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第十話 獣の事情2
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ミュリエルをなだめて部屋に帰してから、メルヒオルはフィリの部屋に向かった。
本当なら、少し身体を休めたほうがいいのだろう。昨夜だけではなく、ここのところずっと寝不足なのだ。魔術に失敗して、この獣の頭になってしまってから、ずっと。
正直言って、身体は休息を求めているが、心は浮き立つようにして落ち着かない。だからその気持ちを誰かと分かち合いたいと、小さな友のところに向かったのだ。
「メルヒ! メルヒ!」
ドアを開ければ、その気配だけでフィリは嬉しそうにしてくれる。ふくふくとふくらんで羽を震わす姿は、この世のどんなものより可愛いとメルヒオルは思っている。
「メルヒ、どした? たのしい?」
友の明るい雰囲気を察知したのか尋ねてくる。フィリが賢いのか、それとも自分はそんなにわかりやすかったのかと考えて、またメルヒオルは笑顔になった。
「ミュリエルが良い子で、私は幸せだなと思ったんだよ」
「ポンコツ高慢ちき?」
「そんなふうに呼んではいけないよ。教えたのはリカだな……。彼女はポンコツでも高慢ちきでもないよ。優秀だし、優しい子だ。気位が高いのは、貴族として己が果たす責務を理解しているからなのだろう」
出会ったばかりの頃と今とを比べて、印象が変わった部分と代わらない部分を考えて、メルヒオルはしみじみとそう思った。
魔術師として名高いリトヴィッツ卿の娘だから、魔術の才能があることは期待していた。だから、前途有望な若い女性向けを自分の都合に付き合わせてしまうことだけが心配だったのだ。リトヴィッツ卿の口ぶりでは、彼の娘は必ず父である自分の言うことを聞くからと言っていたのも気がかりだった。
ところが、ミュリエルはメルヒオルが思っていたような女性ではなかった。
親が決めた婚約が嫌だからと、それを破棄させるために屋敷まで乗り込んできた。獣頭を見て卒倒したものの、すぐに起き上がっていかに婚約が嫌かを訴えてきた。
そのくせ、メルヒオルが良心につけこむように頼んでみれば、期限つきの婚約を了承してくれた。
そして、魔術を教えてみれば飲み込みが良く、ひらめく力もあり、何より学ぶことを楽しむ心を持っていた。
その上、人の痛みに寄り添う繊細さと優しさまで持ち合わせている。
ミュリエルが高慢に見えてしまうのは、彼女は自分がミュリエル・リトヴィッツである自覚があるからだと、メルヒオルは今ならわかる。
リトヴィッツ伯爵家の令嬢であり、有能な魔術師の娘であるという自覚だ。
兄弟はおらず、血筋を守っていくのは彼女しかいない。だから、周囲に侮られるわけにはいかないのだ。侮られるくらいなら、謙虚であるより気高くあることを選んだのだろう。
自分には決してないその高潔さが、メルヒオルはまぶしかった。
「メルヒ、メルヒ。それ、ほめすぎ」
滔々としたメルヒオルの語りを聞かされ、フィリが呆れ気味に言う。
「いいところばっかり。ばっかり見てる」
「そうかな。……そうかもね。ミュリエルは、いいところがたくさんあるから」
「…………」
指摘されても言い直すことはなく、メルヒオルは満たされたように笑う。優秀な教え子のことを考えると、明るく楽しい気分になるのだ。そんな友を半目で見つめてから、フィリはあくびをした。
「すきになっちゃったんだね。すきなら仕方ないね」
歌うように節をつけながら言う。それはからかうというより、友を祝福しているようだ。
「……そう、なのかな」
小鳥に歌われ、まるで自覚がなかったらしくうろたえている。“好き”というのは不慣れな感情で、自分の胸の内にあるといわれても、にわかにはぴんとこない。
好きになったことがないというより、自分以外の誰かを大切に思ったことがあまりなかった。
いつだって見た目で好悪をつけられてきたから、誰も心の中に入り込んできたことがなかった。誰かの心の中にも、興味を持ったことがなかった。
だが、今は違う。ミュリエルがどんなことを考え、何に喜ぶのかを知りたい。楽しませたいし、笑わせたい。
「そうか……これが好きなのか」
自分の心の動きを改めて観察して、ようやくメルヒオルは腑に落ちた。腑に落ちてしまうと、この気持ちを“好き”と呼ばないのなら、他のどこにも“好き”なんてものはない気がしてくる。
「ミュリエルのことが好きなのか……でも、彼女は獣頭なんて論外だって言っていたな」
出会ってすぐの、駄々っ子のような主張を思い出すと、幸せな気持ちが急速にしぼんでいく。
「……何を浮かれていたんだろうね。私は彼女よりも十二歳も年上で、おまけにこんな姿なのに」
自嘲するように呟くと、心配するようにフィリは首をかしげた。
「元の姿に戻れば、あるいは……」
そんなふうに考えて、怖くなってやめた。
元の姿に戻ることは、すなわちミュリエルとの期限つきの婚約の終わりを意味する。元の姿のメルヒオルを見てミュリエルが嫌だと言えば、彼女とは何の関わりもなくなってしまうのだから。
(せっかく先生と呼んでもらえたのに、あんなに慕ってくれているのに……それ以上に何を求めるというんだ)
そう言い聞かせて、ふくらみかけた気持ちに蓋をした。
ミュリエルをなだめて部屋に帰してから、メルヒオルはフィリの部屋に向かった。
本当なら、少し身体を休めたほうがいいのだろう。昨夜だけではなく、ここのところずっと寝不足なのだ。魔術に失敗して、この獣の頭になってしまってから、ずっと。
正直言って、身体は休息を求めているが、心は浮き立つようにして落ち着かない。だからその気持ちを誰かと分かち合いたいと、小さな友のところに向かったのだ。
「メルヒ! メルヒ!」
ドアを開ければ、その気配だけでフィリは嬉しそうにしてくれる。ふくふくとふくらんで羽を震わす姿は、この世のどんなものより可愛いとメルヒオルは思っている。
「メルヒ、どした? たのしい?」
友の明るい雰囲気を察知したのか尋ねてくる。フィリが賢いのか、それとも自分はそんなにわかりやすかったのかと考えて、またメルヒオルは笑顔になった。
「ミュリエルが良い子で、私は幸せだなと思ったんだよ」
「ポンコツ高慢ちき?」
「そんなふうに呼んではいけないよ。教えたのはリカだな……。彼女はポンコツでも高慢ちきでもないよ。優秀だし、優しい子だ。気位が高いのは、貴族として己が果たす責務を理解しているからなのだろう」
出会ったばかりの頃と今とを比べて、印象が変わった部分と代わらない部分を考えて、メルヒオルはしみじみとそう思った。
魔術師として名高いリトヴィッツ卿の娘だから、魔術の才能があることは期待していた。だから、前途有望な若い女性向けを自分の都合に付き合わせてしまうことだけが心配だったのだ。リトヴィッツ卿の口ぶりでは、彼の娘は必ず父である自分の言うことを聞くからと言っていたのも気がかりだった。
ところが、ミュリエルはメルヒオルが思っていたような女性ではなかった。
親が決めた婚約が嫌だからと、それを破棄させるために屋敷まで乗り込んできた。獣頭を見て卒倒したものの、すぐに起き上がっていかに婚約が嫌かを訴えてきた。
そのくせ、メルヒオルが良心につけこむように頼んでみれば、期限つきの婚約を了承してくれた。
そして、魔術を教えてみれば飲み込みが良く、ひらめく力もあり、何より学ぶことを楽しむ心を持っていた。
その上、人の痛みに寄り添う繊細さと優しさまで持ち合わせている。
ミュリエルが高慢に見えてしまうのは、彼女は自分がミュリエル・リトヴィッツである自覚があるからだと、メルヒオルは今ならわかる。
リトヴィッツ伯爵家の令嬢であり、有能な魔術師の娘であるという自覚だ。
兄弟はおらず、血筋を守っていくのは彼女しかいない。だから、周囲に侮られるわけにはいかないのだ。侮られるくらいなら、謙虚であるより気高くあることを選んだのだろう。
自分には決してないその高潔さが、メルヒオルはまぶしかった。
「メルヒ、メルヒ。それ、ほめすぎ」
滔々としたメルヒオルの語りを聞かされ、フィリが呆れ気味に言う。
「いいところばっかり。ばっかり見てる」
「そうかな。……そうかもね。ミュリエルは、いいところがたくさんあるから」
「…………」
指摘されても言い直すことはなく、メルヒオルは満たされたように笑う。優秀な教え子のことを考えると、明るく楽しい気分になるのだ。そんな友を半目で見つめてから、フィリはあくびをした。
「すきになっちゃったんだね。すきなら仕方ないね」
歌うように節をつけながら言う。それはからかうというより、友を祝福しているようだ。
「……そう、なのかな」
小鳥に歌われ、まるで自覚がなかったらしくうろたえている。“好き”というのは不慣れな感情で、自分の胸の内にあるといわれても、にわかにはぴんとこない。
好きになったことがないというより、自分以外の誰かを大切に思ったことがあまりなかった。
いつだって見た目で好悪をつけられてきたから、誰も心の中に入り込んできたことがなかった。誰かの心の中にも、興味を持ったことがなかった。
だが、今は違う。ミュリエルがどんなことを考え、何に喜ぶのかを知りたい。楽しませたいし、笑わせたい。
「そうか……これが好きなのか」
自分の心の動きを改めて観察して、ようやくメルヒオルは腑に落ちた。腑に落ちてしまうと、この気持ちを“好き”と呼ばないのなら、他のどこにも“好き”なんてものはない気がしてくる。
「ミュリエルのことが好きなのか……でも、彼女は獣頭なんて論外だって言っていたな」
出会ってすぐの、駄々っ子のような主張を思い出すと、幸せな気持ちが急速にしぼんでいく。
「……何を浮かれていたんだろうね。私は彼女よりも十二歳も年上で、おまけにこんな姿なのに」
自嘲するように呟くと、心配するようにフィリは首をかしげた。
「元の姿に戻れば、あるいは……」
そんなふうに考えて、怖くなってやめた。
元の姿に戻ることは、すなわちミュリエルとの期限つきの婚約の終わりを意味する。元の姿のメルヒオルを見てミュリエルが嫌だと言えば、彼女とは何の関わりもなくなってしまうのだから。
(せっかく先生と呼んでもらえたのに、あんなに慕ってくれているのに……それ以上に何を求めるというんだ)
そう言い聞かせて、ふくらみかけた気持ちに蓋をした。
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