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第十話 さよならフェアリー
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今日の夕飯は何にしようかと考え始めた頃。
不機嫌顔のコウと、困った様子の田畑がやってきた。コウと同じ制服を着た、見慣れない男子を連れて。
「いらっしゃいませ……でいいの? それとも、ただ友達を連れてきただけ?」
台所で献立を考えていた香月は、玄関ではなく勝手口から入ってきたコウに尋ねた。
「俺とこいつが友達に見えるわけ? 違うよ、客」
「それなら、応接室に案内してね。エンジュさんも呼んでくるから」
「いいよ、リビングのテーブルとかで。お茶もいらねえ」
コウは一緒に来た男子に並々ならぬ思いがあるのか、嫌そうな顔をしながら言う。それを聞いて田畑が苦い顔をし、連れてこられた男子の顔にわずかに侮蔑の表情が浮かぶのを香月は見逃さなかった。
「コウくん、いいから応接室に行って。親しくない相手になら、なおさらそういう筋は通しておくべきなの」
そうでないと付け入られる隙になるから、という言葉は飲み込んだ。それを聞いて、男子は意外そうな顔をする。
「君は、武島とは違って少しはまともそうだね」
色白で、真っ黒な髪に真っ黒な目の、やたらと整った顔立ちで男子で言う。感じの良い態度さえとればモテそうなのに、こちらを小馬鹿にしているのが透けて見えている。でも、その雰囲気に自分に通じるものを感じて、香月は変な気分になった。
「田畑先生、応接室の場所はわかりますよね? 案内、お願いします」
「ああ、わかった」
コウが不貞腐れて動く気配がないとわかって、香月は田畑に頼んだ。この険悪な生徒たちの雰囲気に困り果てていた田畑は、そそくさと台所を出ていった。あとに残された二人も、渋々といった様子でそれに続く。
(あの人がもしかして、田畑先生の言ってた、学校から足が遠のいてるって生徒かな?)
お湯が沸くのを待ちながら、香月は男子生徒のことを考えていた。
連れてこられたということは、魔法屋の客ということだ。もしかすると、学校から足が遠のいていることと今日依頼に来たことは関係があるのかもしれない。
(私とあの人、たぶんタイプが似てるんだ。……初対面であれなら、コウくんが私にあんな態度だったのも、仕方ないのかも)
コウとの一番最初に出会いを思い出し、香月は反省した。
コウのことが嫌いで、コウの知り合いというだけで香月のことまで小馬鹿にしていたあの男子。きっと、あの男子と大して変わらない態度をコウとの初対面でとったのだろうと思いいたったのだ。
ああいう態度は、自分は取り繕うのがうまいと自負している人間が、取り繕うのをやめたときにうっかりしてしまう態度なのだと感じた。香月もそうだから、それが何となくわかってしまう。
あの男子は、取り繕うのをやめたのか、コウ相手なら取り繕わなくてもいいと思っているのか。
どちらなのかわからないけれど、気になる人間だなと亜子は感じた。
「平松綾人といいます。武島くんと同じ美術部です」
エンジュを呼んで応接室にお茶を持っていくと、先ほどとは打って変わって愛想良く男子――平松綾人は言った。どうやら、エンジュの前ではきちんとした態度をしなくてはならないと思ったらしい。そんな態度を前にして、コウはますます嫌そうな顔になる。
「へえ、美術部なの。何だか、あなたはちゃんと絵を描いてそうな見た目よね。コウは、描いてるものを見せてもらうまで信用できなかったもの」
「僕も最初は、不良が内申点を気にして何らかの部活に入らなくてはって考えで入部してきたのかと思いました」
エンジュの言葉に、綾人はニコニコと返す。笑顔だけれど、コウに対して毒を吐くのを忘れないあたりがすごいなと感心してしまう。
「それで、絵のことというか、それに関係することで悩みがあるみたいで、ここに連れてきたんですよ。たぶん、平松の抱える悩みはこの店みたいなところじゃないと難しいんじゃないかと思いまして」
横から田畑が口を挟んで、情報を補った。ということは、綾人は田畑が連れてきたということか。
「先生、大丈夫です。自分の口で説明できます」
綾人はにこやかに、田畑から言葉を引き継いだ。その笑顔も、一線を引くためのものだなと感じた。香月も最初、面倒くさい大人として田畑を遠ざけようとしていたとき、そうして笑っていたからわかる。
(田畑先生に無理やり悩みを聞きだされて、話しちゃったらここに連れてこられたって感じかな)
綾人の田畑に対する微妙な態度から、香月はそう推測した。
「あの、俺……妖精みたいなものが見えるんです。それを見えなくする方法があるのなら、お願いしたいんですけど……」
綾人はひどくためらいがちに言葉を紡いだ。はじめはまっすぐにエンジュの目を見ようとしていたのに、途中からは目を伏せてしまった。その様子を見る限り、嘘を言っているようには思えない。
「妖精が見えるの。変わった目をしてるのね。でも、聞いたことはあるわ。珍しいけど、いないわけじゃないのよ、そういう人って」
綾人の話を聞いて、エンジュは言った。相槌というよりは、コウに向けての言葉のようだった。疑ったり馬鹿にしたりしていたわけではないようだけれど、どう受け止めればいいかわからなかったようだ。
「……別に、信じてないとか否定したかったわけじゃないっす。そういうの否定したら、自分の存在とか魔法を否定することになるし……」
エンジュの発言の意図が伝わったのか、コウは気まずそうにモゴモゴ言った。エンジュの手前あまり面に出さなかったけれど、それを聞いて綾人はほんの少し顔をしかめた。
「見えなくする、ねえ……そういった薬はあるけど、本当にいいの?」
じっと綾人を見つめて、エンジュは問いかける。その視線はまるで心の中を見透かそうとするようで、これをされると香月は落ち着かなくなるのだ。綾人も、居心地悪そうにソファの上で姿勢を正した。けれども、視線はそらさない。
「普通の目になりたいんです。普通の人と変わらない目で世界を見て、それで絵を描きたいんです」
綾人は、真剣な表情で言った。その眼差しには、切実な思いがこもっているように感じられた。“普通に”という言葉に、香月もいろいろ思うところがある。
「普通になりたい、か。まあ、アタシもその気持ちは理解できるつもりよ。他者にとってはそうでなくても、本人にとっては切実で、何が何でもどうにかしたい問題ってあるものだから。あなたにとって自分の目が、どうにかしたいものってことなのね」
「そうです。だから、その……魔法でどうにかできるのなら、助けてください」
「わかったわ」
エンジュが引き受けてくれるとわかって、綾人はあからさまにほっとした顔になった。そういった気の抜けた表情になると、いけ好かなさが減って、年相応に見える。
コウに対しての態度は違うにしても、ここに来てからの彼の振る舞いは、自分の望みが叶えられるのか、受け入れてもらえるのか、わからずに不安で身構えていたのかもしれない。身構えて何でもない顔をしていれば、いざうまくいかなくても平気なふりができるから。
「じゃあ、この件は香月にお任せしようかしら。薬の材料も、作り方もちゃんと教えるから。ていうか、目薬って意外に簡単に作れるものなのよ」
「えっ」
綾人と香月の驚きの声が重なった。香月のは純粋な驚きだけれど、綾人の声には落胆がありありとにじんでいる。
無理もない。他人に軽々しく相談できないような内容を、ここでならと思って吐き出して解決するかもしれないと期待したのに、実行するのがエンジュではなく自分と歳が変わらない香月だと言われたのだから。
「簡単に作れるのなら、エンジュさんが作るんじゃだめなんですか……?」
綾人からの突き刺さるような視線から逃れるように、香月はエンジュに尋ねた。不満の視線なのか、値踏みする視線なのか、とにかく彼の視線から逃れたかった。
でも、そんな香月の気持ちは汲んでくれないとばかりに、エンジュはにっこり笑う。
「やーよ。アタシ、これから田畑先生といろいろ詰めて話しなきゃいけないことがあって忙しいんだから」
その場しのぎの嘘ではなかろうかと田畑のほうを見ると、彼もコクコク頷いている。どうやら、最初からそのつもりだったらしい。
「それにあんた、薬作るのやってみたいって言ってたでしょ?」
「そうですけど……」
「別に、できもしないことをさせようってわけじゃないんだから。怖じ気づいてんじゃないわよ」
「……はい」
急に師匠モードになって言われ、香月はたじたじになって頷くしかなかった。それを見て、綾人があきらめたような溜息をついた。
「……もういいです、その人で」
「大丈夫よ。この子はただの見習いじゃなくて、今までに何件か自力で依頼をこなしてきてるから」
安心させるように綾人に言ってから、エンジュは香月に手招きした。
「今からささっと教えるからいらっしゃい。目薬自体は、本当に簡単にできるから」
含みのある言い方をされて引っかかりながらも、拒否権はないとあきらめてエンジュのあとに続いた。
