改造の時代

吉野楢雄

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改造の時代

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          序

 大正の始め、岡山の実家の米屋で家業を手伝う、中平(なかひら)真平(しんぺい)のところへ、改造社(かいぞうしゃ)からの電話が掛(か)かって来た。念願の懸賞(けんしょう)小説の二等に、選ばれたのだった。
 さっそく、志野(しの)という編集者が岡山にやってきて、お祝いの口上を述べ、ほかに書きためた作品はありませんかと、尋ねた。真平が、以前に書き上げたが、そのままにしていた小説を見せると、志野は、これも頂いておきましょうと述べ、風呂敷に原稿をしまうと、稿料は小説掲載後直ちに支払いますと、言った。無論、それで異論はございませんと、真平は喜んだ。
 そして志野は、出された茶を一服啜(すす)ると、「先生、東京にいらして、小説に専念する気はありませんか?」と切り出した。真平は、それは以前からの希望であったと話し、私に作家が務まりましょうかと尋ねた。編集者は、その才が見込まれるのでお話ししたのですと、答え、下宿はこちらで見(み)繕(つくろ)っておきます、ぜひいらっしゃい、お待ち申しております返事を下さいと言い残して、帰っていった。
 さっそくその晩、家族会議が開かれ、母親の志津(しづ)は、雲を掴(つか)むような話だと嘆き、父親の源蔵(げんぞう)はまだ若いんだから、一度東京に出て力を試すのもよいと賛成し、弟の順平(じゅんぺい)は黙って聞いていた。
 翌日、父の昨晩の賛成に勇気をもらった真平は、順平に、米屋のことはお前に任せた、父と俺がやってきたようなことを、引き続きやれば大丈夫だ、お前ならできる、ただし俺が失敗して戻ってきたら話は別だと、因果を含めた。翌月、多少の荷物をトランクに収めた真平は、親子三人の見送りを受けて、倉敷駅を後にした。


 ――改造は、大正8年に山本(やまもと)実彦(さねひこ)によって創刊された、大正時代をヲリオンと共に代表する雑誌である。社会主義的な論調の傍ら、多士済々(たしさいさい)の文士たちが健筆をふるった。
 この小説は、岡山出身の文士の卵、中平真平が。周囲の同輩たちと改造を舞台に、作家として成長する様(さま)を描いたものである――


 改造に用意された下宿での生活にも慣れ始め、ある日、書き上げた原稿を社に持ち込んだ後、真平は近くの茶屋で、最近出回り始めたラムネというものを飲み、大変なことになったと、改めて思った。
 真平は、東京に来るのは初めてである。今日も社に来る道を間違えた。学校は六高の出身である。三高に失敗してそうなった。学生時分から小説を書き始め、卒業後は実家に戻って家業の米屋を手伝う傍ら、文芸誌の懸賞小説に応募するようになった。今回が三回目で、そろそろ諦めようかと考えていた最中(さなか)であった。
 小説は主に、自分が今まで経験したことを多少脚色しただけの、いわゆる私小説で、それではそろそろ限界かと思っていた折のことであった。志野に相談すると、「先生の作風は、大変結構です。もっとそれを深めていただければ、なおよろしい」と答えたのだった。
 志野はいつも淡々としていて、真平がおずおずと原稿を差し出すと、簡単に読み流して、これで結構でございます、よくお書きになりました、この調子で来月もよろしくと、毎回この調子で、実際真平の作品は、改造の紙面を地味ながら飾るのだった。
“いつまでこの調子が続けられるだろう”
 真平は独(ひと)り言(ご)ちた。
 真平は、自分に才能があるとは、あまり考えていなかった。ただ小説は、情熱をもって書き続ければ、誰にでも書けるようになるものだと、考えていた。
 学生時分から家業手伝いの期間を通じて、小説を書き続けていたので、自分にもいずれ芽が出るのではないかと、楽観的に考えていた。実際、今回は、それが果実となって現れたのである。
 ただし、職業作家の中では新人である。改造にもライバル誌のヲリオンにも、優秀な作家が多数出稿しており、そういう中でも、才能を芽吹かせなければならない環境であった。
 真平は、徐々に焦りを覚え始め、しかしどうしたらよいのかわからず、ただ新刊の文芸誌に丹念に目を通し、参考になりそうな小説を何度も読み返したりして、刻苦(こっく)した。

 ある日の夕方、いつものように真平が、完成した小説を社に持ち込むと、志野は受け取った後、「今日は先生に、お仲間を紹介しましょう」と話し、ついてきてくださいと、銀座の会社近くの料亭に案内された。
 座卓を囲んで、酒を交えて食事をしていたのは、男二人女一人で、同じ改造に小説を出稿している若手文士たちであった。年は真平とあまり変わらないが、さりとて筆歴は、真平より長い者ばかりである。
 男の一人目は田村(たむら)といい、小太りだが恰幅(かっぷく)の良い男だ。
 男の二人目は佐久(さく)といい、神経質そうな、やや蒼(あお)い顔をしている。
 女は瑞枝(みずえ)といい、改造で見る通り、整った顔立ちをしている。
 一通りの紹介をした後、志野は、では私はこの辺でと立ち去り、四人が残された。
 真平が、自己紹介を改めてすると、一同は拍手をした。
「真平さんの小説、楽しみに拝読しています」
 瑞枝が言った。瑞枝の津田塾在学中から、その小説を真平は読んでいた。
「瑞枝さんの小説は、デビューのころから楽しみにしています」
 真平は返した。
 佐久が真平に、
「あんな抒情のある小説、なかなか書けませんよ。志野さんが贔屓(ひいき)にするわけだ」
 そう言って、
「まあ我々同期四人、これからも仲良くしましょう」
 もう一度乾杯をし、話は文学談議に及んだ。
 話は要するに、明治期の小説を乗り越えて、新しい小説の時代を担わなければならない、ということだった。
 これまで改造で発表した作品の通り、田村は、小説は美こそが至上の命題だと話し、佐久は、鋭く社会や人生を突く小説を書きたいと話し、瑞枝は、身近な気づきや感情を小説に盛り込みたいと話した。意見を求められた真平は、
「僕はまだ、自分の経験をそのまま小説にしているだけの段階で、それ以上のことはわかりませんが、ゆくゆくは、一本のテーマに貫かれた大きな小説を書きたいと思います」
と、どぎまぎしながら話し、一同は拍手で迎えた。
 一月後の再会を約して散会し、真平は瑞枝と同じ方向に向かった。瑞枝の実家は日本橋の呉服商で、裕福なことが、着物や髪飾りなどから感じられた。
 一通りの身の上話の後、瑞枝は、
「あのお二人、どう思って?」
 新参者には唐突な質問であった。
「どうといって、先輩ですからね、年齢はともかく筆歴は。まだ雲の上の存在ですよ」
「まだ?」
「いずれは追いつきますよ。必ず」思わず強い言葉が出た。
「さっきも話しましたけど、私、真平さんの小説、好きです。毎号を楽しみにしています。
そうしてまた、一本のテーマに貫かれた大きな作品というのも、楽しみに待っています」
 瑞枝はそう話し、二人は別れた。

(どうして瑞枝は、ああも励ましてくれたのだろう?)
 帰り道で真平は考えた。
(初対面なのに、まるで昔からの知人のようだった。俺の小説を、そんなに気に入ってくれたのだろうか? そういえば佐久も、志野さんが俺を贔屓にしてくれていると言っていた。そんなに俺の小説は魅力的であろうか? そんなわけはない、実際懸賞でも二等だったではないか)
 自分の小説に、特に魅力を感じない真平には、わからないことであった。
 俺の小説は優れているか? そんなことはない。田村や佐久の方が、ずっと優れているだろう。さりとて、なんとか志野の言葉を信じて、東京での文士暮らしを板に付けなければならない。
 なんとかなるであろうと、いつものように楽観的に考え、下宿に戻って銭湯に向かい、ソーダを飲んで帰ると、すぐに寝た。

 志野は、真平を送った後、社に戻り、編集部で今月号のヲリオンを読んでいた。ライバル誌だがずっと先輩だ。ベテラン作家が紙面を飾る。ヲリオンが囲い込んである、自慢の作家連中だ。志野は、最近重用するようになった、真平のことを考えた。
 懸賞では二等だったが、才能のある青年だと考えていた。今は私小説だが、そのうち大きな小説のかける若者だ。三十年の編集歴から、真平の小説を読んでそう考えていた。そして田村だ。こいつも大きくなる。今は美意識のゴリゴリした小説を書いているが、いずれ折り合いをつける。佐久は安定した書きぶりでファンが多い。瑞枝は女らしい端正な小説を書き、これもファンが多い。
 今日、真平を先輩の三人に紹介したが、切磋琢磨して、いずれは改造を引っ張っていく存在になるだろう。志野はそんなことを考えながら、ブランデーを口にした。
 改造は主に、社会欄と小説欄によって構成されていた。社会欄は、主に社会主義的な論調で人気を醸しており、小説欄でも、先行するヲリオンに匹敵する充実ぶりを醸(かも)していた。ヲリオンに負けない、紙面の充実が急がれる最中であった。
 ――心配なのは社会欄だ。極端に左に振れている。今のような自由な思想風潮だから、政府も文句を言わないが、そのうち政治情勢が変わると、一気に弾圧されかねない。そういうことがなければいいがと、同僚たちの顔を思い出しながら、ヲリオンを閉じた。

