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第十話 獣の事情1

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「先生と呼ばれるのが、こんなに素敵な気分になるとは思わなかった。ミュリエルにとっては不本意かもしれないけど、君のおかげで私は、いろいろなことを体験させてもらっているよ。……この姿になってからは、誰かと親しく交流できるなんて、思っていなかったからね」

 ミュリエルが淹れたハーブティーを飲みながら、メルヒオルはしみじみと言う。
 ネコ科の獣の口元はカップから液体を飲むのに適していないように見えるのに、器用にこぼさず飲んでいる。
(魔術を失敗したって言っていたけれど、どうしてこんなことになってしまったのかしら)
 ミュリエルはこの姿のメルヒオルしか知らないが、彼にも人間だった頃があるのだ。そのことを思いだして、改めて疑問に思った。

「メルヒ先生は、一体どんな魔術を失敗して、今の姿になってるのですか?」

 令嬢としてなら、聞いてはいけない質問だ。立ち入ったことを尋ねるのは淑やかではないし、行儀のいいことではない。
 だが、今のミュリエルは伯爵令嬢ではなく、メルヒオルの教え子だ。先生の気になる見た目のことを尋ねても、きっと少しくらいなら許されるだろう。

「そうだね。ミュリエルには、話しておかなくてはいけないことだ」

 思案顔でメルヒオルは言う。こうしてじっくり見てみると、獣の顔にしては表情豊かだ。とりあえず、何を考えているのかわからないということはない。

「私は元々、自分の顔が好きではなかった。多くの人も、私の顔を好奇の目が嫌悪の目でしか見なかった。その結果生じたある問題によって、顔を変えざるを得なくなって、魔術を使ったところ失敗してしまったんだ」

 ポツポツとメルヒオルは語り始めた。口調は軽いが、内容は重い。軽々しく口を挟めそうにないから、ミュリエルは黙って聞くしかない。

「“人は外見じゃない”なんてよく言われるけど、私は中身を見てもらえたことはあまりないよ。みんな、私を顔で判断するんだ。『お前の顔が好きじゃないから近くに寄らないでくれ』とはっきり言われたこともあるし、学生時代はみんながいる集まりに呼ばれないことなんてよくあった。逆に、そんなふうにみんなに疎まれているからと、利用しようと近寄ってくる人もいた。……好きでこの顔で生まれてきたわけじゃないのに」
「……ひどい」

 容姿による差別をミュリエルは受けたことがないから、メルヒオルのつらさを想像することしかできない。むしろ、そういう悩みを持つ人を傷つけていたかもしれないと気づいて、胸の中に嫌な思いが広がった。

「爵位を継ぐまでは、限られた人間関係の中でひっそりと生きていけばいいと思っていたけれど、社交界に出るようになってからはそうもいかなくてね。嫌悪や好機の目にさらされても、人前に出ることに耐えなければいけなかった。だが、人々に疎まれる顔のせいで逆に追いかけ回してくる人まで現れて……やむを得ず、魔術で顔を変えることにしたんだ。失敗して、人前に出られなくなってしまったけどね」
「……追いかけ回す人が現れなければ、その魔術を使うことはなかったということですか?」
「まあ、そうだね。いくら気に入らない顔でも、夜会などの必要な集まりに呼ばれて参加するという、最低限の義務は果たせるから。魔術を使ってまで変えようとは思わなかっただろう」

 そう言ってメルヒオルは、困ったように笑った。
 事実、彼は困っているのだろう。
 魔術の失敗によって獣の頭になってしまっては、日常生活に支障をきたす。使用人も信用できる者だけしかそばにおけないし、ちょっとした外出すらままならない。
 もし自分が同じ目にあったらどんな思いだろうかと想像すると、ミュリエルは腹が立って仕方がなかった。
 それに、メルヒオルがつらい思いをしているのが悲しかった。生まれてくるときに顔を選べるわけではないのに、見た目のせいで不当な扱いを受けるなんて、あんまりだ。

「ひどい……どうしてそんなひどいことをするんでしょう。メルヒ先生は、何も悪いことなんてしていないのに……」

 怒りと悲しみのあまり、ミュリエルの目から涙がこぼれていた。手の甲で拭っても、次から次へとあふれ出す。

「先生だけ追いやられて、閉じ込められて、きれいなものも見られないなんて……ひどい」

 爪弾きにされ追い立てられ、閉じ込められなければならない理由なんてない。そう思うと、涙はとまらなかった。

「ごめんね。ミュリエルに悲しい思いをさせたかったわけじゃないんだ。……私のために涙を流してくれてありがとう」

 メルヒオルはミュリエルの頭を撫で、もう片方の手で涙を拭ってやった。
 悲しいのは彼のほうなのに、こうして慰めさせてしまっているのが情けなくて、必死で泣き止もうとした。だが、むきになっても涙は止まらない。

「ミュリエルは優しいね」
「……優しくなんて、ありません」
「でも私は、誰かのために泣いたことなんてないよ」

 小さな子供をあやすように、ポンポンとメルヒオルはミュリエルの背中を叩く。物心ついてからそんなふうになだめられたことなどなかったため、恥ずかしさと照れくささでどう反応していいかわからなくなる。

「……きちんとお話をすれば、メルヒ先生がいい人だってわかるのに。そう思ったら、悔しいんです」
「ミュリエルがこうして知ってくれているからいいよ」
「先生も外に出たいときがあるでしょう……? それなのに、こんなのひどい」
「そうだね。街中で見せてあげたい魔術もあるからね」

 泣いているうちにわけがわからなくなって、途中からミュリエルはただの駄々っ子のようになってしまった。そんなミュリエルとは反対に、メルヒオルは笑顔になっていく。
 だが、柔らかい微笑みの奥には諦観や悲しみが隠れてあるのが見えて、ミュリエルの胸はどうしようもなく苦しくなった。

「メルヒ先生が元の姿に戻れるよう、お手伝いします。わたくし、頑張ります。だから、一緒に街中に行って魔術を見せてください」

 どうしてこんなに苦しくなるのか、どうすればメルヒオルの気持ちを楽にしてやれるのかわからなくて、それだけ言うのがやっとだった。言いたいことはほかにもあるはずなのに、うまく言葉が出てこない。
 
「……ありがとう」

 もどかしさも悔しさもすべて受け止めるように言って、メルヒオルはミュリエルを優しく撫でた。

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