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第十六話 誘惑の女豹1
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「先生、今日は何のお手伝いをすればいいですか?」
朝食を済ませたその足で、ミュリエルはメルヒオルの部屋を訪ねていく。
動きやすい服装にローブを羽織って、すっかり魔術師らしい姿で。夏の盛りを過ぎた頃から、メルヒオルの手伝いをするのがミュリエルの日課になりつつあった。
メルヒオルに、繁忙期がやってきたのだ。
称号を賜るきっかけとなったありがたい薬――奇跡の毛生え薬は、夏を過ぎたあたりから爆発的に注文が増えるのだという。おそらく、涼しくなってくると己の頭髪の荒涼たる姿に、はたと気づくのだろう。
それに、秋をすぎれば社交シーズンがやってくる。人前に出る機会が増える前に、きちんと見栄えを整えておこうということらしい。
この先どうなるのだろうと、春が終わる頃はミュリエルは不安に思っていた。メルヒオルとの関係や、自分の将来のことなど。今冬の社交界デビューを前にして、いろいろ神経質になっていたのだ。
だが、ひと夏この屋敷で過ごしてしまうと、そういった不安や焦りは薄れていった。
はっきり言ってしまえば、メルヒオルのそばは居心地がいいのだ。
いろいろな魔術を教えてくれる。可愛がってくれる。ちょっぴり世話が焼ける。これといった進展があるわけではないが、大切にされているのがわかる。そんなメルヒオルのそばにいるのが、心地良くないはずがなかった。
紳士としての分別か、大人としての余裕なのか、メルヒオルは一線を引いて、その内側からミュリエルを見守っているというところがあった。絶対にその一線は踏み越えないという固い意思は彼の誠実さのように感じられて、それすら好ましく思っていた。
有り体に言ってしまえば、ミュリエルはメルヒオルが好きなのだ。
いつ好きになったのか、どうして好きなのか、はっきり言ってわからない。好んで読んでいた恋愛小説の中に出てきた恋とも違う。
初対面のときは気絶するほど怖いと思った獣の頭も、今では大きなネコのようでちょっぴり可愛いとすら思えてしまっている。あばたもえくぼというやつだ。
だから、メルヒオルを元の姿に戻すとか婚約を破棄するだとかいう話題は、最近めっきりミュリエルの頭の中から消え去っている。
「……あら? メルヒ先生、また徹夜したんですか?」
ノックをしても呼びかけてもなかなか返事がなかったため、痺れを切らしてミュリエルはドアを開けた。すると目に飛び込んできたのは、机に突っ伏すメルヒオルの姿。
「……え! いやいや、徹夜ではないよ。朝起きて作業しようかなと思ったら、また眠くなってしまっただけで」
ミュリエルの声と気配に跳ね起きたメルヒオルは、あわてて言い訳をする。そんな師匠を弟子は呆れた目で見ていた。
「どうせ明け方まで作業して、寝落ちしてしまっただけですよね? それは眠ったとはいいませんよ。きちんと早い時間に作業を切り上げてベッドに入るようにしないなら、毎晩わたくしが眠りの魔術をかけに来てもいいんですよ?」
「すみません……ちゃんとベッドで眠ります」
ボサボサの毛並みを手櫛で整えながら、震える声でメルヒオルは言った。最近この獣頭の魔術師は、しっかり者の弟子の尻に敷かれつつある。
「それで、今日は何のお手伝いをしましょうか? また苔を採ってきましょうか?」
「いや、苔はまだ足りているから、今日は裏庭の薬草の刈り入れをお願いしようかな」
よろよろと椅子から立ち上がると、メルヒオルは机のそばの道具箱をあさって鎌を取り出した。魔術に関する道具の扱いはすごく丁寧なのに、苔を採集するコテや鎌などの扱いはひどく雑だ。そのことに気がついて、今度この箱を整理しようとこっそりミュリエルは決めた。