エンジュと共に入った作業室は、すっかり薄暗くなっていた。
もともと、保管している薬品のために直射日光が入らないよう気をつけられて、昼間からこうこうと明るいことはない部屋なのだけれど。夕暮れが近づくと暗さがいっそう際立つ。
暗いと視界が鈍るからか、部屋中にしみこんだ様々な薬の匂いも、いつもより強く感じる。
「さてと。本当にすごく簡単なのよ。必要な材料をすりつぶして、それを正しい分量だけ精製水にまぜるの。材料は、これね」
部屋の灯りをつけてから、エンジュは香月を作業台の前に座らせた。そして目の前に、レシピの紙をすべらせる。
そこに書かれているものは、漢方薬の材料としてよく見かけるものだ。珍しいものがあるとすれば、苔くらいだろうか。
「ね? 怖いものは何も入ってないでしょ? それに、この作業台はアタシも前の持ち主もよく使い込んでるものよ。すり鉢も乳棒も。魔法が染み込んでる、良い道具だから。自分のことが信用できないのなら、道具たちのことを信頼しなさい」
「はい」
材料と作業台を前にして、香月の気持ちは引き締まった。エンジュの言葉も、背中を押してくれる。
「普通の人には見えない何かが見えてしまうのって、閉じてなきゃいけない部分が開いてしまってるのが原因なことが多いの。この薬は、それを閉じるためのものね。ほら、一般的な薬でも滞ってる流れをよくするためのものとかあるでしょ? あれみたいな感じだから、難しく考えなくていいわ」
レシピを見つめながら、これらの薬効が一体どう作用するのだろうと考えていた香月に、エンジュは言った。
どういう効き目なのかがわかって、いくらかイメージがわいた気がする。
「じゃあ、材料をすりつぶしたら、一番小さな匙に一杯すくって、百ミリリットルの精製水に溶かしてね。それを清潔なスポイトと一緒に渡してあげてね」
「わかりました」
エンジュの説明はあっさりしたもので、それだけ言うと部屋を出ていった。けれど、それと入れ違いにコウが入ってくる。
「あのさ……エンジュさん、何か言ってた?」
もじもじと、何だか言いにくそうにコウは尋ねてくる。レシピ片手に薬棚から必要なものを取り出していた香月は、少し考えてから首を振った。
「ううん、何も。薬の作り方を教えてくれただけ。コウくんが言ってる“何か”かわ何のことかわからないけど」
「そっか……」
「気がかりな事があるの?」
何か言いたいとがあるのがわかって、香月は水を向けた。香月としてと、コウの態度が気になったのだ。応接室にいるときもずっと、コウは不満そうにしていた。今の態度と見比べてよくよく考えてみると、あれは不満そうだったのではなく不安だったのかもしれない。
「前にエンジュさんが言ってたんだけど、依頼をただこなすだけじゃなく、その人にとって本当に魔法が必要かどうか考えるのも仕事だって。だから……平松にその目薬を渡すかどうか、よく考えてみてくれないか?」
コウは、どこかためらいながらそう言った。綾人のことに口を出すかどうか迷ったのだろう。もしくは、エンジュの決めたことに口を出すことを迷っていたのか。
どちらにせよ、それでも言わなければならないと思ったから言ったのだ。その意味を、香月はしっかり考えなくてはならない。
「コウくんは、この薬は必要ないって思ってる?」
香月は素直に、そう尋ねてみた。コウがこの依頼に、綾人が魔法を頼ることに、反対しているように感じたからだ。
香月の問いかけに、コウは頷いた。
「あいつが嘘を言ってるとは思わない。でも、あいつの悩みが魔法に頼ってまで解決すべきものなのかは、正直わからないんだ」
「……嫌いなわけじゃ、ないんだね」
コウの言葉がとても思いやりに満ちているように思えて、香月はそんな感想を述べていた。それを聞いて、コウは困ったように笑う。
「別に。嫌われてる自覚はあるから面白くないだけで、不幸になってほしいわけじゃないし。何かさ、香月とかあいつみたいな真面目っ子には嫌われるんだよなー」
「……それはお互い様でしょ」
やはり、香月と綾人と同類だというのは、他人も感じるものらしい。険悪な出会いのことを言われているようだとわかって、香月はむくれた。香月はたしかにコウを見て「うわ、ヤンキーだ」と思ったけれど、コウだって香月を見て可愛くないとか辛気くさいと思っていたのだろうから人のことは言えないはずだ。
「まあな。今の香月はいいとして、とにかくあいつみたいなのとは合わないんだよ。でもさ、合わないって思うことと心配する気持ちっていうのは、同居できると思うんだよ。嫌いなやつもこの世界にいてもいいと思うこと、嫌いなやつも気づかってやること。それが、自分も含めたいろんなものが生きやすい世の中を作ることにつながるだろ?」
むくれている香月を見て、コウはからかうような表情になった。それから、良い話風にしめくくろうとする。
「とにかくさ、俺はあいつに魔法は必要ないって思ってる。……最終的に判断するのは香月だけど、あいつの絵を見てから判断してくれ。話を聞いてやってくれ」
お節介を焼いたことに今さらながら照れたのか、それだけ言うとコウはそそくさと出ていってしまった。
時計を見て、香月なあわてて作業を再開した。すぐできるものだと伝えて応接室に残してきたのに、これでは待たせすぎてしまった。
急いで材料をすりつぶし、エンジュに言われたとおり、それを一番小さな匙に一杯すくって精製水に混ぜた。
材料をすりつぶした粉はいかにもな色をしていたのに、わずかにしか入れてないから精製水は透明なままだ。
そのできあがった目薬とスポイトを持って、香月は応接室に向かう。
「お待たせしました」
ノックしてからドアを開けると、綾人は眠っていたのか、ゆっくりと目を開けた。居眠りもさまになるほどの端正な顔立ちに、この人は授業中に寝ていても怒られなさそうだなと、くだらないことを香月は考えてしまう。
「あの、薬、できあがりました。危険なものじゃありませんので」
香月はスポイトに目薬を吸わせて、それを点眼してみせた。しみることも痛むこともない。ただじんわりと眼球が潤ったのを感じただけだ。
ボーッとしていた様子の綾人は、それを見て驚いた顔になる。
「……別に、疑ってないよ。ドラッグストアとか調剤薬局の人が、目の前でそんなことしないだろ」
「いや、劇物とか危険なものじゃないってことをみせておいたほうがいいかと思いまして」
「武島が作ったのならともかく、店主さんが君に任せるって言ったんだから君の作るものに何も思ってないよ」
「……コウくんも別に、変なことはしないと思いますけど」
コウのことをついかばうような口調になってしまったけれど、綾人は何も言わなかった。というより、彼が今関心を持っているのは目薬だけだ。わずかに残った迷いが振り切れたら、きっと使う気だろう。
「よかったら平松さんの絵、見せてもらっていいですか?」
綾人がその気になる前に確かめなければと、少し唐突になったけれど香月は切り出した。今から渡した目薬を取り上げる気はない。それでも、コウに言われたことを無下にはできなかった。
「絵? うん、いいよ。君とか店主さんとかなら、案外俺の絵が普通に見えるかもしれないし」
渋るかと思ったのに、綾人はすんなりと了承してくれた。それから、トートバッグの中からB4サイズのスケッチブックを取り出す。
「習作っていうか、描くために描くって感じで描いてるから大したものじゃないけど」
「きれい……」
渡されたスケッチブックを開いてすぐ、その鮮やかさに香月は目を奪われた。
学校の中庭かどこか緑の多い場所、窓際でまどろむ茶トラ猫、青空を飛び立つ鳩たち、校舎裏で練習に励む吹奏楽部員。
何気ない日常を切り取った水彩スケッチだけれど、そのどれも虹色のフィルターがかかったような、独特の色使いだった。
「平松さんには、世界がこんなふうに見えてるんですね」
「……そういう言い方をするってことは、君には俺と同じようには見えてないってことだね」
香月の言葉を聞いて、綾人はあきらかに落胆した。香月やエンジュの存在に、あるいは魔法というものに、よほど期待していたのだろう。
「そうですか。でも、同じに見えている人なんて、この世界のどこにもいないかもしれませんよ」
「どういう意味?」
「えっと……目薬を使って妖精が見えなくなったとしても、その目で見る景色と私が見てる景色は違うかもしれないし、他の人が見てるものとも違うかもしれない。その逆に同じかもしれない。でも、それは確認しようがないって言いたかったんです。自分の目に映るものが他の人にとってどうなのかって、確認しようがないですから」
咎めるように尋ねられ、困りながらも香月は言った。
これは、綾人の話を聞いたときから思っていたことなのだ。“普通の”目になりたいと綾人は言うけれど、その“普通の”基準は一体どこにあって、どう確認するのだろうと。
「現代で巨匠と呼ばれる過去の偉大な画家の中には、眼病を患っていたためにその人独特のタッチを持っていたのではないかと言われている人もいるって聞いたことがあります。病気によって健康な目の人とは見え方が異なっていたからこそ描けた絵なのではないか、と」
