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4.
機嫌なおしてよ、と美樹がむすっと頬を膨らまして言った。気に食わないならいつも通り好き放題やればいいのに今回に限ってしおらしくしてみせるのは何故なのか。紅はじっと美樹の作りの綺麗な顔を見た。
蒼は、さっきのことをどう解釈しただろうか。番予定、それはつまり恋人と言っているのと相違ない。いくら蒼が鈍いと言ってもあの反応だ。勘違いしたに違いない。気持ち悪いとか、まさか幼馴染がとか、そんな風に思っただろうか。長い間友人関係だが、恋愛面では落ち着いている蒼があんなに取り乱しているのは初めてだった。
できれば、知らないままでいてほしかった。美樹のことを。無関係でいてほしかった。蒼にはこんな男と知り合ってほしくなかった。大嫌いな男と自分の親友が知り合うこと、ましてや仲良くなって笑って居る所なんて不愉快である以外何者でもない。そんなことに気付きたくもなかったし、そんな思いもしたくなかった。
美樹のことだから、蒼を友人だなんて、まして大切にだなんて思っていないだろう。目を見ればわかる。悪意に疎い友人は底抜けに人がいいから気が付いてないだろうが、三人で遊んでいた時、恐ろしいほど冷たい目をしている瞬間が多々あった。あれは、友人に向ける目ではない。嫌いな人に向けるそれだ。
嫌いなら、会わなければいいのに。約束を破って会おうとしたのは紅だが、そもそも紅は何度も言うが美樹との約束に同意していない。だから、蒼に会わないなんてことはないのだけれど、美樹がついてくるなら、やめておけばよかったと後悔している。
美樹が蒼に言ったことは真実ではない。紅は付き合うとか番になるとか、そんなこと一度たりとも言った覚えもないのだから。だけどそれをすぐに否定できなかった。
少し怖かったのだ。否定した時、普段されていることや、セックスした時のことをバラされるんじゃないかって考えて、口が上手く動かせなかった。それが美樹の狙いなんだってわかって、頭が混乱して泣いた。
結局自分は右京美樹の思い通りなんだと、思い知らされた。
「ねぇ~~機嫌なおった?」
また、美樹が首を傾げて問う。さっきよりも不機嫌そうな声。返答に困って俯くと、大袈裟にため息を吐いて、今度は紅の顔を掴んで無理矢理上に向かせて聞く。
「機嫌は、なおった? 紅ちゃん」
「な、なおった……」
「そ! じゃあ、できるね」
「なに、を?」
「何って、セックス。あ、ゴムは買っといたから安心していいよ」
カラカラと笑う男が当たり前のように紅の家の寝室に向かう。ソファーから軽く腰を浮かせた紅が戸惑ったように視線をさまよわせているとため息を吐いて寝室のドアにもたれた美樹が、腕を組んで言った。
「生娘みたいな反応も可愛いけど、もう処女じゃないんだし、たまには素直に来てくれない? 俺は愛しの蒼ちゃんに会うの許してあげたんだから紅ちゃんも俺のお願い聞いてよ」
少し苛立ったような声に紅は無性に腹が立つ。だが、言い返すこともできず、小さく謝ってゆっくり立ち上がって寝室に向かった。
右京美樹はイライラしていた。腕の中で喘ぐ紅の身体は自分の物だ。初めても、逃げ場所も奪った。奪った筈だった。
計算外だったのはあの幼馴染の存在だった。底抜けに明るい人が良すぎるただの馬鹿。
その程度に思っていたが、ここまで紅の心の中を占めているとは思わなかった。紅は、母親だけじゃなく、蒼までも心の拠り所にしている。つまりそれは、紅のすべてを自分で埋めるのが容易ではないということ。
母親は仕方がない。生みの親は大事にしてほしいし、それはいい。だけれど蒼は違う。
幼い紅を知る人物で、お互いの性格もよく知っている。紅を好いていて、なにより、『アルファ』ではない男だ。紅が心置きなく好きになれる条件が整いすぎている。
