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第十六話 誘惑の女豹2
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「メルヒオル様ぁ、そちらにいらっしゃるの?」
現れたのは、まばゆい美貌の女性だった。昼用の襟の詰まったドレスに羽根帽子という上品な装いに身を包んでいるが、そのドレスの上からでも豊満な身体なのがわかる。出るところは出ていて、引っ込むべきところは引っ込んでいるという、まさに男性の理想を具現化したかのような姿だ。コルセットで締め上げてもこの美しいラインは出せないぞと、ミュリエルは自身のやや貧しめの胸囲を思って虚しくなった。
「あら、メルヒオル様かと思ったら違ったわ。残念」
美貌の女性は、まるで少女のように悔しがってみせた。それが大人の色香と相まって、妖しい魅力を放っている。
日の光を受けて輝く金髪と、濡れた宝石のように青い瞳、彫刻の女神像のように整った顔と身体は、幻じみている。その完璧な美が、血と肉をともなってすぐそこに立っていることに、ミュリエルはしばらくの間あっけにとられていた。
そんなミュリエルを見つめ、女神のような美女は眉根を寄せて困った顔をしてみせた。
「ねえ、あなた。メルヒオル様に取り次いでくれない? ここの意地悪な執事が取り次いでくれないのよ。さあ、裏からささっと入って、呼んできてちょうだい」
目の前の女性が自分のことをこの屋敷の使用人だと勘違いしているのだとわかって、ミュリエルはサッと頭にくる血が上るのを自覚した。それが怒りからなのか恥ずかしさによるものなのか、すぐにはわからない。判断するより先に、ハインツがやってくるのが見えた。
「夫人! このようなところまで来ていただいては困ります!」
ハインツは珍しく声を荒らげ、女性に言った。肩で息をしている。ここに来るまでに時間がかかったということは、誰かに足止めでもされていたのだろうか。
「こんなところまで来てしまったのは、屋敷に入れてくれないからでしょう? わたしは、メルヒオル様に会いたくて会いたくて、会いたくてたまらないのに!」
夫人と呼ばれた女性は、芝居がかった様子で言う。
これだけ美しいのだから、もし彼女が女優なら、さぞ舞台映えすることだろう。こんなふうに訴えかければ、涙する観客もいるかもしれない。
(夫人ということは、既婚者? 夫がありながら、メルヒ先生に会いに来ているの……?)
目の前の女性を呆然と見つめながら、ミュリエルは頭の中を整理しようと必死になった。
女性の見た目は若いが、二十代でこの色気はないだろう。ということは、メルヒオルより年上で、既婚者で……この雰囲気から考えて、ただの知り合いや友人ということはありえない。
「どうぞお引き取りください! 旦那様は今、体調を崩しておりますので、誰ともお会いになられません!」
「あら、そんな意地悪言わないで。それに、具合が悪いのだったら、ますますお会いしなくては。わたしが、元気にしてあげますもの」
ハインツが何とか夫人を帰らせようとするが、少しも聞き入れる様子はない。
まだ男女のあれこれが具体的にはわからないミュリエルでも、メルヒオルとこの女性がただならぬ関係にあることは理解できて、すっと身体が冷えていくのがわかった。
「……申し訳ありませんが、お引き取り願います」
背筋をしっかり伸ばし、まっすぐ見据えるようにしてミュリエルは言い放った。色気では到底かなうはずもないが、毅然とした態度では決して負けまいとでもするように。
「あら、使用人のあなたが口を出すことではないのよ? それに、大人の恋のことは、あなたにはまだわからないでしょう?」
またも使用人と言われ、その上子供扱いされ、ミュリエルは傷ついた。だが、だからといって引き下がるわけにはいかない。
「わたくしは、使用人ではありません。ミュリエル・リトヴィッツと申します」
「リトヴィッツ……伯爵家の? 伯爵令嬢がこんなところで使用人の真似事のようなことをして、何をしているの?」
馬鹿にした様子もなく、心底不思議そうに夫人は問いかけてくる。そんなふうに、本気で疑問に思われるほどの身なりなのかと、またミュリエルの気持ちは沈みそうになった。それを、何とかグッとこらえる。
「わたくしは、メルヒオル様の婚約者です。ですから、未来の妻として、この屋敷の女主人として、あなたに申し上げます。どうぞ、お帰りください」
「婚約者……?」
ミュリエルの言葉に、女性がうろたえるのがわかった。だが、それも一時的なもの。すぐに余裕の表情に戻って、クスクスと笑い始めた。
「まあ、可愛らしい方ね。メルヒオル様の婚約者さんだったの。彼に合わせて、魔術師の真似事なんてしているからそんな格好をしているのね? なんて可愛いんでしょう」
笑う顔も声も美しいが、ひどく神経を逆撫でられる気がしていた。見下されるというより、圧倒的な差を見せつけられているという感じだ。そのことが、ひどく屈辱的だった。
「あなたも貴族の娘なら、恋愛が結婚の外側にあるということは知っているでしょう? それなら、目くじらを立ててはだめよ。あなたも、もっと自分と年の釣り合う、素敵な恋人を作ったらいいのよ」
聞き分けのない子供を諭すように、女性は優しく言う。
知識としては知っていても不貞を勧めてくる人に出会うとは思わなかったため、ミュリエルはあまりのことに血が沸騰するかと思った。その感情をそのまま顔に出してしまった。
「おお、怖い。そんな怖い顔をして睨まないでちょうだい」
「睨まれたくないのなら、お帰りください。彼は、あなたとは会わないわ」
面白がっていた女性も、ミュリエルが本気で睨むとさすがにたじろいだ。それから、興醒めしたというように視線をそらす。
「……もういい。今日は帰るわ。子犬にキャンキャンと吠えられたのでは、せっかくの気分が台無しだもの」
最後の最後にまた子犬呼ばわりとは、何て失礼なんだろうとミュリエルは憤る。だが、背を向けて歩きだしたからよしとする。
裏庭から出て見えなくなるまで見届けようと、じっとミュリエルが見つめていると、ふいに女性が振り返った。
「そうだ、婚約者さん。あなたの口から伝えてね。ファルケンハイン公爵夫人、カミラが会いに来ていたって」
「……!」
言うだけ言って気が済んだらしく、今度こそ女性は――カミラはいなくなった。
「ファルケンハイン公爵夫人って……リケとリカの……?」
残されたミュリエルは、怒りと混乱のあまり震えていた。
現れたのは、まばゆい美貌の女性だった。昼用の襟の詰まったドレスに羽根帽子という上品な装いに身を包んでいるが、そのドレスの上からでも豊満な身体なのがわかる。出るところは出ていて、引っ込むべきところは引っ込んでいるという、まさに男性の理想を具現化したかのような姿だ。コルセットで締め上げてもこの美しいラインは出せないぞと、ミュリエルは自身のやや貧しめの胸囲を思って虚しくなった。
「あら、メルヒオル様かと思ったら違ったわ。残念」
美貌の女性は、まるで少女のように悔しがってみせた。それが大人の色香と相まって、妖しい魅力を放っている。
日の光を受けて輝く金髪と、濡れた宝石のように青い瞳、彫刻の女神像のように整った顔と身体は、幻じみている。その完璧な美が、血と肉をともなってすぐそこに立っていることに、ミュリエルはしばらくの間あっけにとられていた。
そんなミュリエルを見つめ、女神のような美女は眉根を寄せて困った顔をしてみせた。
「ねえ、あなた。メルヒオル様に取り次いでくれない? ここの意地悪な執事が取り次いでくれないのよ。さあ、裏からささっと入って、呼んできてちょうだい」
目の前の女性が自分のことをこの屋敷の使用人だと勘違いしているのだとわかって、ミュリエルはサッと頭にくる血が上るのを自覚した。それが怒りからなのか恥ずかしさによるものなのか、すぐにはわからない。判断するより先に、ハインツがやってくるのが見えた。
「夫人! このようなところまで来ていただいては困ります!」
ハインツは珍しく声を荒らげ、女性に言った。肩で息をしている。ここに来るまでに時間がかかったということは、誰かに足止めでもされていたのだろうか。
「こんなところまで来てしまったのは、屋敷に入れてくれないからでしょう? わたしは、メルヒオル様に会いたくて会いたくて、会いたくてたまらないのに!」
夫人と呼ばれた女性は、芝居がかった様子で言う。
これだけ美しいのだから、もし彼女が女優なら、さぞ舞台映えすることだろう。こんなふうに訴えかければ、涙する観客もいるかもしれない。
(夫人ということは、既婚者? 夫がありながら、メルヒ先生に会いに来ているの……?)
