女たちと付き合ったが、ヒナほどの女はいなかった。彼女は今でも俺の心に住む女神だ。俺は大学を卒業し、医師免許を得て宇宙軍の軍医になったが、貴重な休暇で地上に降りた時には彼女の墓参りをした。彼女の墓碑にはそのフルネームが彫られている。
「Hina Astarte Matsunaga」
 そう、アスターティ・フォーチュンの名前は彼女のミドルネームに由来する。次世代の「希望の女神」「幸運の女神」になるように。そして、「坊主lad」フォースタス・チャオの名前は俺がくれた。
 今年も俺は一人、ヒナの墓参りをする。彼女が好きだったカサブランカの花束を持って、あの海が見える墓地へ行く。昔はヒナの何人かの女友達が墓参りをしていたが、今は俺一人だけだ。
「ヒナ、久しぶりだな」
 俺はもうすぐ80歳になる。普通の人間よりもはるかに肉体的に若々しいバールとはいえ、ジジイである事には変わりない。いつ「お迎え」が来るか、いつまで生きていられるかは分からない。

 それでも俺は思う。またきっと、俺はヒナに逢える。あの希望の女神に。
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