23 / 39
第十三話 厨房での密談1
しおりを挟む
カチャカチャと泡立て器がボールの中で踊り、卵白をふわふわの液体に変えていく。透明だったものが白くなり、キメとツヤをともなって体積を増していくまで、そう時間はかからなかった。
厨房でそんな華麗な泡立てテクニックを披露しているのは、クレーフェ侯爵家の執事にしてたったひとりの上級使用人であるハインツだ。
彼は食事の支度以外のあらゆる雑事を一手に引き受ける敏腕執事で、本当は食事も作りたいと思っているが料理人の手前できないし、多忙につき難しいのが現実である。
そんな何でもこなすハインツの趣味は、お菓子作りだったりする。
クレーフェ家のワケありの客人であるミュリエル嬢はハインツのことを謎多き使用人だと思っているが、まさかお菓子まで作っていると知ったときは心底驚いた様子だった。神出鬼没ゆえにミュリエルに謎だと思われているが、ただ単に有能で、それゆえ忙しいだけだ。
「俺は、メルヒとミュリエルは両思いだと思うんだけど」
てきぱきとお菓子作りをしているハインツを眺めながら、リカがニヤニヤして言う。
「リカ坊っちゃん、無駄口を叩かないで、さっさとその粉をふるってしまってください」
「何だよー。いいじゃんか」
「よくありませんよ。使用人として、いろいろ教えてほしいとおっしゃったのは坊っちゃんたちでしょう。それなら、きちんとおやりなさい」
「ちぇー」
リカは唇を尖らせて可愛らしい顔をしてみせるが、ハインツはボールの中身を注視していて、リカには一瞥もくれない。ハインツに美少年のぶりっこは通用しないのだ。ハインツの指導がやさしいものに変わらないかと度々ぶりっこを試みているが、効いた試しが一度もない。
一応は、リカもリケもハインツにいろいろと手ほどきを受けている最中なのだ。やる気がないだけで、今では使用人としての職務はある程度こなせるよう指導されている。
家から逃げ出してメルヒオルの元に身を寄せているリカとリケは、暇を持て余していた。それに、何もしていないのが心苦しくて、いつしかメイドと従僕のお仕着せに身を包むようになった。
「さっきの話だけど、冗談じゃなくてわりと本気で思ってるんだけど。リケはどう思う?」
渋々粉をふるいながら、今度はリケに尋ねてみる。リカとは違い、真面目に卵黄に砂糖を加えて混ぜていたリケは、しばらく考えてから首をかしげた。
「メルヒオル様については、たしかにそう思う。獣頭に順応してくれた女性だから貴重だってのもあるだろうし、ミュリエルって気は強いけど顔は可愛いし心根は真っすぐだから、好きになるのもおかしくないわね」
わくわくしているリカに対し、リケは冷静だ。面白そうにもしていない。
「でも、ミュリエルがメルヒオル様を好きになる理由なんて、今のところないでしょ」
「そうかな。メルヒは優しいし、ミュリエルもあの獣頭を嫌だって言わないから、いい感じだと思うんだけど」
「あのねえ……優しいからとか親切だからで恋が始まるなら、世の中の人たちはそこらじゅうで恋を始めちゃってるわ。それにね、個性的な容姿を受け止められたからって即ち好き、なんて解釈されてしまったら、誰も広い心なんて持てなくなるわよ」
若干うんざりした様子でリケは言うが、リカはよくわかっていないようだ。
「優しいなって思ったり、その人の容姿を許容できたりするのは、好きになることに必要なことであっても、それだけじゃ足りないのよ。“好き”って……恋愛感情って、そんなに単純じゃないの」
ミュリエルと同い年で、リカよりお姉さんなリケは思案顔で言う。十六歳で、結婚というものが現実味を帯びている立場の者は、やはり考え方が違うのだろう。
