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本編、アスターティ・フォーチュンの物語
Sweetness
しおりを挟む「お前、来年は大学入試だな」
フォースタスが訊く。そう、私は来年試験を受ける。
私たちは稽古途中の休憩で街に出ている。鮮やかな黄金色のイチョウ並木を歩いている。街では私のセカンドアルバム『Sweetness』からの同題のシングルカット曲が流れている。このシングルやアルバムが出てからの私は、ミュージシャンとしてはしばらく休業する。そして、舞台『ファウストの聖杯』の公演が終われば、私は受験勉強に専念する。
「うん、アヴァロン大学文学部」
「え、ひょっとして俺と同じ中国文学科?」
「違う、英文学科よ」
「そうか、頑張ってくれよ。無事に合格出来たら、俺と一緒に暮らそう」
「え!?」
私は驚いた。フォースタスは顔を赤くしながら、私と同じくらい戸惑いつつ言う。
「俺たち、婚約してるだろ? その…予行演習としてさ、俺と一緒に家を買って暮らさないか? もちろん、ハイスクールを卒業してからさ」
私はフォースタスの目をじっと見つめていた。涙が流れる。フォースタスの目も潤んでいる。
「今までお前につれなくして本当に申し訳ない。今までの分を取り戻すように、お前を大事にする。一緒に暮らそう」
私はフォースタスに抱きついた。フォースタスは私を抱きしめた。そして、私のあごに手を添えて、キスをした。初めてのキス。嬉し涙でしょっぱかったけど、心は曲のタイトル通り「sweetness」だった。
私たちのその様子が芸能ニュースとして広まっている。でも、もう隠す必要はない。私たちは事務所を通じて、世間に婚約を発表した。
その効果もあってか、舞台『ファウストの聖杯』に対する注目度も上がった。前売り券は早く完売し、シャーウッド・フォレストに対する注目度自体も増していった。
「いやぁ、お前らには感謝しているよ!」
スコットがフォースタスに冗談めかして言う。フォースタスは苦笑いしている。
「俺にも新しいドラマのオファーが来たし、これからドンドン忙しくなるぜ」
「俺も今、新しい小説書いているけど、以前のスランプが嘘みたいだ」
「ふーん、次はどんなネタ?」
「古代中国だよ」
今フォースタスが書いている小説は、中国・戦国時代の秦の宰相、商鞅が主人公の話だ。タイトルは『Blasted』というが、これはメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に由来する。自らが作り上げたものによって破滅するファウスト的ヒーローの話だ。そして、主人公の名前はアガルタのバールで大統領のSPのシャン・ヤンさんの名前の由来でもある。
「面白そうだな。また舞台化してみたいな」
「『聖杯』よりも合戦シーンが多いぞ」
「まあ、実際に読んでから考えてみるよ」
「はーい、みんな。ドーナツの差し入れよ!」
ナターシャがみんなに呼びかけた。
「いただきま~す!」
「おいしい!」
「ああ、ありがたいな」
私は生クリームたっぷりのドーナツにかぶりついた。稽古で消耗したエネルギーを取り戻す甘味。私は抹茶ラテを飲んだ。
フォースタスは、チョコがかかっているドーナツを食べている。彼は窓を眺め、空を見上げている。その眼差しは真剣だ。
いよいよ、舞台『ファウストの聖杯』の公演が始まる。フォースタスはギターケースに目をやり、つぶやく。
「生演奏で歌う。緊張するな」
私は劇のエンディングテーマを作った。フォースタスはこの曲をギターで生演奏し、私たちはデュエットで歌う。スコット演じる久秀の自害シーンに次ぐ、最後の山場。フォースタスは昔、ギターを弾いていたけど、しばらくは演奏していなかった。私はそんなフォースタスのギター演奏のリハビリに付き合った。彼はみるみる演奏のコツを取り戻し、単なる素人以上のレベルにまで達した。
「どうだ、フォースタス。バンドやらないか?」
他の俳優さんが訊いた。この人もバンド経験者だという。フォースタスは答える。
「うーん、どうしようかな? この舞台が無事に終われば、本業に専念したいんだけどね」
