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第十九話 舞踏会の夜に連れ去って2

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「……クレーフェ卿?」
「その呼ばれ方は、悲しくて胸が痛むね」
「うそ……」
「本当だよ。気づいているとばかり思っていたよ」

 猫型の仮面で目元を隠した男性は、ミュリエルにとって知らない人だ。ミュリエルの知っているメルヒオルは、ネコ科の大型獣を思わせる獣の頭がついているのだから。

「私だと気づかずについてきていたのか。……ミュリエル、君はもっと警戒心を持たなくてはいけないよ。簡単にさらわれてしまう」

 メルヒオルを名乗る紳士は困ったように言って、悩ましげにこめかみを押さえた。その仕草は、まさしく彼のものだ。

「どうしてここに?」
「今夜の夜会に君が参加すると聞いたから。付きまとうようなことをして、すまない。だが、どうしても誤解を解きたかったんだ」

 言いながら、メルヒオルはミュリエルの手首を掴む。逃げられないようにということなのだろう。その必死さに、ミュリエルは戸惑った。
 心の傷ついた部分は、まだメルヒオルのことを拒んでいる。だが、別の部分は目の前の彼が何を語るのか、期待してしまっている。

「説明するより、見てもらったほうが早いから。……来て」

 ミュリエルが抵抗しないとわかると、手を引いてメルヒオルは歩きだした。
 テラスと会場の境界線ギリギリのところに立つと、しばらく当たりを見回す。それから、一点を指差した。

「あそこにいるのが、誰だかわかるよね?」

 メルヒオルが指差す先にいるのは、女神と見紛う美貌の貴婦人――ファルケンハイン公爵夫人・カミラだ。今夜は王家主催の舞踏会とあって、以前見たときよりもきらびやかだ。菫色の一見すると地味なドレスをまとい、肩から胸元の美しいラインを惜しげなく晒している。控えめな意匠の首飾りしかつけていないが、優雅に結い上げた彼女の豊かな金髪が、何よりも美しい飾りとなり、全身を華やかに演出していた。

「……公爵夫人ですね」
「じゃあ、その隣にいる人を見て」

 ミュリエルが一気に不機嫌になったのを感じ取って、メルヒオルはあわてて言った。
 カミラの隣に立っているのは、彼女より十歳ほどは上に見える美丈夫だ。ミュリエルの父と同じくらいの年齢かさらに上に見えるが、若いミュリエルが思わず見惚れてしまうほどの魅力がある。青年の頃はおそらくもっと驚異的な魅力を放っていたことだろう。

「あの方は、どなたですか? 公爵夫人がひどくまとわりついていますが」

 美丈夫の隣に立つカミラはマタタビを嗅がされたネコように、身をくねらせしなだれかかっている。そのとても幸せそうな姿を見て、ミュリエルは無意識のうちに拳を握りしめていた。

「ファルケンハイン公爵だよ。つまり、あのふたりがリーケとリカルドの両親だ」
「なるほど……」

 美少女と美少年の両親はさすが反則的な美しさだと、目が痛くなりそうなほどまばゆい並びを見てミュリエルは思った。
 だが、この場でリカとリケの両親を紹介される意味がわからない。訝(いぶか)る視線を向けると、それが伝わったのか、メルヒオルはためらいがちに仮面に手をかける。

「見てもらえば、わかるから」
「……!」

 仮面を外した姿に、ミュリエルは思わず目を疑った。
 そこにあったのは目を眇(すが)めてしまいそうなほどに眩しい美貌だった。ファルケンハイン公爵を若くしたような。

「え……どうして……?」
「リカとリケは親戚だって言っただろう? 私とファルケンハイン卿は、はとこなんだ。年はかなり離れているけれど、何の因果かこんなに似てしまって……」

 説明を終えると用は済んだとばかりに、メルヒオルは再びミュリエルの手を引いてテラスに戻っていった。

「あの……まだよくわらなかいのですけれど」

 思いがけず美しいものを一気に目にしてしまい、ミュリエルは混乱している。しかも、疑問は何ひとつ解決していない。

「ミュリエルは、私と公爵夫人がただならぬ関係だと思ってるんだよね? それが誤解だと伝えたかったんだ。夫人は今も昔も公爵にベタ惚れで、他の人は眼中にないよ。そのせいで、あるときから追い回されるようになって、それで逃げていたんだ」
「え? 夫人から逃げていたのですか? てっきり、夫人との関係を知られて、公爵から逃げているのかと……」
「違う。……逃げなければ彼女に食われてしまうと思って、必死だったんだ……」