「“嫌いじゃない”と“好き”は同じじゃないってこと? でも、ミュリエルに『メルヒとキスしたら?』って言ったら、顔真っ赤にしてたけど」
「うら若き乙女にそんなこと言ったら、誰だって赤くなるわよ! どうしてそういう話になったの?」
「ミュリエルがメルヒを元の姿に戻すために一生懸命勉強してたからさ、そんなに親身になってやるなら試しにキスでもしてみたらって思ったんだよ」
「……おとぎ話じゃないんだから」
弟のデリカシーのなさに、リケは頭を抱えた。しかも、メルヒオルの事情を軽く見ているように聞こえるのも気がかりだ。
「たしかにミュリエル様は、旦那様のために頑張ってくださっていますね。夢中になると時間を忘れて遅くまで活動してしまうあたり、さすが師弟関係といいますか」
それまでずっと黙って聞いていたハインツが、そう口を挟んできた。話しながらも手は止まることなく、泡立てた卵白にリケが混ぜた卵黄、リカがふるっていた粉を加えていく。
「ほら。ハインツの目から見ても、やっぱあのふたりはいい感じだってさ」
「慕っているっていうのは、私も認めるわ。でもねえ……恋に届いてないと思うの。メルヒオル様といて、ドキドキすることってなさそうだもの」
ハインツがリカの意見に同調するみたいなことを言い出したため、リケは困った顔になる。だが、頑として自分の言い分は曲げない。
「屋敷に来てすぐ、メルヒの獣頭を見てぶっ倒れただろ。あれはドキドキって言わないの? 何なら、今度ふたりでいるときにおどかしてみようか?」
「それはドキドキじゃなくてびっくりよ……」
なかなかわかってもらえず、リケは疲れてきたようだ。
「まあ、あのふたりの縁組は悪くないと思うわ。問題ない、とまではいかないけど。ただ、縁組としていい組み合わせだからって、それが幸せな結婚かどうかはわからないでしょ」
「リケ……」
憂鬱そうな姉の様子に、ようやくリカは気がついたようだ。そして、こういった話題をリケが好まない理由にも思い至った。
厨房でそんな華麗な泡立てテクニックを披露しているのは、クレーフェ侯爵家の執事にしてたったひとりの上級使用人であるハインツだ。
彼は食事の支度以外のあらゆる雑事を一手に引き受ける敏腕執事で、本当は食事も作りたいと思っているが料理人の手前できないし、多忙につき難しいのが現実である。
そんな何でもこなすハインツの趣味は、お菓子作りだったりする。
クレーフェ家のワケありの客人であるミュリエル嬢はハインツのことを謎多き使用人だと思っているが、まさかお菓子まで作っていると知ったときは心底驚いた様子だった。神出鬼没ゆえにミュリエルに謎だと思われているが、ただ単に有能で、それゆえ忙しいだけだ。
「俺は、メルヒとミュリエルは両思いだと思うんだけど」
てきぱきとお菓子作りをしているハインツを眺めながら、リカがニヤニヤして言う。
「リカ坊っちゃん、無駄口を叩かないで、さっさとその粉をふるってしまってください」
「何だよー。いいじゃんか」
「よくありませんよ。使用人として、いろいろ教えてほしいとおっしゃったのは坊っちゃんたちでしょう。それなら、きちんとおやりなさい」
「ちぇー」
リカは唇を尖らせて可愛らしい顔をしてみせるが、ハインツはボールの中身を注視していて、リカには一瞥もくれない。ハインツに美少年のぶりっこは通用しないのだ。ハインツの指導がやさしいものに変わらないかと度々ぶりっこを試みているが、効いた試しが一度もない。
一応は、リカもリケもハインツにいろいろと手ほどきを受けている最中なのだ。やる気がないだけで、今では使用人としての職務はある程度こなせるよう指導されている。
家から逃げ出してメルヒオルの元に身を寄せているリカとリケは、暇を持て余していた。それに、何もしていないのが心苦しくて、いつしかメイドと従僕のお仕着せに身を包むようになった。