「……何? 結局は目薬を使うなって言いたいわけ?」
香月の話が、自分の望みを否定しているように聞こえたのだろう。綾人は不機嫌そうに手の中で目薬のボトルをもてあそんだ。病院で処方される、水薬が入っていそうな大きさと材質のボトルだ。
綾人の苛立ちに合わせたかのように波打つボトルの中の目薬を見て、香月は首を振る。
「そういうことは言いません。平松さんが必要だと思うのなら、使うべきだと思いますし」
「何だ。武島みたいに『もったいないからやめろ』とか言い出すのかと思った。そういうの、傲慢だもんな。それって、弱視の人に『お前のその目でしか見えないものがある』とか言ってメガネを与えないのと一緒だろ」
「弱視の方にとってのメガネのように、その目薬が平松さんの生活を便利にするかどうかはわからないですよ、とは私は言いますけど」
「……何だよ、それ」
綾人自らたとえを持ち出してくれたおかげで、ようやく香月は言いたいことが言えた。
魔法は与えられても、望む結果を与えられるかどうかわからない――香月の中にあった戸惑いは、つまりはそういうことだったのだ。
コウが綾人に言ったということも、本質的にはきっと同じことなのだろう。でも、自分よりもコウのほうが親切だし優しいなと思う。
コウはきっと、同じ絵を描く者として心配しているのだ。
「俺さ、武島のこと嫌いなんだよね。あいつを見てると、自分が真面目にっていうか、枠の中に収まって生きようとしてるのも、“普通に”生きようとしてるのも、バカらしくなるだろ。何で、我慢してる俺は嫌な思いして、奇をてらったり好き勝手したりしてるあいつはそれなりに周りに受け入れられて好かれてるんだよ……」
「コウくん、別に奇をてらってるわけではないと思います。たぶん、あれが彼の“普通”なんです。好き勝手にしてるっていうのは、否定しませんけど」
「あいつの生き方が“普通”? あきらかにおかしいだろ」
「それは平松さんの見え方です。コウくんの目に世界がどう映ってるかわからない以上、自分の見え方と比べて普通かどうかの議論をするのは無意味だと思います」
「……やけにあいつの肩を持つんだな」
「別に。平松さんのことを見てると、しんどいだけです……」
いつの間にか、目薬の話から「普通とは何だ」の議論にすり替わっていた。
綾人の発言には、コウへの嫌悪というより、この世界への憎しみがにじんでいた。それが理解できるぶん、綾人に言葉をかけるたび、香月の胸は軋むように痛んだ。
「……妖精を見たくなくなったのって、どうしてなんですか? 普通の目になりたいのは、何かきっかけがあったからなんですよね?」
尋ねなければならないと思い、香月は再び口を開いた。
魔法屋の仕事は、魔法そのものよりも対話を通じての“救い”が重要なのだと香月は感じている。話すことで楽になったり自分で答えを見つられたり、対話自体にカウンセリングの作用があるのだと。
でも、それはエンジュだからうまくやれていることだ。
受け止めて、共感して、ときには厳しいことを言ってくれるというエンジュの姿勢に、訪れたお客さんたちが元気になって帰っていくのを見ている。
そんなふうにうまくはできないし、この手の対話をするには同族というとんでもなく相性が悪い相手だけれど、香月は懸命に言葉を紡いだ。
「このスケッチブックを見る限り、自分の目が気に入らないとは思ってなかったと感じるんですけど。あたたかで、優しくて……すごくおだやかに世界を見つめていたように思えるので」
言いながら、香月はスケッチブックの中のまどろむ茶トラ猫の絵に見入った。鉛筆で毛の柔らかな流れまで丁寧に描き込まれているその絵は、綾人の優しい眼差しを感じられる。
きっとこの絵を描いていた頃は、少なくとも自分の目で見る世界を嫌ってはいなかったのだろう。
「……おかしなクスリでもやってるんじゃないのかって言われたんだよ」
「クスリ……?」
「お前の描く絵はおかしいって。おかしいものを描こうとして描いてるんじゃなくて、それが当たり前に見えてるものだって言い張るんなら、クスリでもやってなきゃ説明がつかないだろって言われたんだよ。奇をてらってるのか、クスリをやってるのか――そんな二択を迫られて、嫌気がさしたんだ……」
苛立ちを隠そうともせずに、綾人は自分がされたことを語った。
初めはクラスメイトのほんの冗談だったこと。それがいつの間にか周囲にも伝わって“イジり”のネタにされるようになったこと。“中毒者”などというあだ名で呼ぶ者まで現れて、それを拒むと『奇をてらってるのか、クスリをやっているのかのどちらかだ』と嘲笑されたこと。
聞きながら、香月は自分のことのように感じられて胸が苦しくなった。
そのときの教室の重苦しく嫌な空気が、簡単に想像できるようだ。いや、想像できるのではない。香月は知っているのだ。
真面目、あるいは優等生と呼ばれる人間が醜聞によって墜落させられることを。底辺に遠いところにいるからこそ、一度そういったものの魔の手が伸びてくると簡単には逃れられないことを。そして、引きずり下ろされたら最後、何度も踏みつけられ、叩かれ、嘲笑われ、ぐちゃぐちゃにされてしまうことを。
「そんなこと言われたら、嫌になりますもんね。自分の絵も、目も。……でも、この目薬をさしても妖精が見えなくなるだけで、そいつらのような薄汚れた目にはなりませんよ」
怒りのあまり拳を握りしめて、香月は言っていた。自分のことに重ねて怒りがわいているのもあるし、綾人の描く美しい絵を見てそんなことが言える品性の卑しい人間がいるということに腹が立ったのだ。
絵だから当然、好き嫌いもあるのだろう。けれども、好きに絵を描いて誰にも迷惑をかけていない綾人がそんなふうに傷つけられていいとは思えない。
「私は、平松さんの絵、好きです。きれいであたたかいと思います。安易に羨ましいとかいいななんて言えないけど……でも、その目で見て描いた絵が好きですよ」
励まそうという意図ではなく、素直な気持ちとして香月は伝えた。そんな言葉が何の役にも立たないことはわかっている。それでも、伝えたかったのだ。
「いろいろ言いましたけど、普通の目になってみるのも、いいと思います。それでこれまで見えていたものと比べてみたら……もしかしたら楽になるかもしれませんし」
「……わかった」
怒りに震える香月にやや面食らっていた様子の綾人だったけれど、噛みしめるように考えて、それから頷いた。
そして、目薬のボトルからスポイトで吸い上げて、慎重に目の中に落とした。
「……っ」
「大丈夫ですか!?」
香月にな何も感じなかった目薬は、綾人にとってはそうではなかったらしい。痛むように両目を押さえ、うつむいた。
「……すっげえしみる」
うめいてから、綾人はゆっくりと目を見開いた。
「見えますか?」
「見えねえ」
「え……」
「いや、そっちの意味じゃなくて、妖精が……今まで見えてきたものが見えない」
綾人は驚いたように目を見開いて、それから笑った。嬉しいようにも、泣きそうなようにも見える笑顔だった。
整った彼の顔には似合わない、くしゃくしゃの笑顔だ。
「……ありがとう。あの、料金って」
「今度……でいいです。材料費とか聞いてないので」
「こういうのって、言い値じゃないの? まあいいや。じゃあ、これ預かってて」
用が済んで帰ることに決めた様子の綾人は、スケッチブックを香月に差し出した。
「人質ならぬモノ質。取りに来るから」
「わかりました」
出ていく綾人の背中を、香月はスケッチブックを両手にギュッと抱きしめて見送った。そして、それからしばらく動けずにいた。
「香月ちゃん、お客さんはコウくんがちゃんと山の下まで送っていったよ。そのあと、田畑先生も帰ったみたい」
いつまでも応接室から出てこない香月を心配したのか、パスカルとヨイチが迎えに来た。綾人がひとりで帰ったのではないとわかって、香月はホッとした。夕方だし、慣れない目で帰るのは危ないだろうと思っていたのだ。
「……コウくん、優しいね。今回のこと、私よりコウくんのほうが向いてたんじゃないかって思うよ」
自分のしたこと、できたことを考えて、香月は重たい気分になった。
「どうしたのか? 落ち込んでおるのか?」
「ううん。ただ、久しぶりに他人と話して疲れて、気が滅入ってるだけだと思う」
膝に乗ってきたヨイチのするんとした背中を撫でながら、香月は悲しくなってきた。
「コウくんはたぶん、平松さんに目薬を使わせたくなかったのに……そんなの、平松さんの悩みを解決することに繋がらないから。止めるべきだったろうし、コウくんならもしかしたら止められたのかなって思うんだけど、私には無理だった。ただ彼の話を聞いて自分のことと重なって、胸がえぐられて、でも絵は好きだなって感じたからそれを伝えただけ。普通の目になってみれば何かわかるかもね、としか言えなかった……」
かけてほしい言葉を考えてかけるのが、あの場においての優しさだったのだと思う。かつては、香月もそれができていたのだ。むしろ努力してそういう能力を獲得していたぶん、他の人よりも得意だったはずだ。