これまで大切に自分で埋めてきた場所を奪われる。焦りと苛立ちが胸にとぐろを巻いて、見下ろした紅のチョーカーがきらりと光るのを鬱陶しく思って、それを乱暴に掴んだ。驚愕に目を見開いた紅が抵抗しようと伸ばした手を振り払って、赤いパネルを何度か力任せに引っ張るが、紅が苦し気な声を上げただけで、チョーカーはびくともしない。
舌打ちをしてチョーカーから手を離す。げほげほっと咳き込む紅を見下ろすと、赤いチョーカーのパネルに酷く暗い顔をした自分が反射して見えて、一気に冷静になる。
深呼吸をして、優しく紅の頭を撫でると、その額にキスを落として言った。
「ごめん、なんでもない」
「…………」
人が変わったかのように乱暴だったその手で優しく頭を撫でて微笑む美樹を不審げに見つめる紅の頬にキスをする。無抵抗で受け入れたその白い頬からゆっくり首筋へと移動させ胸元に赤い痕を残した。
右京美樹は考える。どうやってあの幼馴染を紅の前から消すか。必要なのは、いかに自然に、早急に、消すか。連絡も取らせたくない。とすると、親がいいだろうか。
問題は、四堂蒼の傍にいるあの女。蒼からすべてを奪う過程で邪魔になる一番の問題点。
蒼自体は親から仕事を取り上げてどうにでもしてやれば問題ない。幸いなことに彼の父親が務めている会社の得意先は右京グループのひとつだ。取引をやめさせてもこっちに問題なんてないのだから圧力を掛けてやる。家族全員路頭に迷うなんてことになれば紅の前から姿を消すだろう。
ただ、恋人の高木咲は四堂蒼一筋だ。もし、万が一彼女が仕事先の斡旋をしたら、美樹には手が出しづらい。そうでなくても、彼女がいるという安心感は蒼の心の支えになるだろう。それでは納得がいかない。
高木咲を、四堂蒼から引き剥がすには、どうすればいいのか。悩んで、一つの結論に辿り着く。
古川ではあの女は落とせないだろうけど、無理矢理……それこそレイプでもして心に傷を負わせてしまえばいいのではないか。蒼の傍に居られないようにしてやればいい。美樹の名前さえ出させないようにして、後は古川達が勝手にやったと言えば、もし何かあっても右京家は関係がないと言い張れる。簡単な事じゃないか。
「はは」
つい、笑いが零れ出る。眉を顰めた紅が首を傾げた。機嫌がよくなった美樹はなんでもないよとその細い身体を抱き締める。古川達の顔をぼんやりと思い返して口角を上げる。使えるものは使い捨てないと、それがオトモダチってもんだろ? と美樹は心の中でクラスメイトの三人と、あの底抜けに明るいお人好しに語り掛けた。
***
四堂蒼は困惑していた。
美樹が言った言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡る。わかるでしょ。と言ったその目は初めて会った時とは違って、自分を明確に邪魔だと告げていた。
胸の中がもやもやする。抱き締められた紅の姿を思い出して、胸がずきんと痛む。その感情の名前がわからず、蒼は困惑していた。
気が付くと、咲の家の前に立ち、呼び鈴を鳴らしていた。自分の住む安っぽいマンションとは違って、しっかりとした高級マンションの五階に住む彼女が、前髪をワニクリップで一纏めに留めて眼鏡を掛け、スウェット姿で現れる。
突然訪ねてきた彼氏に、こんな格好で恥ずかしいと慌てたように顔を隠し部屋に入ろうとした咲だったが、いつもと違う暗いその顔に何かを悟ったようで、静かにその背を押して入室を促した。
とぼとぼと歩いて、咲の好きなクリーム色のソファーに腰を掛けた落ち込んだ様子の蒼には何も聞かず、咲は冷たい麦茶を用意してローテーブルに置く。蒼の隣に腰を下ろして、彼が口を開くまで、ただ黙って顔を見つめた。
どのくらいそうしていたのか。しばらくして、漸くゆっくりと、蒼が唇を開く。
「紅に、彼氏が……できたらしいんだけど」
「紅くんに? どんな人?」
「この間会った、美樹って奴…………今日三人で買い物したんだけど、その時に……番予定って言われたんだ」
