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12、記憶の鏡

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 屋敷の外へ駆け出すと、ほんの少し前まで薄暗かった世界が、ぞっとするほどの暗さに包まれていた。目の前に暗幕でもかけられたような、そんな唐突さ。吹く風も湿気をはらんで、まもなく雨が降るのがわかる。
 遠く、分厚い雲の向こうで不穏な音が鳴り、あっと思ったときには降り出していた。
 ズボンを履いていて良かったなと思ったけれど、それでもこうして走ると自分の足の遅さが嫌になる。かけっこは、昔から得意ではないのだ。そんなところも、母には似なかったらしい。

 小さかった頃、母と二人で歩いているときにひどい雨に降られたことがあった。雷鳴も轟いていて、近くにでも落ちたら大変だと二人で慌てて走った。でも、小さくて、今より足が遅かったわたしはそんなに速くは走れない。だから少しして母はわたしを抱えて走ることにしたのだ。
 買い物の帰りだったから、荷物もあって大変だったはずなのに。母は、風のように速かった。
 わたしと母がちょうど民家の軒先に逃げ込んだとき、近くの木に雷が落ちて、ずいぶんと肝を冷やした。そのとき母が無邪気に、ホッとしたというように言ったのだ。「母さん、かけっこが速くて良かった」と。

 ゴロゴロと、雷が聞こえる。裏庭には他に背の高い木がたくさんあるのだから、わざわざちっこいわたしに落ちてくれるなよと思いながら、ざんざんと雨が降る中を走った。負荷軽減の魔術を足にかけたけれど、元々の足の遅さと地面のぬかるみのせいで大して速くはならない。
 それでも、わたしはマティウスの元へ走った。雷が、嵐が苦手じゃなくたって、こんな中で一人きりはさぞ心細いだろうから。ひとりで眠りにつけない青年が、こんな不穏な空の下で平気なわけがない。

「マティウスさま!」

 ガラス張りの温室に飛び込むと、案の定そこにマティウスはいた。
 周りの鉢植えは無事だ。彼はただ呆然と立ち尽くしている。
 でも、よくよくその姿を見ると目は見開かれ、眼球は揺れている。歯も、唇も、体も小刻みに震えていて、彼がギリギリに追い詰められているのがわかった。

「マティウスさま?」
「ーーーーーっ‼︎」

 わたしがそばに寄るのと、マティウスが言葉にできない声で叫び始めるのはほとんど同時だった。
 錯乱したマティウスは、腕を振り回して手近にあった植木鉢をなぎ払おうとした。
 それを、風の魔術で止める。マティウスの腕は柔らかな空気の壁に受け止められ、それ以上先へは進まない。

「ーーーーっ!」

 何か破壊しなければ収まらないとでもいうように、マティウスはまた腕を振り回して手当たり次第になぎ払おうとした。それを一打一打、風の魔術で受け止めるけれど、こんなことを続けていたらこちらの体力が尽きそうだ。
 だから仕方なく、捕縛の魔術を使う。
 詠唱をすると魔術文字が出現し、光の帯のようになってマティウスへ向かっていく。そしてそのまま蛇のように纏わりついて彼の体を縛り上げた。
 見えない紐でグルグル巻きにされたマティウスは、逃れようと四肢を強張らせ、身をよじる。

「マティウスさま、落ち着いてください!   暴れたら怪我をしてしまいます!」

 放っておいたら骨折や脱臼をしかねないから抱きついて動きを止めようと思うけれど、体格の差がありすぎる。おまけに、錯乱状態のマティウスは力加減をするということができない。気を抜くと弾き飛ばされてしまいそうだ。
 何がマティウスをそんなふうにするかわからないけれど、破壊衝動のみが彼を突き動かしているようだった。

「……か……ないで……」
「え?」
「……さま……かないで……かあさまをつれていかないで……!」

 わたしが意識を奪う魔術を使うのと、マティウスが何事かを叫ぶのはほぼ同時だった。魔術は成功して、マティウスの立派な体躯がわたしの腕の中に崩れ落ちる。

「『母さまをつれていかないで』?」

 何と言ったのか確かめようにも、マティウスは眠りの中だ。
 わたしはモヤモヤした気持ちとマティウスの体を抱えたまま、しばらくその場に立ち尽くすしかなかった。





 ベッドの中で静かな寝息を立てているマティウスを見て、わたしもそっと息を吐いた。
 あれから、雨の中を屋敷まで戻り、人手を呼んできてマティウスを運んだのだ。雨がなければ、筋力を強化してわたしが運ぶこともやぶさかではなかったけれど、体格差や足場の悪さを考慮して断念した。
 今回のことで、セバスティアンの他にも多くの男性使用人がいることがわかった。マティウスが嫌がるため、普段は影のように潜んで仕事をしているのだという。
 そんな男性使用人たちにマティウスを運んでもらい、わたしも着替えて夫人たちのところに報告に行った。マティウスのことで聞きたいことは山ほどあったけれど、憔悴しきった様子を見たらとても詳しいことを尋ねる気にはならなかった。夫人はマティウスの無事がわかると、ただ「良かったわ」と言っただけで、他には何も語ろうとはしなかった。




 瞼も唇も固く閉じて、身じろぎひとつしないマティウスを眺めながら、わたしはある魔術を使うかどうかを悩んでいた。
 それは、鏡を媒介に人の記憶を覗き見るという魔術で、主には医療魔術の現場で使われている。催眠術のように本人の口から語らせるのではないため、細かなことを知るのには良いとされている。その分、扱いが慎重で難易度が高い。
 でも、さっきのマティウスを見る限り、何かを思い出して苦しんでいた。ということは、彼の人格形成に大きな影響を与えた出来事を思い出す引き金は引かれているということだ。記憶を覗くのに、これほど適した日はないだろう。
 何があったのかを知ることができれば、彼が抱える問題をまとめて解決してあげられるかもしれない。
 セバスティアンの言っていた“踏み込めないこと”に踏み込むのなら、きっと今日しかないのだ。

「マティウス……あなたのことをわたしは知りたいの」

 言い訳みたいにそう呟いて、わたしはそっと鏡に手をかざした。
 複雑で少し長い術式を詠唱すると、鏡が光り出す。その鏡をマティウスにかざすと、光はさらに強さを増して、一瞬わたしの視界を奪った。
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