でも、今はそれができない。特に今日みたいな、他人事とは思えない話を聞かされると、あふれだす憎しみを抑えるのがやっとだった。
「香月ちゃんは優しいよ。ちゃんとできてたと思うよ。その人と、いっぱいおしゃべりしようとしたんでしょ? 優しくなかったら、そんなふうに自分が苦しくなってまで何か言おうとしないよ」
落ち込む香月をなぐさめようと、パスカルがソファにのぼってきた。そして、そっと香月の頭を撫でる。
「薬を渡してハイ終わりとできたところを、そうしなかったのだからな。それに、帰っていくときの小僧の表情は、拙者にはなかなか良いものに見えたでござるよ」
「……そっか」
自分のしたことが綾人にとってよかったのか、正解だったのか。まだ全く自信が持てなかったけれど、パスカルとヨイチの言葉によってかなり気持ちは楽になった。
使い魔たちは、いつも優しい。この子たちのくれる優しさの何分の一かでも、今日、綾人にあげられていたらいいなと香月は思った。
それから数日後、週末になって綾人はやって来た。
意外なことに、コウと一緒に。
台所でエンジュにリクエストされたお菓子を作っていた香月は、勝手口から入ってくる二人を見て驚いた。
「……休みの日に一緒なんて、仲良しなの?」
「仲良しじゃねえよ。山の下のバス停の近くをうろうろしてたから、迷ってるんだろうなと思って声かけてつれてきただけ」
「迷ってないし。ただ、俺が行く方向に武島がいただけだよ。それに、目的地が同じなんだから道中で一緒になるのも当然だろ」
「ふぅん」
二人のやりとりがあまりに馬鹿らしくて、香月は手元の作業に戻った。タルト台は焼けたから、あとは卵液を流し込んで焼くだけだ。
「香月、何作ってんの?」
「エッグダルト。昨日の夜からエンジュさんが食べたい食べたいって言うから、レシピを調べてみたんだ。そしたら、案外簡単で」
「あの人、何か食べたいって言いだしたらずっと言ってるもんな。うちの母親もだわ。もしかして、女の人あるあるなのか?」
「あるあるかも。私も昨夜からずっと、湯豆腐が食べたいもん。別にそういう季節じゃないのにね」
とりとめもない香月とコウの会話を聞いていた綾人が、面白かったらしく笑いだした。なぜ笑われたのかわからない二人は、キョトンとする。
「ごめん。別に馬鹿にして笑ったわけじゃないから。ただ、何かいいなって思っただけ。君たちにとってあの店主さんは女性だってこととか、どうでもいい話をしてることとか……何か、全部いいなって思っただけ」
そう言って、綾人は柔らかな表情で笑った。
「俺さ、いろいろと誤解してたかも。何か、もっと選民意識の塊なのかと思ってた」
「センミン意識? どういうこと?」
言葉の意味がわからないのか、コウは首をかしげた。馬鹿にした様子もなく、綾人は言葉を続ける。
「武島は、自分のことを特別だと思ってるから、上から目線でいろいろ言ってくるんだと思ってたんだよ。で、武島がバイトしてるって店も、そこにいる女の子も、どうせ選民意識の塊の連中で、いけ好かない場所なんだろって。でも、来てみたらそんなことなかったし、香月と話してみて、武島が俺のために怒ってくれてたんだってわかったんだ。クラスのやつらにされたこと話したら、香月が怖い顔してて、自分のことじゃないのに怒ってくれてるんだってわかって、理解したんだよ。武島も、そうだったんだな」
「だから俺、最初から言ってたよな。俺、馬鹿になんかしてないし、お前が勝手に俺のこと嫌ってたんだろー」
「うん、そうだな。ごめん。それと、ありがと」
綾人がこの前の態度と打って変わって素直だから、コウも香月も驚いてしまった。けれども、そんなふうにいわれて嫌な気分にはならない。
「目薬さしてみて、よかったよ。妖精が見えなくなっても、特に何も変わらないんだってわかったから。むしろ、“普通”の景色はそれはそれで、きれいなんだって思えたし。……これまで選民意識を持ってたのは、俺のほうなんだって気づかされたよ。自分はこの目のおかげで特別で、ほかのやつらは俺のことなんて理解できないだろって思ってたんだって。そのせいで、好き勝手してて周りから浮いてても受け入れられてる武島のことが嫌いだったんだと思う」
ひどく恥ずかしそうに綾人は言った。でも、その顔は晴れやかだ。きっと、目が開かれたのだろう。もしくは、曇りが晴れたのだ。
妖精の見えなくなった目で世界を、自分を、見つめ直していろいろなことがわかったに違いない。
「お前の気持ちがすっきりしたんならいいんだけど、でも……もう妖精は見えないのか?」
さっぱりした綾人を見てためらったのか、コウがおそるおそる尋ねた。
コウは、綾人の絵を気に入っているようだった。綾人の目で見て描かれた独特の絵が。
だから、綾人が妖精を見られないのかもしれないと思って、惜しんでいるのだろう。
「え? 大丈夫、見えてるよ」
「え?」
「だって、目薬の効果はもう切れてるから。ずっと効果の続く薬なんてないだろ?」
綾人の言葉を信じられないというように、コウは香月を見た。だから、香月は笑って頷く。
「効果は、たぶんもって一日中くらいだったと思うよ。ずっと見えなくなってしまうものなら、エンジュさんが私に任せたりしないよ。それでも、やっぱり少し怖かったけど」
「そ、そっか。……あー、よかったあ」
コウは心底ほっとしたように言う。他人のことをそんなふうに心配できるコウは優しいと、香月は改めて思う。
「とりあえず、平松さんの気が済んでというか、気持ちがすっきりしてよかったですね」
「うん。で、お金なんだけど」
「あ、エンジュさんには『あんたが勝手に決めていいわよ』なんて言われたんですよ。だから、千円でいいです」
「安っ。でも、何となくそんなことなんじゃないかと思って、これを持ってきたんだ」
綾人はそう言って、カバンから紙を取り出して差し出した。
「え、これ……」
スケッチブックから切り離したらしいその紙には、香月が描かれていた。しかもなぜか、コウたちの高校の制服を着ている。
「うちの高校に来るんだろ? だから、ひと足先に着せてみた。似合うな」
「え? 何のこと?」
「……あれ? 田畑とそういう話したんじゃ……」
得意げな顔をしていたのに、香月の反応を見て綾人は目を泳がせる。
「あ! 焼けたみたいだな、エッグタルト。俺も食べたいな。ティータイムにしようよ。俺、お客さんなのにお茶出してもらってないし」
「いいけど」
「その前に、お手洗い借りるな。どこ?」
「ここ出て左」
焦った様子の綾人は、ごまかすようにリビングを出て、廊下へと消えていった。
残されてた香月とコウは、首をかしげるしかない。
「なーんか変なんだよなあ……」
ジッと絵に見入っていたコウが、考え込むように言う。
同じく綾人。さの言ったことに疑問を抱いていた香月はうなずきかけたけれど、その直後に拳を握りしめることになる。
「わかった! 胸だ! 香月の胸はこんなにないんだ! うまく描けてるぶん、その違和感が目立ってたんだな!」
バチンとひっぱたいてやりたいところをグッとこらえて、香月はお茶の支度を始めた。
胸のことは、香月はすごく気にしているのだ。全体に痩せ気味にしたって、自分の胸部はあまりにも発育が悪いと。そのことをわざわざ口に出されたため、腹が立って仕方がなかった。
そうして怒ったことによって、綾人の言葉は頭の中から吹っ飛んでいってしまっていた。
不機嫌顔のコウと、困った様子の田畑がやってきた。コウと同じ制服を着た、見慣れない男子を連れて。
「いらっしゃいませ……でいいの? それとも、ただ友達を連れてきただけ?」
台所で献立を考えていた香月は、玄関ではなく勝手口から入ってきたコウに尋ねた。
「俺とこいつが友達に見えるわけ? 違うよ、客」
「それなら、応接室に案内してね。エンジュさんも呼んでくるから」
「いいよ、リビングのテーブルとかで。お茶もいらねえ」
コウは一緒に来た男子に並々ならぬ思いがあるのか、嫌そうな顔をしながら言う。それを聞いて田畑が苦い顔をし、連れてこられた男子の顔にわずかに侮蔑の表情が浮かぶのを香月は見逃さなかった。
「コウくん、いいから応接室に行って。親しくない相手になら、なおさらそういう筋は通しておくべきなの」
そうでないと付け入られる隙になるから、という言葉は飲み込んだ。それを聞いて、男子は意外そうな顔をする。
「君は、武島とは違って少しはまともそうだね」
色白で、真っ黒な髪に真っ黒な目の、やたらと整った顔立ちで男子で言う。感じの良い態度さえとればモテそうなのに、こちらを小馬鹿にしているのが透けて見えている。でも、その雰囲気に自分に通じるものを感じて、香月は変な気分になった。
「田畑先生、応接室の場所はわかりますよね? 案内、お願いします」
「ああ、わかった」
コウが不貞腐れて動く気配がないとわかって、香月は田畑に頼んだ。この険悪な生徒たちの雰囲気に困り果てていた田畑は、そそくさと台所を出ていった。あとに残された二人も、渋々といった様子でそれに続く。
(あの人がもしかして、田畑先生の言ってた、学校から足が遠のいてるって生徒かな?)