美樹……ああ、あの男か。と思い出して咲は首を傾げる。
「紅くんはなんて言っていたの? 嬉しそうだった?」
その質問に、俯いていた蒼が固まる。少し間を置いて、ゆっくりと首を左右に振った。
「紅の顔は、見れなかった……でも、今日、笑ってなかった、ような気がする……」
「……そっか。蒼ちゃんは、どう思ったの?」
その問いにゆっくりと顔を上げた蒼は、力なく、わからない。と答える。咲は大きく息を吸って、ゆっくり吐き出すと、蒼の手に自分の手を重ねて真剣な眼差しで言った。
「胸が、痛いんでしょ。もやもやするんでしょ。二人が一緒に居るのを想像して、嫌だって思ったんでしょ。でも、どうしていいか分からなかった。だから、私の元に来た。違う?」
ぎこちなく頷く蒼を優しく抱き締めて、咲は優しい声で導くように言葉を紡ぐ。
「それがね、好きってことなんだよ。蒼ちゃん」
カランと溶けた氷がガラスコップにぶつかる音がする。好き。と蒼が小さく呟いた。
「番予定ってだけなら、まだ恋人じゃないかもしれない。蒼ちゃんにもチャンスがあるよ。ね、私に遠慮なんていらないから、アタックしておいで」
「咲……」
「蒼ちゃんの彼女でいられるのは、これで最後だね。これからは友達。……紅くんになら悔しくないや」
ぎゅっと抱き締める力を強くした咲がそう言って身体を放す。にこりと笑った彼女の茶色い髪の毛がさらりと揺れる。開いたエメラルドの瞳に映った蒼の頬には、透明な雫が伝っていた。
***
「問題は、美樹君がどんな人かわからないってことよね」
腕を組んで咲が言った。紅に好きだと言うということは、つまり番予定の美樹から彼を略奪するということだ。少なくとも美樹の発言から察するに彼の性別はアルファだろう。
二人がオメガとアルファである以上番になられたら、ベータである蒼にはどうにもできない。
うーんと唸る咲の横で、紙に書かれた「美樹 アルファ」の文字に蒼は引っかかりを覚えていた。それが何なのかは分からないが、とても重要な事だったと思う。
胸に抱えたしこりの正体が分からず、蒼はもやもやとする頭で懸命にその輪郭を辿った。
「紅くんはどう思ってるのかな?」
考え込んでいた蒼の横で咲が呟いた言葉にハッとする。稲妻が走ったような感覚に、思わず咲の肩を掴んで揺さぶった。
「……それだ! それだよ、咲!」
「な、なにが?」
驚いた様子の咲は頭に疑問符を浮かべる。一体なにがどうしたと言うのか。
「咲は知らなかったか? 紅ってアルファめちゃくちゃ嫌ってんだよ。ほら、華王子の……」
「……ああ、紅くんのお父さんか」
「そうそう。だから、紅が美樹の事本当に好きなのか気になって……」
最後の方は尻すぼみになったその言葉には少しの期待が溢れていた。もし紅が美樹を好きじゃなかったら。そんな期待が零れ出ている蒼に、咲はくすりと笑う。
「そうだね、お兄ちゃんに聞いてみよう。同じ学校の教師しているんだから何か知っているかもしれないし」
そう言ってスマホを取り出した咲に蒼がありがとうと礼を口にする。どういたしましてと微笑んで、兄である高木葵(たかぎあおい)の連絡先を呼び出した咲は、発信ボタンを押した。
数コールを置いて落ち着いた声が機械越しに聞こえた。四日ぶりに聞く兄の声に咲は明るい声で「もしもし、お兄ちゃん?」と呼びかけた。妹の声に少し優しい声で葵は、なんだ? と返事をする。聞きたいことがあるんだけど、と前置きを付けて、咲は本題を告げた。
「美樹君って人学校にいる? 佐渡紅くんとどんな関係なのかなーって」
何気なく聞いた言葉が、兄の言葉を失わせる。その名前の主をよく知っているからか、兄は言葉を失ったようにしばらく黙った。
「……お兄ちゃん?」
不審に思った咲が呼びかけると、電話向こうで深く息を吐く音がした。
『蒼くんもそこにいるのか?』
「え? うん」
『本当に、知りたいって思うんだね?』
