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本編
実りつつある果実
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「はい、開けて」
「あ~」
加奈子は丁寧に秀虎の歯を磨いている。彼との「同棲生活」を始めてから、祖母の歯ブラシの代わりに彼の歯ブラシがある。
吐いた泡や水を受け止めるための洗面器と、口をゆすぐための水が入ったプラスチックのコップ。
倫の母親、すなわち加奈子の叔母で、加奈子の父親の妹である花川美佐子(ちなみにこの人はバツイチシングルマザーである)が歯科医なので、加奈子たちはみっちりと歯の磨き方を教わった。
仕上げに糸楊枝を使い、口をゆすがせて、口周りをタオルで拭いて、作業終了。
加奈子は小説の続きを書いている。一応は恋愛小説だが、彼女は中学時代の担任の先生(新米教師)に片思いして以来、恋とは無縁だった。しかも、当人は去年の「ヴァーチャル失恋」などカウントしたくない。
加奈子は義務教育時代は男子クラスメイトにいじめられていたから、しばらくは男性不信だった。それで若菜と同じ女子高に進学して、何とかギリギリ合格出来た大学も女子大だった(ちなみに若菜は高校を卒業してすぐに、いまの仕事に就いた)。
しかし、この男、秀虎は信頼するに値する人だと加奈子は思う。
「なあ、加奈?」
「なぁに、ヒデさん?」
「お前の目標は紫式部か? それとも樋口一葉か?」
な、何て!? 加奈子は仰天した。
「そ、そこまでおこがましい野心はないよ! でも、現代の作家さんたちには、目標となる人たちはいっぱいいるよ」
「『文』で食べていける。良い時代だな」
加奈子は再びパソコンに向かった。女神と人間の青年の恋物語。ピアノの音に乗って、思いは舞い上がる。
「股くぐり」のさえない青年が「天下の大将軍」になったように、この音大生の青年も世界的なジャズピアニストを目指している。そんな彼を見守る、偉大な女神。
この小説が完成したら新人賞に応募する。加奈子は決心している。
もうすぐ2月。バレンタインデーがある。当然、彼女も秀虎にチョコレートを食べさせたい。
しかし、バレンタインデーとは一応キリスト教の殉教者の記念日なのだが、「恋愛の守護聖人」とはいかにも「異教的」なキャラクター設定だ。そもそもバレンタインデーとは、クリスマスやハロウィンと同じく、多神教のお祭りがルーツなのだ。
その前に、節分がある。北海道では殻付き落花生を使うと、余市の真一伯父が教えてくれたが、加奈子は今年も伯父がリンゴを送ってくれるのを楽しみにしている。そして、そのリンゴでジャムを作るつもりだ。
真一は元々雑誌編集者だったが、脱サラして北海道の余市でリンゴ農家を始めた人だ。加奈子は毎年秋に伯父からリンゴを送ってもらっているが、一人では消費しきれないので、涼子や若菜や親船たちに分けている。
しかし、今は秀虎がいるから、今年はもっともらいたい、と、図々しく期待している。
「今日はカレーか」
秀虎は、和食以外の料理にもすっかり慣れ親しんでいた。加奈子はいつもは、カレーには豚肉を使うが、今日は奮発してビーフカレーだ。
「牛肉のカレーか…。本来はあり得ないハズのものだな?」
秀虎の指摘通り。インドのヒンドゥー教では、牛を食べるのを禁止している。シヴァ神のお使いの動物だから、「聖なるもの」だから、食べてはいけないのだ。
肉食のタブーと言えば、ユダヤ教やイスラムの豚肉禁止もある。こちらは豚が「汚れた動物」だという理由で食べてはいけないのだ。
確かに、昔の養豚は人間の汚物で飼育する場合があったから、衛生的に危険だというのもあったのだろう。しかし、もう一つ「異教との関連」もあったのではないだろうか?