お湯が沸くのを待ちながら、香月は男子生徒のことを考えていた。
連れてこられたということは、魔法屋の客ということだ。もしかすると、学校から足が遠のいていることと今日依頼に来たことは関係があるのかもしれない。
(私とあの人、たぶんタイプが似てるんだ。……初対面であれなら、コウくんが私にあんな態度だったのも、仕方ないのかも)
コウとの一番最初に出会いを思い出し、香月は反省した。
コウのことが嫌いで、コウの知り合いというだけで香月のことまで小馬鹿にしていたあの男子。きっと、あの男子と大して変わらない態度をコウとの初対面でとったのだろうと思いいたったのだ。
ああいう態度は、自分は取り繕うのがうまいと自負している人間が、取り繕うのをやめたときにうっかりしてしまう態度なのだと感じた。香月もそうだから、それが何となくわかってしまう。
あの男子は、取り繕うのをやめたのか、コウ相手なら取り繕わなくてもいいと思っているのか。
どちらなのかわからないけれど、気になる人間だなと亜子は感じた。
「平松綾人といいます。武島くんと同じ美術部です」
エンジュを呼んで応接室にお茶を持っていくと、先ほどとは打って変わって愛想良く男子――平松綾人は言った。どうやら、エンジュの前ではきちんとした態度をしなくてはならないと思ったらしい。そんな態度を前にして、コウはますます嫌そうな顔になる。
「へえ、美術部なの。何だか、あなたはちゃんと絵を描いてそうな見た目よね。コウは、描いてるものを見せてもらうまで信用できなかったもの」
「僕も最初は、不良が内申点を気にして何らかの部活に入らなくてはって考えで入部してきたのかと思いました」
エンジュの言葉に、綾人はニコニコと返す。笑顔だけれど、コウに対して毒を吐くのを忘れないあたりがすごいなと感心してしまう。
「それで、絵のことというか、それに関係することで悩みがあるみたいで、ここに連れてきたんですよ。たぶん、平松の抱える悩みはこの店みたいなところじゃないと難しいんじゃないかと思いまして」
横から田畑が口を挟んで、情報を補った。ということは、綾人は田畑が連れてきたということか。
「先生、大丈夫です。自分の口で説明できます」
綾人はにこやかに、田畑から言葉を引き継いだ。その笑顔も、一線を引くためのものだなと感じた。香月も最初、面倒くさい大人として田畑を遠ざけようとしていたとき、そうして笑っていたからわかる。
(田畑先生に無理やり悩みを聞きだされて、話しちゃったらここに連れてこられたって感じかな)
綾人の田畑に対する微妙な態度から、香月はそう推測した。
「あの、俺……妖精みたいなものが見えるんです。それを見えなくする方法があるのなら、お願いしたいんですけど……」
綾人はひどくためらいがちに言葉を紡いだ。はじめはまっすぐにエンジュの目を見ようとしていたのに、途中からは目を伏せてしまった。その様子を見る限り、嘘を言っているようには思えない。
「妖精が見えるの。変わった目をしてるのね。でも、聞いたことはあるわ。珍しいけど、いないわけじゃないのよ、そういう人って」
綾人の話を聞いて、エンジュは言った。相槌というよりは、コウに向けての言葉のようだった。疑ったり馬鹿にしたりしていたわけではないようだけれど、どう受け止めればいいかわからなかったようだ。
「……別に、信じてないとか否定したかったわけじゃないっす。そういうの否定したら、自分の存在とか魔法を否定することになるし……」
エンジュの発言の意図が伝わったのか、コウは気まずそうにモゴモゴ言った。エンジュの手前あまり面に出さなかったけれど、それを聞いて綾人はほんの少し顔をしかめた。
「見えなくする、ねえ……そういった薬はあるけど、本当にいいの?」
じっと綾人を見つめて、エンジュは問いかける。その視線はまるで心の中を見透かそうとするようで、これをされると香月は落ち着かなくなるのだ。綾人も、居心地悪そうにソファの上で姿勢を正した。けれども、視線はそらさない。
「普通の目になりたいんです。普通の人と変わらない目で世界を見て、それで絵を描きたいんです」
綾人は、真剣な表情で言った。その眼差しには、切実な思いがこもっているように感じられた。“普通に”という言葉に、香月もいろいろ思うところがある。
「普通になりたい、か。まあ、アタシもその気持ちは理解できるつもりよ。他者にとってはそうでなくても、本人にとっては切実で、何が何でもどうにかしたい問題ってあるものだから。あなたにとって自分の目が、どうにかしたいものってことなのね」
「そうです。だから、その……魔法でどうにかできるのなら、助けてください」
「わかったわ」
エンジュが引き受けてくれるとわかって、綾人はあからさまにほっとした顔になった。そういった気の抜けた表情になると、いけ好かなさが減って、年相応に見える。
コウに対しての態度は違うにしても、ここに来てからの彼の振る舞いは、自分の望みが叶えられるのか、受け入れてもらえるのか、わからずに不安で身構えていたのかもしれない。身構えて何でもない顔をしていれば、いざうまくいかなくても平気なふりができるから。
「じゃあ、この件は香月にお任せしようかしら。薬の材料も、作り方もちゃんと教えるから。ていうか、目薬って意外に簡単に作れるものなのよ」
「えっ」
綾人と香月の驚きの声が重なった。香月のは純粋な驚きだけれど、綾人の声には落胆がありありとにじんでいる。
無理もない。他人に軽々しく相談できないような内容を、ここでならと思って吐き出して解決するかもしれないと期待したのに、実行するのがエンジュではなく自分と歳が変わらない香月だと言われたのだから。
「簡単に作れるのなら、エンジュさんが作るんじゃだめなんですか……?」
綾人からの突き刺さるような視線から逃れるように、香月はエンジュに尋ねた。不満の視線なのか、値踏みする視線なのか、とにかく彼の視線から逃れたかった。
でも、そんな香月の気持ちは汲んでくれないとばかりに、エンジュはにっこり笑う。
「やーよ。アタシ、これから田畑先生といろいろ詰めて話しなきゃいけないことがあって忙しいんだから」
その場しのぎの嘘ではなかろうかと田畑のほうを見ると、彼もコクコク頷いている。どうやら、最初からそのつもりだったらしい。
「それにあんた、薬作るのやってみたいって言ってたでしょ?」
「そうですけど……」
「別に、できもしないことをさせようってわけじゃないんだから。怖じ気づいてんじゃないわよ」
「……はい」
急に師匠モードになって言われ、香月はたじたじになって頷くしかなかった。それを見て、綾人があきらめたような溜息をついた。
「……もういいです、その人で」
「大丈夫よ。この子はただの見習いじゃなくて、今までに何件か自力で依頼をこなしてきてるから」
安心させるように綾人に言ってから、エンジュは香月に手招きした。
「今からささっと教えるからいらっしゃい。目薬自体は、本当に簡単にできるから」
含みのある言い方をされて引っかかりながらも、拒否権はないとあきらめてエンジュのあとに続いた。
エンジュと共に入った作業室は、すっかり薄暗くなっていた。
もともと、保管している薬品のために直射日光が入らないよう気をつけられて、昼間からこうこうと明るいことはない部屋なのだけれど。夕暮れが近づくと暗さがいっそう際立つ。
暗いと視界が鈍るからか、部屋中にしみこんだ様々な薬の匂いも、いつもより強く感じる。
「さてと。本当にすごく簡単なのよ。必要な材料をすりつぶして、それを正しい分量だけ精製水にまぜるの。材料は、これね」
部屋の灯りをつけてから、エンジュは香月を作業台の前に座らせた。そして目の前に、レシピの紙をすべらせる。
そこに書かれているものは、漢方薬の材料としてよく見かけるものだ。珍しいものがあるとすれば、苔くらいだろうか。
「ね? 怖いものは何も入ってないでしょ? それに、この作業台はアタシも前の持ち主もよく使い込んでるものよ。すり鉢も乳棒も。魔法が染み込んでる、良い道具だから。自分のことが信用できないのなら、道具たちのことを信頼しなさい」
「はい」
材料と作業台を前にして、香月の気持ちは引き締まった。エンジュの言葉も、背中を押してくれる。
