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役場の女
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“小野田さん私のことをご存じですよね。私、役場の健康保険課の職員をしている下田と申します。
小野田さんのことは常々好意的に承っておりました。最近○○興産に就職が決まったそうですね。納税課の友人から聞きました。以前は△△ビルメンテナンスにおられたと聞いておりますので、マンション開発会社への転職に成功されたとのこと、お祝い申し上げます。
さて用件ですが、私、今年で32歳になります。晩婚が進んでいるとはいえ、そろそろ役場でも肩身の狭い思いがし始めています。そう聞くと以前に男性がいたのではないかとお思いになるかと思いますが、私、以前に男性を知りません。仕事が好きで男性には今一つ関心がないままこの年になりました。今は主任で係長にもうすぐ昇進することでしょう。
役場には気になる男性はおらず、どういうことか、数度課を訪れられた小野田さんのことが気になります。病気の件ではご苦労をされたことでしょう。痛ましく思います。
私に、小野田さんのこれからの人生を、お助けさせていただきたく思います。年齢も3歳差ですので、特段の意中の方がおられなければ、ちょうどいいのではないでしょうか。
前職で病気を悪くされて、カワサキ心療内科にかかりつけになられたんでしょう。今度の会社でも知られては、せっかくの転職がふいになってしまいますよね。
こう書くと脅迫に聞こえますか。もちろん法律では秘密漏洩だか何かにはなりましょう。でもそんなものなんでもありません。いつ退職しても困りませんし、そんなもの何とも思っていません。
小野田さんにも悪い話ではないと思います。怖い病気で薬が手放せないんでしょう。
私は気にしません。でも他の人はどうでしょう?
お返事待ってます“
これは脅迫だ、と思った。手紙は母親から封書で受け取った。住所氏名は封筒には書いておらず、母親は怪訝(けげん)な顔をしていたが、昔の友人からだったとごまかした。
俺の病名は統合失調症で、前職のビルメンテナンス会社にいる時に発症し、言動がおかしくなって退職を余儀なくされた。しばらく精神科に入院したのち、今は近くの心療内科とは言うものの、精神科に通院している。
“会社にばれては大ごとだ”
それが今の心配の第一で、健康保険も使わず自費で通院しているが、無職時代に国民健康保険を使ったことで、役場にばれてしまったようだ。
それにしてもさすが役場だ。納税課の横の人脈を加えて俺のプライバシーは筒抜けだ。
下田という女は、何度か手続きで窓口に通ったときに見知っている。中肉中背の平均的な顔立ちの女だった。
目を付けられた、と思った。逃げたら会社に密告されるだろうか。
たぶん脅しであってそんなことはしないだろうが、絶対にないとは言い切れない。あればやはり今度の会社でも、退職を余儀なくされることだろう。辞めさせられるわけではないが、居づらくなるのである。
今回の転職は焼け太りだった。新卒で弱小のビルメンテナンス会社にしか就職できなかった俺が入院ののち、適当な言い訳をつけて転職に応募して、運よく格上のマンション開発会社に採用された。不動産関連会社の総務経験者としてだ。
この一年、薬を飲みつつ勤務したが、勤務も充実していて、これなら定年まで勤めあげられそうだ、うまくやった、そのうち会社の女子社員でも嫁にもらって、平凡ながら幸せな家庭を築こうと考えていた。
そうだったが、もちろん病気のことは気になる。病名が病名だし毎晩頭の薬を飲むわけで、月に一度は精神科に受診だ。女だって、全く気にしないわけではないだろう。性格によっては、結婚や交際もふいになるかもしれない。下田が言うのには理由があるのである。
――新卒ほやほやのミキちゃんが気になっていた。もちろん年が離れている。俺は今年35歳だ。女には身ぎれいで、学生時分にお互い遊び半分の女と後腐れなく別れたのちは、女を作っていない。
よくニュースで耳にする、芸能人の年の差婚ばりの結婚を諦めれば、下田との結婚はそう悪い話ではないものの、だが。
翌々日、会社に出勤すると、いつも通り、開発課の数人の若手社員を除けば一番乗りだった。
