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第十九話 舞踏会の夜に連れ去って1

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「はい、これをあげましょう」
「え?」

 声をかけられたことに戸惑っているミュリエルに、仮面の紳士は軽く握った拳を差し出してきた。ミュリエルが首を傾げると、ポンッと音がして拳の中から薄紅色の薔薇が飛び出した。

「どうぞ。いい香りだから、嗅いでごらん」
「あ、ありがとうございます」

 花を受け取ると、ミュリエルにだけ聞こえる声で紳士は言う。もしかして悪臭に悩まされていたことを気づかれたのかとちょっぴり気まずくなったが、嗅いでみるとたしかに良い香りがした。

「こういった場所に不慣れなご令嬢に一方的に話しかけ続け、彼女が気分を悪くしていることにも気づかないほうがどうかしていると思いますよ」

 何やら文句を言う子爵家三男に、紳士は穏やかに言葉を返した。それから、ミュリエルの肩をそっと抱く。

「少し風に当たりに行きましょうか?」
「はい……」

 決していやらしくない強引さで連れ出され、戸惑いつつもミュリエルは歩きだしてしまった。
 悪臭と厚かましい男性から解放されるという安堵はあったが、それ以上にドキドキしている。舞踏会の夜、見知らぬ、顔もわからぬ男性に肩を抱かれて連れ去られるという状況に、不覚にもときめいているのだ。

「あー、緊張した」

 テラスまでやってくるとパッと手を離し、紳士はまるで少年のように言った。  
 顔は隠れていて見えないが、背が高くすらりとしていて、なかなか素敵な雰囲気の男性だ。それなのに、その雰囲気にそぐわない言動に、ミュリエルは拍子抜けした。

「こういう場に慣れていなくて、抜け出してしまおうかと思っているときに困っている様子の君を見つけたんだ。少しは君の助けになれたかい?」

 仮面の紳士に問われ、ミュリエルはコクコクと頷いた。
 ロマンティックな展開を期待していただけで、助けられたことが有り難くないわけではない。
 ミュリエルが頷くのを見て、紳士は安心したように口元に笑みを浮かべた。

「ああいうときは、すぐそばにいた母君に助けを求めるか、『父に呼ばれているんです』なんて言って逃げてしまうのがいいよ」
「わかりました」
「慣れてくると、自然にできるようになると思うけどね。……かく言う私は、未だ慣れることができず人酔いしてしまったのだけれど。情けない話だよ」

 紳士はそう言って、石造りの彫刻が見事な欄干に寄りかかった。
 口調もくだけているし、態度もフランクだ。この紳士には自分は子供扱いされているのだなと思って、ミュリエルは何だか肩の力が抜けた。

「夜風に当たって、少しは落ち着いたかな」
「はい」
「それはよかった。本当なら、君のようなうら若い女性がこんなところに男とふたりきりというのもよくないからね。長居せずに戻ろう」

 男性に言われ、ミュリエルは会場を振り返った。
 いつの間にか音楽はダンスのためのものに変わっている。戻れば、誰かと踊らなくてはならない。そのことを思い出すと、唐突に面白くなくなった。

「猫仮面様は、わたくしに何かなさったりしない安全な方でしょう? ……もう少し、ここにいます」

 仮面は猫の形をしていたから、そう適当に名づけた。
 もらった薔薇の香りを嗅ぎながらすねている様子のミュリエルを見て、男性はクスッと笑った。
 ダンスに誘ってもくれないこの男性も、何だか面白くない。
 あらゆる男性に自分が求められているだなんて自惚れはないが、こうして縁ができたのに何の意識もしてもらえない様子なのは気に入らない。
 名乗らないし、こちらの名前も聞かれていない。顔もわからないから、このまま会場に戻ったらきっとそれっきりだ。
(誘ったら、一曲くらい踊ってくださるかしら?)
 このまま別れるのは惜しい。仮面の横顔を見て、そんなことをミュリエルは思う。

「どうして、そのような仮面をつけていらっしゃるのですか?」

 ダンスに誘おうと思ったのに、口をついて出たのはそんな問いだった。だが、気になっていたのはたしかだ。普通の舞踏会なのに、ひとり仮面舞踏会のような紳士は浮いている。

「これ? 可愛いでしょう?」
「はい、可愛いですけれど……」

 どうやらはぐらかされたようで、ミュリエルはこっそり唇を尖らせる。

「これはね、世を忍ぶ仮の姿。今夜は特に、目立ちたくなくて」

 ミュリエルがすねたのがわかると、紳士はあわてたように付け加えた。

「……そうやってこそこそしていらっしゃるのは、何か悪いことでもなさったのですか?」

 仮面なんてつけていたら、余計に目立ちそうなのになあと思いながら尋ねる。

「どうだろう。悪いことはしていないつもりなんだけど」

 紳士は肩をすくめ、困ったように呟いた。
 そういえば、悪いことをしたわけではないのに追いかけられていると言っていた人がいたなと、ミュリエルは思い出す。話を聞いたときは「なんてひどい」と同情したが、真実は違っていた。

「ねえ、夜会は退屈かな?」

 胸に棘のように刺さっている出来事を思い出し不機嫌になったミュリエルに、紳士は尋ねた。
 退屈か、否か。初めから楽しいことを期待してやってきていたわけではないとはいえ、予想ではもう少し面白い場所だと思っていたのだ。そう考えると、自分は今、この場所にいることを楽しめていないのだと思い至る。

「ええ、退屈です。ここでは良い子にしていなくてはならないし、楽しませてくれるようなものもありませんもの」

 淑女らしからぬ、まるで駄々っ子のような言い分を聞いて、紳士は面白そうに笑った。
 その笑い声がどことなくメルヒオルに似ている気がして、ミュリエルの胸はチクリと痛んだ。
 おそらく、年の頃や背格好が近いから、無意識のうちに重ねてしまっているだけなのだろう。そうやって冷静に考えると、余計に胸が痛む。

「退屈なら、おじさんと今から悪いことをしに行こうか」
「悪いこと?」

 首を傾げるミュリエルに、紳士は手を差し伸べた。もう片方の手には、ステッキが握られている。男性が外出時に持ち歩く、ごく一般的な杖に見えるが、それが仮面紳士の身体を引き上げるようにどんどん浮いていっているのだ。

「さあ、飛ぼう」

 浮き上がった紳士は、欄干に足をかけている。今、手を掴まなければ間に合わないと思い、一瞬迷ってから、ミュリエルはその手を取った。

「行こうか、夜の散歩に」
「はい」

 ミュリエルの手をギュッと掴み、軽々と紳士は浮上していく。ふたりとも、まるで身体の重さなどなくなってしまったかのようだ。

「よっと……」
「きゃっ」

 紳士はステッキを持ったほうの手でミュリエルの身体を抱き寄せて、先ほどまでつないでいた手にステッキを持ち替えた。異性とそんなふうに密着したことのないミュリエルは、突然のことに真っ赤になってあわてた。

「しっかり掴まって。腰でも肩にでも。……安全面を考えると、それしかないんだ」
「……はい」

 恥ずかしい気持ちと落ちたくないという恐怖がせめぎ合い、最終的に恐怖が勝った。恥じらいを捨て去り、ミュリエルはガシッと紳士にしがみつく。

「慣れたら、目を開けてごらん。なかなか良い眺めだよ」

 そう声をかけられ、おそるおそる目を開ける。

「…………」

 薄青から濃紺への徐々に色を変える空に、かすかに浮かぶ星が見える。筆でサッと刷いたような雲も。真下を見ると、たくさんの明かりが灯されて輝く王城が小さく光っていた。
 昼間飛ぶのとは違う、夜だけの特別な空。
 そこから見える特別な光景に、ミュリエルは言葉を失っていた。
(きれい。……でも、本物の星空って、意外と地味なのね)
 こんなときに思い出してしまうのは、メルヒオルが魔術で見せてくれた夜空と流星だ。そして、箒で空を飛んだときの感激も思い出す。

「……どうしたの? 怖いのかい?」

 黙りこくったミュリエルの顔を、紳士が心配そうに覗き込む。怖いわけではないから首を振るが、そうすると涙があふれてきてしまった。
 平気だと思っていたのに、楽しかったことを思い出すとだめだった。

「すみません……少し、悲しくなってしまって」
「悲しい思い出でも、思い出した?」

 紳士は、あやすようにミュリエルの背を撫でる。そのためらいがちな手つきがまた、メルヒオルを思い出させる。

「いいえ。悲しい思い出ではなくて、約束を思い出したんです。叶わなかった約束を。……いつか夜空を飛ぼうねって、約束したんです」

 仮面の紳士とは、きっと今夜限りだ。だから、誰にも話すことのない思い出を明かしてしまってもいいと思って口にした。

「夜空を飛ぶのならその方とって思っていたので……少し悲しくなってしまったんです。すみません」
「……そうか」

 景色を見るどころではなくなったミュリエルを、紳士はギュッと抱きしめた。
 徐々にふたりの身体は加工していき、やがてテラスに降り立っていた。

「すみません。楽しませようとしてくださったのに、泣いたりなんてして……わたくしはまだ、こういった夜会に来るべきではなかったのかもしれません」

 感情を内に秘めてきちんと淑女らしく振る舞えないことに、ミュリエルは自分が情けなくなった。そんなミュリエルを慰めるように、紳士は優しく髪を撫でてくれた。

「……すみません」
「謝らないで。謝らなければならないのは、私のほうだ。……ミュリエル」
「え……?」

 突然名を呼ばれ、戸惑った。
 名乗っていないはずなのに。そんなふうに親しげに呼ばれるのはおかしい。それに……ミュリエルと呼んだ声が、あまりにも彼に似ていた。

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