「ごちそうさま」
加奈子は食器を片付け、秀虎の歯磨きの準備をした。それが終われば、彼女自身も歯を磨く。それから寝るまでは、水以外は口にしない。
加奈子は秀虎に本の読み聞かせをし、それからパソコンに向かった。秀虎はすでに眠っている。新人賞に応募する予定の小説の骨組みはだいたい出来上がっている。後は、押して叩いてを繰り返して、仕上げるだけだ。
秀虎の「根っこ」は、だいぶ成長していた。そして、手足や胴体の骨組みのようになっていた。加奈子が書いている小説のように、秀虎の体が出来上がりつつあるようだ。
しかし、まだまだ体を自由に動かせない。あくまでも、血管や神経が成長しただけで、骨格や筋肉が未発達だ。加奈子が今書いている小説の状況も、さほど変わらない。
五里霧中。でも、途中で投げ出さない。「あなたは小説家タイプではなく評論家タイプね」と言った志美先生を見返したい。
もちろん、義務教育時代に自分をいじめてバカにした連中もだ。特に、ロクに本を読みそうにないようなギャル系の女たちは、いまだに憎たらしい。もしかすると、彼女が若菜のようなロリータファッション愛好家の女の子たちに対して好意的なのは、実は「ギャル系嫌い」の反動かもしれない。
⭐
「果実は順調に実りつつある」
呂尚は言う。加奈子の家を見下ろす、例のマンションの屋上である。
「新たな星を目指すため、何隻もの『ノアの方舟』を作る必要がある。しかし、それまでに何百年もかかる」
「その鍵となるのがあの二人ですか?」
「そうだ、ブライトムーン」
ブライトムーン…ブライティと呼ばれる少女は、首を傾げた。
ブライティは回想する。かつて自分は、ヴィクトリア女王が支配する時代の英国・ロンドンの下町に生きる貧しい庶民の娘だった。アルコール依存症の父と、そんな父に暴力をふるわれる母。兄は博打で堕落し、姉は自分たち家族を養うために身を売ったが、何者かに殺された。
そして、誰かの火の不始末か、さもなくば、一家の誰かに恨みを抱く輩の仕業か、家は全焼し、彼女たち一家は焼け死んだ。
そんな彼女を「拾い上げた」のが呂尚だった。
一介の貧困少女ブリジット・スミスは死に、新たに「輝く月(Brightmoon)」という名の光と風の精霊に生まれ変わった。
「果心さん…かなり物騒なものを借りてきたそうですけど、先生が頼んだんですか?」
「ああ、あれはあいつの独断だよ」
「へ…!?」
悪霊を斬る剣。それは、人間界における核兵器に等しい要注意物件である。
「下手すりゃ、奴自身が悪霊扱いされて討伐されかねん」
「呼びましたか?」
振り返れば奴がいる。そう、噂をすれば何とやら、黒のライダースジャケットと黒のジーンズを身につけた男が来た。
彼は言う。
「私の勘では、あの子に恨みを抱いている人間の気配があるのですよ。それも、かなりどす黒いモジャモジャした嫌らしい気配でしてね」
「気配だけか?」
「私は加奈子たちの様子を探ってみましたけど、何というか…『普通の男にモテる女ほど、普通の女にねたまれやすい』とでも言いましょうかねぇ? 加奈子の親友二人くらいの美人よりも、加奈子くらいの『そこそこのかわいい子』の方が他の女にねたまれやすいようですね」
「だからどうした?」
「要するに、彼女を恨んでいる女がいるんですよ。少なくとも、『女』の生き霊の気配を感じますね」
呂尚は眉をひそめた。
「そこまで調べるために、このマンションに住んでいるのか?」
「まあ、そういう事です」
「まるでストーカーだな」
「いくら先生の発言でも、それは聞き捨てなりませんね」
そもそも、この屋上から加奈子たちの様子をうかがっている呂尚たちも、結局は似たようなものだろう。