 翌月の締め切り三日前に、田村が編集部に、志野を訪ねた。田村は、「蜘蛛(くも)」「蜥蜴(とかげ)」という連作小説を物にし、今日が三部目の出稿日だった。
 志野は、受け取った原稿を流し読みし、
「これで三部作の完成ですね」
 田村に向き直った。
「よくできていると思います。前二作も、新聞で好評です」
「光栄です」
 今回の題は「蝶(ちょう)」だった。
 美学的な作品を好む田村の作品は、すでにいくつかの劇団で舞台化されており、今回の作品も、そうなることが期待された。
「方向性は、これで大丈夫でしょうか」
「大変結構だと思います」
 田村は微笑むと、そろそろ大作を物したいと話し、そうして編集部を立ち去った。
 田村は一高の法科の出身で、なぜ官吏の道を選ばなかったのかは、真平には謎である。尋ねても、「俺は高等文官試験に失敗したんだ」と笑うばかりであった。文学に相当の関心があったのだろう、作品にも、強い思い入れが感じられる。真平は田村の今後の作品を、固唾(かたず)を呑(の)んで見守っていた。

 田村は、三部作を完成させた安堵感から、なじみの小料理屋に向かい、多少豪勢な食事を注文し、酒を二合、注文した。小説の出来栄えには自信があり、志野の反応を考えても、新聞で高評価を受けることは、確実だった。また今回も舞台化されると、評判を呼び、さらに発行部数が伸びることになるのだった。
 順風満帆だな、と田村は、手酌(てじゃく)で飲みながら考えた。
 官吏の道を断(た)っただけの名声は手にした。後は伴侶の選択だった。瑞枝を思う気持ちは山々(やまやま)だったが、瑞枝は、真平を気に入っている様子である。
 人柄だろうか、瑞枝も自分も東京の生まれ育ちだが、真平には、地方の伸びやかでおっとりした気風が感じられる。実家も、のどかな田園の、裕福な米屋だと耳にしている。
 仕方ない、俺は俺でやっていくさ、瑞枝には及ばずとも、なかなかの娘を手にして、祝福してもらおうと思った。

 佐久は下宿で、再び書きかけの原稿を丸めると、屑(くず)籠(かご)に放り投げた。
 短編小説で、幾(いく)つかの作品が大家に称賛され、引き続き、社会や人生を突く作品を描くつもりだった。佐久は瑞枝のことを考え、すぐに打ち消した。そうして次の原稿用紙に向かい、ペンを走らせた。
 蔵書はそう多くないが、粒揃(つぶぞろ)いである。本は溜め込まず、ほとんどは、読んだ端から古書店に売ることにしている。
 志野も新聞も、佐久の小説には好意的で、稼業は順調に推移していると、言わざるを得なかった。あえてライバルと言えば田村だが、小説の方向性が全く違うので、競う必要もないし、第一、友人と競う気持ちを持ちたくはない。
 真平のことが頭をよぎった。彼の小説は、良く言えば情緒があるが、悪く言えば野暮ったい。情緒があるといっても、今のままでは頭打ちで、いずれ行き詰るだろう。危うさを感じさせる。伸びがなければ出稿も断られることは、佐久は作家生活の中で、何人もの先輩に見てきた。
 瑞枝は、真平を評価している様子で、人柄も、小説相応でのびやかだ。
(彼は、大化けするだろうか?)
 瑞枝のことをちらりと考え、再び書きかけの原稿用紙を丸めて、屑籠に放り投げた。
 最近は、仏師に興味を持っている。ちょっとした短編にして、次のテーマに移るつもりだった。読者の関心は移ろいやすい。次はどんなテーマにしようか? 机の上のコーヒーに手を伸ばした。

 数日後、佐久が、完成した原稿を改造に持ち込むと、志野が不在で、編集長が対応した。
 編集長は、志野がいつもそうするように、原稿を流し読みすると、
「こりゃあ、いい作品ですね」と言った。
「恐縮です」と佐久が答えると、編集長は、
「仏師というテーマを、良く小説になさいました。読者も喜びます」
「恐縮です」佐久は繰り返した。
「次は、どんな小説を?」
「それはまだ、考えていません」
「じっくりお考え下さい。なんであれ、先生の小説でしたら大丈夫でしょう」
 愛想よく応対した編集長のもとを、丁重に辞して、佐久はひとり小料理屋に向かった。昨日、田村が入った店だった。
「酒を二合」「はい」
 昼の酒であったが、店主は愛想よく応対した。肴(さかな)に刺身を注文して、佐久は自問自答した。
(今回の小説は成功したろう。次は何を書こう? 田村は大作に取り組んでいるという。俺は短編作家だし、短編しか書けない。大作というものは考えられないが、すぐれた短編というものは、いくらでもありえる。田村と張り合わず、今の調子で淡々と書き続けることだ)
 出てきた酒を猪口(ちょこ)に注ぎながら、佐久は考え続けていた。

 改造社の設立十周年記念パーティーが、帝国ホテルで行われ、真平も出席した。
 田村、佐久、瑞枝と四人のテーブルで、パーティーは盛況であった。
 先輩作家にビールを注いで回ったり、編集部員がしきりに挨拶に来たりと、真平には慣れないものであったが、三人は、慣れた様子で場をやり過ごしていた。
 帰り道で瑞枝と二人になり、
「ああいう場は慣れませんね」
「すぐ慣れますわ。時折パーティーがありますの。けれど私もあまり好きじゃありません、ああいう場は」
 瑞枝はそう言って慰めた。
 二人はしばらく黙って歩いた。
「田村や佐久と、いろんなパーティーへ?」
 真平は、少し悔しくなった。
「ええ、でもお二人とは、何の特別な関係もなくてよ。最近は欠席することも多くて」
 二人はまた沈黙した。
 そうして真平は、瑞枝と別れるとそそくさと下宿に戻り、すぐに寝た。

 改造の次の号が発売になった。真平はまず目次を開き、先月出稿した自分の小説が載っていることに安心し、そうして田村、佐久、瑞枝の名前を確認して、もう一度安心した。田村は蝶を主題にした三部作の最終回で、佐久は仏師をテーマにした時代小説で、瑞枝は紙風船を楽しむ子供の小説だった。
 自分の小説は、まだまだ過去の経験を脚色したものにすぎず、これでどうして彼らの小説に伍(ご)していけるのかがわからず、実際は伍してはいないが、伸び代(しろ)を辛抱強く見守ってもらっているというのが正直なところだろう、どうすればいいのかはよくはわからないが、読書のほかにはないだろうと推察し、行きつけになった神保(じんぼう)町(ちょう)の書店に、今日も足を向けた。
 いつもの主人が真平を迎えた。
「改造、読みましたよ」
「どうでしたか?」
「いつも通りの、ゆったりした小説でした。先生の小説は、穏やかな気持ちになれます。志野さんも、褒(ほ)めそやしていましたよ」
「志野さんが?」
「あの方も、ここへは顔を出されます。多少の仕事話もございましてね。いずれ大作を物されるでしょうと、中平先生を買っておられました」
 志野が、ここへも来るとは知らなかった、うかうかしておれない。真平はいつもより多めに資料を仕入れて、下宿に戻った。
“心せねば”
 帰宅後独り言ちながら、資料を開いた。
「徳川の治世」「源氏物語の世界」「平安時代とは」――。そういった書物に目を通しながら、これらを土台に大作を物しようと、決意した。

 劇団夢座(ゆめざ)の座付き脚本家の戸川(とがわ)は、今月号の改造を、いち早く手にしていた。若手作家たちの作品が、目次を飾っていた。
 戸川の気に入りは、田村でもなく佐久でもなく、真平だった。向こう受けしにくいが味わいのある、真平の小説が一番心地よく、伸び代(しろ)もあるように思うのだった。
 少し考えて、戸川は手元の電話を手に取った。そうして旧知の志野に、真平との間の取り持ちを依頼した。
 
 翌週、真平は、戸川脚本の、夢座の舞台を鑑賞していた。隣には戸川が座っていた。
 芝居が終わると、戸川は楽屋の喫茶室に真平を誘い出し、二人でコーヒーを飲んだ。
「いかがでしたか?」
「圧倒されました」
「ありがとうございます」
 戸川は、コーヒーを啜った。
「ところで先生、才能を見込んで、お願いがあるのですが」
「何でしょう?」
「舞台の脚本に挑戦される気は、ございませんか?」
 真平は仰天した。東京の芝居は岡山のそれとは比較にならず、大物俳優が名を連ねていた。脚本も洗練されていて、自分が担当することなど、思いもよらなかった。
「私には、到底無理です」
「そんなことはございません」
「ここは、辞退させて頂きたく思います」
「そうですか。残念です」
 戸川は、助演を務めた新進女優を連れてきて、真平に紹介した。
「石川(いしかわ)可乃子(かのこ)と申します」
「いや私は中平真平と申しますが、一介の新人作家にすぎず、到底、あなたの眼鏡に適(かな)う人物ではございません」
 真平は早々に場を辞して、帰路に就いた。