「……お兄ちゃん?」
硬い声に咲は嫌な予感がする。その先を聞かない方がいいかもしれない。だけれど、聞かなければ後悔する。そんな気がした。
スマホをスピーカーモードに切り替えて、大丈夫と答えると、また深いため息が聞こえて、ゆっくりと兄は語り始めた。
『佐渡紅君はね、クラスでいじめられているんだ。右京美樹君を筆頭にしたグループから特にね。多分、右京君は紅君を好きなんだろうけど……教師の俺にはどうにもできないこともあってね』
告げられた言葉に、二人は絶句した。
紅がいじめられている? その言葉が重く圧し掛かる。いつから、と掠れた声で聞く咲の問いに葵は一年生の頃からだと答えた。
そんなに前から、紅は自分に隠して一人で耐えていた? 蒼は拳をぐっと握る。怒りで震える自分の手に咲が落ち着けるように小さな手を重ねた。
右京という名前は聞いたことがある。有名な資産家の名前だ。現代における金持ちと言えばで名前が真っ先に挙げられる四候補のうちの一つ。それが、右京家。その息子ということだろう。志賀崎には右京家の子供が通っているっていうのは聞いたことがある。
何がどう間違いを起こしてその右京美樹が紅を虐めているのか。蒼は理解できないで唇を噛んだ。さっき三人で買い物をしていた時、紅が俯いていたのは、笑っていなかったのは、そういうことだったのだ。
「俺、紅の家に行ってくる」
「蒼ちゃん、駄目。それじゃあ紅くんに迷惑がかかるよ」
「でも」
「駄目だよ」
「……」
立ち上がる蒼を引き留めて咲が言った。首を振る真剣な目が、ゆっくりと頭に血の昇った蒼を冷静にさせる。舌打ちして頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜた蒼が再びソファーに腰を下ろす。
通話を切った咲と蒼の間に沈黙が訪れる。ぐるぐると美樹の顔と紅の顔が頭の中を駆け巡って、苛立ちに蒼は麦茶を呷った。
機嫌なおしてよ、と美樹がむすっと頬を膨らまして言った。気に食わないならいつも通り好き放題やればいいのに今回に限ってしおらしくしてみせるのは何故なのか。紅はじっと美樹の作りの綺麗な顔を見た。
蒼は、さっきのことをどう解釈しただろうか。番予定、それはつまり恋人と言っているのと相違ない。いくら蒼が鈍いと言ってもあの反応だ。勘違いしたに違いない。気持ち悪いとか、まさか幼馴染がとか、そんな風に思っただろうか。長い間友人関係だが、恋愛面では落ち着いている蒼があんなに取り乱しているのは初めてだった。
できれば、知らないままでいてほしかった。美樹のことを。無関係でいてほしかった。蒼にはこんな男と知り合ってほしくなかった。大嫌いな男と自分の親友が知り合うこと、ましてや仲良くなって笑って居る所なんて不愉快である以外何者でもない。そんなことに気付きたくもなかったし、そんな思いもしたくなかった。
美樹のことだから、蒼を友人だなんて、まして大切にだなんて思っていないだろう。目を見ればわかる。悪意に疎い友人は底抜けに人がいいから気が付いてないだろうが、三人で遊んでいた時、恐ろしいほど冷たい目をしている瞬間が多々あった。あれは、友人に向ける目ではない。嫌いな人に向けるそれだ。
嫌いなら、会わなければいいのに。約束を破って会おうとしたのは紅だが、そもそも紅は何度も言うが美樹との約束に同意していない。だから、蒼に会わないなんてことはないのだけれど、美樹がついてくるなら、やめておけばよかったと後悔している。
美樹が蒼に言ったことは真実ではない。紅は付き合うとか番になるとか、そんなこと一度たりとも言った覚えもないのだから。だけどそれをすぐに否定できなかった。
少し怖かったのだ。否定した時、普段されていることや、セックスした時のことをバラされるんじゃないかって考えて、口が上手く動かせなかった。それが美樹の狙いなんだってわかって、頭が混乱して泣いた。