フォースタスは照れ笑いした。
私は改めて、劇の台本を読み返す。この話はアーサー王伝説の「永遠の三角」が元になっている。しかし、私が演じる緋奈は、グィネヴィアよりもむしろ、アストラットとコーべニックのエレインたちに近いキャラクターイメージだ。もっと深読みするならば、ゲーテの『ファウスト』でのトロイのヘレナではなく、グレートヒェンだ。
ヘレナ。そうだ、あの人、フォースタスの初恋の人の名前はヘレナだった。
いつか、ブライアンから見せてもらった、フォースタスやヴィクターらと一緒に映っている写真の、プラチナブロンドの髪に空色の目の女の子。今の私と瓜二つの人だった。私は自分がフォースタスにとってこの人の身代わりに過ぎないのかと悩んでいたけど、今は吹っ切れている。私はあくまでも私自身であって、他の誰かの代わりなんかではない。
緋奈は、グレートヒェンよりも「強い女」という印象が強いキャラクターだ。その可憐さとは裏腹に、毅然とした意志と鋭い知性を持っているし、決して「弱い」女ではない。そんな彼女はグィネヴィアと同じく、二人の優れた男たちに愛される。
果心と久秀、どちらがアーサーでどちらがランスロットか? いや、それは物語の本質とは関係ないだろう。
「ヒナ」に「ヒサヒデ」という名前で思い出した。アガルタのマツナガ博士のフルネームは「フォースタス・ヒサヒデ・マツナガ」、つまりは『ファウストの聖杯』の準主役である松永久秀に由来する。そして「ヒナ」とはマツナガ博士の恩人であり初恋相手であった女性と同じ名前だ。
私もフォースタスも、博士からその女性の話を聞いている。博士が今まで生きてきた中で、最も真剣に愛していた恋人。その人のフルネームは「ヒナ・アスターティ・マツナガ」という。苗字はたまたま博士と同じだけど、もちろん、バールである博士との血縁関係はない。そのファーストネームは、ハワイやポリネシアの月の女神に由来し、ミドルネームはシリアやフェニキアの星の女神に由来する。私の「アスターティ」という名前は、この人のミドルネームにちなんで名付けられたのだ。そして、私のフォースタスの名前は、フォースタス・マツナガ博士からいただいたものだけど、アヴァロン連邦初代大統領アーサー・フォーチュンのミドルネームでもある。
せめて名前だけでも一緒にありたい。博士のささやかな願いが、私たちに託された。遊び人を演じているあの人の密かに純情な面が、私たちの名前に隠されているのだ。そして、『ファウストの聖杯』の緋奈には、マツナガ博士の恋人だったヒナさんのイメージが託されているのだろう。
いよいよ来週、『ファウストの聖杯』が開演される。
✰
机の上に、無添加のデーツを入れた皿がある。読書をする際のお供。私は今日も紙の本を読む。本を汚さないためのウェットティッシュを添えて。
デーツを口に入れて噛む。濃厚で素朴な甘味が私を励ましてくれる。
今夜の本は、フォースタスの大学時代からの友達ミック…マイケル・クリシュナ・ランバートの小説だ。フォースタスが地球史を題材にした小説を書いているのに対して、ミックは現代のアヴァロンが舞台のミステリー小説を書いている。
「アヴァロンはバビロンだ」
私の知らない裏社会を舞台にした小説。主人公は私立探偵だが、その正体は、マフィアの企業舎弟によって作られた男性型バールだった。彼は、ソーニア州の裏社会で取り引きされている違法薬物があるカルト教団と深い関わりがあるのを知り、途轍もない闇にからめ取られていく。
そうだ。あの実在カルト教団〈ジ・オ〉を意識しているのは間違いない。ミックはオープンリーゲイだが、〈ジ・オ〉並びにその政治部門である政党〈神の塔〉は、同性愛者などの性的マイノリティーへの弾圧を「絶対正義」としている。さらに、出生主義と反出生主義双方の団体を別働隊として立ち上げ、この二つの激しい抗争を自作自演しているという噂がある。さらには、彼らは互いに協力して、不妊治療や妊娠中絶手術を手がける産婦人科医や小児科医、貧困層のシングルマザーや大家族とその子供たちを殺傷するなどの常軌を逸する悪事まで行っているらしい。