「普通の人には見えない何かが見えてしまうのって、閉じてなきゃいけない部分が開いてしまってるのが原因なことが多いの。この薬は、それを閉じるためのものね。ほら、一般的な薬でも滞ってる流れをよくするためのものとかあるでしょ? あれみたいな感じだから、難しく考えなくていいわ」
レシピを見つめながら、これらの薬効が一体どう作用するのだろうと考えていた香月に、エンジュは言った。
どういう効き目なのかがわかって、いくらかイメージがわいた気がする。
「じゃあ、材料をすりつぶしたら、一番小さな匙に一杯すくって、百ミリリットルの精製水に溶かしてね。それを清潔なスポイトと一緒に渡してあげてね」
「わかりました」
エンジュの説明はあっさりしたもので、それだけ言うと部屋を出ていった。けれど、それと入れ違いにコウが入ってくる。
「あのさ……エンジュさん、何か言ってた?」
もじもじと、何だか言いにくそうにコウは尋ねてくる。レシピ片手に薬棚から必要なものを取り出していた香月は、少し考えてから首を振った。
「ううん、何も。薬の作り方を教えてくれただけ。コウくんが言ってる“何か”かわ何のことかわからないけど」
「そっか……」
「気がかりな事があるの?」
何か言いたいとがあるのがわかって、香月は水を向けた。香月としてと、コウの態度が気になったのだ。応接室にいるときもずっと、コウは不満そうにしていた。今の態度と見比べてよくよく考えてみると、あれは不満そうだったのではなく不安だったのかもしれない。
「前にエンジュさんが言ってたんだけど、依頼をただこなすだけじゃなく、その人にとって本当に魔法が必要かどうか考えるのも仕事だって。だから……平松にその目薬を渡すかどうか、よく考えてみてくれないか?」
コウは、どこかためらいながらそう言った。綾人のことに口を出すかどうか迷ったのだろう。もしくは、エンジュの決めたことに口を出すことを迷っていたのか。
どちらにせよ、それでも言わなければならないと思ったから言ったのだ。その意味を、香月はしっかり考えなくてはならない。
「コウくんは、この薬は必要ないって思ってる?」
香月は素直に、そう尋ねてみた。コウがこの依頼に、綾人が魔法を頼ることに、反対しているように感じたからだ。
香月の問いかけに、コウは頷いた。
「あいつが嘘を言ってるとは思わない。でも、あいつの悩みが魔法に頼ってまで解決すべきものなのかは、正直わからないんだ」
「……嫌いなわけじゃ、ないんだね」
コウの言葉がとても思いやりに満ちているように思えて、香月はそんな感想を述べていた。それを聞いて、コウは困ったように笑う。
「別に。嫌われてる自覚はあるから面白くないだけで、不幸になってほしいわけじゃないし。何かさ、香月とかあいつみたいな真面目っ子には嫌われるんだよなー」
「……それはお互い様でしょ」
やはり、香月と綾人と同類だというのは、他人も感じるものらしい。険悪な出会いのことを言われているようだとわかって、香月はむくれた。香月はたしかにコウを見て「うわ、ヤンキーだ」と思ったけれど、コウだって香月を見て可愛くないとか辛気くさいと思っていたのだろうから人のことは言えないはずだ。
「まあな。今の香月はいいとして、とにかくあいつみたいなのとは合わないんだよ。でもさ、合わないって思うことと心配する気持ちっていうのは、同居できると思うんだよ。嫌いなやつもこの世界にいてもいいと思うこと、嫌いなやつも気づかってやること。それが、自分も含めたいろんなものが生きやすい世の中を作ることにつながるだろ?」
むくれている香月を見て、コウはからかうような表情になった。それから、良い話風にしめくくろうとする。
「とにかくさ、俺はあいつに魔法は必要ないって思ってる。……最終的に判断するのは香月だけど、あいつの絵を見てから判断してくれ。話を聞いてやってくれ」
お節介を焼いたことに今さらながら照れたのか、それだけ言うとコウはそそくさと出ていってしまった。
時計を見て、香月なあわてて作業を再開した。すぐできるものだと伝えて応接室に残してきたのに、これでは待たせすぎてしまった。
急いで材料をすりつぶし、エンジュに言われたとおり、それを一番小さな匙に一杯すくって精製水に混ぜた。
材料をすりつぶした粉はいかにもな色をしていたのに、わずかにしか入れてないから精製水は透明なままだ。
そのできあがった目薬とスポイトを持って、香月は応接室に向かう。
「お待たせしました」
ノックしてからドアを開けると、綾人は眠っていたのか、ゆっくりと目を開けた。居眠りもさまになるほどの端正な顔立ちに、この人は授業中に寝ていても怒られなさそうだなと、くだらないことを香月は考えてしまう。
「あの、薬、できあがりました。危険なものじゃありませんので」
香月はスポイトに目薬を吸わせて、それを点眼してみせた。しみることも痛むこともない。ただじんわりと眼球が潤ったのを感じただけだ。
ボーッとしていた様子の綾人は、それを見て驚いた顔になる。
「……別に、疑ってないよ。ドラッグストアとか調剤薬局の人が、目の前でそんなことしないだろ」
「いや、劇物とか危険なものじゃないってことをみせておいたほうがいいかと思いまして」
「武島が作ったのならともかく、店主さんが君に任せるって言ったんだから君の作るものに何も思ってないよ」
「……コウくんも別に、変なことはしないと思いますけど」
コウのことをついかばうような口調になってしまったけれど、綾人は何も言わなかった。というより、彼が今関心を持っているのは目薬だけだ。わずかに残った迷いが振り切れたら、きっと使う気だろう。
「よかったら平松さんの絵、見せてもらっていいですか?」
綾人がその気になる前に確かめなければと、少し唐突になったけれど香月は切り出した。今から渡した目薬を取り上げる気はない。それでも、コウに言われたことを無下にはできなかった。
「絵? うん、いいよ。君とか店主さんとかなら、案外俺の絵が普通に見えるかもしれないし」
渋るかと思ったのに、綾人はすんなりと了承してくれた。それから、トートバッグの中からB4サイズのスケッチブックを取り出す。
「習作っていうか、描くために描くって感じで描いてるから大したものじゃないけど」
「きれい……」
渡されたスケッチブックを開いてすぐ、その鮮やかさに香月は目を奪われた。
学校の中庭かどこか緑の多い場所、窓際でまどろむ茶トラ猫、青空を飛び立つ鳩たち、校舎裏で練習に励む吹奏楽部員。
何気ない日常を切り取った水彩スケッチだけれど、そのどれも虹色のフィルターがかかったような、独特の色使いだった。
「平松さんには、世界がこんなふうに見えてるんですね」
「……そういう言い方をするってことは、君には俺と同じようには見えてないってことだね」
香月の言葉を聞いて、綾人はあきらかに落胆した。香月やエンジュの存在に、あるいは魔法というものに、よほど期待していたのだろう。
「そうですか。でも、同じに見えている人なんて、この世界のどこにもいないかもしれませんよ」
「どういう意味?」
「えっと……目薬を使って妖精が見えなくなったとしても、その目で見る景色と私が見てる景色は違うかもしれないし、他の人が見てるものとも違うかもしれない。その逆に同じかもしれない。でも、それは確認しようがないって言いたかったんです。自分の目に映るものが他の人にとってどうなのかって、確認しようがないですから」
咎めるように尋ねられ、困りながらも香月は言った。
これは、綾人の話を聞いたときから思っていたことなのだ。“普通の”目になりたいと綾人は言うけれど、その“普通の”基準は一体どこにあって、どう確認するのだろうと。
「現代で巨匠と呼ばれる過去の偉大な画家の中には、眼病を患っていたためにその人独特のタッチを持っていたのではないかと言われている人もいるって聞いたことがあります。病気によって健康な目の人とは見え方が異なっていたからこそ描けた絵なのではないか、と」
「……何? 結局は目薬を使うなって言いたいわけ?」
香月の話が、自分の望みを否定しているように聞こえたのだろう。綾人は不機嫌そうに手の中で目薬のボトルをもてあそんだ。病院で処方される、水薬が入っていそうな大きさと材質のボトルだ。