役所の宅建業の認可の更新申請の時期なのだが、手続きが滞っていた。理由は現場の職員からの必要書類の提出の遅れで、逐一電話して催促しなければならないのだった。
軽く業界のサイトをチェックしているうちに、上司の部長と課長が出勤してきた。
「更新申請、順調に進んでる?」部長が尋ねる。
「現場からの書類の提出がやや滞っています」
「営業部長に叱ってもらおう」
「いえそこまでは」
中途二年目の係長だ、現場とトラブルは起こしたくない。
新卒のミキちゃんは、もう出勤して総務部員の席についている。昨日の脅迫手紙が頭をよぎり、この娘さんとの結婚話もお流れかとため息が出た。
幸い仕事が定時で終わり、行きつけのパブでビールを注文した。
「今日は定時ですか?」なじみのバーテンが訊く。
「仕事は立て込んでるんだけど、今日は特別」
「それはよかった」
バーテンはよその客に向かった。
例の手紙が気になる。結婚に応じないと、会社に病気をばらすぞとある。ばらされてはたまらない。会社は慰留してくれようが、噂が広まって居づらくなる。
せっかくの焼け太りの職場だ。係長での採用で給料も随分上がった。心なしか可愛い女子社員も増えたように思う。同居の母親も、ずいぶん今回の転職を喜んだものだ。
そうこうするうち杯が進み、実家での夕食が気になり始めた。
「マスター、勘定を」
「かしこまりました」
7時ごろの特急に乗り、帰宅して母親の料理を食べて、早々に眠りについた。
一週間が経(た)った。考えは思うように進まない。もっぱらパブでビールを飲みながら考えている。
脅迫に屈したくはない一方、下田が言う通り、悪い話ではないような気もする。下田は病気を一切気にしないと言っている。ミキちゃんはどうだかわからないが、人によっては忌まわしく思ったり、遺伝するかもしれないと気にする人もいるだろう。第一、交際を始めて病気を告白するのが億劫だ。
“「……。実は僕、統合失調症なんだ」
「ええ?」“
精神科の受診の日が来た。主治医のカワサキはよく儲かっているせいか、でっぷりと太っている。
「その後いかがですか?」
「変わったことはありません」
「仕事はどうですか? 苦痛ではありませんか?」
「前職より楽なくらいです」
カワサキは3分ばかりで話を切り上げ、いつも通りの薬を一月分処方した。
これについても、せめて2か月分にしてくれと頼んだことはあるのだが、医者は応じない。一回で5千円ほどの受診料で法外に思うのだが、だからこそ応じないのだろう。
夕食で母は、
「今日はカワサキさんは何と言ったかい」
「別に何も」
「それでお薬は?」
「いつものを一月分」
「それでいいじゃないか。お前が勤めにまた出てくれるおかげで、家計も助かる」
家には月3万ほど入れているが、家計が助かるというほどには、亡父の遺族年金で困っていない。
「あの医者、ずいぶん稼いでいるな」
「そんなこと言うでない」
中学からの友人からメールが届き、食事をすることになった。
「病気進んでないか?」彼には病気のことは伝えてあった。
「安定している。もう大丈夫だろう。医者通いももう止めようかと」
「そういうな」
友人は教師をしているが、片耳に統合失調症の怖さを耳にしているようだ。
「せっかく転職が成功したんだ。心療内科通いを辛抱して続けて、なんとか定年までがんばれ」
「3分で五千円を請求できる仕事も、ほかにはあるまい」と俺。
「まあ開業していれば、いろいろ金もかかるさ」
友人はなだめ、そうしてお開きになった。
薬は一応飲んではいるのだが、飲んだ直後に痰が出て、ほとんどを吐き出す毎日だ。それでも全く影響がないのだから、薬の信頼性にも疑いを持っている。母が受診を止めることにひどく反対するので、通い続けているだけだった。
母は、
「先生は、医大の講師も務める偉いお方だろう」
「そりゃそうだけど、金儲けでやっているだけだ」
「そんなことあるわけない」
医者には、この病気は一生薬を飲まなければいけないと宣告されており、それは他ならず、医者の生涯の金づるにならなければならないことを意味した。
「ミキちゃん、○○プロジェクトの資料、探してくれる?」
「わかりました」
金曜の夕方のオフィス。会社の同僚たちははや、夜の街に繰り出している。俺はミキちゃんと、積み残された仕事を片付けていた。
「これでよろしいでしょうか?」
「うんありがとう」
ミキちゃんに答えると、ミキちゃんは童顔の顔を笑顔にして応えた。
「ところでミキちゃんには恋人はいるの?」