「それに、私は父の代わりに罪滅ぼしとして、あの二人とこれから生まれてくる子孫たちを守らなければならないのですから」
ライダースジャケットの男は、真剣な顔で言った。
「あ~」
加奈子は丁寧に秀虎の歯を磨いている。彼との「同棲生活」を始めてから、祖母の歯ブラシの代わりに彼の歯ブラシがある。
吐いた泡や水を受け止めるための洗面器と、口をゆすぐための水が入ったプラスチックのコップ。
倫の母親、すなわち加奈子の叔母で、加奈子の父親の妹である花川美佐子(ちなみにこの人はバツイチシングルマザーである)が歯科医なので、加奈子たちはみっちりと歯の磨き方を教わった。
仕上げに糸楊枝を使い、口をゆすがせて、口周りをタオルで拭いて、作業終了。
加奈子は小説の続きを書いている。一応は恋愛小説だが、彼女は中学時代の担任の先生(新米教師)に片思いして以来、恋とは無縁だった。しかも、当人は去年の「ヴァーチャル失恋」などカウントしたくない。
加奈子は義務教育時代は男子クラスメイトにいじめられていたから、しばらくは男性不信だった。それで若菜と同じ女子高に進学して、何とかギリギリ合格出来た大学も女子大だった(ちなみに若菜は高校を卒業してすぐに、いまの仕事に就いた)。
しかし、この男、秀虎は信頼するに値する人だと加奈子は思う。
「なあ、加奈?」
「なぁに、ヒデさん?」
「お前の目標は紫式部か? それとも樋口一葉か?」
な、何て!? 加奈子は仰天した。
「そ、そこまでおこがましい野心はないよ! でも、現代の作家さんたちには、目標となる人たちはいっぱいいるよ」
「『文』で食べていける。良い時代だな」
加奈子は再びパソコンに向かった。女神と人間の青年の恋物語。ピアノの音に乗って、思いは舞い上がる。
「股くぐり」のさえない青年が「天下の大将軍」になったように、この音大生の青年も世界的なジャズピアニストを目指している。そんな彼を見守る、偉大な女神。
この小説が完成したら新人賞に応募する。加奈子は決心している。
もうすぐ2月。バレンタインデーがある。当然、彼女も秀虎にチョコレートを食べさせたい。
しかし、バレンタインデーとは一応キリスト教の殉教者の記念日なのだが、「恋愛の守護聖人」とはいかにも「異教的」なキャラクター設定だ。そもそもバレンタインデーとは、クリスマスやハロウィンと同じく、多神教のお祭りがルーツなのだ。
その前に、節分がある。北海道では殻付き落花生を使うと、余市の真一伯父が教えてくれたが、加奈子は今年も伯父がリンゴを送ってくれるのを楽しみにしている。そして、そのリンゴでジャムを作るつもりだ。
真一は元々雑誌編集者だったが、脱サラして北海道の余市でリンゴ農家を始めた人だ。加奈子は毎年秋に伯父からリンゴを送ってもらっているが、一人では消費しきれないので、涼子や若菜や親船たちに分けている。
しかし、今は秀虎がいるから、今年はもっともらいたい、と、図々しく期待している。
「今日はカレーか」
秀虎は、和食以外の料理にもすっかり慣れ親しんでいた。加奈子はいつもは、カレーには豚肉を使うが、今日は奮発してビーフカレーだ。
「牛肉のカレーか…。本来はあり得ないハズのものだな?」
秀虎の指摘通り。インドのヒンドゥー教では、牛を食べるのを禁止している。シヴァ神のお使いの動物だから、「聖なるもの」だから、食べてはいけないのだ。
肉食のタブーと言えば、ユダヤ教やイスラムの豚肉禁止もある。こちらは豚が「汚れた動物」だという理由で食べてはいけないのだ。
確かに、昔の養豚は人間の汚物で飼育する場合があったから、衛生的に危険だというのもあったのだろう。しかし、もう一つ「異教との関連」もあったのではないだろうか?