「寒くなったらせっかくの薬草たちが枯れてしまうだろう? そうなる前に刈り取って、干して乾燥させておくんだ」
「わかりました。それでは、裏庭に行ってきますね。昼までには戻りますから、先生は休んでいてください」
「わかった。昼食は一緒にとろう」
鎌を受け取ると、ミュリエルはにっこり可愛らしく微笑んだ。その笑顔に凄みのようなものを感じて、メルヒオルは寝室へ足を向ける。
「わかったよ。ミュリエルも、しっかり休憩を取りながらやってね。もう日陰は寒いかもしれないから、ながいして風邪をひかないように」
「はい」
無言の笑顔で念押ししてから、ミュリエルは部屋を出た。
裏庭はまだ紅葉こそしていないものの、徐々に秋めいてきている。夏の盛りは刈っても刈っても次々と背丈を伸ばしていた草たちが、すっかりおとなしくなっている。色も青々とはしておらず、緑の中にもほんのりと秋の気配を忍ばせているのが感じられる。
闇雲に刈り取っていっても後で分類が面倒になると考え、まずは夏白菊が群生しているところから手をつけることにした。
この薬草は“家庭の万能薬”とも呼ばれるほど一般家庭にも普及しているくらい、様々な薬効のある有り難い草だ。お茶にしてよし、煮詰めてよし、煎じてよしで、薬の勉強を始めたばかりのミュリエルも重宝している。
他にもこの庭には鋸草や刺草、茴香、紫馬簾草、迷迭香、香水薄荷などなど、様々な薬草が生えている。中にはメルヒオルも把握していない植物もあるから、植えているというより生えているという表現が適切だろう。
黙々とミュリエルが鎌を振るって刈り入れをしていると、騒々しい気配が近づいてきた。裏庭でそんなふうに騒がしくする人物なんて、この屋敷にひとりしかいない。だから何の構えもとっていかなったため、ミュリエルは不意打ちを食らうことになる。
「えいっ!」
「キャッ」
目の前に現れたリカは、あろうことかミュリエルに何かを投げつけてきた。痛くはないが、突然のことに驚いてしまった。
「もう! 何をするのよ!」
「そんなに怒ることないだろ? くっつき虫だよ、くっつき虫」
ニヤニヤしながら、リカは自分の手のひらを見せる。そこにあったのは、全面トゲトゲに覆われた楕円型の種子だ。
「蒼耳子ね」
「何でくっつき虫を集めてるんだ?」
「薬になるからよ。もったいないから、勝手にむしって投げたりしないで」
ミュリエルが髪やローブについた蒼耳子を淡々と取って集めていると、リカは面白くなさそうに唇を尖らせていた。きっと退屈で、誰かと遊びたくて仕方がなかったのだろう。
「リカ、暇なら手伝ってくれない? この庭の植物をほとんど刈り取ってしまいたいのよ」
「やだよ。それに俺には全部同じに見えるもん」
「それなら、刈りながら教えてあげるから」
「えー」
嫌がるリカに、ミュリエルな鎌を握らせた。ちょうど手が疲れてきた頃だったのだ。これで少し休めると、ひそかににんまりした。
いやだ面倒くさいというリカを突きながら、そばについてミュリエルは歩いた。文句を言いつつも、リカはきちんと手を動かす。だからその横について、刈り取った草が何というのか、いちいち名前と薬効を教えていった。
そうこうしているうちに日が高くのぼり、そろそろ切り上げようかと考え始めたとき。
前庭のほう、玄関が騒がしいことにミュリエルたちは気がついた。
「なあ、何かハインツの焦った声が聞こえないか?」
「そうね。変な人でも来たのかしら? ハインツひとりで応対しなくてはならないから大変ね……」
そのときは心配しつつも、ふたりは他人事のように考えていた。だがその直後、その騒ぎに巻き込まれることになる。
「メルヒオル様ー」
制止するハインツの声に混じって聞こえてきたのは、そんな女の声だ。甘ったるい、ものすごく媚びた女性の声。
その声を聞いた途端、リカは脱兎の如く逃げ出した。裏庭の奥へと回って、厨房の勝手口へ向かったのだろう。気になったが、ついていくわけにもいかず戸惑っているうちに、声の主は裏庭へ近づいてきていた。
朝食を済ませたその足で、ミュリエルはメルヒオルの部屋を訪ねていく。
動きやすい服装にローブを羽織って、すっかり魔術師らしい姿で。夏の盛りを過ぎた頃から、メルヒオルの手伝いをするのがミュリエルの日課になりつつあった。
メルヒオルに、繁忙期がやってきたのだ。
称号を賜るきっかけとなったありがたい薬――奇跡の毛生え薬は、夏を過ぎたあたりから爆発的に注文が増えるのだという。おそらく、涼しくなってくると己の頭髪の荒涼たる姿に、はたと気づくのだろう。
それに、秋をすぎれば社交シーズンがやってくる。人前に出る機会が増える前に、きちんと見栄えを整えておこうということらしい。
この先どうなるのだろうと、春が終わる頃はミュリエルは不安に思っていた。メルヒオルとの関係や、自分の将来のことなど。今冬の社交界デビューを前にして、いろいろ神経質になっていたのだ。
だが、ひと夏この屋敷で過ごしてしまうと、そういった不安や焦りは薄れていった。
はっきり言ってしまえば、メルヒオルのそばは居心地がいいのだ。
いろいろな魔術を教えてくれる。可愛がってくれる。ちょっぴり世話が焼ける。これといった進展があるわけではないが、大切にされているのがわかる。そんなメルヒオルのそばにいるのが、心地良くないはずがなかった。
紳士としての分別か、大人としての余裕なのか、メルヒオルは一線を引いて、その内側からミュリエルを見守っているというところがあった。絶対にその一線は踏み越えないという固い意思は彼の誠実さのように感じられて、それすら好ましく思っていた。
有り体に言ってしまえば、ミュリエルはメルヒオルが好きなのだ。
いつ好きになったのか、どうして好きなのか、はっきり言ってわからない。好んで読んでいた恋愛小説の中に出てきた恋とも違う。
初対面のときは気絶するほど怖いと思った獣の頭も、今では大きなネコのようでちょっぴり可愛いとすら思えてしまっている。あばたもえくぼというやつだ。
だから、メルヒオルを元の姿に戻すとか婚約を破棄するだとかいう話題は、最近めっきりミュリエルの頭の中から消え去っている。
「……あら? メルヒ先生、また徹夜したんですか?」
ノックをしても呼びかけてもなかなか返事がなかったため、痺れを切らしてミュリエルはドアを開けた。すると目に飛び込んできたのは、机に突っ伏すメルヒオルの姿。
「……え! いやいや、徹夜ではないよ。朝起きて作業しようかなと思ったら、また眠くなってしまっただけで」
ミュリエルの声と気配に跳ね起きたメルヒオルは、あわてて言い訳をする。そんな師匠を弟子は呆れた目で見ていた。
「どうせ明け方まで作業して、寝落ちしてしまっただけですよね? それは眠ったとはいいませんよ。きちんと早い時間に作業を切り上げてベッドに入るようにしないなら、毎晩わたくしが眠りの魔術をかけに来てもいいんですよ?」
「すみません……ちゃんとベッドで眠ります」
ボサボサの毛並みを手櫛で整えながら、震える声でメルヒオルは言った。最近この獣頭の魔術師は、しっかり者の弟子の尻に敷かれつつある。
「それで、今日は何のお手伝いをしましょうか? また苔を採ってきましょうか?」
「いや、苔はまだ足りているから、今日は裏庭の薬草の刈り入れをお願いしようかな」
よろよろと椅子から立ち上がると、メルヒオルは机のそばの道具箱をあさって鎌を取り出した。魔術に関する道具の扱いはすごく丁寧なのに、苔を採集するコテや鎌などの扱いはひどく雑だ。そのことに気がついて、今度この箱を整理しようとこっそりミュリエルは決めた。
「寒くなったらせっかくの薬草たちが枯れてしまうだろう? そうなる前に刈り取って、干して乾燥させておくんだ」
「わかりました。それでは、裏庭に行ってきますね。昼までには戻りますから、先生は休んでいてください」