 メルヒオルは美しい顔を歪め、悩ましげに溜息をついた。この美男子があの獣頭のメルヒ先生とは思えず、ミュリエルは落ち着かない。

「どうして追い回されることになったのですか?」

 あまりに好みド真ん中の美形を前に、ミュリエルはつい頬を赤らめる。

「公爵が体調を崩されて、夫婦仲に支障をきたすようになったらしいんだ。その……仲の良さと夫人の美しさの秘訣は愛の営みにあったそうで。おかしくなってしまって夫人は、それでよく似た私に目をつけたんだ」
「おお……」

 大人な話題に、今度は別の意味で赤面することになり、ミュリエルは誤魔化すように扇子であおいだ。

「一体何があって、夫婦仲は修復されたんですか?」
「リカだよ。あの子が君からもらった薬を公爵に――自分の父親に盛ったんだ」
「……勢力増強剤!?」
「そう。それで公爵はいろいろな意味で元気になり、夫婦仲は元通り。めでたしめでたし、というわけ」

 メルヒオルとミュリエルは、同時に息を吐いた。語るのも聞くのもげっそりする話だった。

「追われる理由がなくなって、よかったですね。それに、元の姿に戻ることができて」

 メルヒオルの美しい、なじみのない顔を見つめてミュリエルは言った。
 自分の顔が嫌いで、迫害されて生きづらいと言っていた彼の言葉の意味を、今ようやく理解した。ミュリエルが思っていたこととは真逆だが、たしかにこれだけ美しいと生きるのも大変だろうなと思う。
 それでも、もう追われていないし、獣の頭ではない。本当に、ミュリエルと期限付きの婚約をする必要はなくなったのだ。
 そのことに思い至り、今更なのに寂しくなった。

「あのときは、ひどいことを言ってしまって申し訳ありませんでした。自分ばかりが傷ついたと思って、先生のお話を聞こうともしないで……」

 素直に、非礼を詫びた。今度こそ、本当に無関係になるのだから。
 だが、メルヒオルは静かに首を振って、ひざまずいた。

「謝らなければならないのは、私のほうだ。あのとき、君に拒絶されたことに傷ついて、怯えて、誤解を解くために追いすがる勇気が出せなかったのだから。すまなかった」
「そんな……」

 メルヒオルに切なそうな眼差しで見上げられ、ミュリエルは目眩がした。目が眩むほどの美貌とはこのことか、などと考えてしまう。

「それで、ミュリエルさえよければ、改めて求婚させてくれないか。――どうか、私と結婚してほしい」
「……!」

 思わぬ言葉に、ミュリエルは大混乱に陥った。
(無理無理! こんな美形なんて絶対無理! 死んでしまうわ! 心臓がもたない!)
 変な顔をしないように必死に無表情を貫きながら、心の中では絶叫している。落ち着かなくてはと思うが、冷静になんてなれない。頭のほんの片隅に残されている冷静な思考も、「なぜ?」と「無理!」を繰り返していた。

「……どうしてですか? メルヒ先生なら、わたくしなんかより素晴らしい方を妻に望めるでしょう?」

 何とか取り繕って言うと、すかさずメルヒオルは首を振り、捨てられた子犬のような目で見上げてくる。

「ミュリエルでなくてはだめなんだ。君が好きだから……!」

 その言葉を耳にしたミュリエルは、ついに「死んだ!」と思った。撃ち抜かれたかのような衝撃が胸に走り、たまらず後ろに倒れる。

「ミュリエル!」

 その身体を急いでメルヒオルが抱きとめた。そして、悲しそうに問いかける。

「やはり、私のことが嫌いなのか……?」

 不安で、悲しそうな顔で覗き込む。美形のそんな顔は反則だ。

「……好き」

 耐えられず、ミュリエルは鼻血を流して気を失った。
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