俺は勇気を振り絞って、極力さりげなく訊ねた。
「いません」
「僕じゃあだめかな?」
これまた勇気を振り絞って訊ねた。自分が精神病患者だということを一瞬忘れた。
「すごくうれしいです」
「ありがとう」
「時間をください」
「構わないよ」
俺も下田から時間を与えられている身だ。
「今日のところはもう帰りなさい。同期も今頃飲んでいるころだろう」
「はい。係長のお言葉、うれしかったです」
「そう」
うれしい言葉だったが、平静を装って答えた。あすは精神科の受診の日だった。
「暗いから気を付けて」
「はい」
翌日、昨晩に一人で飲みすぎたせいで二日酔いがしたが、土曜日の午前中の心療内科に、診療時間ギリギリに間に合わせた。
「変わったことはありませんか?」
「ありません」
「仕事は順調ですか?」
「まったく順調です」
いつも通り、3分ほどの診療を終えて、カワサキが“ではいつものお薬を一月分出しておきます”とするのを遮るように、
「先生、相談があるんですが」
「何でしょう?」
診察が長引くのを嫌そうにするカワサキを引き留めた。
「この病気の社会的評価ってどんなものでしょう?」
「といいますと?」
「病気のせいで結婚できないでしょうか、私?」
「そんなこと、あるわけありません」
「でも昔は精神分裂病とか言われて、恐れられたんでしょう」
「不幸な過去はありました」
「この病気は遺伝するんでしょう?」
「あなたが今、そこまで心配する必要はありません」
「私、会社の若手の女性社員と結婚したいと思ってるんです。だめでしょうか?」
「向こうがそこまで心配しなければ、大丈夫でしょう」
「先生、私は一生、精神科通いを続けなければならないでしょうか」
「私も、糖尿病の薬をたぶん一生飲み続けなければなりません。同じです」
「同じじゃないでしょう」
医者は嫌な顔をし始めた。次の患者が待っている。俺は切り上げて診察室を出た。
いつもの診察料の五千円を支払う。受付の女はいつものように、
「お気をつけて」
精神科では“お大事に”とは言わず、“お気をつけて”と言う。俺がここで知った精神科の流儀だった。
すぐに駐車場に向かって帰路に就いた。たばこを吸って吸い殻を運転席から投げ捨て、途中のコンビニで缶ビールを2本買ってその場で飲んだ。そうして家に帰ってすぐに寝た。
下田からは音沙汰なしだ。もう一か月になるだろうか。要求が要求だけに時間をもらっているのだろう。
ミキちゃんからはあれから返事がない。忙しくしている様子で、考える時間もないだろう。
そう悪い話でもないでしょうと下田は説得したが、実際そうかもしれないのだった。
いきさつはどうであれ、病気に理解のある気の強い女と、所帯を無事設けることのできるチャンスなのかもしれないのだった。
“こんな小説でもあったっけ?”そんなことを、読書好きだった学生時代を振り返りながら考えたが、思いつかなかった。とにかくミキちゃんからの返事待ちだった。
月曜日、会社に向かう。
俺は有料の特急で出勤することにしている。特急で通勤する人はあまりいないが、急行で立ったまま30分を過ごすと、一日中疲れが残って仕事に影響があるので、500円を諦めてそうすることにしているのだった。
座席では新聞を読みたばこを吸う。
“○○不動産、仙台で大規模開発始める”
”××地所、丸の内の再開発へ”
”△△開発、何とかビルを買収へ”
くだらないと思うが、マンション開発会社に転職した以上は目を通す必要はある。以前のビルメンテナンス会社にいたときのほうが、世間の浮ついた経済記事とは無縁で健全だった気もする。
中高年のおじさんおばさんが、清掃やビル管理で活躍していた。少ない給料で良く働いてくれると申し訳ない気がして、訪問の折は、自腹で菓子折りを差し入れたものだった。
あんな境地の中高年になりたいものだという気もしつつ、あの給料でどうやって家庭を持つのかと疑問に思ったものだ。
終点が近づいた。俺は立ち上がって、新聞をダストボックスに入れて出入り口に立った。
金曜日の仕事が終わり、いつものパブに向かった。
「ビール小と枝豆」
「かしこまりました」
前職では会社が終わって飲みに行く習慣はなかった。帰路にめぼしい飲食店がなかったこともある。今度の職では最寄りの駅前にパブがあって、帰り道に誘われる。
「マスター、今日も天気悪いね」
「お客さんの足も鈍ります」