綾人の苛立ちに合わせたかのように波打つボトルの中の目薬を見て、香月は首を振る。
「そういうことは言いません。平松さんが必要だと思うのなら、使うべきだと思いますし」
「何だ。武島みたいに『もったいないからやめろ』とか言い出すのかと思った。そういうの、傲慢だもんな。それって、弱視の人に『お前のその目でしか見えないものがある』とか言ってメガネを与えないのと一緒だろ」
「弱視の方にとってのメガネのように、その目薬が平松さんの生活を便利にするかどうかはわからないですよ、とは私は言いますけど」
「……何だよ、それ」
綾人自らたとえを持ち出してくれたおかげで、ようやく香月は言いたいことが言えた。
魔法は与えられても、望む結果を与えられるかどうかわからない――香月の中にあった戸惑いは、つまりはそういうことだったのだ。
コウが綾人に言ったということも、本質的にはきっと同じことなのだろう。でも、自分よりもコウのほうが親切だし優しいなと思う。
コウはきっと、同じ絵を描く者として心配しているのだ。
「俺さ、武島のこと嫌いなんだよね。あいつを見てると、自分が真面目にっていうか、枠の中に収まって生きようとしてるのも、“普通に”生きようとしてるのも、バカらしくなるだろ。何で、我慢してる俺は嫌な思いして、奇をてらったり好き勝手したりしてるあいつはそれなりに周りに受け入れられて好かれてるんだよ……」
「コウくん、別に奇をてらってるわけではないと思います。たぶん、あれが彼の“普通”なんです。好き勝手にしてるっていうのは、否定しませんけど」
「あいつの生き方が“普通”? あきらかにおかしいだろ」
「それは平松さんの見え方です。コウくんの目に世界がどう映ってるかわからない以上、自分の見え方と比べて普通かどうかの議論をするのは無意味だと思います」
「……やけにあいつの肩を持つんだな」
「別に。平松さんのことを見てると、しんどいだけです……」
いつの間にか、目薬の話から「普通とは何だ」の議論にすり替わっていた。
綾人の発言には、コウへの嫌悪というより、この世界への憎しみがにじんでいた。それが理解できるぶん、綾人に言葉をかけるたび、香月の胸は軋むように痛んだ。
「……妖精を見たくなくなったのって、どうしてなんですか? 普通の目になりたいのは、何かきっかけがあったからなんですよね?」
尋ねなければならないと思い、香月は再び口を開いた。
魔法屋の仕事は、魔法そのものよりも対話を通じての“救い”が重要なのだと香月は感じている。話すことで楽になったり自分で答えを見つられたり、対話自体にカウンセリングの作用があるのだと。
でも、それはエンジュだからうまくやれていることだ。
受け止めて、共感して、ときには厳しいことを言ってくれるというエンジュの姿勢に、訪れたお客さんたちが元気になって帰っていくのを見ている。
そんなふうにうまくはできないし、この手の対話をするには同族というとんでもなく相性が悪い相手だけれど、香月は懸命に言葉を紡いだ。
「このスケッチブックを見る限り、自分の目が気に入らないとは思ってなかったと感じるんですけど。あたたかで、優しくて……すごくおだやかに世界を見つめていたように思えるので」
言いながら、香月はスケッチブックの中のまどろむ茶トラ猫の絵に見入った。鉛筆で毛の柔らかな流れまで丁寧に描き込まれているその絵は、綾人の優しい眼差しを感じられる。
きっとこの絵を描いていた頃は、少なくとも自分の目で見る世界を嫌ってはいなかったのだろう。
「……おかしなクスリでもやってるんじゃないのかって言われたんだよ」
「クスリ……?」
「お前の描く絵はおかしいって。おかしいものを描こうとして描いてるんじゃなくて、それが当たり前に見えてるものだって言い張るんなら、クスリでもやってなきゃ説明がつかないだろって言われたんだよ。奇をてらってるのか、クスリをやってるのか――そんな二択を迫られて、嫌気がさしたんだ……」
苛立ちを隠そうともせずに、綾人は自分がされたことを語った。
初めはクラスメイトのほんの冗談だったこと。それがいつの間にか周囲にも伝わって“イジり”のネタにされるようになったこと。“中毒者”などというあだ名で呼ぶ者まで現れて、それを拒むと『奇をてらってるのか、クスリをやっているのかのどちらかだ』と嘲笑されたこと。
聞きながら、香月は自分のことのように感じられて胸が苦しくなった。
そのときの教室の重苦しく嫌な空気が、簡単に想像できるようだ。いや、想像できるのではない。香月は知っているのだ。
真面目、あるいは優等生と呼ばれる人間が醜聞によって墜落させられることを。底辺に遠いところにいるからこそ、一度そういったものの魔の手が伸びてくると簡単には逃れられないことを。そして、引きずり下ろされたら最後、何度も踏みつけられ、叩かれ、嘲笑われ、ぐちゃぐちゃにされてしまうことを。
「そんなこと言われたら、嫌になりますもんね。自分の絵も、目も。……でも、この目薬をさしても妖精が見えなくなるだけで、そいつらのような薄汚れた目にはなりませんよ」
怒りのあまり拳を握りしめて、香月は言っていた。自分のことに重ねて怒りがわいているのもあるし、綾人の描く美しい絵を見てそんなことが言える品性の卑しい人間がいるということに腹が立ったのだ。
絵だから当然、好き嫌いもあるのだろう。けれども、好きに絵を描いて誰にも迷惑をかけていない綾人がそんなふうに傷つけられていいとは思えない。
「私は、平松さんの絵、好きです。きれいであたたかいと思います。安易に羨ましいとかいいななんて言えないけど……でも、その目で見て描いた絵が好きですよ」
励まそうという意図ではなく、素直な気持ちとして香月は伝えた。そんな言葉が何の役にも立たないことはわかっている。それでも、伝えたかったのだ。
「いろいろ言いましたけど、普通の目になってみるのも、いいと思います。それでこれまで見えていたものと比べてみたら……もしかしたら楽になるかもしれませんし」
「……わかった」
怒りに震える香月にやや面食らっていた様子の綾人だったけれど、噛みしめるように考えて、それから頷いた。
そして、目薬のボトルからスポイトで吸い上げて、慎重に目の中に落とした。
「……っ」
「大丈夫ですか!?」
香月にな何も感じなかった目薬は、綾人にとってはそうではなかったらしい。痛むように両目を押さえ、うつむいた。
「……すっげえしみる」
うめいてから、綾人はゆっくりと目を見開いた。
「見えますか?」
「見えねえ」
「え……」
「いや、そっちの意味じゃなくて、妖精が……今まで見えてきたものが見えない」
綾人は驚いたように目を見開いて、それから笑った。嬉しいようにも、泣きそうなようにも見える笑顔だった。
整った彼の顔には似合わない、くしゃくしゃの笑顔だ。
「……ありがとう。あの、料金って」
「今度……でいいです。材料費とか聞いてないので」
「こういうのって、言い値じゃないの? まあいいや。じゃあ、これ預かってて」
用が済んで帰ることに決めた様子の綾人は、スケッチブックを香月に差し出した。
「人質ならぬモノ質。取りに来るから」
「わかりました」
出ていく綾人の背中を、香月はスケッチブックを両手にギュッと抱きしめて見送った。そして、それからしばらく動けずにいた。
「香月ちゃん、お客さんはコウくんがちゃんと山の下まで送っていったよ。そのあと、田畑先生も帰ったみたい」
いつまでも応接室から出てこない香月を心配したのか、パスカルとヨイチが迎えに来た。綾人がひとりで帰ったのではないとわかって、香月はホッとした。夕方だし、慣れない目で帰るのは危ないだろうと思っていたのだ。
「……コウくん、優しいね。今回のこと、私よりコウくんのほうが向いてたんじゃないかって思うよ」
自分のしたこと、できたことを考えて、香月は重たい気分になった。
「どうしたのか? 落ち込んでおるのか?」
「ううん。ただ、久しぶりに他人と話して疲れて、気が滅入ってるだけだと思う」
膝に乗ってきたヨイチのするんとした背中を撫でながら、香月は悲しくなってきた。