 志野が真平に、先輩の有力作家の福本(ふくもと)を紹介した。福本は兵庫の出身で、若くから東京に移り住んでいる。
「志野さんこの度は、期待の星を紹介してくれはって」
「福本さんにあやかれるようにと、思いまして」
「私なんかにあやかったら、三流作家で終わりですわ」
 そう答えると福本は真平を、近頃銀座に出来始めていた、バーというところに連れて行った。レンガ造りの情緒ある建物で、中は薄暗かった。
「何でも、好きなものを頼みなはれ」
 洋酒のメニューがあったが、真平には、ちんぷんかんぷんであった。
「ビールにします」
「せっかくだから、ウイスキーにしなはれ。お酒は強いほう? そうでもない? だったら水割りにしなさい」
 福本は、アイリッシュウイスキーという物の中から一番高い物を、自分はダブルで、真平には水割りで、注文した。
 真平が、スティックサラダというものの写真を、うまそうに眺めていると、福本はそれも注文した。
 ウイスキーが出てきて匂いをかぐと、臭くて到底飲めないと思ったが、辛抱して飲んでいると、だんだんうまく感じてきた。
「だんだん、おいしく思えてきました」
「ウイスキーって、最初はそういうもんや」
 福本は、ウイスキーのダブルをもう一度注文し、スティックサラダの中から、セロリを取り出して食べた。
「生の野菜をこうして食べるのは、粋なものですね」
「西洋人が編み出したもんや」
 そうして福本は、フルーツの盛り合わせというものを頼んだ。真平が、メニューで目にしたが、果物にしては高くて、手が出ないと思ったものであった。
 大きなガラスの平皿に盛り合わされた果物は、見た目にも美しく、真平は、ウイスキーの合間に夢中で食べた。
「僕は、甘いものは、そんなに得意やあれへんので、君、全部食べなはれ」
 メロンやら桃やら、高そうな素材が並べられたその盛り合わせを、真平は最後まで平らげ、三杯目のウイスキーを飲み干した。
「そろそろ出よう」
「はい」
 福本は勘定を済ませると、店を出て真平に向き合い、
「僕は、君の小説は全部読んでるんや。いい小説を書くと思っている。この調子で努力を怠らず、頑張りや。まずは資料を読み込むこと、そうして大家の小説にも目を通すこと、いいな」
「はい」
 真平が、丁重に酒食の礼を述べると、
「あんなもん、大したことあれへん。君とは、もう会うこともあれへんやろうけど、僕は、君の小説を、これからも楽しみにしとる。じゃあ」
 そう言い残すと福本は、和服を揺らしながら去っていった。
 真平は、また金ができたら一人で来ようと、店の名前と場所を確認し、そうして福本に感謝しながら下宿に戻った。

 ある日、瑞枝が、真平を実家に招いた。日本橋の豪邸で酒食をふるまわれ、瑞枝は、せっせと真平に酒を注いだ。
「強いんですね、お酒」
「そうでもないんですが」
 実家の米屋では、多少の清酒を醸造していて、口にする機会も多かった。
「瑞枝さんは、小説を書くのが苦しいと思うときは、ありませんか?」
「そうですね、ありますよ。でも楽しいこともありますので、それで帳消しです」
「僕は最近苦しいことも多くて。古書店の資料に埋もれています」
「楽しい時もなくって?」
「うまく書ければ、嬉しいです」
「嬉しいことばかりではありません。辛い時もその分あって、それで普通だと思います」
 真平は頷(うなず)いた。
 その夜は、ついつい飲みすぎて酔い潰(つぶ)れてしまい、結局そのまま、宿まで頼むことになった。
 翌朝、真平が恐縮すると、瑞枝は、あれだけお酒を飲まれるなんてびっくりしました、でもうれしかったと、笑った。

 田村の三部作最終稿は新聞で絶賛され、次の小説が楽しみだと書かれた。佐久の小説もなかなかの秀作で、鎌倉時代の仏師をこれほど繊細に描けるのは、佐久だけだろうと、褒められている。瑞枝の作品も瑞枝の作品で覚えが目出度(めでた)く、真平の小説だけが今一つで、今後の成長が待たれると、お茶を濁してあった。そうして、改造社は商売が上手だ、若手を発掘して、ベテラン作家に負けず劣らずの小説を書かせるのだからと、会社まで褒めてあった。
 真平は、貶(おとし)められたのではないにしろ、とうとう来たかと思い、前に三人に宣言した“一つのテーマに貫かれた大きな作品”を、そろそろ書かねばなるまいと、決意した。そうしてテーマを考えたがわからず、神保町で揃えた資料の読み込みを、今日も続けるのだった。

 瑞枝は、新聞の書評を読むと机の端に置いて、次の小説に書きかかっていた。
 書評の、田村と佐久への称賛は予想通りであったが、真平への苦言は意外であった。評者の力量不足か、自分の多少の買(か)い被(かぶ)りがあるのだろうと、考えた。
 真平は、執筆歴に比例して成長している。あるいはまだ道半ばであろうか。先日の饗応で、真平は私の気持ちを察したであろうか。
 私は真平を愛している。彼が懸賞小説に当選して岡山から上京する前から、作風に惚れ込んでいた。そうして作品がどう評価されようと、朴訥(ぼくとつ)とした人柄が作品に反映されていた。
 才能がないというのではない、このまま書き続ければ、小説は深みを増すだろう。
(小説の技量によって、真平への愛は変わらない。しかし真平には、その能力を十二分に伸ばして欲しい)
 そんなことを考えながら、筆を走らせた。

 源蔵は、倉敷の自宅で新聞を読み、志津に声を上げた。
「真平の作品は今一つだと、書いてある」
「そんなことわかりませんよ、人それぞれですから」
「俺が読んだってわかる」
「あなた小説のことなんて、どれだけわかるんですか?」
「そんなことどうだっていい、ちょっと真平に、喝を入れてやれ」
 志津は、順平に尋ねた。
「あなた、お兄さんの小説、どう思った?」
「そうだねえ」
 順平は、大儀そうであった。
「あれでいいんじゃないの? 東京の人じゃないんだから、あの朴訥とした小説で」
「東京者でなければ、朴訥としていていいということには、ならん」
 源蔵は怒鳴った。
「それより、今日の配達はどこ?」
 順平が話を逸(そ)らして、そこまでとなった。
 (小説のことはよくわからないが、批評の対象になること自体、名を成していることを意味しているのだろう)
 順平は志津に、今日の配達の手順を確認して、朝食に向かった。

 真平に、実家から手紙が届いた。
「あなたの小説が、ずっと雑誌に載っているので、感心しています。新聞も見たけど、もうひと踏ん張り、頑張りなさい。それにしても、お仲間の三人のお方も大したものね。仲良くしてもらって、色々教えてもらいなさい。お父さんも順平も、楽しみに改造を読んでいます」
とあった。
 真平は改めて、改造に、自分の小説が継続して掲載されることに、驚きを覚え、新聞の叱咤(しった)が実家に届いていることを嘆き、そうして手紙を引き出しにしまった。
(瑞枝は、俺を愛しているだろうか?)
 執筆の合間に、時折考えた。
(実家に招待して饗応を授けるのは、脈がなければ行わないことだろう。それでは俺たち三人のうち、俺のことを愛していることになる。どうして一番冴えない俺を、瑞枝は選んだだろう? 将来性があると思ったか? 人柄がいいと思ったからか? 俺に一体何がある?)
 これまで女性との交際のない真平には、わからないことであった。

 隅田川の河川敷のグラウンドで、文士交流運動会が開かれ、真平たちも参加した。瑞枝は着物に日傘を差して、応援に訪れた。
 午前の部の百メートル競走で、真平は二位、佐久が一位、田村は断トツの最下位であった。
 正午に休憩があり、四人は、瑞枝の差し入れた弁当を食べた。
「瑞枝さん、これおいしいです」
「ありがとう」
 空は青く澄み渡り、雲一つなかった。
 午後の部では、三人でリレーに参加したが、田村が足を引っ張って、結果は最下位であった。それでも瑞枝は、「三人とも素敵でしたわ」そうねぎらって、笑った。
 そのあと四人は、いつもの料亭に移り、反省会と文学談議に花を咲かせた。
(こんな幸せが、いつまでも続いたら)
 少し酔いのまわった真平は、顔を赤らめ、再び、瑞枝の注いだ酒を飲み干した。

 志野は、新聞の書評を読んだ編集長に、呼び出された。志野は、この道三十年のベテランで、副編集長格の役職であった。
「君の若手の発掘の手腕は、高く評価している」
「恐縮です」
「社長も、小説欄をさらに充実させ、ヲリオンの発行部数を超えたいと、躍起になっておられる」
「そうですか」
「若手の中では、中平君の小説が、いま一つ冴えない評価を受けているね」
「彼はそのうち伸びると、経験から確信しています」
「それじゃあ今のところ、見守っているということか」
「その通りです」
「それならいいんだ」
 志野は、自席に戻るともう一度書評を開き、真平にアドバイスを与えるべきかと自問したが、田村の話からも、向上を試みているとのことであるから、そのままにするのが一番だろうと考えて、コーヒーに口をつけた。
 ――志野にしろ、真平を重用することに、それほどの確信があるわけではなかった。私小説風の穏やかな小説を目にして、名作家の初期の作品と似ていることから、いずれ伸びるだろうと推測したのである。そのうえ今の小説でも、読者はそれなりについている。下手をすれば、田村や佐久より大物作家になるのではないかと、思われたのである。
 神保町に何軒かある、なじみの古書店の一つで主人から、真平が足繁(しげ)く通っているとの話を聞き、今はそれほどでなくとも、先には大きく伸びるのではないかと思うのである。
(こいつに賭けよう)
 志野は独り言ちた。
 その週の編集会議の最後に、志野は、真平を買っていること、起用については、自分が全責任を負うことを宣言して、会議を終わらせた。

 ヲリオンの社長の佐山(さやま)は、新聞を読み終わると、くしゃくしゃに丸め、屑籠に投げ捨てた。新聞は、高報酬を与えているヲリオンの作家より、改造の若手作家の方を、買っていた。
 今のヲリオンの主力作家は、もともとは改造で育った作家だったり、名前が売れてから取り込んだ作家だったりして、要するに、新人の発掘が進んでいないのだった。金に飽かして、ベテランを取り込んだ雑誌運営が、失敗しているのである。
 佐山は、編集長の田代(たしろ)を、社長室に呼びつけた。
「今日の新聞は読んだかね?」
「……読みました」
「書評はどうだ?」
「……読みました」
「うちの作家連中の評価は、改造に比べてどうかね?」
「……悪いと思います」
「うちの稿料は、改造に比べてどうだ?」
「……高いと思います」
 それだけ言うと、佐山は田代を下げた。
 葉巻に火をつけ、一服くゆらした。棚からブランデーを取り出して飲もうかと思ったが、思い直してやめた。
 田代が有効な手立てを打たなければ、編集長は交代だ。次は誰にしようかと考えながら、佐山は葉巻をくゆらした。
 