普段はバーテンには話しかけないが、今日は思い切った。
「ところでマスター」
「はい」
「精神疾患ってどう思う?」
「うつ病とかですか?」
「例えばそうだね、今頃だと」
「怖いですよね」
「そう」
たまに芸能人などでも耳にする。
「私も仕事前にうつうつとすることがあります」
「そりゃ誰でもそうだ」
「そんなのがずっと続く病気ですよね」
「そう、怖い」
「そんな病気の人でも幸せに生きていけたら、いい世の中ですね」
「俺もそう思う」
なんだか見透かされたようで戸惑った。マスターは他の客に向かって俺は再び一人になった。
――精神病患者の身に陥ったのはしょうがない。両親は何も言わないが、祖父母の誰かがそうで、隔世遺伝だった可能性はある。常時監視されているとか尾行されているとか、そういった統合失調症のよくある症例が俺にもあった。
退院して精神科に通院を始め、薬を飲み始めた頃、ようやくそれは収まった。とはいえ薬のおかげというには、今の俺は薬をあらかた吐き出してしまっているから、そうとも言い切れない。
ともあれ今は転職にも成功して、職にも恵まれている。ミキちゃんをめとりたいというのは調子に乗りすぎであろうか。失敗したなら、下田の誘いに乗っかるのが正解ではないとも言い切れない――。
つらつらと考えながら飲みすぎてしまったが、なんとか最終の特急に間に合った。
翌日、近くの酒屋で地酒の一升瓶を買ってきて、昼から飲むことにした。
酒は好きだが飲み過ぎることはあまりない。例のパブでは生ビールの小を二,三杯、枝豆をつまみに飲むだけだ。
ミキちゃんからはまだ返事が来ない。おおかた駄目なんだろう。年の差を考えれば仕方がない。俺の母親だって、娘に相談されたら反対したのではないか。芸能人ではない、当たり前だろう。
俺はそろそろ腹をくくる頃だろう。お猪口(ちょこ)を空けながらそう思った。
大学の同期の男たちで飲み会があった。皆、それなりの職場で活躍している。早々と課長の座を射止めた者もいる。
俺の会社は周りの同期と比べてもいい方だ。病気をきっかけに、災いが福と転じたからだ。
「やあ小野田、いい会社に転職できたそうじゃないか」
「前の会社でいろいろあってさ」理由はぼかした。
「俺も転職しようかな、もうちょっと条件のいいところに」
「俺は、たまたまだったから。止めておけ」
「そうだな」
会社の不満話で賑やかになるが、おおかたは満足しているんだろう。俺も病気の件がなければ動かなかった。
「今度結婚するんだ俺」一人が話した。
「俺もだ」「俺も近々」次々声が上がる。
俺は黙って聞いていた。
秋の名月の夜、縁側で母と月見をした。母が手製の団子を作って台に盛った。
「いい月だね」母が言う。
「ああそうだね」
「すっかり涼しくなって」
「ああ、残暑が厳しかったね、今年は」
「団子、どうだい?」
「ああうまいよ」
母はしばらく沈黙し、
「あんた、この間の封書は誰からだったかい?」
「昔の友人さ」
「あれ以来、あんた、うわの空に見えるけど」
母は鋭かった。
「ああ、隠してたけど、役場の女からさ。私と結婚しなければ、病気を会社にばらすって」
「そりゃあひどいわね」
「ああ、でも、表ざたにしないでよ」
「そうね」
母は少し黙り、
「あんた、会社で好きな子はいないのかい?」
「それが、いるんだ」
「向こうは何て?」
「返事待ちさ」
「年は幾つくらい?」
「一回り下さ」
「そりゃあ図々しい話だね」
「俺もそう思うんだけど」
母は少し笑い、
「うまくいかなくても落ち込むんじゃないよ」
「ああ、ダメもとだと思ってる」
「あんた、なかなかいい男だからね」
「だけど病気のことがあるからね」
「きっと大丈夫だよ」
「そうだといいんだけど」
翌日、会社に向かうと、ミキちゃんがパソコンに向かっていた。他に社員はいない。
「おはよう、早いね。」
「おはようございます」
「どうしたの?」
「小野田係長に返事がしたくて」
「……それは?」
「私、小野田係長と一緒になりたいと思います」
「うれしい。……。だけど僕には心の病があるんだ」
「知っています。私、匿名の女の人から電話を受けたんです。でもそんなこと気にしません。小野田係長が好きなんです」
俺の頬に一筋の涙が流れた。ミキちゃんを幸せにしよう、残りの人生のすべてをそれに注ごう。そんなことを考えながら、パソコンのスイッチを入れた。
課長が出勤してきた。そののち部長が出勤してきた。