「コウくんはたぶん、平松さんに目薬を使わせたくなかったのに……そんなの、平松さんの悩みを解決することに繋がらないから。止めるべきだったろうし、コウくんならもしかしたら止められたのかなって思うんだけど、私には無理だった。ただ彼の話を聞いて自分のことと重なって、胸がえぐられて、でも絵は好きだなって感じたからそれを伝えただけ。普通の目になってみれば何かわかるかもね、としか言えなかった……」
かけてほしい言葉を考えてかけるのが、あの場においての優しさだったのだと思う。かつては、香月もそれができていたのだ。むしろ努力してそういう能力を獲得していたぶん、他の人よりも得意だったはずだ。
でも、今はそれができない。特に今日みたいな、他人事とは思えない話を聞かされると、あふれだす憎しみを抑えるのがやっとだった。
「香月ちゃんは優しいよ。ちゃんとできてたと思うよ。その人と、いっぱいおしゃべりしようとしたんでしょ? 優しくなかったら、そんなふうに自分が苦しくなってまで何か言おうとしないよ」
落ち込む香月をなぐさめようと、パスカルがソファにのぼってきた。そして、そっと香月の頭を撫でる。
「薬を渡してハイ終わりとできたところを、そうしなかったのだからな。それに、帰っていくときの小僧の表情は、拙者にはなかなか良いものに見えたでござるよ」
「……そっか」
自分のしたことが綾人にとってよかったのか、正解だったのか。まだ全く自信が持てなかったけれど、パスカルとヨイチの言葉によってかなり気持ちは楽になった。
使い魔たちは、いつも優しい。この子たちのくれる優しさの何分の一かでも、今日、綾人にあげられていたらいいなと香月は思った。
それから数日後、週末になって綾人はやって来た。
意外なことに、コウと一緒に。
台所でエンジュにリクエストされたお菓子を作っていた香月は、勝手口から入ってくる二人を見て驚いた。
「……休みの日に一緒なんて、仲良しなの?」
「仲良しじゃねえよ。山の下のバス停の近くをうろうろしてたから、迷ってるんだろうなと思って声かけてつれてきただけ」
「迷ってないし。ただ、俺が行く方向に武島がいただけだよ。それに、目的地が同じなんだから道中で一緒になるのも当然だろ」
「ふぅん」
二人のやりとりがあまりに馬鹿らしくて、香月は手元の作業に戻った。タルト台は焼けたから、あとは卵液を流し込んで焼くだけだ。
「香月、何作ってんの?」
「エッグダルト。昨日の夜からエンジュさんが食べたい食べたいって言うから、レシピを調べてみたんだ。そしたら、案外簡単で」
「あの人、何か食べたいって言いだしたらずっと言ってるもんな。うちの母親もだわ。もしかして、女の人あるあるなのか?」
「あるあるかも。私も昨夜からずっと、湯豆腐が食べたいもん。別にそういう季節じゃないのにね」
とりとめもない香月とコウの会話を聞いていた綾人が、面白かったらしく笑いだした。なぜ笑われたのかわからない二人は、キョトンとする。
「ごめん。別に馬鹿にして笑ったわけじゃないから。ただ、何かいいなって思っただけ。君たちにとってあの店主さんは女性だってこととか、どうでもいい話をしてることとか……何か、全部いいなって思っただけ」
そう言って、綾人は柔らかな表情で笑った。
「俺さ、いろいろと誤解してたかも。何か、もっと選民意識の塊なのかと思ってた」
「センミン意識? どういうこと?」
言葉の意味がわからないのか、コウは首をかしげた。馬鹿にした様子もなく、綾人は言葉を続ける。
「武島は、自分のことを特別だと思ってるから、上から目線でいろいろ言ってくるんだと思ってたんだよ。で、武島がバイトしてるって店も、そこにいる女の子も、どうせ選民意識の塊の連中で、いけ好かない場所なんだろって。でも、来てみたらそんなことなかったし、香月と話してみて、武島が俺のために怒ってくれてたんだってわかったんだ。クラスのやつらにされたこと話したら、香月が怖い顔してて、自分のことじゃないのに怒ってくれてるんだってわかって、理解したんだよ。武島も、そうだったんだな」
「だから俺、最初から言ってたよな。俺、馬鹿になんかしてないし、お前が勝手に俺のこと嫌ってたんだろー」
「うん、そうだな。ごめん。それと、ありがと」
綾人がこの前の態度と打って変わって素直だから、コウも香月も驚いてしまった。けれども、そんなふうにいわれて嫌な気分にはならない。
「目薬さしてみて、よかったよ。妖精が見えなくなっても、特に何も変わらないんだってわかったから。むしろ、“普通”の景色はそれはそれで、きれいなんだって思えたし。……これまで選民意識を持ってたのは、俺のほうなんだって気づかされたよ。自分はこの目のおかげで特別で、ほかのやつらは俺のことなんて理解できないだろって思ってたんだって。そのせいで、好き勝手してて周りから浮いてても受け入れられてる武島のことが嫌いだったんだと思う」
ひどく恥ずかしそうに綾人は言った。でも、その顔は晴れやかだ。きっと、目が開かれたのだろう。もしくは、曇りが晴れたのだ。
妖精の見えなくなった目で世界を、自分を、見つめ直していろいろなことがわかったに違いない。
「お前の気持ちがすっきりしたんならいいんだけど、でも……もう妖精は見えないのか?」
さっぱりした綾人を見てためらったのか、コウがおそるおそる尋ねた。
コウは、綾人の絵を気に入っているようだった。綾人の目で見て描かれた独特の絵が。
だから、綾人が妖精を見られないのかもしれないと思って、惜しんでいるのだろう。
「え? 大丈夫、見えてるよ」
「え?」
「だって、目薬の効果はもう切れてるから。ずっと効果の続く薬なんてないだろ?」
綾人の言葉を信じられないというように、コウは香月を見た。だから、香月は笑って頷く。
「効果は、たぶんもって一日中くらいだったと思うよ。ずっと見えなくなってしまうものなら、エンジュさんが私に任せたりしないよ。それでも、やっぱり少し怖かったけど」
「そ、そっか。……あー、よかったあ」
コウは心底ほっとしたように言う。他人のことをそんなふうに心配できるコウは優しいと、香月は改めて思う。
「とりあえず、平松さんの気が済んでというか、気持ちがすっきりしてよかったですね」
「うん。で、お金なんだけど」
「あ、エンジュさんには『あんたが勝手に決めていいわよ』なんて言われたんですよ。だから、千円でいいです」
「安っ。でも、何となくそんなことなんじゃないかと思って、これを持ってきたんだ」
綾人はそう言って、カバンから紙を取り出して差し出した。
「え、これ……」
スケッチブックから切り離したらしいその紙には、香月が描かれていた。しかもなぜか、コウたちの高校の制服を着ている。
「うちの高校に来るんだろ? だから、ひと足先に着せてみた。似合うな」
「え? 何のこと?」
「……あれ? 田畑とそういう話したんじゃ……」
得意げな顔をしていたのに、香月の反応を見て綾人は目を泳がせる。
「あ! 焼けたみたいだな、エッグタルト。俺も食べたいな。ティータイムにしようよ。俺、お客さんなのにお茶出してもらってないし」
「いいけど」
「その前に、お手洗い借りるな。どこ?」
「ここ出て左」
焦った様子の綾人は、ごまかすようにリビングを出て、廊下へと消えていった。
残されてた香月とコウは、首をかしげるしかない。
「なーんか変なんだよなあ……」
ジッと絵に見入っていたコウが、考え込むように言う。
同じく綾人。さの言ったことに疑問を抱いていた香月はうなずきかけたけれど、その直後に拳を握りしめることになる。
「わかった! 胸だ! 香月の胸はこんなにないんだ! うまく描けてるぶん、その違和感が目立ってたんだな!」
バチンとひっぱたいてやりたいところをグッとこらえて、香月はお茶の支度を始めた。
胸のことは、香月はすごく気にしているのだ。全体に痩せ気味にしたって、自分の胸部はあまりにも発育が悪いと。そのことをわざわざ口に出されたため、腹が立って仕方がなかった。
そうして怒ったことによって、綾人の言葉は頭の中から吹っ飛んでいってしまっていた。
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