目の前の女性を呆然と見つめながら、ミュリエルは頭の中を整理しようと必死になった。
女性の見た目は若いが、二十代でこの色気はないだろう。ということは、メルヒオルより年上で、既婚者で……この雰囲気から考えて、ただの知り合いや友人ということはありえない。
「どうぞお引き取りください! 旦那様は今、体調を崩しておりますので、誰ともお会いになられません!」
「あら、そんな意地悪言わないで。それに、具合が悪いのだったら、ますますお会いしなくては。わたしが、元気にしてあげますもの」
ハインツが何とか夫人を帰らせようとするが、少しも聞き入れる様子はない。
まだ男女のあれこれが具体的にはわからないミュリエルでも、メルヒオルとこの女性がただならぬ関係にあることは理解できて、すっと身体が冷えていくのがわかった。
「……申し訳ありませんが、お引き取り願います」
背筋をしっかり伸ばし、まっすぐ見据えるようにしてミュリエルは言い放った。色気では到底かなうはずもないが、毅然とした態度では決して負けまいとでもするように。
「あら、使用人のあなたが口を出すことではないのよ? それに、大人の恋のことは、あなたにはまだわからないでしょう?」
またも使用人と言われ、その上子供扱いされ、ミュリエルは傷ついた。だが、だからといって引き下がるわけにはいかない。
「わたくしは、使用人ではありません。ミュリエル・リトヴィッツと申します」
「リトヴィッツ……伯爵家の? 伯爵令嬢がこんなところで使用人の真似事のようなことをして、何をしているの?」
馬鹿にした様子もなく、心底不思議そうに夫人は問いかけてくる。そんなふうに、本気で疑問に思われるほどの身なりなのかと、またミュリエルの気持ちは沈みそうになった。それを、何とかグッとこらえる。
「わたくしは、メルヒオル様の婚約者です。ですから、未来の妻として、この屋敷の女主人として、あなたに申し上げます。どうぞ、お帰りください」
「婚約者……?」
ミュリエルの言葉に、女性がうろたえるのがわかった。だが、それも一時的なもの。すぐに余裕の表情に戻って、クスクスと笑い始めた。
「まあ、可愛らしい方ね。メルヒオル様の婚約者さんだったの。彼に合わせて、魔術師の真似事なんてしているからそんな格好をしているのね? なんて可愛いんでしょう」
笑う顔も声も美しいが、ひどく神経を逆撫でられる気がしていた。見下されるというより、圧倒的な差を見せつけられているという感じだ。そのことが、ひどく屈辱的だった。
「あなたも貴族の娘なら、恋愛が結婚の外側にあるということは知っているでしょう? それなら、目くじらを立ててはだめよ。あなたも、もっと自分と年の釣り合う、素敵な恋人を作ったらいいのよ」
聞き分けのない子供を諭すように、女性は優しく言う。
知識としては知っていても不貞を勧めてくる人に出会うとは思わなかったため、ミュリエルはあまりのことに血が沸騰するかと思った。その感情をそのまま顔に出してしまった。
「おお、怖い。そんな怖い顔をして睨まないでちょうだい」
「睨まれたくないのなら、お帰りください。彼は、あなたとは会わないわ」
面白がっていた女性も、ミュリエルが本気で睨むとさすがにたじろいだ。それから、興醒めしたというように視線をそらす。
「……もういい。今日は帰るわ。子犬にキャンキャンと吠えられたのでは、せっかくの気分が台無しだもの」
最後の最後にまた子犬呼ばわりとは、何て失礼なんだろうとミュリエルは憤る。だが、背を向けて歩きだしたからよしとする。
裏庭から出て見えなくなるまで見届けようと、じっとミュリエルが見つめていると、ふいに女性が振り返った。
「そうだ、婚約者さん。あなたの口から伝えてね。ファルケンハイン公爵夫人、カミラが会いに来ていたって」
「……!」
言うだけ言って気が済んだらしく、今度こそ女性は――カミラはいなくなった。
「ファルケンハイン公爵夫人って……リケとリカの……?」
残されたミュリエルは、怒りと混乱のあまり震えていた。
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