二人に結婚の報告ができるのはいつになるだろう? そんなことを考えながら、パソコンに目を落とした。
小野田さんのことは常々好意的に承っておりました。最近○○興産に就職が決まったそうですね。納税課の友人から聞きました。以前は△△ビルメンテナンスにおられたと聞いておりますので、マンション開発会社への転職に成功されたとのこと、お祝い申し上げます。
さて用件ですが、私、今年で32歳になります。晩婚が進んでいるとはいえ、そろそろ役場でも肩身の狭い思いがし始めています。そう聞くと以前に男性がいたのではないかとお思いになるかと思いますが、私、以前に男性を知りません。仕事が好きで男性には今一つ関心がないままこの年になりました。今は主任で係長にもうすぐ昇進することでしょう。
役場には気になる男性はおらず、どういうことか、数度課を訪れられた小野田さんのことが気になります。病気の件ではご苦労をされたことでしょう。痛ましく思います。
私に、小野田さんのこれからの人生を、お助けさせていただきたく思います。年齢も3歳差ですので、特段の意中の方がおられなければ、ちょうどいいのではないでしょうか。
前職で病気を悪くされて、カワサキ心療内科にかかりつけになられたんでしょう。今度の会社でも知られては、せっかくの転職がふいになってしまいますよね。
こう書くと脅迫に聞こえますか。もちろん法律では秘密漏洩だか何かにはなりましょう。でもそんなものなんでもありません。いつ退職しても困りませんし、そんなもの何とも思っていません。
小野田さんにも悪い話ではないと思います。怖い病気で薬が手放せないんでしょう。
私は気にしません。でも他の人はどうでしょう?
お返事待ってます“
これは脅迫だ、と思った。手紙は母親から封書で受け取った。住所氏名は封筒には書いておらず、母親は怪訝(けげん)な顔をしていたが、昔の友人からだったとごまかした。
俺の病名は統合失調症で、前職のビルメンテナンス会社にいる時に発症し、言動がおかしくなって退職を余儀なくされた。しばらく精神科に入院したのち、今は近くの心療内科とは言うものの、精神科に通院している。
“会社にばれては大ごとだ”
それが今の心配の第一で、健康保険も使わず自費で通院しているが、無職時代に国民健康保険を使ったことで、役場にばれてしまったようだ。
それにしてもさすが役場だ。納税課の横の人脈を加えて俺のプライバシーは筒抜けだ。
下田という女は、何度か手続きで窓口に通ったときに見知っている。中肉中背の平均的な顔立ちの女だった。
目を付けられた、と思った。逃げたら会社に密告されるだろうか。
たぶん脅しであってそんなことはしないだろうが、絶対にないとは言い切れない。あればやはり今度の会社でも、退職を余儀なくされることだろう。辞めさせられるわけではないが、居づらくなるのである。
今回の転職は焼け太りだった。新卒で弱小のビルメンテナンス会社にしか就職できなかった俺が入院ののち、適当な言い訳をつけて転職に応募して、運よく格上のマンション開発会社に採用された。不動産関連会社の総務経験者としてだ。
この一年、薬を飲みつつ勤務したが、勤務も充実していて、これなら定年まで勤めあげられそうだ、うまくやった、そのうち会社の女子社員でも嫁にもらって、平凡ながら幸せな家庭を築こうと考えていた。
そうだったが、もちろん病気のことは気になる。病名が病名だし毎晩頭の薬を飲むわけで、月に一度は精神科に受診だ。女だって、全く気にしないわけではないだろう。性格によっては、結婚や交際もふいになるかもしれない。下田が言うのには理由があるのである。
――新卒ほやほやのミキちゃんが気になっていた。もちろん年が離れている。俺は今年35歳だ。女には身ぎれいで、学生時分にお互い遊び半分の女と後腐れなく別れたのちは、女を作っていない。
よくニュースで耳にする、芸能人の年の差婚ばりの結婚を諦めれば、下田との結婚はそう悪い話ではないものの、だが。
翌々日、会社に出勤すると、いつも通り、開発課の数人の若手社員を除けば一番乗りだった。
役所の宅建業の認可の更新申請の時期なのだが、手続きが滞っていた。理由は現場の職員からの必要書類の提出の遅れで、逐一電話して催促しなければならないのだった。
軽く業界のサイトをチェックしているうちに、上司の部長と課長が出勤してきた。
「更新申請、順調に進んでる?」部長が尋ねる。