 真平は、さまざま悩んだ挙句、剣道の道場に参加することにした。九段(くだん)の神道系の宗教団体が主催するもので、健全な精神は健全な肉体に宿るだと、心機一転を図ったのだった。
 師範は伍代(ごだい)と名乗り、真平のことは、改造で知っていた。
「先生、小説の方は好調ですね」
「それが、そうでもないんです」
 改造には出稿しているものの、新聞の書評が今一つであることを説明し、また、邪道であるが、肉体を鍛えることで、小説にも活きてくれば本望だと説明し、入門を請うた。
「先生は、今のままでも、いい作品を書かれますが、剣道を通して、尚良い小説を書けるようになるでしょう。私の願望ですが」
「ありがとうございます」
 日曜日の午前、真平は九段の剣道場に、竹刀(しない)を抱えて向かうことになった。
 
 そのうち剣道友達ができた。名を小次郎(こじろう)と言い、主催する宗教団体の職員であった。
「あんたの小説は面白いよ、他の作家たちより」
「そういう人が、多ければいいんだが」
「剣道に上達して、もっといい小説を書いてくれ」
「願うらくは」
 真平は、あまり運動神経は良くなかったが、続けて通っているうちに、少しずつ上達した。また、小次郎の勧める宗教書にも目を通し、座禅や瞑想を、下宿で試みるようになった。
(果たして、小説は上達するだろうか?)神のみぞ知るであった。
 
 小次郎は、剣道が終わると毎回、真平を、近くの小料理屋に誘った。
「あんたは大したもんだ、まだ若いのに、改造の紙面を毎回飾るだなんて」
「終わりがけに、小さく掲載されるだけさ」
「いやいや大したもんだ」
 小次郎は、酒を空けると、もう二合の酒を頼んだ。
「俺なんて、ちっぽけな団体の、ちっぽけな役職さ」
「年と共に昇格するだろう。作家にはそれがない」
「そうか。それもそうだな」
 酒が届き、小次郎は真平に注いだ。
 小次郎は、
「そろそろ所帯が欲しい頃だ。あんたには、目当ての女性はいるのかい?」
「ああ、どうなるかわからないが、意中の娘がいる」
「早く手を付けないと、他の男に持っていかれるぜ」
「それには、条件があって」
 真平は、大作を物しなければならないという、与えられた試練について説明した。
「女と結婚するために、試練があるのかい?」
「それがそうなんだ」
 ふーんと、小次郎は鼻を鳴らし、
「そりゃあ大変なことだ。俺も応援しているぜ」
「ありがとう」
「ところで、千葉まで旅に出かけないか? 長期休暇が取れるんだ」
「そりゃあいい。原稿を早い目に済ませるよ」
 お開きになった。

 一月後、二人は千葉行きの列車に乗っていた。
「千葉は、東京より魚がうまいぜ」
「そうなのかい」
「ああ、海が近いからな」
 房総半島の終点で列車を降り、駅前の旅館に宿を頼んで荷物を下ろし、二人は防波堤に腰掛けて、千葉の海を眺めた。
「俺は元々(もともと)、茨城の漁師の倅(せがれ)で、跡を継ぐはずだったんだがね」
「そうだったのかい」
「ああ、でも田舎の一漁師じゃ、人生が狭いと思ってさ」
「そんなことないさ」
「若い時はそう思ったのさ」
 小次郎は少し黙り、
「東京で職を探したけど、いい所は中々難しくて、結局今の職さ」
「いいじゃないか。大きな宗教団体さ」
「下らないところさ。食っていくだけで精一杯だよ」
「オーバーだろう」
「まあそうだが」
 小次郎は笑った。
「あんたみたいに、何かの才があれば、人生ももっと、明るかったろうが」
「俺だって暗中模索さ。小説が書けなくなれば、実家に逆戻りさ」
「そんなことはないだろう」
「いやあり得るんだ」
 真平は、何人かの先輩作家のことを思い出し、
「大いにあり得る。先輩を見ているんだ」
「そうか。あんたたちもあんたたちで」
「そうなんだよ」
 二人は少し沈黙した。小次郎が、
「まあ、いいさ。今日はうまい魚で、酒を飲もう」
「そうしよう」
 宿は張りこんだだけあって、いい鯛を用意していた。
 二人は大いに舌鼓(したづつみ)を打ち、ぐっすり眠って、翌日東京に戻った。

 ある時、剣道の錬習のあと、伍代が真平に話しかけた。
「先生の小説は、どんどん良くなっていますよ」
「本当ですか? そうだとすれば、師範のおかげです」
「いえ私などは、駄目な教師ですが」
 伍代は笑い、
「ところで、小次郎君は、教団を辞めました」
「そうなんですか?」真平は驚いた。
「ええ、茨城の実家に戻って漁師を継ぐんだと、言っていました」
「どうしてでしょう?」
「私にもわかりません。東京の水が、あまり合わなかったんでしょう」
「そんなことがあるんでしょうか?」
「地元に戻る職員は、珍しくありませんので」
 真平は、錬習の後、小次郎に連れていってもらった小料理屋に向かい、刺身を肴に二合の酒を飲み、下宿に戻って少し涙してから、眠りに就いた。

 真平に後輩ができた。岡山市の出身で、真平と同じく、改造の懸賞小説の二等を獲った、弥助(やすけ)という若者で、真平より二歳年下だった。
 三高の出身で、佐久に似た鋭い小説を書く。情緒に乏しいが、私は人間性に乏しいので、こういうのが性に合っているんですと、弥助は話した。
 志野に紹介を受けて改造社で落ち合い、以前、福本に連れていってもらったバーに誘った。
「先輩は、改造に気に入られてますね。紙面を見ればわかります」
「そんなことはないよ。何とか毎号、隅っこに飾られるだけだ」
「毎号というのが、すごいですよ。他の人は、欠番が出ます」
「下手くそながら、必死で書き続けているだけさ」
 弥助は、アイリッシュウイスキーを水割りで飲み、少し顔を赤らませていた。
「佐久とは、顔合わせをしたのかい?」
「いいえ。雲の上の方ですよ」
「今度会わせようか?」
「いいんです。雲の上のままで」
 真平は、自分が福本に連れてこられた時と同じ、スティックサラダとフルーツ盛りを食べさせた。
「これ何ていうものですか? 非常にうまいです」
「そうかい、良かった」
 真平は、ほとんどを弥助に食べさせ、自分は、ウイスキーをロックで三杯飲んだ。
「岡山はどうだい? 何か変わったことがあったかい?」
「ありません。桃が不作だなどと、嘆いているくらいで」
 岡山は、桃の名産地だった。
「先輩に、あやかりたく思います」
「俺なんて、まだ駆け出しだよ」
「私も改造で、地歩(ちほ)を固めたくて」
「そりゃあ努力次第だ」
「今後とも、ご鞭撻(べんたつ)のほど、お願い致します」
 弥助は深々と頭を下げた。
「俺なんか、鞭撻するほどのものは持っていないさ」
「いえ」
「さあ、そろそろ出ようか」
 真平はカウンターで支払いを済ませ、表に出た。
 もう一度弥助は頭を下げ、何卒(なにとぞ)と言いかけたがろれつが回らず、足元がふらついた。
 真平はタクシーを止めて、弥助を乗せて見送った。
(やれやれ、先輩というのは、疲れるものだ)
 そうして、帰ったら、書きかけの原稿を仕上げないとと思いながら、タクシーを停めて乗り込んだ。
 
 しばらくの間、弥助の小説は改造に掲載されたが、次第に途切れ始め、最後には、全く載らなくなった。真平が志野に尋ねると、
「……。まあ、何と言いましょうか、これ以上の掲載は無理だと、判断したわけです」
「そうですか」
「岡山に戻られたそうです。実家の農業を継ぐとのことで」
「それも、いいことですね」
「私もそう思います」
 真平は下宿に帰り、自分はいつまで小説が書けるであろうかと、ぼんやりと考えながら、酒を飲んだ。

 真平は、ペンクラブの書記に任命された。書記といっても、使い走りのようなものだったが、真平は、断らずに受けることにした。
 月に一度、理事会が開かれて、事務局の職員と共に、準備と後片づけをする。そうして理事会の議事録を作成して会報を作り、日本中の会員に送付するのだった。
「大変だね」佐久がある時言った。
「創作に響くだろう」
「そうでもないよ」
「そうだといいんだが」
「まあ、お世話になっている業界のためだよ」
「そりゃそうだが」
 何も、庶務に作家を指名することもなかろうと、佐久は言うのだったが、真平は、作家自身が務めることに意味があると思い、そうしていそいそと、業務に取り組んだ。