結局自分は右京美樹の思い通りなんだと、思い知らされた。
「ねぇ~~機嫌なおった?」
また、美樹が首を傾げて問う。さっきよりも不機嫌そうな声。返答に困って俯くと、大袈裟にため息を吐いて、今度は紅の顔を掴んで無理矢理上に向かせて聞く。
「機嫌は、なおった? 紅ちゃん」
「な、なおった……」
「そ! じゃあ、できるね」
「なに、を?」
「何って、セックス。あ、ゴムは買っといたから安心していいよ」
カラカラと笑う男が当たり前のように紅の家の寝室に向かう。ソファーから軽く腰を浮かせた紅が戸惑ったように視線をさまよわせているとため息を吐いて寝室のドアにもたれた美樹が、腕を組んで言った。
「生娘みたいな反応も可愛いけど、もう処女じゃないんだし、たまには素直に来てくれない? 俺は愛しの蒼ちゃんに会うの許してあげたんだから紅ちゃんも俺のお願い聞いてよ」
少し苛立ったような声に紅は無性に腹が立つ。だが、言い返すこともできず、小さく謝ってゆっくり立ち上がって寝室に向かった。
右京美樹はイライラしていた。腕の中で喘ぐ紅の身体は自分の物だ。初めても、逃げ場所も奪った。奪った筈だった。
計算外だったのはあの幼馴染の存在だった。底抜けに明るい人が良すぎるただの馬鹿。
その程度に思っていたが、ここまで紅の心の中を占めているとは思わなかった。紅は、母親だけじゃなく、蒼までも心の拠り所にしている。つまりそれは、紅のすべてを自分で埋めるのが容易ではないということ。
母親は仕方がない。生みの親は大事にしてほしいし、それはいい。だけれど蒼は違う。
幼い紅を知る人物で、お互いの性格もよく知っている。紅を好いていて、なにより、『アルファ』ではない男だ。紅が心置きなく好きになれる条件が整いすぎている。
これまで大切に自分で埋めてきた場所を奪われる。焦りと苛立ちが胸にとぐろを巻いて、見下ろした紅のチョーカーがきらりと光るのを鬱陶しく思って、それを乱暴に掴んだ。驚愕に目を見開いた紅が抵抗しようと伸ばした手を振り払って、赤いパネルを何度か力任せに引っ張るが、紅が苦し気な声を上げただけで、チョーカーはびくともしない。
舌打ちをしてチョーカーから手を離す。げほげほっと咳き込む紅を見下ろすと、赤いチョーカーのパネルに酷く暗い顔をした自分が反射して見えて、一気に冷静になる。
深呼吸をして、優しく紅の頭を撫でると、その額にキスを落として言った。
「ごめん、なんでもない」
「…………」
人が変わったかのように乱暴だったその手で優しく頭を撫でて微笑む美樹を不審げに見つめる紅の頬にキスをする。無抵抗で受け入れたその白い頬からゆっくり首筋へと移動させ胸元に赤い痕を残した。
右京美樹は考える。どうやってあの幼馴染を紅の前から消すか。必要なのは、いかに自然に、早急に、消すか。連絡も取らせたくない。とすると、親がいいだろうか。
問題は、四堂蒼の傍にいるあの女。蒼からすべてを奪う過程で邪魔になる一番の問題点。
蒼自体は親から仕事を取り上げてどうにでもしてやれば問題ない。幸いなことに彼の父親が務めている会社の得意先は右京グループのひとつだ。取引をやめさせてもこっちに問題なんてないのだから圧力を掛けてやる。家族全員路頭に迷うなんてことになれば紅の前から姿を消すだろう。
ただ、恋人の高木咲は四堂蒼一筋だ。もし、万が一彼女が仕事先の斡旋をしたら、美樹には手が出しづらい。そうでなくても、彼女がいるという安心感は蒼の心の支えになるだろう。それでは納得がいかない。
高木咲を、四堂蒼から引き剥がすには、どうすればいいのか。悩んで、一つの結論に辿り着く。
古川ではあの女は落とせないだろうけど、無理矢理……それこそレイプでもして心に傷を負わせてしまえばいいのではないか。蒼の傍に居られないようにしてやればいい。美樹の名前さえ出させないようにして、後は古川達が勝手にやったと言えば、もし何かあっても右京家は関係がないと言い張れる。簡単な事じゃないか。