「現場からの書類の提出がやや滞っています」
「営業部長に叱ってもらおう」
「いえそこまでは」
中途二年目の係長だ、現場とトラブルは起こしたくない。
新卒のミキちゃんは、もう出勤して総務部員の席についている。昨日の脅迫手紙が頭をよぎり、この娘さんとの結婚話もお流れかとため息が出た。
幸い仕事が定時で終わり、行きつけのパブでビールを注文した。
「今日は定時ですか?」なじみのバーテンが訊く。
「仕事は立て込んでるんだけど、今日は特別」
「それはよかった」
バーテンはよその客に向かった。
例の手紙が気になる。結婚に応じないと、会社に病気をばらすぞとある。ばらされてはたまらない。会社は慰留してくれようが、噂が広まって居づらくなる。
せっかくの焼け太りの職場だ。係長での採用で給料も随分上がった。心なしか可愛い女子社員も増えたように思う。同居の母親も、ずいぶん今回の転職を喜んだものだ。
そうこうするうち杯が進み、実家での夕食が気になり始めた。
「マスター、勘定を」
「かしこまりました」
7時ごろの特急に乗り、帰宅して母親の料理を食べて、早々に眠りについた。
一週間が経(た)った。考えは思うように進まない。もっぱらパブでビールを飲みながら考えている。
脅迫に屈したくはない一方、下田が言う通り、悪い話ではないような気もする。下田は病気を一切気にしないと言っている。ミキちゃんはどうだかわからないが、人によっては忌まわしく思ったり、遺伝するかもしれないと気にする人もいるだろう。第一、交際を始めて病気を告白するのが億劫だ。
“「……。実は僕、統合失調症なんだ」
「ええ?」“
精神科の受診の日が来た。主治医のカワサキはよく儲かっているせいか、でっぷりと太っている。
「その後いかがですか?」
「変わったことはありません」
「仕事はどうですか? 苦痛ではありませんか?」
「前職より楽なくらいです」
カワサキは3分ばかりで話を切り上げ、いつも通りの薬を一月分処方した。
これについても、せめて2か月分にしてくれと頼んだことはあるのだが、医者は応じない。一回で5千円ほどの受診料で法外に思うのだが、だからこそ応じないのだろう。
夕食で母は、
「今日はカワサキさんは何と言ったかい」
「別に何も」
「それでお薬は?」
「いつものを一月分」
「それでいいじゃないか。お前が勤めにまた出てくれるおかげで、家計も助かる」
家には月3万ほど入れているが、家計が助かるというほどには、亡父の遺族年金で困っていない。
「あの医者、ずいぶん稼いでいるな」
「そんなこと言うでない」
中学からの友人からメールが届き、食事をすることになった。
「病気進んでないか?」彼には病気のことは伝えてあった。
「安定している。もう大丈夫だろう。医者通いももう止めようかと」
「そういうな」
友人は教師をしているが、片耳に統合失調症の怖さを耳にしているようだ。
「せっかく転職が成功したんだ。心療内科通いを辛抱して続けて、なんとか定年までがんばれ」
「3分で五千円を請求できる仕事も、ほかにはあるまい」と俺。
「まあ開業していれば、いろいろ金もかかるさ」
友人はなだめ、そうしてお開きになった。
薬は一応飲んではいるのだが、飲んだ直後に痰が出て、ほとんどを吐き出す毎日だ。それでも全く影響がないのだから、薬の信頼性にも疑いを持っている。母が受診を止めることにひどく反対するので、通い続けているだけだった。
母は、
「先生は、医大の講師も務める偉いお方だろう」
「そりゃそうだけど、金儲けでやっているだけだ」
「そんなことあるわけない」
医者には、この病気は一生薬を飲まなければいけないと宣告されており、それは他ならず、医者の生涯の金づるにならなければならないことを意味した。
「ミキちゃん、○○プロジェクトの資料、探してくれる?」
「わかりました」
金曜の夕方のオフィス。会社の同僚たちははや、夜の街に繰り出している。俺はミキちゃんと、積み残された仕事を片付けていた。
「これでよろしいでしょうか?」
「うんありがとう」
ミキちゃんに答えると、ミキちゃんは童顔の顔を笑顔にして応えた。
「ところでミキちゃんには恋人はいるの?」
俺は勇気を振り絞って、極力さりげなく訊ねた。
「いません」
「僕じゃあだめかな?」
これまた勇気を振り絞って訊ねた。自分が精神病患者だということを一瞬忘れた。
「すごくうれしいです」
「ありがとう」
