社内バー

吉野楢雄

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社内バー

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「千恵ちゃん、今度の役員人事はどうなったの?」
「常務が専務に昇進よ」
「角田課長と晴美さんの不倫話は?」
「それはねえ…」
大阪心斎橋の高層ビル最上階。
そこに僕の勤める会社の社内バーがある。バイトのホステスの千恵ちゃんは会社の内情に精通している。僕は彼女から課長と晴美さんの不倫話を聞きたい一心だった。
「それはねえ…」
そこに社長が取り巻きを連れて入ってきた。
「やあ取り込み中にすまないね」
「いえそんなわけでは」
僕はすぐに立ち上がって一礼した。
「いつもの」とボックス席に入った社長。
「少々お待ちを」と千恵ちゃん。
僕はカウンターに入りオールドパーの水割りを用意する千恵ちゃんを手伝い、不倫話はそれで打ち切りになった。

翌週話の続きを聞きたくて社内バーに行くと、その日のホステスは千恵ちゃんじゃなくて樹理ちゃんだった。千恵ちゃんより若くてかわいいが社内情報には疎い。
「樹理ちゃん仕事は慣れた?」
「はいなんとか」
「悪い虫に迫られていない?」
「今のところは」
「じゃあ安心だ」
僕も中途入社で二年目だが樹理ちゃんには大きく出た。窓からイタリアの高級ブランドの看板が輝いている。
「ところで今週末空いてる?」
「はい」
「六甲山にドライブなんてどう?」
「うれしい」
「じゃあ決定だ」
それまでに洗車をしておこう。
僕は恋の予感に胸を躍らせた。

千恵は週末の土曜日に、社内バーの酒を注文しに心斎橋の酒屋を訪れた。
「宝山を六本とオールドパーを二本」
「毎度ありがとうございます」
(小野田君は私のこと好きかしら?)
(そんなことないわ、もう一人のホステスの樹理ちゃんに首ったけ。私のことなんて情報源にしているだけ)
千恵は肩を落とすと酒屋を離れた。

週末僕は愛車のゴルフを丹念に洗車してその足で樹理ちゃんの下宿に向かった。北堀江の瀟洒(しょうしゃ)なワンルームマンションだった。
「六甲山ホテルのフレンチを予約しているんだ」
「楽しみ」
ポロシャツとショートパンツ姿の樹理ちゃんは慣れた様子で助手席に乗った。
デートはつつがなく進み、食事を済ませて彼女を下宿に送った。
「来週末も会えるかな?」
「もちろん」
次は箕面の滝にするか、近すぎるだろうか、それとも生駒にしようか。
僕は恋の予感にわくわくした。

翌週、僕の上司とその上司が社内バーでひそひそ話をしていた。
「小野田君、そろそろ係長にしてやってはどうかね」
「まだ早いのでは?」
「いいじゃないか、そうしよう」
それを聞いた千恵は
(小野田君どんどん偉くなるのね)
喜んで、少し寂しい気がした。

そのころ、角田課長と晴美は梅田の地下のバーで話し込んでいた。
「ねえ奥さんとのことどうなるの?」
「もう少し時間をくれ」
角田は口を濁した。

週末僕は樹理ちゃんを乗せて箕面の滝に向かった。滝の下で樹理ちゃんは
「私、雑誌の専属モデルに選ばれたんです」
「おめでとう」
「東京に行くことになったんです。それで遠距離恋愛っていうのも…」
「わかったよ」
突然の別れだった。

失恋の痛手が癒えてすぐに社内バーに向かい、
「千恵ちゃん週末空いてる?」
「もちろん」
僕はゴルフを生駒山に走らせた。
「小野田君、角田課長と晴美さんの不倫の話聞きたいんでしょう? あれはねえ…」
「いやあれはもういいんだ」
「あれはねえ…」
「もう言うな」
強く言ってハンドルを握りなおした。
初夏の生駒山の頂上近くのことだった。
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