「はは」
つい、笑いが零れ出る。眉を顰めた紅が首を傾げた。機嫌がよくなった美樹はなんでもないよとその細い身体を抱き締める。古川達の顔をぼんやりと思い返して口角を上げる。使えるものは使い捨てないと、それがオトモダチってもんだろ? と美樹は心の中でクラスメイトの三人と、あの底抜けに明るいお人好しに語り掛けた。
***
四堂蒼は困惑していた。
美樹が言った言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡る。わかるでしょ。と言ったその目は初めて会った時とは違って、自分を明確に邪魔だと告げていた。
胸の中がもやもやする。抱き締められた紅の姿を思い出して、胸がずきんと痛む。その感情の名前がわからず、蒼は困惑していた。
気が付くと、咲の家の前に立ち、呼び鈴を鳴らしていた。自分の住む安っぽいマンションとは違って、しっかりとした高級マンションの五階に住む彼女が、前髪をワニクリップで一纏めに留めて眼鏡を掛け、スウェット姿で現れる。
突然訪ねてきた彼氏に、こんな格好で恥ずかしいと慌てたように顔を隠し部屋に入ろうとした咲だったが、いつもと違う暗いその顔に何かを悟ったようで、静かにその背を押して入室を促した。
とぼとぼと歩いて、咲の好きなクリーム色のソファーに腰を掛けた落ち込んだ様子の蒼には何も聞かず、咲は冷たい麦茶を用意してローテーブルに置く。蒼の隣に腰を下ろして、彼が口を開くまで、ただ黙って顔を見つめた。
どのくらいそうしていたのか。しばらくして、漸くゆっくりと、蒼が唇を開く。
「紅に、彼氏が……できたらしいんだけど」
「紅くんに? どんな人?」
「この間会った、美樹って奴…………今日三人で買い物したんだけど、その時に……番予定って言われたんだ」
美樹……ああ、あの男か。と思い出して咲は首を傾げる。
「紅くんはなんて言っていたの? 嬉しそうだった?」
その質問に、俯いていた蒼が固まる。少し間を置いて、ゆっくりと首を左右に振った。
「紅の顔は、見れなかった……でも、今日、笑ってなかった、ような気がする……」
「……そっか。蒼ちゃんは、どう思ったの?」
その問いにゆっくりと顔を上げた蒼は、力なく、わからない。と答える。咲は大きく息を吸って、ゆっくり吐き出すと、蒼の手に自分の手を重ねて真剣な眼差しで言った。
「胸が、痛いんでしょ。もやもやするんでしょ。二人が一緒に居るのを想像して、嫌だって思ったんでしょ。でも、どうしていいか分からなかった。だから、私の元に来た。違う?」
ぎこちなく頷く蒼を優しく抱き締めて、咲は優しい声で導くように言葉を紡ぐ。
「それがね、好きってことなんだよ。蒼ちゃん」
カランと溶けた氷がガラスコップにぶつかる音がする。好き。と蒼が小さく呟いた。
「番予定ってだけなら、まだ恋人じゃないかもしれない。蒼ちゃんにもチャンスがあるよ。ね、私に遠慮なんていらないから、アタックしておいで」
「咲……」
「蒼ちゃんの彼女でいられるのは、これで最後だね。これからは友達。……紅くんになら悔しくないや」
ぎゅっと抱き締める力を強くした咲がそう言って身体を放す。にこりと笑った彼女の茶色い髪の毛がさらりと揺れる。開いたエメラルドの瞳に映った蒼の頬には、透明な雫が伝っていた。
***
「問題は、美樹君がどんな人かわからないってことよね」
腕を組んで咲が言った。紅に好きだと言うということは、つまり番予定の美樹から彼を略奪するということだ。少なくとも美樹の発言から察するに彼の性別はアルファだろう。
二人がオメガとアルファである以上番になられたら、ベータである蒼にはどうにもできない。
うーんと唸る咲の横で、紙に書かれた「美樹 アルファ」の文字に蒼は引っかかりを覚えていた。それが何なのかは分からないが、とても重要な事だったと思う。