「時間をください」
「構わないよ」
俺も下田から時間を与えられている身だ。
「今日のところはもう帰りなさい。同期も今頃飲んでいるころだろう」
「はい。係長のお言葉、うれしかったです」
「そう」
うれしい言葉だったが、平静を装って答えた。あすは精神科の受診の日だった。
「暗いから気を付けて」
「はい」
翌日、昨晩に一人で飲みすぎたせいで二日酔いがしたが、土曜日の午前中の心療内科に、診療時間ギリギリに間に合わせた。
「変わったことはありませんか?」
「ありません」
「仕事は順調ですか?」
「まったく順調です」
いつも通り、3分ほどの診療を終えて、カワサキが“ではいつものお薬を一月分出しておきます”とするのを遮るように、
「先生、相談があるんですが」
「何でしょう?」
診察が長引くのを嫌そうにするカワサキを引き留めた。
「この病気の社会的評価ってどんなものでしょう?」
「といいますと?」
「病気のせいで結婚できないでしょうか、私?」
「そんなこと、あるわけありません」
「でも昔は精神分裂病とか言われて、恐れられたんでしょう」
「不幸な過去はありました」
「この病気は遺伝するんでしょう?」
「あなたが今、そこまで心配する必要はありません」
「私、会社の若手の女性社員と結婚したいと思ってるんです。だめでしょうか?」
「向こうがそこまで心配しなければ、大丈夫でしょう」
「先生、私は一生、精神科通いを続けなければならないでしょうか」
「私も、糖尿病の薬をたぶん一生飲み続けなければなりません。同じです」
「同じじゃないでしょう」
医者は嫌な顔をし始めた。次の患者が待っている。俺は切り上げて診察室を出た。
いつもの診察料の五千円を支払う。受付の女はいつものように、
「お気をつけて」
精神科では“お大事に”とは言わず、“お気をつけて”と言う。俺がここで知った精神科の流儀だった。
すぐに駐車場に向かって帰路に就いた。たばこを吸って吸い殻を運転席から投げ捨て、途中のコンビニで缶ビールを2本買ってその場で飲んだ。そうして家に帰ってすぐに寝た。
下田からは音沙汰なしだ。もう一か月になるだろうか。要求が要求だけに時間をもらっているのだろう。
ミキちゃんからはあれから返事がない。忙しくしている様子で、考える時間もないだろう。
そう悪い話でもないでしょうと下田は説得したが、実際そうかもしれないのだった。
いきさつはどうであれ、病気に理解のある気の強い女と、所帯を無事設けることのできるチャンスなのかもしれないのだった。
“こんな小説でもあったっけ?”そんなことを、読書好きだった学生時代を振り返りながら考えたが、思いつかなかった。とにかくミキちゃんからの返事待ちだった。
月曜日、会社に向かう。
俺は有料の特急で出勤することにしている。特急で通勤する人はあまりいないが、急行で立ったまま30分を過ごすと、一日中疲れが残って仕事に影響があるので、500円を諦めてそうすることにしているのだった。
座席では新聞を読みたばこを吸う。
“○○不動産、仙台で大規模開発始める”
”××地所、丸の内の再開発へ”
”△△開発、何とかビルを買収へ”
くだらないと思うが、マンション開発会社に転職した以上は目を通す必要はある。以前のビルメンテナンス会社にいたときのほうが、世間の浮ついた経済記事とは無縁で健全だった気もする。
中高年のおじさんおばさんが、清掃やビル管理で活躍していた。少ない給料で良く働いてくれると申し訳ない気がして、訪問の折は、自腹で菓子折りを差し入れたものだった。
あんな境地の中高年になりたいものだという気もしつつ、あの給料でどうやって家庭を持つのかと疑問に思ったものだ。
終点が近づいた。俺は立ち上がって、新聞をダストボックスに入れて出入り口に立った。
金曜日の仕事が終わり、いつものパブに向かった。
「ビール小と枝豆」
「かしこまりました」
前職では会社が終わって飲みに行く習慣はなかった。帰路にめぼしい飲食店がなかったこともある。今度の職では最寄りの駅前にパブがあって、帰り道に誘われる。
「マスター、今日も天気悪いね」
「お客さんの足も鈍ります」
普段はバーテンには話しかけないが、今日は思い切った。
「ところでマスター」
「はい」
「精神疾患ってどう思う?」
「うつ病とかですか?」
「例えばそうだね、今頃だと」
「怖いですよね」
「そう」
たまに芸能人などでも耳にする。