 ある時、田村が真平と佐久を、多摩の登山に誘った。登山と言っても、簡単なハイキング程度のものであったが、田村にとっては、それが限界のコースらしかった。
 田村のペースに合わせて、ゆっくりと登りがてら、三人は、自身の創作について、話し合った。
「俺は、現状にあらかた満足している」
 田村が話した。
「だがむろん、向上心はなおある。日本文学史上に燦然と輝く大作を、物したい」
 田村は大きく出た。
「田村なら書けるさ」
 真平は答え、佐久も同意した。
「後の世に、大正に田村があったと、語り継がれる作家になりたいのさ」
「大丈夫さ」
「それで、二人はどんな考えでいるかい?」
 佐久が、
「そうさな、俺は短編専門だし、あっと言わせるような大作は無理だが、後世で、教科書に載るような作品を、いくつか書ければ本望さ」
 佐久も大きく出た。田村が、
「教科書か、そりゃいい。国民的小説になるだろう。それで真平はどうだ?」
 真平はまごついた。あまり小さなことを言うわけにもいかず、
「そうだな、教科書とはいかなくても、副読本に載るくらいでいいさ」
「副読本か。まあよかろう」
 田村は言った。
 山頂に着き、三人は、持参した弁当を開いた。
「ところで、結婚のことを俺は訊きたい。どんな結婚相手がいいんだ?」
 真平が、気になっていたことを、切り出した。
「結婚相手か。そりゃあ、創作の次に大事なことだ」
 田村が答えた。
「じゃあ、まずは隗(かい)より始めろだ。真平の意見を聞かせてくれ」
「……。俺からか。そうだな、俺は瑞枝さんを愛している。何とか妻にしたい。そのために、どうしても大作が必要だ」
「そうか、瑞枝がいいか」
 田村は黙り、
「瑞枝は真平を愛している。真平に会う前から、気に入っていた。まずは大作を物し、そうして求婚することだ。大丈夫だ、真平なら」
 田村は答え、そうして佐久に意見を求めた。佐久は、
「俺はまだ、妻帯するつもりはない。もう少し向上してから、考えることにするさ」
「あれでも、まだだめなのか?」真平が尋ねた。
「まだ駄目だ。まだ質、量ともに足りない」
 佐久はストイックだった。田村が、
「俺には、もう定まった相手がいる。君たちにもいずれ紹介するさ」
 答えたが、それは、瑞枝に交際を断られた結果だったことは、話さなかった。佐久にしても、瑞枝に求婚を断られたことは、話さなかった。
「真平は幸福だ。瑞枝を手にできるんだから」
「まだ決まってないさ」
「いや、きっとそうなる」
 そうして昼食を終えると、三人は下山し、それぞれの下宿に戻った。

 真平が久しぶりに、原稿を届けに編集部を訪れると、ファンレターが届いていた。名前が売れ出してからは、たまに届くものであった。読みはするものの、返事はしない習慣であった。
 その場で封を開くと、若い女性からで、写真が同封されており、先生のファンで、小説はすべて読ませて頂いている、小説は上達する一方で、私も自分のことのようにうれしい、よかったら、ぜひ一度お会いして、話をしたいとあった。写真は、美しく若い女のものであった。
 真平は驚き、志野にどうしたものか尋ねたが、およしなさい放っておくのが一番ですと答え、真平も同意見だった。
 結局真平は手紙を屑箱に入れ、帰りにバーに寄り、やはり少し惜しい気がしながら、ウイスキーを飲んだ。

 真平は、自転車と交通事故を起こし、足を骨折して、一か月の入院となった。
 瑞枝は、真っ先に見舞いに来て、真平を励ました。
「全く、ドジなことですよ」
「仕方ないことですわ」
「小説に、穴が空きます」
「志野さんには、私からも謝っておきます」
 そんなことを、病室で話しているうちに、志野が現れた。
「中平さん、今回の件は、残念なことでした」
「私が鈍いものですから。後ろから近づいた自転車に、気付かなかったんです」
「仕様がありませんよ。自転車の方が、悪いんです」
「そうとばかりは、言えません」
 志野とそんな話をする間、瑞枝は黙って聞いていたが、
「志野さん、小説が一月飛びますが、どうぞ温かく見守ってください」
「もちろんです」
 志野はそのうち帰り、再び、真平と瑞枝が残された。
「瑞枝さん、私は書きますよ、一本のテーマに貫かれた大作を」
「待っています」
「こんなところで、ぼやぼやしている場合じゃないんですが」
「ゆっくりと、構想を練ってください」 

 入院中に真平は、咳が止まらなくなり、診察の結果、結核と診断された。すぐに隔離病棟に移され、そうして一年間の療養を指示された。
 どこの療養所が希望かと問われ、まだ独り身であるので、実家の倉敷の近くがいいと答えた。そうして真平は、小豆島の国立療養所に移された。
(参ったな)
 真平は、個室でため息をついた。出発前に志野には、一年間の休載を願い出て、了承されていた。
 休載の穴は、若手が数人で手分けして埋めることになっていたので、安心だったが、肝心の自分の一年後の居場所があるかと、心配になった。
 家族は月に一度ほど、船で見舞いに訪れた。
「東京で、悪い病気を移されたわね」志津は笑った。
「古本屋か新刊屋だろう。不健康そうな連中が、たむろしている」
「あなたも、その一人でしたでしょう」
 源蔵は、
「まあ、罹(かか)ってしまったものは、しょうがない。一年できっぱり直して、改造に戻してもらえ」
「そうするつもりさ」
 順平は、黙って聞いていたが、
「米屋は僕も手伝って、頑張って切り盛りしているので、心配いらないよ」
「そうか。悪いことだ」
 真平は、ため息をついた。
 志津が、
「小説の腕、落ちなきゃいいけど」
「そんなもの、俺にはもともとないよ」
「そんなことないわよ」
 三人は引き取った。
 
 瑞枝から手紙が届いた。
“その後、具合はいかがですか?
 真平さんのいない東京は、寂しいものです。
 私は、真平さんのことを時々思い出しながら、小説を書いています。
 心配で、あまり身が入りませんが、何とか採用されて、改造に載っています。
 療養所でも、改造は手に入るのでしょうか? 笑ってご一読ください。
 一年間、辛抱してくださいね。東京で待っています“
 うれしい文面であった。真平はすぐにペンを取り、
“私は何事もなく療養生活を送っています。
 先日も家族が三人で見舞いに訪れ、健康そうで何よりだと言われました。
 瑞枝さんの小説は、改造が一週間遅れで、船で届くはずですので、すぐに読ませていただきます。
 一年後、東京でお会いできるのを、楽しみにしています“
 真平はそう記し、手紙を療養所のポストに入れた。
 ところが翌日、瑞枝は、療養所に面会に現れた。
「まずいですよ瑞枝さん、伝染病ですから」
「あら、悪かったでしょうか?」
「いや、うれしいんですが」
 照れもあって、真平はそう言った。
「東京から遠かったでしょう」
「神戸までは、列車で来ました」
「船酔いしませんでしたか?」
「大丈夫でした。真平さんに会えるのが楽しみで」
 瑞枝は、持参した花を花瓶に差し、棚に飾った。
「小説のことなんて忘れて、ゆっくり療養してください」
「大作を物しろとは言わないのですか」
「療養は療養です。構想くらいは練って、帰京後にそうしてください」
「……。心しておきます」
 瑞枝は、一時間ほどベッドサイドの椅子に座って、話をした後、
「では、もう私は来ません。しっかり病気を治して、東京でお会いしましょう」
「本望です」
 帰って行った。

 翌日届いた改造には、愛する人との別離と再会を描いた、瑞枝の良作が掲載されていた。
(俺のことだろうか?)そうとしか思えなかった。
 二度三度と読み直し、返歌ならぬ返小説を俺も書こうかと思ったが、自信がなく、まあとにかく退所後のことだと、諦めた。

 東京に戻ってすぐ、築地で米の仲買会社を経営する、源蔵の兄にあたる伯父から、自宅に招かれた。伯父は、六高を出ると東京の仲買会社に就職し、そのうち独立して、事業を成功させていた。
「結核治療は、どうだったかい?」
 伯母を交えた食事の席で、伯父は尋ねた。
「無事、放免となりました」
「ありゃあ、厄介な病らしいね」
「そうらしいです」
「君の小説が読めなくて、残念だったよ」
「代わりのものが、もっと良いものを書いておりました」
「いや、君の穴は埋まっていなかった」
 伯父は、ブランデーを真平に勧め、
「改造の売れ行きは、好調らしいね」
「ヲリオンと争っています」
「小説欄は、改造の方が上だ。社会欄も、大方(おおかた)そうだ」
「ありがとうございます」
 伯父は、真平の従姉妹(いとこ)にあたる、長女の響子(きょうこ)を紹介した。幼少のころ以来、会っていなかった。
「お久しぶりです」響子は言った。
「大きくなられて」真平は答えた。
「いつもいい小説を書いておられます。楽しみにしていますわ」
「恐縮です」
 響子は下がった。
「真平君、意中の女性はいるのかい?」
「……。そうですね、います」
「そうか残念」
 伯父は、グラスを干した。
「よかったら娘を、と思ったんだが」
「私にはもったいない」
「そんなわけないさ。いい結婚をなさい」
「ありがとうございます」

 一年ぶりに、剣道の教室に参加した。伍代は、
「ご病気、大変でしたね」
「一年がかりの療養生活で」
「そりゃあ大層でしたね」伍代は続けて、
「先生のいない改造は、味気ないものでした」
「そりゃ、過分なお褒めで」
「いえいえ」伍代は、
「闘病とは言え、いい休養になられたことでしょう。きっと今後の糧になりますよ」
「そうでしたらいいんですが」
「きっとそうなりますよ」
 伍代は踵(きびす)を返し、では始めましょうと、生徒たちに宣(せん)した。

 翌日、真平は、馴染みの古本屋に顔を出した。
「やあ先生、すっかり良くなられて」
「なんとか、はい」
「先生の不在の間の若手作家たちも、頑張っておられましたが、まだまだ先生に及びません」
「恐縮です」
「一年間に新しく入った本も、たくさんあります。どうぞごゆっくり」
「はい」
 療養生活を経て、読みたい本の趣向が多少変わり、真平は五冊ほど見繕い、下宿に帰ってペラペラとめくり、そのうち疲れて寝た。