「さっきの話だけど、冗談じゃなくてわりと本気で思ってるんだけど。リケはどう思う?」
渋々粉をふるいながら、今度はリケに尋ねてみる。リカとは違い、真面目に卵黄に砂糖を加えて混ぜていたリケは、しばらく考えてから首をかしげた。
「メルヒオル様については、たしかにそう思う。獣頭に順応してくれた女性だから貴重だってのもあるだろうし、ミュリエルって気は強いけど顔は可愛いし心根は真っすぐだから、好きになるのもおかしくないわね」
わくわくしているリカに対し、リケは冷静だ。面白そうにもしていない。
「でも、ミュリエルがメルヒオル様を好きになる理由なんて、今のところないでしょ」
「そうかな。メルヒは優しいし、ミュリエルもあの獣頭を嫌だって言わないから、いい感じだと思うんだけど」
「あのねえ……優しいからとか親切だからで恋が始まるなら、世の中の人たちはそこらじゅうで恋を始めちゃってるわ。それにね、個性的な容姿を受け止められたからって即ち好き、なんて解釈されてしまったら、誰も広い心なんて持てなくなるわよ」
若干うんざりした様子でリケは言うが、リカはよくわかっていないようだ。
「優しいなって思ったり、その人の容姿を許容できたりするのは、好きになることに必要なことであっても、それだけじゃ足りないのよ。“好き”って……恋愛感情って、そんなに単純じゃないの」
ミュリエルと同い年で、リカよりお姉さんなリケは思案顔で言う。十六歳で、結婚というものが現実味を帯びている立場の者は、やはり考え方が違うのだろう。
「“嫌いじゃない”と“好き”は同じじゃないってこと? でも、ミュリエルに『メルヒとキスしたら?』って言ったら、顔真っ赤にしてたけど」
「うら若き乙女にそんなこと言ったら、誰だって赤くなるわよ! どうしてそういう話になったの?」
「ミュリエルがメルヒを元の姿に戻すために一生懸命勉強してたからさ、そんなに親身になってやるなら試しにキスでもしてみたらって思ったんだよ」
「……おとぎ話じゃないんだから」
弟のデリカシーのなさに、リケは頭を抱えた。しかも、メルヒオルの事情を軽く見ているように聞こえるのも気がかりだ。
「たしかにミュリエル様は、旦那様のために頑張ってくださっていますね。夢中になると時間を忘れて遅くまで活動してしまうあたり、さすが師弟関係といいますか」
それまでずっと黙って聞いていたハインツが、そう口を挟んできた。話しながらも手は止まることなく、泡立てた卵白にリケが混ぜた卵黄、リカがふるっていた粉を加えていく。
「ほら。ハインツの目から見ても、やっぱあのふたりはいい感じだってさ」
「慕っているっていうのは、私も認めるわ。でもねえ……恋に届いてないと思うの。メルヒオル様といて、ドキドキすることってなさそうだもの」
ハインツがリカの意見に同調するみたいなことを言い出したため、リケは困った顔になる。だが、頑として自分の言い分は曲げない。
「屋敷に来てすぐ、メルヒの獣頭を見てぶっ倒れただろ。あれはドキドキって言わないの? 何なら、今度ふたりでいるときにおどかしてみようか?」
「それはドキドキじゃなくてびっくりよ……」
なかなかわかってもらえず、リケは疲れてきたようだ。
「まあ、あのふたりの縁組は悪くないと思うわ。問題ない、とまではいかないけど。ただ、縁組としていい組み合わせだからって、それが幸せな結婚かどうかはわからないでしょ」
「リケ……」
憂鬱そうな姉の様子に、ようやくリカは気がついたようだ。そして、こういった話題をリケが好まない理由にも思い至った。
0
お気に入りに追加
129
あなたにおすすめの小説
【完結】美しい人。
❄️冬は つとめて
