上 下
31 / 39

第十七話 さよなら、メルヒ先生2

しおりを挟む
にっこりと笑顔を作ってミュリエルは言う。
 女の武器は笑顔だと、母に教えられたのを思い出したのだ。
 笑顔とは、とても便利なものだからと。
 本心から笑えば、相手に喜びを伝えることができるし、内心では面白くなくても笑えばそれを隠すことができる。そして、過酷な場面で笑えば、それは防御にも威嚇にもなると母は教えてくれた。
 防御でも威嚇でもある笑みに、メルヒオルがたじろぐのがわかった。

「クレーフェ卿、わたくしとの婚約を、破棄してください」

 一語一語はっきり区切るように、ミュリエルは発音した。それを受け止めて、メルヒオルの顔が歪む。
 人は絶望したとき、こんな顔をするのかななどとミュリエルは思った。

「この場合は、破棄ではなく解消というのでしょうね。どちらかが一方的に破るわけではなくて、双方の合意で取り消すんですもの」
「ミュリエル、待ってくれ……」
「待ちません。わたくし、もう十分にあなたに協力しましたから。……真実を知らされず、欺かれた状態で」

 ミュリエルが口を開くたびにメルヒオルがどんどん傷ついていくのがわかった。だが、それに構う余裕はなかった。ミュリエルにとって、今一番傷ついているのは自分自身で、その他のことはどうだってよかったのだから。

「わたくしがこの屋敷に来て半年近くが過ぎました。その間、わたくしはあなたから丁寧に魔術を教えていただきましたから、この時間についての不満はございません。ですが、これ以上は無理です」

 言いながら、ミュリエルは目を伏せた。
 メルヒオルと過ごした時間を思い出すと、猛烈に悲しくなったのだ。魔術を教わりながらのこの半年は、穏やかで、それでいて刺激的で、とても楽しかったから。それだけに悲しみも深い。
 何事かトラブルを抱えているメルヒオルを助けるつもりで承諾した、期間限定の婚約。期限はメルヒオルが人間の姿に戻るまでという曖昧さで、最初の数ヶ月はどうなるのだろうと不安だった。
 だが、魔術を教わるのが楽しくて、メルヒオルのそばが心地良くて、ようやく最近になって「まあいいか」と思えるようになってきたのだ。

「……まさか、不倫の偽装工作のための婚約とは知りませんでしたから。知らなかったから、無邪気に引き受けることができたんです。困っているあなたを助けられればと、引き換えに魔術を教えていただければそれでいいかと、思うことができたんです。でも、知ったからには、もう無理です」
「ミュリエル、違う! 違うんだ……!」
「聞きたくありません!」

 弁解しようとするメルヒオルに苛立って、ミュリエルは初めて声を荒らげた。悲しそうにしているが、その顔がさらに苛つかせる。泣きたいのはこっちだと、叫びたくなる。

「何も言わないでください。聞きたくありません。……聞けば聞くだけ、惨めになりますもの。ファルケンハイン公爵夫人と会っただけで、彼女からクレーフェ卿のことを聞かされただけで、もう十分わたくしは惨めです。どうか慈悲の心がおありなら、これ以上はおっしゃらないでください」
「…………」

 泣くのをこらえて必死に言うのを聞いて、メルヒオルは唇を引き結んだ。もう何も言わないと、言えないと思ったようだ。

「偽装のための婚約者が必要だとおっしゃるのでしたら、すべての事情を話した上で納得してくださる方を探してください。わたくしとの婚約解消については、父と手紙でも直接でも構いませんので話してください。それでは、今日までお世話になりました。――さようなら、メルヒ先生」
「……!」

 何か言いたそうにしていたメルヒオルの横をすり抜けて、ミュリエルは廊下を歩きだした。
 はしたないとわかっているが、つい足早になる。つらくて苦しくて、泣いてしまいそうだから。涙はギリギリのところでこぼれずにいるだけだ。あふれてしまう前にこの屋敷を出て行くには、早く歩くしかなかった。

「ミュリエル! 待てよミュリエル!」

 階段を降り、玄関ホールへたどり着いたところで、追いかけてきたリカに呼び止められた。だが、立ち止まることも振り返ることもできない。そんなことをしたら、泣き顔を見られてしまうから。

「待ってくれよ! ごめん、うちのババアが……」
「放して……!」

 止まらなくても、走って追ってきたリカのほうが早い。追いついたリカはミュリエルの腕を掴んで、振り向かせた。その直後、焦っていたリカの顔には、さらに困惑の表情が加わる。

「なあ、行かないでくれよ。俺が、あのババアをやっつけるから。だから、メルヒのこと……」

 言い募ろうとして、リカは途中でやめた。ミュリエルが激しく拒否したのだ。いやいやと大きく首を振ると、涙の粒はまるで真珠のように宙に踊った。それを見て、リカはどうしていいのかわからないという顔になる。

「もう、いいの。終わりにするから」

 ポロポロと涙をこぼしながらミュリエルは言う。一度堰(せき)を切ってしまうと、もう止めようがなかった。本当はずっと泣きたかったのだ。裏庭で、カミラと対峙したときからずっと。
 カミラを前にして、彼女がメルヒオルの何たるかを知ったときから、激しい敗北感に苛まれていたから。
 絶対に敵わない。恋敵にすらなりえない。これまで欺かれていたということ以上に、そのことにミュリエルは傷ついているのかもしれない。

「結局は許せるか許せないかという話で、わたくしが許せなかったというだけなの。……わたくしがまだ子供で、その上、自分に自信がないから……」

 高慢ちきなくせに、なんて弱いのだろうと情けなくなる。何かひとつでもカミラに対して「負けない」ということができたらよかったのに。
 もしくは、欺かれていても都合よく利用されているのだとしても、それでもいいと貫く強さがあればよかったのだ。
 そのどちらもないミュリエルは、負けを認めて立ち去るしかできない。

「……好きにならなければよかったのに……!」

 胸が苦しくてたまらなくて、ミュリエルは服の下に隠していたペンダントを握りしめた。メルヒオルが、ミュリエルのために徹夜して作ってくれたペンダントを。
 恋をしたばかりに、ミュリエルは魔術の師匠まで失った。もしメルヒオルを好きになっていなかったら、カミラの存在を知っても多少腹を立てるだけで受け流すことができたに違いない。
 そのことに気がついて、ミュリエルは絶望した。

「ミュリエル……!」

 リカが掴んだ手をゆるめた隙に、ミュリエルは玄関の扉に向かって走り出した。
 リカはもう、追ってこない。メルヒオルも、誰も。
 ミュリエルも、振り返ることはなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

帰らなければ良かった

jun
恋愛
ファルコン騎士団のシシリー・フォードが帰宅すると、婚約者で同じファルコン騎士団の副隊長のブライアン・ハワードが、ベッドで寝ていた…女と裸で。 傷付いたシシリーと傷付けたブライアン… 何故ブライアンは溺愛していたシシリーを裏切ったのか。 *性被害、レイプなどの言葉が出てきます。 気になる方はお避け下さい。 ・8/1 長編に変更しました。 ・8/16 本編完結しました。

亡くなった王太子妃

沙耶
恋愛
王妃の茶会で毒を盛られてしまった王太子妃。 侍女の証言、王太子妃の親友、溺愛していた妹。 王太子妃を愛していた王太子が、全てを気付いた時にはもう遅かった。 なぜなら彼女は死んでしまったのだから。

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

別れてくれない夫は、私を愛していない

abang
恋愛
「私と別れて下さい」 「嫌だ、君と別れる気はない」 誕生パーティー、結婚記念日、大切な約束の日まで…… 彼の大切な幼馴染の「セレン」はいつも彼を連れ去ってしまう。 「ごめん、セレンが怪我をしたらしい」 「セレンが熱が出たと……」 そんなに大切ならば、彼女を妻にすれば良かったのでは? ふと過ぎったその考えに私の妻としての限界に気付いた。 その日から始まる、私を愛さない夫と愛してるからこそ限界な妻の離婚攻防戦。 「あなた、お願いだから別れて頂戴」 「絶対に、別れない」

旦那様の不倫相手は幼馴染

ちゃむふー
恋愛
私の旦那様は素晴らしい方です。 政略結婚ではございますが、 結婚してから1年間、私にとても優しくしてくださいました。 結婚してすぐに高熱を出してしまい、数ヶ月は床に伏せってしまっていた私ですが、元気になったので、心配してくださった旦那様にお礼の品を自分で選びたく、城下町にお忍びで買い物へ出かけた所見てしまったのです。 旦那様と、旦那様の幼馴染のカレン様が腕を組んで歩いている所を、、、。

王宮に薬を届けに行ったなら

佐倉ミズキ
恋愛
王宮で薬師をしているラナは、上司の言いつけに従い王子殿下のカザヤに薬を届けに行った。 カザヤは生まれつき体が弱く、臥せっていることが多い。 この日もいつも通り、カザヤに薬を届けに行ったラナだが仕事終わりに届け忘れがあったことに気が付いた。 慌ててカザヤの部屋へ行くと、そこで目にしたものは……。 弱々しく臥せっているカザヤがベッドから起き上がり、元気に動き回っていたのだ。 「俺の秘密を知ったのだから部屋から出すわけにはいかない」 驚くラナに、カザヤは不敵な笑みを浮かべた。 「今日、国王が崩御する。だからお前を部屋から出すわけにはいかない」

今日も旦那は愛人に尽くしている~なら私もいいわよね?~

コトミ
恋愛
 結婚した夫には愛人がいた。辺境伯の令嬢であったビオラには男兄弟がおらず、子爵家のカールを婿として屋敷に向かい入れた。半年の間は良かったが、それから事態は急速に悪化していく。伯爵であり、領地も統治している夫に平民の愛人がいて、屋敷の隣にその愛人のための別棟まで作って愛人に尽くす。こんなことを我慢できる夫人は私以外に何人いるのかしら。そんな考えを巡らせながら、ビオラは毎日夫の代わりに領地の仕事をこなしていた。毎晩夫のカールは愛人の元へ通っている。その間ビオラは休む暇なく仕事をこなした。ビオラがカールに反論してもカールは「君も愛人を作ればいいじゃないか」の一点張り。我慢の限界になったビオラはずっと大切にしてきた屋敷を飛び出した。  そしてその飛び出した先で出会った人とは? (できる限り毎日投稿を頑張ります。誤字脱字、世界観、ストーリー構成、などなどはゆるゆるです) hotランキング1位入りしました。ありがとうございます

婚約者の断罪

玉響
恋愛
ミリアリア・ビバーナム伯爵令嬢には、最愛の人がいる。婚約者である、バイロン・ゼフィランサス侯爵令息だ。 見目麗しく、令嬢たちからの人気も高いバイロンはとても優しく、ミリアリアは幸せな日々を送っていた。 しかし、バイロンが別の令嬢と密会しているとの噂を耳にする。 親友のセシリア・モナルダ伯爵夫人に相談すると、気の強いセシリアは浮気現場を抑えて、懲らしめようと画策を始めるが………。

処理中です...