「ごちそうさま」
加奈子は食器を片付け、秀虎の歯磨きの準備をした。それが終われば、彼女自身も歯を磨く。それから寝るまでは、水以外は口にしない。
加奈子は秀虎に本の読み聞かせをし、それからパソコンに向かった。秀虎はすでに眠っている。新人賞に応募する予定の小説の骨組みはだいたい出来上がっている。後は、押して叩いてを繰り返して、仕上げるだけだ。
秀虎の「根っこ」は、だいぶ成長していた。そして、手足や胴体の骨組みのようになっていた。加奈子が書いている小説のように、秀虎の体が出来上がりつつあるようだ。
しかし、まだまだ体を自由に動かせない。あくまでも、血管や神経が成長しただけで、骨格や筋肉が未発達だ。加奈子が今書いている小説の状況も、さほど変わらない。
五里霧中。でも、途中で投げ出さない。「あなたは小説家タイプではなく評論家タイプね」と言った志美先生を見返したい。
もちろん、義務教育時代に自分をいじめてバカにした連中もだ。特に、ロクに本を読みそうにないようなギャル系の女たちは、いまだに憎たらしい。もしかすると、彼女が若菜のようなロリータファッション愛好家の女の子たちに対して好意的なのは、実は「ギャル系嫌い」の反動かもしれない。
⭐
「果実は順調に実りつつある」
呂尚は言う。加奈子の家を見下ろす、例のマンションの屋上である。
「新たな星を目指すため、何隻もの『ノアの方舟』を作る必要がある。しかし、それまでに何百年もかかる」
「その鍵となるのがあの二人ですか?」
「そうだ、ブライトムーン」
ブライトムーン…ブライティと呼ばれる少女は、首を傾げた。
ブライティは回想する。かつて自分は、ヴィクトリア女王が支配する時代の英国・ロンドンの下町に生きる貧しい庶民の娘だった。アルコール依存症の父と、そんな父に暴力をふるわれる母。兄は博打で堕落し、姉は自分たち家族を養うために身を売ったが、何者かに殺された。
そして、誰かの火の不始末か、さもなくば、一家の誰かに恨みを抱く輩の仕業か、家は全焼し、彼女たち一家は焼け死んだ。
そんな彼女を「拾い上げた」のが呂尚だった。
一介の貧困少女ブリジット・スミスは死に、新たに「輝く月(Brightmoon)」という名の光と風の精霊に生まれ変わった。
「果心さん…かなり物騒なものを借りてきたそうですけど、先生が頼んだんですか?」
「ああ、あれはあいつの独断だよ」
「へ…!?」
悪霊を斬る剣。それは、人間界における核兵器に等しい要注意物件である。
「下手すりゃ、奴自身が悪霊扱いされて討伐されかねん」
「呼びましたか?」
振り返れば奴がいる。そう、噂をすれば何とやら、黒のライダースジャケットと黒のジーンズを身につけた男が来た。
彼は言う。
「私の勘では、あの子に恨みを抱いている人間の気配があるのですよ。それも、かなりどす黒いモジャモジャした嫌らしい気配でしてね」
「気配だけか?」
「私は加奈子たちの様子を探ってみましたけど、何というか…『普通の男にモテる女ほど、普通の女にねたまれやすい』とでも言いましょうかねぇ? 加奈子の親友二人くらいの美人よりも、加奈子くらいの『そこそこのかわいい子』の方が他の女にねたまれやすいようですね」
「だからどうした?」
「要するに、彼女を恨んでいる女がいるんですよ。少なくとも、『女』の生き霊の気配を感じますね」
呂尚は眉をひそめた。
「そこまで調べるために、このマンションに住んでいるのか?」
「まあ、そういう事です」
「まるでストーカーだな」
「いくら先生の発言でも、それは聞き捨てなりませんね」
そもそも、この屋上から加奈子たちの様子をうかがっている呂尚たちも、結局は似たようなものだろう。
「それに、私は父の代わりに罪滅ぼしとして、あの二人とこれから生まれてくる子孫たちを守らなければならないのですから」
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