〈ジ・オ〉の基本は、家父長制並びに女性蔑視と優生思想だ。同性愛者やトランスジェンダーなどの性的マイノリティーだけでなく、障害者や不妊症患者や貧困層などへの弾圧・粛清を大義名分として掲げている。彼らによって、多くの障害者や性的マイノリティーらが粛清されてきた。さらには、異性愛者で健常者のシスジェンダー女性たちまでも。
彼らの創設者は、かつてのアヴァロン連邦初代大統領アーサー・フォーチュンの政敵だったと言われる。つまりは、連邦政府への復讐こそが彼らの目的だと言われているのだ。
「今まで生まれたキリスト教の異端の中でも、最低最悪のもの。もはやキリスト教ではない」
そう、彼らこそがこの植民惑星アヴァロンに蘇った〈ナチス〉なのだ。
フォースタスも私も、当然〈ジ・オ〉の連中を嫌っている。ルシールもフォースティンもベリンダも、プレスター・ジョン・ホリデイという男を嫌っている。
あの子たちに舞台『ファウストの聖杯』チケットを渡している。ぜひとも、来て観てくれると嬉しい。
✰
夢を見た。私は空飛ぶ帆船に乗り、旅をしていた。私は和服のような、いや、漢服のようなゆったりとした服を着ていた。船室の窓から見た風景は、どこまでも広がる草原だ。
テーブルには、デーツが盛られた皿がある。私はデーツを一粒取り、口に入れて噛む。現実世界で食べるデーツと変わらない、濃厚で素朴な甘味だ。
夕暮れ時の草原の上を行く船は、西を目指す。
「アスターティ、あなたの名前は〈聖なる星〉から受け継がれた女神の名前なのよ」
私の向かいの席に座る中年女性が言う。推定年齢、40歳前後。どことなく、ミサト母さんやミヨンママに似た顔立ちだ。その身なりや存在感からして、身分の高い女性だと分かる。私が着ている服よりは体型の輪郭を感じさせるデザインの礼服だ。その引き締まった体型は、優れたアスリートのようだった。
この人は、大陸の西の果ての国の宰相であり、〈筆頭剣士〉だとされる。私は夢の中で、この人の養女となって、西の国へと旅をしていた。
「この一帯は〈甘美なる地〉と呼ばれているの。〈世界樹〉の巫女たちが治める領域で、東西を結ぶ道なのよ」
「世界樹…?」
西の国の女性宰相、その名は「オースリン」といった。この人、レディ・オースリンはこの世界について語る。
「有史以前の大災厄で、世界は荒廃した。しかし、世界各地で社会の復興に尽力する人たちがいた。そんな人たちを導く存在として世界樹の巫女たちがいたの。アヴァロンや泰夏の皇帝たちや、蓬莱やソーニアなどの王たちも、彼女たちの助言によってそれぞれの国を治めているのよ」
ソーニア? なぜあの「有刺鉄線州」の名前が出てくるのか? しかも、アヴァロンに「皇帝」がいる?
レディ・オースリンは言う。
「世界樹の巫女たちの出自は様々。東西南北も身分も問わず、素質がある者たちが選ばれて任命される。もしかすると、時代が違えば、あなたも巫女の一人になっていたかもしれないわね」
途方もない夢。私は遠い未来のような異世界の夢に対して呆然としていた。
午前6時過ぎ、私は自室で目を覚ます。作業室を兼ねた寝室で、パジャマから普段着に着替える。来年、フォースタスとの約束でこの家を去るのだ。
洗面所で顔を洗い、髪をブラシで整え、1階に降りる。朝食の準備をしよう。
今は来週の『ファウストの聖杯』への準備期間として休学中だ。そして、舞台が無事に成功してから、再び学業に戻る。
「あら、アスターティ。おはよう」
ミヨンママがキッチンに来た。やはり、昨夜のあの夢に出てきた女性に似ているが、ミサト母さんの方がさらにあの人に似ている。
ヴィクターがミナと結婚してヴィスコンティ家に住むようになったのと入れ違いに、ブライアンは一人暮らしを始めるためにこの家を出た。今はフォースタスが住むアパートの近くの部屋を借りて住んでいる。
私はフレンチトーストを人数分作り、テーブルに並べた。ヴィクターとミナがまだ赤ちゃんの息子を連れて、ダイニングルームに入ってきた。
「日本語の『甘い』と『うまい』は元々同じ語源なんだよ」
ヴィクターは言う。甘くておいしい、フレンチトースト。私は一口噛み、ゆっくりと味わう。
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