 田村と佐久が、お祝いの会を開いてくれた。
「快癒(かいゆ)おめでとう」田村が言った。
「何とか生還できたよ」
「真平はもともと健康体だから。俺ならお陀仏(だぶつ)だった」
 田村は太った体を揺すった。真平は、
「なんとか改造にも、復帰できそうだ」
「当然さ。見限られていたら、俺たちがヲリオンに移籍していた」
 田村は、声を大きく言った。
「ヲリオン、移籍を受け入れてくれるのかい?」
「ああ、俺たちなら大丈夫らしい。稿料も良くなる」
 どういう繋(つな)がりかはわからないが、田村はそんなことを言った。
「じゃあ、いずれお世話になるかな」
「いずれな」

 真平は、こういった一連の挨拶が済んだ後、瑞枝に挨拶をした。見舞いにまで来てくれた以上、真っ先にしなければならないと思っていたが、何ともそうなってしまった。
「瑞枝さん、あんなところまでお見舞いに来てくださって、ありがとうございました」
「いいことよ。お医者さんは何て?」
「全治したと。もう大丈夫です」
「それは良かった」
 瑞枝はしばらく黙り、
「また執筆生活ね」
「そうですね。気が重いです」
「そう。でも、楽しい時もありますし、第一生業(なりわい)ですもの」
「そうですね」
「志野さんは、真平さんの復帰の準備をしておられましたよ」
「僕の穴埋めをした若手作家たちは、どうなるんでしょう?」
「また、不定期掲載に戻るんでしょう」
「そりゃ悪い話ですね」
「仕方がありませんわ。才がなければやっていけない世界ですもの」
 瑞枝も暗い顔をしてそう話し、
「精進を続けなければ、生きていけない業界ですわ」
「大変なことです」
「そう、大変。だからあなたも努力して」
「はい」

 真平は、次に志野に挨拶に向かった。志野は、
「やあ先生、回復されたそうで」
「なんとかかんとかです」
「いや良かった。今まで通り、毎月の出稿をお願い致します」
「それはそうなんですが」
 真平は、穴を埋めた若手作家たちに申し訳なく思う旨伝え、そうして、自分の出稿を控えてでも、彼らを重用してくれないかと話したが、志野は、
「先生、それはできません」
「そうですか」
「彼らにはまだ、改造に定期出稿する力はありません。先生にはあります。心苦しいのですが、そのあたりは、実力主義というものです」
「そうですか」
「そうです。しかし彼らにはチャンスを与えますし、先生はお気兼ねなくなさってください」
「わかりました」
 真平は編集部を後にした。

 ペンクラブの総会が近づき、真平は事務局に詰めることが増えた。日本中の文筆家が一堂に会する、一大イベントである。
 真平は、慣れないながらも事務員に指示を出し、粗相(そそう)なく総会が執り行われるよう、手配した。
 時折、瑞枝も事務局を訪れ、
「小説はいいんですか?」
「今は、それどころではありません」
「大変なことですね」
「慣れませんからね」
 運営は事務局に任せているのだが、どうしても作家の代表に、指図を求められることが多いのである。
「若い作家が駆り出されるのは、しょうがありません」
「あまり無理なさらず」
 瑞枝は帰って行った。
 その総会は、平常通りつつがなく執り行われ、事務局員たちと、打ち上げの飲み会を済ませた後、真平は下宿で横になり、やれもっと若手の作家にやらせればよかった、いややはり厄介な仕事を引き受けるのはいいことだったとか、津々考えながら眠りに就いた。

 大手新聞社が深海(しんかい)という文芸誌を創刊するといって、真平のもとに、専属作家にならないかという誘いが来た。田村や佐久、瑞枝のもとにも同様だった。
 稿料は破格の高さで、真平は驚いた。さっそく、瑞枝を除く男三人で、方策を料理屋で考えた。
「我々はプロの文士だ。プロならプロらしく、一銭でも高い稿料を払う出版社を選ぶべきじゃないか」
 佐久はそう言い、真平はそういう考え方もあるかと、唸(うな)らされた。
「深海でそれだけ出せるんなら、改造だって同様だろう。ところが今の稿料止まりだ。
 ヲリオンにも劣る稿料で、改造の役員たちは高利を貪っている。そんなことが許されるか?」
 佐久の強い言葉に、真平も田村も黙り込んだ。しばらくして田村は、
「俺は止めておくよ。ここまで来る経緯(いきさつ)というものもある。駆け出しの俺をせっせと指導鞭撻してくれた。俺は動かない」
 真平も、
「俺も動かない。懸賞小説の入選に始まって、ここまで来るまでの恩義というものがある」
「そうか」
 佐久は簡単に答え、
「残念だが、君たちの考えがそうなら俺も動かないでおこう。君たちと離れたくはないからな」
 そう言って杯を空け、
「改造三兄弟だ。いや瑞枝を合わせて四兄妹かな。改造で心中だ」
 そうして改めて三人で乾杯した。
 しばらくして深海は作家集めに頓挫(とんざ)し、出版が取りやめになった。

 今度は佐久が入院した。肺気腫(はいきしゅ)という病気で、煙草の吸い過ぎが原因だった。
 真平は、田村と見舞いに訪れ、
「もう煙草は止めろ」
「そういう訳にはいかないんだ」
「何箱吸っているんだ?」
「新生を、一日五箱だ」
「めちゃくちゃじゃないか」
「そうなんだが」
 佐久は、大儀そうに身を起こし、
「吸いながらじゃなくては、小説が書けない」
 そうして、引き出しから新生を取り出して、火を点けた。
「それじゃあ仕方ない」真平は呆れ、
「ああ、そうなんだ」
 うまそうに吸い、
「君たちには、決して勧めない」
「そうしてくれ」
 切りを見て真平と田村は辞去し、そうして、俺たちは決して煙草を吸うまいと約束して、家路に就いた。

 真平たち四人の許(もと)に、改造社が運営する小説教室の、夏季特別講座の講師の依頼があった。
 四人は受けることにして、それぞれ準備に入った。先頭の真平は、
「小説とは、そんなに難しいものではありません。身近な事柄や出来事をテーマに、まずは十枚程度の話を書いてみましょう。完成したら正講師に見せ、受けた講評をもとに、また書ける限りの話を書いてみましょう。それを繰り返しているうちに、やがてあなた方の書くものは、正式の作家たちの書くものに、どんどん近づいていきます。
 私も見よう見まねで書き続けているうちに、作家の端くれにありつけました。
 遠慮はいりません、正講師を信じ、そうして頼るうちに、あなた方は、作家の座にありつけることができるでしょう」
 あらかたそんな話をして聞かせ、大方好評のうちに、教室は終了した。
 他の三人も、それぞれそれなりの話をして、志野からは誉め言葉と感謝を伝えられた。
 講演料を手に四人は、築地の高級すし店に向かった。
「あんな話でよかったかな?」真平は尋ねた。
「私も、話しながら、あまり自信がなかったわ」瑞枝は答えた。
「俺もそうさ。小説なんて、人の力に頼れるものじゃない。書いて書いて、そうして読み返して、また書くしかない」田村が言った。
「俺も、大した話はできなかったさ。だが、誰が話しても、あんなものになるしかないだろう」
 佐久も言った。田村は、
「まあよかろう。今日は久しぶりの四人の集まりだ。いい寿司を堪能しよう」
 そうして四人は奮発して、高い寿司を食べた。
 帰り道で、真平は瑞枝と二人になり、
「いい会でしたね」真平が言った。
「ええ。でも私、もう四人ではお会いしません」
「どうして?」
「真平さん以外の男性と酒食を共にするのは、止そうと思います」
「そこまで言わなくても」
「いえ、そうします」
 瑞枝はそう言って、自宅の前で踵を返し、
「いい小説をお書きになって」
「もちろんそうします」
「お待ち申し上げております」
 瑞枝は家に入った。

 真平は、いつもの古本屋で志野に出会い、喫茶店に向かった。
「志野さん、私は行き詰っています」
「そんなことはありませんよ」
「そうでも、早晩行き詰ることでしょう」
「そうでしょうか」
「そうです。身近な経験を私小説風に仕立て上げる今の作風は、限界です」
「そんなことはありませんよ」
 志野はそう言ったが、真平は信じなかった。新聞の論調も、それを後押ししていた。
「私は、一本のテーマに貫かれた大きな小説というものに、挑戦致します」
「それは、大変宜(よろ)しいことです」
 志野は簡単に答えたが、そろそろそれが必要な時期だと、考えていた。
「そうして……、これは大切なことですが、その暁に、瑞枝さんに求婚しようと思います」
「それは大変結構なことです」
 真平は、話し終えると満足して、一息ついた。そうして、
「懸賞小説の入選に始まり今に至るまで、志野さんには大変お世話になっています。重ねて、私の大成までご協力のほど、よろしくお願い致します」
「私は応援していますよ」
 志野は恐縮してみせ、そうして二人は店を出た。
「瑞枝さんの話ですが」志野は言った。
「はい」
「先生とは、きっと宜しく結ばれることでしょう」
「ありがとうございます」
「応援しています」
 そうして二人は別れた。

 新宿に、文壇バーというものができたと、田村が真平と佐久を誘った。
 三人で訪れると、洋風のしゃれた内装の店で、店員たちはギャルソン姿と、めかしこんでいた。
 三人はテーブル席に案内され、現れた店長は、三人ともご承知しております、ようこそご来店頂きました、今後ともご愛顧のほどお願い致しますと、平身した。
 三人はさっそくメニューを眺め、見慣れないウイスキーが色々あったので、それぞれ注文して飲んだ。
「なかなかうまい」田村が言った。
「俺のもだ。まあ値段もそれなりだが」佐久が答えた。
「俺にはちょっと贅沢な店だ。もっと大物になったら、また来るさ」真平が答えると、
「もう、これくらいの贅沢は許される地位さ、俺たち」田村が答えた。
 ヲリオン他、他誌の作家たちもぼちぼち入店してきて、顔の広い田村は、多少の挨拶をした。
 戻って来た田村は、
「なんだ、俺たちより若い作家たちもいるぞ」
「俺たちも、上の人たちにそう言われているさ」真平が答え、田村は笑った。
 あてに、当時珍しいピザがあったので注文し、これもうまかったが高かった。
 しばらく談義して、切り上げた。
「こんな店に来るのは、堕落と言うものだ」佐久は店を出て言った。
「客層を見たか? 売れていない作家と若手が多かった。そういう連中ほど、こういう店に来たがる」
「そりゃあ口が悪い」真平と田村は笑った。
「まあいいさ、俺はまだ腹が減っている。付き合ってくれ」
 三人は、近くの大衆居酒屋で、おでんで腹を満たした後、別れた。

 山梨の新聞社が主催する、地方文学賞の審査員に穴が空き、真平に務めてくれないかと依頼が来た。まだ若いのでと断ったが、どうしてもと泣きつかれ、志野に相談すると、素人の小説を読んで分析することは、作家業にも役立つでしょうと勧められたので、引き受けることにした。
 賞の規定枚数は五十枚以下で、おおかたの作品は、三十枚を下回っていた。さっそく真平は甲府に向かい、届いた最終候補作五作を熟読した。やはり素人だけに粗(あら)が目立ち、展開や描写が甘かった。
 その中で一番気に入った作品に最高得点を付け、残り四作にも妥当と思われる点数を付け、選評を付けて、新聞社に渡した。
「先生、突然の依頼を、ありがとうございました」担当者は頭を下げた。
「いえ、私にも糧になる経験を、させていただきまして」
「先生の評点は、私共もほぼ同様でしたので、安心しました」
 そう言って担当者は、報酬の入った封筒を渡し、真平は甲府駅から帰京した。 
 温かくなった懐で、田村と佐久にご馳走をしようかと思ったが、不在であった。
 真平は思い切って、瑞枝の実家の扉を叩いた。上京後しばらくの時に、寝食を受けて以来の訪問だった。
 女中が出てきて用件を話し、瑞枝を呼んでもらった。しばらくして瑞枝が現れ、あらうれしいご訪問ね、どうかしましたかしらと微笑んだ。
 真平は、こういう事情で、思わぬ金が入った、ついては瑞枝さんにご馳走を振る舞いたくと話し、瑞枝は応じた。
 築地の高級すし店に行きましょうと誘ったのだが、瑞枝は、例の文壇バーに連れていって欲しいと言った。そうしましょうと真平は答え、二人は新宿に向かった。
 カウンターに腰掛け、真平はスコッチを、瑞枝はカクテルを頼んだ。しばらくの沈黙の後、真平は、
「瑞枝さん、まだ大作には力及ばずです」
「あら、いいことですよ、そんなこと」
「そうなんですか?」
「そうですね」瑞枝は少し黙った。
「やっぱり……、そうですね、書いていただきたいわ、大作」
「そうですよね」
「無理にとは言いませんわ。でも、書いていただけたら私、宝物にします」
「そんな大層な」
「いえそうです」
 瑞枝は、ストローでレモンを突(つつ)いた。
「ところで、審査員はどうでしたか?」瑞枝は話をそらした。
「そうですね、ためになる経験だったと思います。普段はプロの作家の小説しか読みませんから。粗が目について、自分も今後に活かそうと思いました」
「反面教師ね」
「そうですね」
 しばらく、他愛(たわい)のない話をして二人は過ごし、そうして帰り道に就いた。
「がんばります」真平は言った。
「がんばってください」瑞枝は答えた。
 そうして瑞枝が玄関に入るまで真平は見送り、帰路に就いた。

 志野に、改造社が那須に保有する保養所に、作家の執筆部屋というものがあるので、行ってみないかと誘われた。いわゆる缶詰である。真平は、執筆の足しになればと喜んで出かけた。
 眺めの良い十畳ほどの部屋に、大きめの机があり、先輩作家たちもよく利用するとのことだった。真平は荷物を仕舞うと窓から眺めを楽しみ、そうして机に向かってペンを走らせた。
 だがしばらくして中断し、押し入れから枕を取り出して、畳の上に寝そべった。
 (またいつもの私小説だ。なぜか重用されるが、書いている自分が一番限界を知っている。駄目だ駄目だ、構想からやり直そう)
 真平は下駄を履いて、周辺の散歩に出かけた。森に囲まれており、遊歩道がある。ベンチに腰掛け、次は何をテーマにしようかと考えた。
 田村は一貫して美を追求し、佐久は鋭い小説を書く。俺は次はどんな小説を書こう、やはり恋愛だろうか、家族というのもいい、成長物語も良かろうとつらつら考え、そうして遊歩道を一周して、宿に戻った。
 結局真平は、いつものような私小説をひとまず書き上げ、残りの日程を構想に使っておおかた二、三の目途をつけ、そうして英気を養って、東京に戻った。

 順平にもそろそろ、縁談が舞い込むころになった。
 世話好きの奥さんが、あちらこちらから、若い娘の釣書を志津に持ち込み、いかがでしょう奥さん、順平さんもそろそろお年頃では、などと誘った。
 志津は、ありがとうございますと釣書を貰って順平に、あなたもそろそろいい年でしょう、早くに所帯を構えるのは良いことよ、早く独立して、夫婦でこの中平米店を継いで頂戴(ちょうだい)、などと迫った。
 ところが、順平にはその気はさらさらなく、俺はまだ修行中の身だ、所帯を構える気はさらさらない、少なくとも三十になるまでは、結婚する気はないんだと、けんもほろろに断った。
 そのうち志津は諦め、釣書は受けないことにした。

 真平は、那須で構想した、秘境に暮らす青年と少女の恋愛劇を描く決意をし、執筆を始めた。それは、私小説の域を出たことのない真平にとっては骨の折れる挑戦で、何度も原稿を破いては、書き直した。
 ようやく完成した百枚ほどの小説を持って編集部を訪れ、志野に渡すと、志野は流し読みし、
「これは労作ですね」
と言った。
 労作ということの意味がわからなかったが、要するに褒められたのだと思った。
「どうでしょう?」
「よろしいです」
「今までの小説よりも?」
「明らかです」
 真平はほっとし、やれやれこれで書評に叩かれなくて済むと思い、立ち去った。
 (私小説を離れるということが、こんなに苦しいことだとは思わなかった、今までは、自分の体験をそのまま小説にして済まされると思っていたが、これが産みの苦しみというものか、これからは体験談の修飾ではなく、創作の世界に入らなければならない)
 そんなことを考えながら、帰路を歩いた。

「瑞枝さん、僕の小説、読んでいただけましたか?」
 次に瑞枝と編集部で会った時に、真平は尋ねた。
「もちろん読みましたわ」
「どうでしたか?」
「いいと思いました。でも……」
「でも?」
「もっともっといい小説を、真平さんは書けるはずです。志野さんが、特別目を掛けるわけですから、田村さんや佐久さんよりもずっとです。この調子で書き続けて、あっと言わせる名作を書いてください」
 翌月の新聞の書評欄には、瑞枝が言ったようなことが書いてあり、瑞枝が書いたのではないかと思うほどであった。“名作、名作、名作”真平は独り言ち、そうして、次の作品のテーマを求めて、全集に取り組んだ。

 しばらくして、瑞枝は真平に、万年筆をプレゼントした。ドイツ製の、銀に格子が入った一級品である。
「こんな高い物、受け取れません」
「受け取って頂けなくて?」
「……。では頂きましょう」
「この万年筆で、大作を書いて頂きたくてよ。私をあっと言わせてください」
「……。頑張りましょう」
 二人は、真平の下宿近くの茶屋で、向かい合っていた。真平は時折この店に、ラムネを飲みに来るのであった。今日は二人して、クリームソーダを飲んでいた。
 真平はやがて、机の上の瑞枝の手を握った。瑞枝は、そのまま手を動かさなかった。
 やがて瑞枝が
「そろそろ出ましょうか」
「そうですね」
 二人は店を出ると、帰路に就いた。

 ある日真平は、田村の下宿に遊びに行った。そこで目にしたものは、百科事典や図鑑、作家の全集に、洋書や画集といった、本の山であった。
 真平は蔵書の数に圧倒され、田村の原動力はここにあったかと思い、自らの不勉強を恥じた。
「やあ、ところで、瑞枝との関係はどうだい?」田村が、軽い口調で尋ねた。
「どうもこうもないよ。俺の名作待ちさ」
「今でも十分、良い小説だが」
「お世辞だろう」
 そんな話をして、辞去した。