「わかった。昼食は一緒にとろう」
鎌を受け取ると、ミュリエルはにっこり可愛らしく微笑んだ。その笑顔に凄みのようなものを感じて、メルヒオルは寝室へ足を向ける。
「わかったよ。ミュリエルも、しっかり休憩を取りながらやってね。もう日陰は寒いかもしれないから、ながいして風邪をひかないように」
「はい」
無言の笑顔で念押ししてから、ミュリエルは部屋を出た。
裏庭はまだ紅葉こそしていないものの、徐々に秋めいてきている。夏の盛りは刈っても刈っても次々と背丈を伸ばしていた草たちが、すっかりおとなしくなっている。色も青々とはしておらず、緑の中にもほんのりと秋の気配を忍ばせているのが感じられる。
闇雲に刈り取っていっても後で分類が面倒になると考え、まずは夏白菊が群生しているところから手をつけることにした。
この薬草は“家庭の万能薬”とも呼ばれるほど一般家庭にも普及しているくらい、様々な薬効のある有り難い草だ。お茶にしてよし、煮詰めてよし、煎じてよしで、薬の勉強を始めたばかりのミュリエルも重宝している。
他にもこの庭には鋸草や刺草、茴香、紫馬簾草、迷迭香、香水薄荷などなど、様々な薬草が生えている。中にはメルヒオルも把握していない植物もあるから、植えているというより生えているという表現が適切だろう。
黙々とミュリエルが鎌を振るって刈り入れをしていると、騒々しい気配が近づいてきた。裏庭でそんなふうに騒がしくする人物なんて、この屋敷にひとりしかいない。だから何の構えもとっていかなったため、ミュリエルは不意打ちを食らうことになる。
「えいっ!」
「キャッ」
目の前に現れたリカは、あろうことかミュリエルに何かを投げつけてきた。痛くはないが、突然のことに驚いてしまった。
「もう! 何をするのよ!」
「そんなに怒ることないだろ? くっつき虫だよ、くっつき虫」
ニヤニヤしながら、リカは自分の手のひらを見せる。そこにあったのは、全面トゲトゲに覆われた楕円型の種子だ。
「蒼耳子ね」
「何でくっつき虫を集めてるんだ?」
「薬になるからよ。もったいないから、勝手にむしって投げたりしないで」
ミュリエルが髪やローブについた蒼耳子を淡々と取って集めていると、リカは面白くなさそうに唇を尖らせていた。きっと退屈で、誰かと遊びたくて仕方がなかったのだろう。
「リカ、暇なら手伝ってくれない? この庭の植物をほとんど刈り取ってしまいたいのよ」
「やだよ。それに俺には全部同じに見えるもん」
「それなら、刈りながら教えてあげるから」
「えー」
嫌がるリカに、ミュリエルな鎌を握らせた。ちょうど手が疲れてきた頃だったのだ。これで少し休めると、ひそかににんまりした。
いやだ面倒くさいというリカを突きながら、そばについてミュリエルは歩いた。文句を言いつつも、リカはきちんと手を動かす。だからその横について、刈り取った草が何というのか、いちいち名前と薬効を教えていった。
そうこうしているうちに日が高くのぼり、そろそろ切り上げようかと考え始めたとき。
前庭のほう、玄関が騒がしいことにミュリエルたちは気がついた。
「なあ、何かハインツの焦った声が聞こえないか?」
「そうね。変な人でも来たのかしら? ハインツひとりで応対しなくてはならないから大変ね……」
そのときは心配しつつも、ふたりは他人事のように考えていた。だがその直後、その騒ぎに巻き込まれることになる。
「メルヒオル様ー」
制止するハインツの声に混じって聞こえてきたのは、そんな女の声だ。甘ったるい、ものすごく媚びた女性の声。
その声を聞いた途端、リカは脱兎の如く逃げ出した。裏庭の奥へと回って、厨房の勝手口へ向かったのだろう。気になったが、ついていくわけにもいかず戸惑っているうちに、声の主は裏庭へ近づいてきていた。
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