信頼出来ない語り手のものがたり

明智紫苑

文字の大きさ
上 下
19 / 23

カバレロドラドの「空白」

しおりを挟む
 俺はなぜか、あの大震災以前の記憶がない。母馬の顔を覚えていないだけならまだしも、人間社会における小中学校に相当する施設である育成牧場にいた際の記憶すらなくなっている。
 あの激震によって、俺の中の何かがなくなり、別の何かが生まれたかのようだった。
 種牡馬として牧場で大切にされている今でも、どこかからサイレンの音が鳴り響くたびに、俺はあのシッチャカメッチャカヘルタースケルターな事態を思い出して、激しくいら立つ。ただ単に「音」として不愉快なだけじゃない。その音に込められた「意味」こそが、俺を不安にさせる。

 当時の競馬界では、マトモにレースが出来る状況ではなかった。俺はあちこちを移動させられ、ストレスに悩まされていた。
 人間界では、インターネット回線がマトモに働かない状況だったようだ。どんなサイトにアクセスしようにも出来ない状況にいらついた人間は、少なくなかったようだ。
 今の俺の自我は、あの天変地異と共に生まれたのかもしれない。人間と同じ知能と言語能力、そして色覚。普通の馬にはない能力が俺には宿っていた。しかし、それを知るのは、競馬界の中でもほんの一握りどころか、一つまみの関係者だけだった。

「俺はバブル期の東京で、人間の男として生きていたのかもしれない」

 21世紀に生まれた馬が知る由もない事を、俺はなぜか知っていた。
「どうだ、ドラド。うまいだろ?」
 夢の中で、人間の姿になった親父は言う。親父は還暦前後のおっさんで、俺はアラサーの男だった(バブル期には「アラサー」という造語はなかったが)。俺と親父は、刺身を肴にして酒を飲んでいた。
 テレビでは、今では考えられないくらいに潤沢な予算を惜しげなく使っているバラエティ番組をやっている。当時は、予算も企画力も満ち足りていたのだ。それに比べて、今の日本の人間社会はどうか? 下手な人間の政治家よりも、俺の方がよっぽど総理大臣にふさわしいぜ。
 ただ、その後の政治の「エンタメ化」がこの国をダメにした要因の一つだろう。どこぞやのお坊ちゃん政治家の度重なる暴言失言がいい例だ。
「ドラド、お前は好きなように生きろ。勝ちたいときだけ、勝てばいい」
 そうだ。親父の言う通り、俺は要点だけをがんばって種牡馬になった。ただ、ダービーを逃して三冠馬になれなかったのは心残りだったが、そのような栄誉は暴君異母兄アニキの方がふさわしい。正統派ヒーローのイメージはあちらに任せる。

 あれから10年以上経ったんだ。俺はあの大地震で「神」を感じた。「神」という奴は、生きとし生けるものの事など知ったこっちゃない。だから、当然「有神論」と「無神論」の区別なんて無意味だ。
 そう、俺は一頭ひとりの生き物として生きるだけ。限りある生を満喫しよう。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

その時まで

鈴木まる
大衆娯楽
村に一人暮らしの偏屈な小次郎爺さん。彼は桜が嫌いだと言う。ひょんなことから村の少年・弥助(やすけ)は、その理由を聞くことになる。

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

奇妙な日常

廣瀬純一
大衆娯楽
新婚夫婦の体が入れ替わる話

アレンジ可シチュボ等のフリー台本集77選

上津英
大衆娯楽
シチュエーションボイス等のフリー台本集です。女性向けで書いていますが、男性向けでの使用も可です。 一人用の短い恋愛系中心。 【利用規約】 ・一人称・語尾・方言・男女逆転などのアレンジはご自由に。 ・シチュボ以外にもASMR・ボイスドラマ・朗読・配信・声劇にどうぞお使いください。 ・個人の使用報告は不要ですが、クレジットの表記はお願い致します。

処理中です...