 次の小説を渡しに編集部を訪れた真平に、志野は、
「やあずいぶん良くなりました。この調子でよろしく」
「田村に刺激されたんです」
 田村を訪れて以来、読書量を増やし、参考にする資料も、手広くすることにした結果だった。
「そうそう、昨日瑞枝さんがいらして」
「何と?」
「先生の名作を、心待ちにしていますと」
「そうですか」
「あと……」
「あと?」
「それは、先生自身がお考えになってください」
 真平は社の電話を借りて、瑞枝に掛けた。
「瑞枝さん、私はあなたを愛しています」
「私も同様です」
「でしたら小説のことなんて、どうだっていいじゃありませんか?」
「いいえ、大切なことよ、お仕事のこと。そうそう、田村さん、今大変な大作をお書きになっているそうですよ」
「あなたは本当に、僕のことを愛しているんですか?」
 瑞枝は笑って、
「次号の小説を楽しみにしています」
とだけ答えた。
 真平は帰ってテーマを考えた。が、すぐには浮かばない。
 三日ほどして、孤島の灯台守(とうだいもり)の夫婦を題材にした小説を、書き始めた。
“一つのテーマに貫かれた大作”を描きたいんだと三人に宣言してから、一年が経とうとしていた。小説の向上はややはかどり、書評でも三人に匹敵するものを引き出していたが、もうひとつ物足りないものを感じていた。
 瑞枝には、二人に追いつくではなく追い越すんだと、宣言していたはずだった。
 なぜ二人の愛に、小説の技量が関係するのか、真平には釈然としなかったが、瑞枝がああ言う以上は、今回は、今まで以上に根を詰めて書くしかない。真平は覚悟を決めた。
 結局、普段は百枚程度の原稿であったものを、二百枚書き上げ、編集部に向かった。
 志野は、いつものように原稿を流し読んで、
「こりゃ力作です」
「ありがとうございます」
「瑞枝さんも喜びますよ」
「そうでしょうか」
「来月号に大きく取り扱いますよ」
 真平はさっそく、瑞枝に電話を掛けた。
「志野さんが、今度の小説を褒めてくれました」
「いえ私、まだ読んでいませんことよ」
「じゃあだめですか」
「いえまだわかりませんわ、まだわかりません」

 翌月の改造には、田村の大作が巻頭を飾った。それは、京都下鴨の旧家の四人姉妹を主人公にした長編で、書評には、絢爛(けんらん)たる絵巻物のようだと絶賛された。一方、真平の小説は、力作だが今一つ及ばずといった評価だった。
 真平はがっかりし、改造社の電話を瑞枝に掛けた。
「だめでした」
「いえ素晴らしかったわ。私、感動しましたのよ」
「本当ですか?」
「私を岡山に、連れて行っていただきたくてよ」
 真平は電話を切って、これでよかったのだと独り言ちた。作品では田村に負けたが、瑞枝を手に入れた。
 田村は本当に、瑞枝を愛していなかったろうか? 佐久も同様だ。
 一番凡才の俺が、瑞枝を得ることになった。なぜ瑞枝は俺を選んだろう?
 そんなことを思い巡らせ、結婚の手はずを考えながら、帰路に就いた。

 岡山の旧友に加えて、東京でできた作家仲間を呼んだ祝言(しゅうげん)を挙げた後、二人は神楽坂(かぐらざか)で新婚生活を始めた。
 瑞枝は祝言の後、きっぱりと筆を折った。
「どうしてやめるんだ?」
「私は、あなたを支えたく思います」
 瑞枝は、それ以上のことを言わなかった。

 真平は書き続けた。
 田村や佐久と違う、深い抒情を感じさせる小説で、今や真平は、二人に追いつき追い越そうとしていた。瑞枝や志野の予感は、的中したのである。
 もちろん瑞枝は、出世頭を射止めようと、真平に近づいたわけではない。あえていえば、人柄が優れているように思えただけであった。しかし、結果的に真平が大きく成長したことは、彼女を深いところで満足させた。
 瑞枝は改めて、志野に橋渡しを頼んだことに感謝した。そうして真平の執筆を支えることで、彼の期待に応えようしている。

 劇団夢座の、石川可乃子主演の舞台が始まった。かつて、脚本家の戸川が、真平に紹介した女優であった。
 初日に真平と瑞枝は、戸川に招かれて舞台を見に行った。当時少女だった可乃子は、すっかり大女優の貫録を見せていた。
「あの女優さんと、引き合わされたことがあるんだよ」
「あら、あのお方の方がよかったかしら?」
「とんでもない」
 舞台が引けた後、真平と瑞枝は、立ち寄ったバーで軽口をして笑った。
「そういや瑞枝は、田村と佐久の、どちらが好みだったんだい?」
「そうねえ、うふふ」瑞枝は笑った。
「小説の技量も拮抗(きっこう)していたけど、私は、あなた以外の男性に興味を持ったことは、ありません」
 瑞枝は真顔で答え、そうして二人は家路に就いた。

 岡山の真平の実家では、朝早くから順平が、今日の配達の準備をしていた。
 兄は作家として大成し、東京に居を構えた。改造で瑞枝を見知っていた順平は、うらやましく思いもしたが、しかし面(おもて)には出さなかった。米屋の家業を尊く思い、ここで家業を継いで人生を捧げることを、誇りに思っていた。
「今日の配達はどこ?」志津に尋ねた。
「今日は……」
 そうして準備を済ませ、朝食の卓に向かった。
 そろそろ所帯を持って、高齢になった母の手から、妻の手に仕事を移さなければ。そんなことを考えていた。

 志津は最新の改造を閉じると、真平のことを思いやった。
 あの子は大成した、同期の仲間にも負けなかった、よくやった。美しい女流作家を手に入れ、東京に新居を構えた。新聞の書評や改造での扱いを見ても、成功したのだと感じられる。
 順平には苦労をかけるが、米屋稼業もそう悪いものではない。そのうち嫁を娶(めと)って、順風に運んでいるこの中平米店を、継いでくれればいい。
 順平は、兄を妬(ねた)んでいるだろうか? 世間的には、兄の方が成功しているということになるだろうが、生まれ育った実家に留まり、家業を受け継ぐことは、そう悪いことだろうか。
 近隣では悪くない世評を受けているこの米店を、無事、次代に引き継いで、一生を全うして欲しい。そんなことを、順平を尻目に見ながら、考えた。
 
 福本は、書斎から庭を眺めながら、予想した通り、真平が大成したことに思いを馳せ、煙草に火をつけた。自分自身はと言えば、そろそろ資産もでき、筆を折って隠棲(いんせい)を始めようと考えていた。
(何だろうか、小説に一番大切なものは)
 今の福本には、思想や能力ではなく、結局は、作家の人柄が雌雄(しゆう)を決するのではないかと思われた。
 真平と瑞枝の結婚の報を聞き、瑞枝は良い選択をしたとぼんやり考えながら、煙草を消した。

 可乃子は、舞台を終えた後の楽屋で、改造の最新号に目を落とした。以前紹介を受けた真平が、冒頭を飾っていた。
(ご縁、なかったわね)
 真平の結婚の記事を見て、そう笑った。
(ご立派になられたわね、お会いした時は、そうでもなかったけど)
 そうして、どうぞお幸せにと思いながら、改造を閉じた。

 小次郎は、漁が終わって、港の漁協の机で、改造を広げた。真平と瑞枝の、結婚の記事が載っていた。
(あの兄さん、目出度いことだな)
 羨(うらや)ましく思い、だが、おそらくは、苦労を重ねて小説の技量を高めた、真平への天のご褒美(ほうび)だろうと考え、わが身を翻(ひるがえ)った。
 まだ駆け出しの漁師だが、東京での生活を忘れて、地元で精を出している。
(いずれ俺にも、天のご褒美が下るさ)
 そんなことを考えながら、改造を閉じた。

 編集長に昇格していた志野は、終業後の編集長室で、真平のことを考えていた。
 懸賞小説の入選以来の付き合いだが、穏やかで実直な性格で、小説の技量は沈滞した時期もあったが、正面から打開を図り、打ち勝って、今の改造を支える柱になった。好感の持てる青年だったのである。
(才能は、あったろうか)
 田村や佐久の方が、才能に恵まれているような気がした時もあったが、真平は愚直に小説に取り組み、人柄の大らかさからくる大きな視点で、のちに大作を物し始めたのである。
 俺の目は間違っていなかった、と思った。前編集長からは時折、真平の先行きを危惧(きぐ)する意見も受けたが、志野は粘り強く擁護し、それが実ったこの度の状況だった。
(感謝しなければ)
 疑問視もされた真平の重用が、志野の出世に貢献したのである。
 美しくのびやかな性格の瑞枝を手にする真平を、少し羨ましく思いながら、ブランデーを啜った。

 佐久が自殺した。最近、神経衰弱を患っているとの風評が流れていたが、それほどまでではないと、思っていた。
 通夜で作家仲間は、一様に沈痛であった。小説が佐久を苦しめたのだった。
 佐久はスター作家で、田村にも負けていなかった。熱狂的なファンがいて、著書が初日で完売することも、珍しくなかった。血であったろうかと、業界関係者は嘆いた。
 真平は、新調した礼服に身をまとい、佐久の葬式に向かった。作家仲間や、佐久の大学の同級生が焼香し、そのあと真平は、少し涙を流して焼香した。

 そのころ瑞枝は、今月号の改造を手にしていた。佐久の遺作になる小説が巻頭を飾り、田村の小説が次だった。
 最近田村は、老人の性をテーマにした、ややもすると、いかがわしいと思われかねない小説を、書き始めていた。
(田村さんも、そろそろ小説を卒業しようとしているのね)
 瑞枝は、そう思った。そうして、田村でも佐久でもなく、淡々と書き続ける真平を選んだことを、誇らしく思うのだった。
 真平が帰ってきた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
 瑞枝は改造を閉じ書棚にしまうと、玄関に向かった。


 ――改造はその後、第二次世界大戦中の昭和17年、掲載した論文が共産主義的であるとして弾圧を受け、昭和19年に廃刊となった。ヲリオンも同様で、俗に横浜事件と呼ばれている。昭和21年に復刊するが経営は思わしくなく、昭和27年の、創業者の山本の死去により社勢は急速に衰え、労働争議の末、昭和30年に廃刊となった――
 
(了)


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