「私も仕事前にうつうつとすることがあります」
「そりゃ誰でもそうだ」
「そんなのがずっと続く病気ですよね」
「そう、怖い」
「そんな病気の人でも幸せに生きていけたら、いい世の中ですね」
「俺もそう思う」
なんだか見透かされたようで戸惑った。マスターは他の客に向かって俺は再び一人になった。
――精神病患者の身に陥ったのはしょうがない。両親は何も言わないが、祖父母の誰かがそうで、隔世遺伝だった可能性はある。常時監視されているとか尾行されているとか、そういった統合失調症のよくある症例が俺にもあった。
退院して精神科に通院を始め、薬を飲み始めた頃、ようやくそれは収まった。とはいえ薬のおかげというには、今の俺は薬をあらかた吐き出してしまっているから、そうとも言い切れない。
ともあれ今は転職にも成功して、職にも恵まれている。ミキちゃんをめとりたいというのは調子に乗りすぎであろうか。失敗したなら、下田の誘いに乗っかるのが正解ではないとも言い切れない――。
つらつらと考えながら飲みすぎてしまったが、なんとか最終の特急に間に合った。
翌日、近くの酒屋で地酒の一升瓶を買ってきて、昼から飲むことにした。
酒は好きだが飲み過ぎることはあまりない。例のパブでは生ビールの小を二,三杯、枝豆をつまみに飲むだけだ。
ミキちゃんからはまだ返事が来ない。おおかた駄目なんだろう。年の差を考えれば仕方がない。俺の母親だって、娘に相談されたら反対したのではないか。芸能人ではない、当たり前だろう。
俺はそろそろ腹をくくる頃だろう。お猪口(ちょこ)を空けながらそう思った。
大学の同期の男たちで飲み会があった。皆、それなりの職場で活躍している。早々と課長の座を射止めた者もいる。
俺の会社は周りの同期と比べてもいい方だ。病気をきっかけに、災いが福と転じたからだ。
「やあ小野田、いい会社に転職できたそうじゃないか」
「前の会社でいろいろあってさ」理由はぼかした。
「俺も転職しようかな、もうちょっと条件のいいところに」
「俺は、たまたまだったから。止めておけ」
「そうだな」
会社の不満話で賑やかになるが、おおかたは満足しているんだろう。俺も病気の件がなければ動かなかった。
「今度結婚するんだ俺」一人が話した。
「俺もだ」「俺も近々」次々声が上がる。
俺は黙って聞いていた。
秋の名月の夜、縁側で母と月見をした。母が手製の団子を作って台に盛った。
「いい月だね」母が言う。
「ああそうだね」
「すっかり涼しくなって」
「ああ、残暑が厳しかったね、今年は」
「団子、どうだい?」
「ああうまいよ」
母はしばらく沈黙し、
「あんた、この間の封書は誰からだったかい?」
「昔の友人さ」
「あれ以来、あんた、うわの空に見えるけど」
母は鋭かった。
「ああ、隠してたけど、役場の女からさ。私と結婚しなければ、病気を会社にばらすって」
「そりゃあひどいわね」
「ああ、でも、表ざたにしないでよ」
「そうね」
母は少し黙り、
「あんた、会社で好きな子はいないのかい?」
「それが、いるんだ」
「向こうは何て?」
「返事待ちさ」
「年は幾つくらい?」
「一回り下さ」
「そりゃあ図々しい話だね」
「俺もそう思うんだけど」
母は少し笑い、
「うまくいかなくても落ち込むんじゃないよ」
「ああ、ダメもとだと思ってる」
「あんた、なかなかいい男だからね」
「だけど病気のことがあるからね」
「きっと大丈夫だよ」
「そうだといいんだけど」
翌日、会社に向かうと、ミキちゃんがパソコンに向かっていた。他に社員はいない。
「おはよう、早いね。」
「おはようございます」
「どうしたの?」
「小野田係長に返事がしたくて」
「……それは?」
「私、小野田係長と一緒になりたいと思います」
「うれしい。……。だけど僕には心の病があるんだ」
「知っています。私、匿名の女の人から電話を受けたんです。でもそんなこと気にしません。小野田係長が好きなんです」
俺の頬に一筋の涙が流れた。ミキちゃんを幸せにしよう、残りの人生のすべてをそれに注ごう。そんなことを考えながら、パソコンのスイッチを入れた。
課長が出勤してきた。そののち部長が出勤してきた。
二人に結婚の報告ができるのはいつになるだろう? そんなことを考えながら、パソコンに目を落とした。
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