胸に抱えたしこりの正体が分からず、蒼はもやもやとする頭で懸命にその輪郭を辿った。
「紅くんはどう思ってるのかな?」
考え込んでいた蒼の横で咲が呟いた言葉にハッとする。稲妻が走ったような感覚に、思わず咲の肩を掴んで揺さぶった。
「……それだ! それだよ、咲!」
「な、なにが?」
驚いた様子の咲は頭に疑問符を浮かべる。一体なにがどうしたと言うのか。
「咲は知らなかったか? 紅ってアルファめちゃくちゃ嫌ってんだよ。ほら、華王子の……」
「……ああ、紅くんのお父さんか」
「そうそう。だから、紅が美樹の事本当に好きなのか気になって……」
最後の方は尻すぼみになったその言葉には少しの期待が溢れていた。もし紅が美樹を好きじゃなかったら。そんな期待が零れ出ている蒼に、咲はくすりと笑う。
「そうだね、お兄ちゃんに聞いてみよう。同じ学校の教師しているんだから何か知っているかもしれないし」
そう言ってスマホを取り出した咲に蒼がありがとうと礼を口にする。どういたしましてと微笑んで、兄である高木葵(たかぎあおい)の連絡先を呼び出した咲は、発信ボタンを押した。
数コールを置いて落ち着いた声が機械越しに聞こえた。四日ぶりに聞く兄の声に咲は明るい声で「もしもし、お兄ちゃん?」と呼びかけた。妹の声に少し優しい声で葵は、なんだ? と返事をする。聞きたいことがあるんだけど、と前置きを付けて、咲は本題を告げた。
「美樹君って人学校にいる? 佐渡紅くんとどんな関係なのかなーって」
何気なく聞いた言葉が、兄の言葉を失わせる。その名前の主をよく知っているからか、兄は言葉を失ったようにしばらく黙った。
「……お兄ちゃん?」
不審に思った咲が呼びかけると、電話向こうで深く息を吐く音がした。
『蒼くんもそこにいるのか?』
「え? うん」
『本当に、知りたいって思うんだね?』
「……お兄ちゃん?」
硬い声に咲は嫌な予感がする。その先を聞かない方がいいかもしれない。だけれど、聞かなければ後悔する。そんな気がした。
スマホをスピーカーモードに切り替えて、大丈夫と答えると、また深いため息が聞こえて、ゆっくりと兄は語り始めた。
『佐渡紅君はね、クラスでいじめられているんだ。右京美樹君を筆頭にしたグループから特にね。多分、右京君は紅君を好きなんだろうけど……教師の俺にはどうにもできないこともあってね』
告げられた言葉に、二人は絶句した。
紅がいじめられている? その言葉が重く圧し掛かる。いつから、と掠れた声で聞く咲の問いに葵は一年生の頃からだと答えた。
そんなに前から、紅は自分に隠して一人で耐えていた? 蒼は拳をぐっと握る。怒りで震える自分の手に咲が落ち着けるように小さな手を重ねた。
右京という名前は聞いたことがある。有名な資産家の名前だ。現代における金持ちと言えばで名前が真っ先に挙げられる四候補のうちの一つ。それが、右京家。その息子ということだろう。志賀崎には右京家の子供が通っているっていうのは聞いたことがある。
何がどう間違いを起こしてその右京美樹が紅を虐めているのか。蒼は理解できないで唇を噛んだ。さっき三人で買い物をしていた時、紅が俯いていたのは、笑っていなかったのは、そういうことだったのだ。
「俺、紅の家に行ってくる」
「蒼ちゃん、駄目。それじゃあ紅くんに迷惑がかかるよ」
「でも」
「駄目だよ」
「……」
立ち上がる蒼を引き留めて咲が言った。首を振る真剣な目が、ゆっくりと頭に血の昇った蒼を冷静にさせる。舌打ちして頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜた蒼が再びソファーに腰を下ろす。
通話を切った咲と蒼の間に沈黙が訪れる。ぐるぐると美樹の顔と紅の顔が頭の中を駆け巡って、苛立ちに蒼は麦茶を呷った。
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