恋愛
「あなたが、ウイリアム兄様の婚約者? 」
「わたくし、カミーユと言いますの。ねえ、あなたがウイリアム兄様の婚約者で、間違いないかしら。」
「ねえ、返事は。」
「はい。私、ウイリアム様と婚約しています ナンシー。ナンシー・ヘルシンキ伯爵令嬢です。」
彼女の前に現れたのは、とても美しい人でした。
雨上がりに僕らは駆けていく Part1
平木明日香
恋愛
「隕石衝突の日(ジャイアント・インパクト)」
そう呼ばれた日から、世界は雲に覆われた。
明日は来る
誰もが、そう思っていた。
ごくありふれた日常の真後ろで、穏やかな陽に照らされた世界の輪郭を見るように。
風は時の流れに身を任せていた。
時は風の音の中に流れていた。
空は青く、どこまでも広かった。
それはまるで、雨の降る予感さえ、消し去るようで
世界が滅ぶのは、運命だった。
それは、偶然の産物に等しいものだったが、逃れられない「時間」でもあった。
未来。
——数えきれないほどの膨大な「明日」が、世界にはあった。
けれども、その「時間」は来なかった。
秒速12kmという隕石の落下が、成層圏を越え、地上へと降ってきた。
明日へと流れる「空」を、越えて。
あの日から、決して止むことがない雨が降った。
隕石衝突で大気中に巻き上げられた塵や煤が、巨大な雲になったからだ。
その雲は空を覆い、世界を暗闇に包んだ。
明けることのない夜を、もたらしたのだ。
もう、空を飛ぶ鳥はいない。
翼を広げられる場所はない。
「未来」は、手の届かないところまで消え去った。
ずっと遠く、光さえも追いつけない、距離の果てに。
…けれども「今日」は、まだ残されていた。
それは「明日」に届き得るものではなかったが、“そうなれるかもしれない可能性“を秘めていた。
1995年、——1月。
世界の運命が揺らいだ、あの場所で。
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
身代わりの公爵家の花嫁は翌日から溺愛される。~初日を挽回し、溺愛させてくれ!~
湯川仁美
恋愛
姉の身代わりに公爵夫人になった。
「貴様と寝食を共にする気はない!俺に呼ばれるまでは、俺の前に姿を見せるな。声を聞かせるな」
夫と初対面の日、家族から男癖の悪い醜悪女と流され。
公爵である夫とから啖呵を切られたが。
翌日には誤解だと気づいた公爵は花嫁に好意を持ち、挽回活動を開始。
地獄の番人こと閻魔大王(善悪を判断する審判)と異名をもつ公爵は、影でプレゼントを贈り。話しかけるが、謝れない。
「愛しの妻。大切な妻。可愛い妻」とは言えない。
一度、言った言葉を撤回するのは難しい。
そして妻は普通の令嬢とは違い、媚びず、ビクビク怯えもせず普通に接してくれる。
徐々に距離を詰めていきましょう。
全力で真摯に接し、謝罪を行い、ラブラブに到着するコメディ。
第二章から口説きまくり。
第四章で完結です。
第五章に番外編を追加しました。
この度、青帝陛下の番になりまして
四馬㋟
恋愛
蓬莱国(ほうらいこく)を治める青帝(せいてい)は人ならざるもの、人の形をした神獣――青龍である。ゆえに不老不死で、お世継ぎを作る必要もない。それなのに私は青帝の妻にされ、后となった。望まれない后だった私は、民の反乱に乗して後宮から逃げ出そうとしたものの、夫に捕まり、殺されてしまう。と思ったら時が遡り、夫に出会う前の、四年前の自分に戻っていた。今度は間違えない、と決意した矢先、再び番(つがい)として宮城に連れ戻されてしまう。けれど状況は以前と変わっていて……。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる