吉野千本桜

吉野楢雄

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吉野千本桜

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 吉野の地に千本桜の季節が近づいた。
 吉野葛の銘店「吉千」の三女の奈々美は、次女の佳奈美と近くの高見山展望台で弁当を広げ、長女の千奈美の結婚話をしていた。
「千奈美姉さんの婚約相手の広瀬さんって、何の仕事をなさっているの?」
 奈々美が訊いた。
「設計技師だって」
「いいお仕事ね」
「でも、お父さんもお母さんも結婚に反対なの」
「どうして?」
「お勤めもあまり良くないのに、年が十二歳も離れているから」
「そんなの、お互いが好き合っていればいいじゃないの」
「それはそうなんだけど、そればかりではいけないって」
「ふうん」
 奈々美は納得ができず、それでも大人の事情という、私にはまだよくわからないものが働いているのだろうと思った。
 桜はまだ蕾だったが展望台にはぼちぼち、観光客の姿があった。
 二人は弁当を閉じ、引き揚げた。

 吉千は創業が1850年と吉野でも屈指の歴史を誇る老舗で、現在の当主の千吉は八代目に当たる。吉野葛及び葛菓子の販売や、併設の茶屋が商いで、雑誌にも取り上げられるなど知名度も高い。
 当主の千吉は後継ぎの息子が生まれることを望んでいたが、三人目の奈々美が女の子だったことで諦め、娘のいずれかが婿を迎え入れることを望んだのだが、千奈美の結婚相手の広瀬がぱっとしないせいで、彼の婿入れは諦めた。
 娘たちの留守中に、千吉が居間で妻の美乃に話しかけた。
「それにしても広瀬には納得がいかんなあ」
「私もですよ」
「勤めも冴えない身で、ずいぶん年の離れた千奈美に言い寄りよった」
「そうですね」
「千奈美も千奈美で断ればよかったのに」
「大阪の勤めに出したのが失敗でした」
「全くだ。この間の席で話してみても、どうにも食えん奴で、到底跡取りを任せられん」
「私もそう思いました」
 千奈美は短大を卒業後、数年の約束で大阪での勤めを望み、二人が渋々応じた結果が今回の結婚話なのだった。
 広瀬は職場での千奈美の先輩で、人の好い千奈美は言い寄る広瀬を断り切れなかったのだった。
「ただいま」
 奈々美と佳奈美が帰って来た。
 二人は話を打ち切った。

 奈々美は夕食を終え、部屋に戻ってラジオをつけた。穏やかな京都のFM局が好みだが、少し気分が沈んだので大阪の局に切り替え、明るいDJと音楽に心を委ねながらベッドに横たわった。
 奈々美は女子大を出てしばらくの23歳で、恋人はおらず意中の男もいない。
 吉千での勤めを始めたばかりだが、接客仕事にもずいぶん慣れ、これなら結婚まで勤められると安心していた。
 女子大時代に入っていた、近くの大学のサークルの同窓会には一度参加したものの、勤めの話で明るく楽しんだのだが、男たちとの再会も縁につなげることはしなかった。
 千奈美の結婚話が気になり、両親に望まれない結婚はしたくないものだと思ったが、同時に、千奈美が選んだ結婚相手をそう嫌うものでもないだろうと両親を腹立たしくも思った。
 ラジオの番組が終わり、ちょうど空いた風呂に向かった。

 佳奈美は部屋で髪を乾かしながら、千奈美の結婚相手の広瀬について考えていた。
 両親、とりわけ父は、あいつは信用ならん奴だと広瀬との食事の席のあと、機嫌を悪くしていた。広瀬はなにやらやたらへりくだり、お父様のおっしゃる通りですはいなどと繰り返し、慇懃なのだがずる賢さを感じさせ、千吉は、あいつは婿には駄目だ、勤めが冴えないうえに腹黒と来る、この家には入れないなどと言い出した。
 母も広瀬から受けた印象は同様のようで、冴えない中年が若い千奈美に目を付けた、あれはいかがわしい男だと話し、佳奈美はただ腰の低い人だとしか思わなかったので、両親の受け止めは意外だったが、そう言われればそうかもしれないと思わせるところもあった。
 千奈美は両親から結婚には反対だと聞かされて落ち込んでいたが、それでも意地を張り、私は広瀬と結婚します、跡取りは佳奈美か奈々美の結婚相手に任せればいいと言い張った。
 両親は諦め、しぶしぶ婚約の運びとなったのだった。
 佳奈美は、広瀬は悪い人かしらと振り返ったがよくわからなかった。
 音楽がちょうど終わったところで電源を切り、ベッドに入った。

 次の店の休みに、奈々美と佳奈美は津風呂湖にボートに乗りに行った。バスの釣り人がぱらぱらといるだけで、ボート乗り場は空いていた。
 ボートの上で佳奈美は、
「奈々ちゃん、広瀬は悪い人かしら?」
「私はそうは思わなかった」
 奈々美は答え、実際そう思ったのだった。
「腰が低い人だった」
「お父さんとお母さんは、あの物腰や口調が怪しいって言うのよ」
「そうなの?」
「私も、ほんの少しそう思ったかも」
「佳奈ちゃんまで?」
「そうね、言われてみればっていうくらいだけど」
「じゃあそうなのかも」
「いえきっとそんなことないわ。それにお父さんとお母さんも、年の差がある結婚だからそう思ったかも」
「そうね」
 奈々美は、容姿もパッとしない中年の広瀬と、贔屓目でなくとも美しい千奈美の取り合わせを考えて、広瀬は両親に嫌われてもしょうがないのかもと少し思った。
「千奈美姉さんは、広瀬さんと結婚しないほうがいいのかしら?」
「きっとそんなことないわ。姉さんが変な人を選ぶわけがない」
「そうよね」
 佳奈美はボートを船着き場に寄せ、二人は家路に向かった。

 桜が咲き始めて茶屋が賑わい始めた。奈々美と佳奈美は連日、接客に立っていた。
 ほとんどの客が千円ほどの葛切りを注文し、若い人は時折葛パフェを注文した。
 最近は外国人客もちらほらと目にするようになった。アメリカのガイドブックに店が載っていたと、片言の日本語で話しかけるアメリカ人もいた。
 ここのところ、毎週のように一人で茶屋に通う若い男がいた。いつも葛切りと抹茶のセットを注文して黙って食べ、土産だろうか、帰りに葛や葛餅などを注文して持ち帰った。
 二か月三か月と続き、半年になろうかというころ、さすがに訝しく思われ、奈々美は佳奈美に、
「あのお客さん、なんだか変じゃない?」
「そうね、でもなんだかいい人に思えるし、話しかけたりはしないようにしましょう」
「そうね」

 千奈美と広瀬との結納が終わり、結婚式の準備が始まった。
 姉妹は三人で、大阪の大きな家具屋で品の良い家具を選び、新居となるマンションに運び込んでもらった。
 広瀬については、奈々美も佳奈美も当たり障りのない会話を選んだ。
 広瀬は二級建築士で、小さな設計事務所で簡素な戸建ての設計の仕事をしているのだが、出世しても給料は少ないうえにその見込みもないということだった。
 奈々美は、若く美しい千奈美がしがない中年と結婚する羽目になったことに、両親同様に憤りを感じることもあったが、千奈美が広瀬を庇う以上仕様のないことだった。
 奈々美は千奈美に、
「一度、私達四人で食事をしない?」
「いいわね」
 奈々美はネットで新居近くのイタリア料理店を調べて予約し、四人は昼食を共にすることになった。
 広瀬は風貌もぱっとせず老けており、38歳だが50代に見えた。
 広瀬は、妹たちや両親から人間性に疑念を抱かれていることを知ってか知らずか、当たり障りなく饒舌に会話を進めた。そうして無難にその場を収めて食事会を終わらせた。

 奈々美は翌日、生け花教室に向かい、幼馴染の志乃と花を生けた。志乃は近くの土産物屋の長女だった。
 志乃に、
「先生、今日もきれいなお着物ね」
「何かあったのかしら」
「最近、よくおめかしなさっているわ」
 師範はまだ三十代半ばの独身なのだった。
 生け花教室には珍しく、店に女のいない若い男が何人か、店の飾りにと生け花を作りに来るようになっていた。
「いい人ができたらいいわね」
「そうね、まだお若いのだから」
 師範がテーブルを回り、生徒に何彼とアドバイスする。
「そうね、この山吹はもう少し広がりを持たせて。そうして中央の桜はもう少し短くして」
 そんなことを志乃に言って、別のテーブルに移った。
 奈々美は着物を褒めようかと思ったが、他意に取られてはと留まった。そうして完成させた花を花袋に収めて、志乃と家路に就いた。
「奈々美は最近どう?」
 志乃はしばらく事故で入院して、久しぶりの教室なのだった。
「そうね、千奈美姉さんの結婚相手が気になっているの」
「いい人じゃないの?」
「両親が反対しているの」
「どうして?」
「仕事も見栄えもぱっとしない人なのに、十二歳も年下の姉さんと結婚しようだなんて図々しいって」
「そうなの?」
 志乃は少し考えて、
「私もそう思うかも。結婚してもお姉さんを幸せにできるかしら」
「やっぱり志乃もそう思う?」
「もちろんその人を知らないからよくわからないことだけど」
「そう」
 奈々美はやはり志乃もそう思うのかと思い、広瀬に気が重くなった。
「でももう婚約もして、新居も決まったの」
「もちろんわからないことだから。何がどう転ぶやらわからないわ」
「そうだったらいいわね」
 志乃の家の前で別れ、奈々美は家に向かった。

 店に通い詰めていた男が佳奈美に付け文をした。手紙には、
“私は竹井と申し、橿原に住む県立医大の研修医です。吉野観光に訪れてたまたま立ち寄った吉千であなたに出会い、一目で気に入って今回の通い詰めに至りました。
 あなたと結婚を前提にお付き合いがしたいと願っています。よろしければご連絡ください“
とあった。
 佳奈美は、こういったことは初めてのことではなかったが驚き、竹井の風貌や立ち居振る舞いを思い起こして、悪い話ではないのではないかと思案した。
 二、三日して千吉と美乃に相談した。
「あの若者はやはり佳奈美が目当てだったか」
「私はいい印象を持っていましたよ。何がどうとはなしですが、風貌や振る舞いが」
「いい話じゃないか。佳奈美、お前も気に入ったのなら、一度食事にでも行ってみたらどうだ」
「そうしてみるわ」
 佳奈美は両親も竹井に好印象を持っていたことを喜び、そうして明日にでも電話をかけてみようと思った。

 奈々美は久しぶりに小学校の同窓会に参加した。都会に出ていった者もいたが、多くは吉野に残って林業や観光の仕事をしていた。
 会場の吉野一の料理屋の二階で、奈々美は森林組合に勤める良介に声をかけられた。
「奈々美は吉野に戻って来たんだね」
「都会があんまり合わなくて」
 奈々美は京都の女子大を出たのだった。
「俺もそうさ。都会は遊ぶにはいいところだけど、暮らすにはどうかと思ったよ」
「そうね」
 良介は、大阪の公立大学を出たのだった。
「今度食事にでも行かない? 橿原にいい店ができたらしいんだ」
「そうなの」
 奈々美は少し迷い、
「また連絡するわ。電話番号変わってない?」
「小学校時代からそのままさ」
 良介も自宅暮らしなのだった。
「楽しみに待ってるよ」
「ありがとう」
 会がお開きになり、奈々美は家に向かった。
 家に帰って少し考え、悪くない相手だ、人柄も子供のころから良かった、結婚しても好きな吉野に留まれるなどと考え、もう少し考えて返事をしようと思った。

 広瀬が建築現場の視察中に三階から転落して死んだ。ヘルメットは着けていなかった。
 千奈美は涙し、千吉夫婦もさすがに広瀬を不憫に思ったが、頭痛の種が消えて悲喜相半ばだった。
「お前も悲しいだろうが」
 千吉は千奈美に諭した。
「またいい出会いがきっと待っている。今度は腰を据えて、この家の大黒柱になれるような人物を選べ」
「はい」

 佳奈美は竹井と連絡を取り、ドライブデートに出かけることになった。車は悪くないセダンだった。
 近くの大台ケ原に出かけ、少し散策をしたあと吉野に戻って、レストランで食事をした。
 竹井は、父と同じ内科医で、夜間や休日の急患が多いのがたいへんだがその分人様のお役に立てる、最初は県内の病院を異動する生活になるが、ゆくゆくは自分の医院を持ちたいと思っているなどと話した。
 誠実な人柄が伝わり、この人なら大丈夫だろうかと予感し、そうして最初のデートを終えた。
 竹井は家の前まで佳奈美を送り、別れ際に、次はぜひ橿原に行きましょう、連絡をお待ちしていますと話し、そうして別れた。

 奈々美は良介と最初のデートに出かけることにした。
 良介は真新しいSUVに乗っていて、奈々美が褒めると、ローンで買ったんだと恥ずかしそうに笑った。
 橿原に向かって封切りされたばかりの映画を見、そうしてやはりまだ開店したばかりのフランス料理店で食事をした。
 なかなかの高級店で、奈々美は車のローンを抱えている身で大丈夫だろうかと心配になったが、もちろん口には出さなかった。
「良介は今、森林組合でどんな仕事をしているの?」
「事務職だよ」
「現場には行かないの?」
「研修ならたまにあるけど、大卒は現場には遣らないって」
「そうなの」
 それもどうかとは思ったが、口には出さなかった。
「給料はあんまり高くないけど、こんな田舎暮らしだから何彼と金はかからないし、多少の余裕を持って所帯を持つくらいは大丈夫なんだ」
「そうなの」
 デートが終わり、良介は、次は若草山でも行こう、奈良市にいいイタリア料理店を知っているんだと話して奈々美と別れた。

 美乃は皿を洗いながら、三人の娘のことを考えていた。
 広瀬には不憫なことではあったが、広瀬には伴侶を幸せにすることはできないだろうと感じていたので、広瀬の突然の死は美乃にとってもほっとさせられる事件だった。
 長女の千奈美の夫がこの家を継いでくれればと夫婦共々考えていたので、今度は軽々に伴侶を選ばず、人物を見極めてほしいと願うばかりであった。
 次女の佳奈美は、研修医の竹井と食事に出かけた。車も、驕ることなく堅実なものを選んでいたということだった。
 後継ぎには考えていなかったので、医師という職業は夫婦にとって喜ばしい職業だった。
 どうして竹井が佳奈美にそこまで思い入れたかはわからないが、三人の娘はそれぞれ容姿のみならず内面にも優れていると美乃も感じていたので、不思議ではなかった。
 三女の奈々美は幼馴染の良介と食事に出かけた。美乃も良介を幼いころから知っており、明るく聡明な少年だったので、この話がうまくいけばと思った。
 森林組合で事務職をしているということだったが、千奈美の迎えるべき夫次第では、良介に仕事を辞めて跡を継いでもらわなければならない。良介がそれにふさわしい人物に育ってきたことを願うばかりであった。

 千奈美は広瀬を亡くしたあとしばらく休養を取り、その後、吉千で妹たちと共に接客を手伝うようになった。会社は広瀬との婚約後まもなく退社していた。
 姉妹三人での共同仕事の始まりだった。千奈美は、仕事では先輩にあたる妹たちに対して小さくも大きくもならず、淡々と接客をした。妹たちには、千奈美が広瀬を亡くしてしばらくは口数が少なくなり表情が暗んだように映ったが、そのうち千奈美は元気を取り戻した。
 注文を取り厨房に伝え、食事を運んで勘定を済ませて片付ける。その作業の繰り返しである。妹たちと同様、千奈美はすぐに慣れて如才もなくこなした。
 ある時、奈々美は思い立って、二人の姉を津風呂湖のボートに誘い出した。
 三人でボートに乗り、奈々美が櫓をこいだ。二人の姉は言葉少なだった。
「ねえ、千奈美姉さん、広瀬さんのことは残念だったわね」
 奈々美が切り出した。触れないわけにはいかないと思ったのだ。
「そうね、まさか死んじゃうなんてね。でも、お父さんとお母さんが結婚に反対でしたもの。私たちに罰が当たったのよ」
「姉さんはさぞかし悲しかったでしょう」
「そうね、でもこれで良かったのよきっと」
 奈々美は黙って対岸にボートを進ませた。
 木陰でボートを停め、三人は黙って湖を眺めた。岸辺の新緑が鮮やかだった。
「あなたたちはお付き合い、順調?」
 千奈美は広瀬の話を打ち切った。
「私も奈々ちゃんも、最初のお食事に出かけたところなの」
 佳奈美が答えた。
「お父さんとお母さんも、良さげな相手だと喜んでいたわ。うまくいけばいいわね」
「ええ」
 三人は沈黙し、そうして奈々美はボートを船着き場へと漕いだ。
 
 竹井は自室でビールを飲みながら音楽を聴いていた。昔は洋楽が好みだったが、最近はクラシックやジャズを聴くことが増えていた。
 佳奈美のことを考えた。
 店に通い詰めるほど気に入った相手で、妹らしい娘と同様に美形なのだった。竹井はそれだけでなく、佳奈美の接客や物腰が全般に琴線に触れたのだった。
 来年で研修生活も終わり、佳奈美が結婚を受け入れてくれさえすれば、人がうらやむような若夫婦となることができるはずだった。
 竹井はビールを飲み干すと、風呂に向かった。

 良介は、次の奈々美とのデートの店をネットで確認したあと、机でウイスキーを飲みながらたばこに火をつけた。
 奈々美は幼いころからかわいらしかったが、二十歳を過ぎて色気も加わり、再会した同窓会で一目ぼれしたのだった。
 あの子なら結婚相手に不足はないと、かつて交際した相手と比べても思えた。
 自分はと言えば、勤めは地元の優良組合で収入も悪くはない。
 あの子を逃せば後悔する、先方さえ応じれば少し若いが早い目に結婚しておこう、そんなことを考えながらウイスキーを口にした。

 奈々美は生け花教室で花を作りながら、志乃と話をしていた。師範は相変わらず少し派手な着物を着ている。
「良介とデートに行ったの」
「本当? 楽しかった?」
「うん」
「良介は学生時代に恋人がいたって聞いていたけど」
「そうなの?」
「近くの女子大の学生さん。ダンスサークルで出会ったとか言ってたかしら」
「そうなの? 別れちゃったのかな?」
「そういえば、良介が吉野に戻ることになってうまくいかなくなったとか言ってたような気がする」
「そうだったの? 私、二股かけられてないよね?」
「それは大丈夫よ」
 奈々美と志乃は笑った。

 千奈美は風呂上がりの自室で音楽を聴いていた。最近は環境音楽を聞き流すことが多かった。
 広瀬が死んでからしばらくは辛かったが、最近は茶屋の仕事で気を紛らわしていた。
(また結婚相手を探さなければならない)
 それが嫌なのだった。
 二人の妹と違って千奈美はあまり活発な性格ではなく、外に出て活動することが億劫なのだった。
 習い事でも始めようか? 気が進まない。まあなるようにしかならない、そんなことを考えながらベッドに入った。

 しばらくして千奈美がバイクの免許を取りに行くと言い出したことに、家族は揃って驚いた。ツーリングクラブというものに入って近畿一円を走り回りたいのだという。
 両親は危険だと揃って反対したが、千奈美は学生時代からバイクを乗る学生に憧れていたのだと話し、バイクに乗る人が好きだ、クラブでいい出会いがあるかもしれないと引かなかった。
 千吉自身も最近まで乗っていたこともあり、それも原因の一つだったかと悔やんだがどうにもならず、結局中型バイクにしなさいという約束で夫婦は折れた。
 
 佳奈美と竹井は二回目のデートに藤原京跡に出かけ、夕食に日本料理店に入った。
 あまり高くはないが品のいい店で、佳奈美は気に入った。
 竹井は慣れた様子で中くらいの懐石を頼み、二人はカウンターで並んで料理を待った。
「お仕事は順調ですか?」
 竹井が尋ねた。
「そうですね。桜と紅葉の時期はてんてこ舞いですが、普段はお客様の入りもぼちぼちですので、落ち着いています」
「よかった。混雑するのは桜の時期だけではないんですね」
「ええ、紅葉の時期もなかなかお客様が入られます」
 当たり障りのない会話を終えた頃に料理が届き、二人は食事を始めた。
 竹井はあまり饒舌ではなく、言葉を選びながら自分のことを話した。
 高校まで橿原市内の公立校で学んだこと、運よくやはり地元の医大に入学できたこと、学生時代は病院の夜間当直員のアルバイトが忙しかったので、サークルには入らなかったことなどを話した。
 佳奈美は、話の内容のみならず口調からも竹井の誠実で飾らない性格を感じ、この人とならやっていけるかしらと予感した。
 佳奈美も若干身の上を話し、加えて吉千には跡取りが必要だが男兄弟がいないこと、けれども姉と妹がいるので心配していないことをそれとなく話した。
 竹井は安心した様子で話を聞き、そうして二人は食事を終えて家路に就いた。

 奈々美と良介は若草山に二回目のデートに出かけ、昼食をイタリア料理店でとったあと、奈良公園で鹿せんべいをやり、山頂から奈良の街を見下ろした。夕暮れ時で、夜景が美しかった。
「ねえ奈々美、俺と結婚しない?」
「……。え?」
「俺、早くに身を固めたいんだ」
「ちょっと早すぎないかな? 私、あなたのこと、小学校以来知らないから」
「じゃあ取り下げる。もうちょっとデートしようか」
「そうしてくれたら」
 良介は納得し、そうして車で奈々美を送り届けた。
 奈々美は別れ際に、
「ごめんね、でももう少しデートに連れて行って」
「了解だよ。次は桜井あたりにしようか」
「うれしい」
 
 千奈美は無事バイクの免許を取り、中型バイクを買った。そして橿原のツーリングクラブに入会して、週末ごとにツーリングに行くようになった。
 女は千奈美を含めて三人しかおらず、男たちには歓迎された。
「よくよく運転には気をつけろ」
 千吉が諭した。
「そうよ。結婚前の体なんだから、顔に傷でも入ったら大事よ」
 美乃も加わった。
「そうね、他にも二人、女の人がいて、スピードはそれに合わせてそんなに出さないのよ」
「ならいい。それから俺の手袋をやる」
 千吉は皮の使い込んだバイク用手袋を千奈美に渡した。着けてみるとぴったりだった。
「ちょうどいいわ」
「なかなかいい物だ。よかったら使え」
「ありがとう」

 竹井は三回目のデートで佳奈美に求婚した。
 佳奈美は即答せず、次のデートでお答えすると答えたが、心中は定まっていた。
 その夜、佳奈美は両親に報告した。
「そう、よかったわね。お受けするんでしょう?」
 美乃が尋ねた。
「ええそのつもり」
「熱心にお店に訪ねてくださって、そうして医大のお医者さんだなんて。こんないいお話があるだなんて」
「私もそう思う」
「医者がどうこうより人柄だ。いい男なんだろう?」
 千吉が口をはさんだ。
「ええ、それはお食事の席でお話ししてわかりました」
「よかった。そのうち家に連れてこい」
「そのつもり」

 良介が、伐採の現場研修中に崖から転落して死んだ。奈々美は涙も出ず、ただ落ち込むばかりだった。
 葬式が終わり、しばらく奈々美は店を休んだが復帰して、
「姉さんたち、私、今まで以上に頑張ります」
 明るく話した。
 
 竹井が篠原家を訪れることになった。美乃は、佳奈美に恥をかかせるわけにいかないと大掃除をした。
 スーツ姿で訪れた竹井は、この度はお招きいただきありがとうございます、このたび佳奈美さんとのご結婚をお許しいただきありがとうございます、佳奈美さんは私が一目で好きになった方で、夫婦になれることを光栄に思います、佳奈美さんを幸せにできるよう誠心誠意頑張りますと、緊張した面持ちで話した。
 町一番の割烹から取り寄せた食事の席で千吉は、竹井は佳奈美が話した通り、なかなかいい男だと思い、そうして酒を酌み交わした。
「娘を幸せにしてやってくれ」
「はい、必ず」

 奈々美は、しばらく休んだのちの生け花教室で志乃から、
「良介の件、大変だったわね」
「プロポーズ受けてたの、私」
「そうだったの?」
「返事しないでいたんだけど、受けていればこんなことにならなかったかもしれない」
「そんなことないわよ」
 志乃はなだめ、
「早く次のいい人見つけなさい」
「もう結婚しないかもしれない、私」
「そんなこと言わずに」

 佳奈美と竹井の結婚が近づき、姉妹三人は津風呂湖にボートを漕ぎに出かけた。千奈美が櫓を握った。
「佳奈美姉さん、いいお相手に恵まれたわね」
 奈々美が切り出した。
「人柄も良くて、しかもお医者さんだなんて」
「まだわからないわ。すぐに別れて戻ってくるかも」
「そんなこと絶対にないわ」
 千奈美は笑って聞いていた。
「それより、奈々ちゃんは大変だったわね」
「いきなり死ぬだなんて。プロポーズを受けていれば危険な研修に行かなくて済んだかも」
「そんなことないわ」
 佳奈美は流した。
「次のお相手、早く見つけて」
「当分考えられないわ。千奈美姉さんはどうしているの?」
 千奈美は櫓を漕ぎながら、
「そうね、ツーリングクラブを始めたばかりで。男の人はたくさんいるけど」
「そうなの。私も何か始めようかな」
「そうしなさい」
 千奈美は岸辺の木陰にボートを停め、そうして三人は黙り込んだ。
 桜が散ったあとの晩春で、ボートを漕ぐ客はまばらだった。
 しばらくして千奈美は再び櫓を握り、そうして三人は船着き場に戻った。

 佳奈美が竹井と結婚して橿原のマンションでの新婚生活を始めてからは、篠原家では親子四人の生活が始まった。
 朝七時から四人で揃って朝食を取り、終わると店に入って九時の開店の準備をする。
 夕方五時の閉店後は後片付けと翌日の準備をして、夜六時半から再び四人の夕食をとるという生活だった。
 奈々美は志乃や姉たちに話した通り、新しい相手を見つける気になれなかった。時折食事の誘いをする若者もいたが、何彼と言い訳をして断った。
 茶屋では酒を出すわけでもなし、厄介な客というものもおらず、葛の甘味を口にし、そうしておおかたは多少の土産を買い、満足して帰って行くのだった。
 千奈美と二人、淡々と仕事をこなし、そうして夕暮れ時に仕事を終えて帰宅するという毎日だった。

 佳奈美は竹井との新居で、時折吉千での接客仕事を懐かしく思い出した。佳奈美は専業主婦となっていた。
 竹井は医大の内科で働いている。勤めは別段苦にならないという。
 月末にはなかなかの給料が振り込まれ、佳奈美は一部を引き出して生活費に充てる。通帳は結婚後すぐ、佳奈美に委ねられたのだった。
 結構な額の残高がある。大きな買い物があればそこから引き出して遣う。主婦なら当たり前かもしれないが、佳奈美には一種の感慨をもたらした。
「早く子供を作ろうか」
「そうね」
「でもしばらく二人きりの時間も持ちたいね」
「私もそう」
 二人で話し合い、子供は二、三年後にしようと決めたのだった。
 妹たちや両親には、秋祭りに合わせて帰省すると話してあった。
 今の幸せな結婚生活を家族に報告しよう、でも、それぞれお相手を亡くした姉妹の気持ちを考えて、謙虚に話そうと思った。

 千奈美はツーリングで琵琶湖畔を走っていた。列の後尾を他の女性と三人で走り、最後尾ではベテランのライダーが列を見守っていた。
 初夏のことで、軽い汗をかき、信号待ちで拭った。
 他の二人の女性は中年の所帯持ちで、独身は千奈美だけだった。
 昼食のドイツ料理店で、千奈美は女性同士のテーブルでドイツ料理なるものを食べた。
「おいしい」
 千奈美が言うと、
「よかった。初めてのお店だったから」
 店を手配した女性が答えた。
「高速道路でも80キロしか出せないでしょう。私、クラブの足手まといになっていませんか?」
 千奈美が話すと、
「私たちもそうはスピードを出したくないのよ、安心して。それに、あなたみたいなきれいな人が入って、男の人たちは色めき立っているわよ」
「そんな」
 食事が終わり、家路に就いた。

 奈々美は自室のソファーで考えていた。
 日一日と年を取る。容姿も衰える。結婚相手にはなるべく若い私を差し出したい。良介のことはもう忘れよう。
 佳奈美姉さんは幸せな結婚を迎えた。千奈美姉さんはツーリングクラブでいい人を見つけたいと言っている。
 私は女ばかりの生け花教室以外に趣味の集まりの類はない。おちおちしていられない。
 両親は、特に相手に地位を求めておらず、人柄さえ優れていればそれでいいんだと言っている。
 家業の後継ぎはどうなるのだろう? 千奈美姉さんは相手の職業を考えて求婚活動をしているのだろうか? いざとなれば、私が将来の当主となる亭主とこの家を切り盛りしなければならない。
 眠くなってきたのでラジオを切り、ベッドに入った。

 千吉と美乃は居間でテレビを見ながら、
「千奈美と奈々美はもう寝たのか?」
「電気は消えてましたよ」
「千奈美はいい相手が見つかりそうか?」
「クラブにいい人がたくさんいるって喜んでいました」
「そりゃよかった。バイク乗りに悪い奴はいない」
「人柄さえよければ私、どんな相手でも結構と思っていますのよ」
「そりゃそうだが、どちらかの亭主に吉千を継いでもらわないといかん」
「それはそうですね」
 美乃は抗わず、しかし跡取りが見つからなければ吉千の廃業も考えなければならないと、三人目の奈々美も女の子だった時以来、覚悟しているのだった。そしてその決断は千吉の死後、美乃に委ねられることになるかもしれないのだった。
 美乃は茶に口をつけ、そうしてそろそろ寝ましょうかと千吉に言った。

 竹井は自室で論文を書きながら、休憩にソファーに座った。
 佳奈美には不満はないどころか十分満足していた。家の掃除は行き渡り、ワイシャツはしわ一つなくアイロンがかかっていた。
 千吉と美乃を思い浮かべ、さすがに老舗の家柄だ、躾が行き渡っていたんだろうと思った。
 佳奈美は、吉千の跡取りについては千奈美と奈々美がなんとかするでしょうから、あなたは心配なさらずと言っている。
 二人とも美しい娘で性格も良く、条件に合った相手を見つけるのはそう難しいことではないのではないかと思った。
 自分には医院を開業する夢があり、おそらくは叶うであろうと考えた。
 竹井は再び机に向かい、論文の続きを書いた。

 吉野山で秋祭りが始まった。
 佳奈美は帰省し、妹二人と行列を見物した。姉妹三人の、秋の恒例行事だった。
 例年は行列が終わるとすぐに帰宅するのだが、佳奈美が予約した料亭で三人は懐石をとった。店は賑わっていたが、幸い個室がとれたのだった。
「ねえ、三人だけで食事をとるの、ずいぶん久しぶりね」
 奈々美がはしゃいだ。
「父さんは外食を嫌うから」
「そうだったわね。でも今日は快く見送ってくれたわね」
 千奈美が答えた。
「よかった」
 佳奈美は答え、
「今日はお酒も飲みましょう」
 燗を注文した。
 三人は杯を酌み交わし、食事に向かった。
「おいしい」
 奈々美が口にし、千奈美が同感した。
「こんなにおいしいなら、もっと前から来たかったわ」
「父さんは、それが良くないっていうのよ」
「厳しいわね」
 しばらく三人は箸を進ませた。
 佳奈美が、
「ところで千奈美姉さんはどうしてるの?」
「そうね、入ったツーリングクラブが楽しいの。近畿中を走って回るのがね」
「バイク、気を付けてね。飛ばすんでしょ?」
「それが、三人いる女性メンバーに合わせてそんなに飛ばさないのよ。男の人たちには悪いんだけど」
「そう、よかった。……。それでいい出会いはあったの?」
「いい若い人がたくさんいてね。選びきれないくらいよ」
 千奈美は笑った。
「どんな人たち?」
「会社員とか、現場の人とか公務員とか。いろいろよ」
「そう、また経過を教えてね。それで奈々ちゃんは?」
「私は生け花教室に行くだけ」
「楽しい?」
「楽しいわよ。志乃ちゃんとお話しするの」
「そうなの。お花はお店に飾ってるんでしょ?」
「うん。下手くそで恥ずかしいけど」
「そんなことないわよ」
 食事が終わりに近づき、奈々美が、
「佳奈美姉さんは幸せ?」
「とってもよ」
「竹井さん、いい人だものね」
「そうよ」
「羨ましい」
「奈々ちゃんも姉さんも、いい人見つかるわよ、そのうち」
「だといいけど」
 佳奈美は後継ぎの問題には触れず、
「じゃあ出ましょうか。今日は私のご馳走よ」
「いいわよ、出します」
「そうよ、いいわよ」
 佳奈美は聞かず、三人分の支払いを済ませて、三人は店を出た。

 千奈美は思い立って一人で津風呂湖に出かけ、ボートを漕いだ。
 客の入りはぼちぼちだった。バス釣りを楽しむ釣り人がちらほらいた。
 いつもボートを停める木陰で船を停め、景色を楽しんだ。
 私は、ツーリング仲間と結婚するであろうかと考えた。
 好ましい独身の男は数人いる。先方も私のことを悪くは思っていない様子だ。
 一番気になっているのは公務員の伏見で、橿原の市役所に勤めている。好青年で大型バイクを駆り、若手のリーダーとして活躍している。
 きっかけに恵まれず、あまり話をする機会がないのだが、恋人はいない様子だ。
 伏見は私を結婚相手の候補に考えてくれているだろうか? そうかもしれないが、そうでもないかもしれない。
 最近バイクの調子が悪い。これを相談がてら、話しかけてみよう。
 千奈美は再び櫓を握り、船着き場に向かった。

 奈々美は生け花教室で花を生けながら志乃と話していた。
「私、恋人ができたの」
 志乃が切り出した。
「そうなの? 良かったじゃない。どんな人?」
「三つ上の、バイクの整備士」
「そうなの? 千奈美姉さんもバイクを始めたところなの。一度整備をお願いしようかしら」
「もちろん大丈夫よ。一級整備士なんだって」
「どこで知り合ったの?」
「妹が整備を頼みに行った橿原のバイク店に付いていって出会ったの。気に入って声をかけたらそうなっちゃったの」
「それ、逆ナンパというもの?」
「そういうことになるかしら」
 二人は笑い、奈々美は、
「うまくいけばいいわね」
「そうね」
 二人は再び生け花に戻った。

 千奈美が次のツーリングの休憩で伏見にバイクの不調を相談すると、買ったバイク屋に持っていけばすぐ直る症状さ、まだ保証期間内だろう、すぐ直してくれるさと言い、そうして伏見は、千奈美さんは恋人はいるの? 僕も独り身なんだ、一度食事でも付き合ってもらえないか、よかったら電話をしてくれないかとメモを渡した。
 千奈美は、はいぜひと答え、メモを財布に仕舞った。
 そうして一行はコンビニの駐車場を出て再び走り出した。

 千奈美は帰宅すると、まじまじとメモを眺め、公務員らしい丁寧な字だと思った。
 電話をするのに躊躇はなく、伏見と二人きりで話ができることを楽しみに思った。
 どんな人なんだろう? 快活で誠実に思える。やや浅黒い肌で、鍛えているのだろうか、がっちりと引き締まった体つきだ。
 千奈美は伏見との初対面以来からこれまでの触れ合いを思い出し、そうして伏見は仕事を辞めて吉千を継いでくれるだろうかと考えた。
 伏見が当主となって吉千を切り盛りする姿を思い浮かべ、彼なら大丈夫だろうかと思った。
 普段はあまり意識しないが、私たち三姉妹の中で、私は長女なんだと思った。
 奈々美の求婚活動について、跡取りを選ばなければならないという負担をかけたくない。できれば伏見に公務員を辞めて跡取りになってほしいが、彼は何と言うだろうかと思った。
 眠たくなり、ぱちぱちと頬を叩いて風呂に向かった。

 佳奈美は橿原に戻り、姉妹たちとの会話を振り返った。
 千奈美姉さんは、ツーリングクラブでいい人がたくさんいるんだと笑っていた。
 奈々美は出会いがないと嘆いていたが、むろん恋人探しを諦めたわけではない様子だ。
 二人とも容姿に恵まれているので、婚期を逃すということはないだろう。いずれかの伴侶に吉千の跡取りを任せよう。
 できれば長女の千奈美姉さんの夫が継ぐのが望ましいものなのだろうか? わからなかった。
 竹井が帰って来た。佳奈美は玄関に向かい、お帰りなさいと迎えた。

 千奈美は茶屋の休みの日に、バイクを購入したバイク屋に持ち込んだ。
 整備士は平身低頭し、まだ購入後間もありませんよね、すぐ直ります、半時間程お待ちくださいと言った。
 千奈美は待合室でバイク雑誌を眺めてツーリングウェアを物色し、そうしてバイクのレビュー記事を読んで、次のバイクにはアメリカンがいいかしらなどと考えていると修理が終わった。
 整備士に礼を言うと彼は、このバイクはもう絶版になりましたが人気が高まっています、買い替えの折にはぜひ当店をお選びくださいというので、また次のバイクもお願いしますと答えて店を去った。
 帰宅してしばらく考えてから、伏見に電話をかけた。
 バイクが無事直った礼をいい、お食事の件、喜んでお受けさせていただきます、楽しみにしていますと話すと伏見は、ありがとうございます、僕の方こそうれしいです、桜井にいいレストランを知っていますのでご案内しますと言った。
 電話を終え千奈美は、やれよかった、うまくいくだろうか、そうあってほしいと願いながら音楽をつけた。

 志乃は、恋人の航平と高級フレンチの店で向き合っていた。
 食事が終わってコーヒーを飲みながら、いい料理だったねと話し合った。
 航平はおもむろにかばんの中から指輪を取り出した。
「僕と結婚してください」
 志乃は涙をこぼした。突然のプロポーズだった。
「ありがたくお受けさせていただきます」
 指輪を受け取った。

 奈々美は志乃の朗報を聞き、さっそくお祝いの食事会をセットした。
 近くにできたイタリア料理店で志乃に、
「婚約まで早かったね」
「お相手が、あまりお付き合いを長引かせたくなかったんだっていうのよ」
「いいわね羨ましい」
「私もバイクを始めようかと思って」
「危ないわよバイク」
「気を付けて乗るわ」
 二人は笑顔でコーヒーを飲んだ。

 居間で、千吉と美乃が話し合っていた。
「千奈美に交際相手ができたのか?」
「ツーリングクラブの人らしいですわよ。これから初めての食事に行くって」
「うまくいきゃあいいな」
「そうですね。欲を言えばその方に吉千を継いでもらえれば」
「まだ早いさ」

 千奈美は伏見と交際を重ね、そうして婚約を迎えた。
 伏見は千奈美が吉千の長女であることに驚き、そうして若干の躊躇ののち、跡取りになることを決意した。
「あんた、いい体格しているねえ。葛作りの現場にはもってこいだ」
 千吉は伏見の肩を叩いた。
「学生時代はラグビーをやっておりました。今は自己流の筋トレを」
 千吉は伏見を一目見て気に入り、彼に跡を任せるよと美乃に話した。
「好青年ですね」
「バイクに乗る奴に悪い奴はいない」
「あなたも乗っておられましたけどね」

 奈々美は千奈美の朗報を耳にすると我が事のように喜び、そうして伏見が吉千の跡を継ぐ運びとなったことになおさら喜んだ。
 私が最後の番ね、奈々美は独り言ち、いい人と出会えればいいなと思った。
 奈々美は、その後二輪免許を取って参加した千奈美のツーリングクラブで税理士と出会い、結婚した。彼は、今は雇われだけどいずれ独立して事務所を構えたいんだと、竹井と同じことを言った。

 十年後の春、吉野の千本桜が満開のころ、三姉妹は恒例の花見を楽しんだあと、吉千で葛切りを食べた。
「ようやく三人とも片付いたわね」
「いい人たちと巡り合えてよかった」
 九代目千吉となった伏見が顔を出し、義妹たちに挨拶をした。はや当主の威厳が備わっていた。
 その後も三人の姉妹は、春になると吉野の千本桜を鑑賞した。千吉や美乃が物故した今となっても。


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