彼女がのぞむ月の向こう

内山恭一

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深く濃い霧の世界。
雲の上にいるように、モクモクとして溺れそうであかさは顔を上げた。
あかさは鼓動の早さと裏腹に随分落ち着き払っていた。
今度はどうだろうと、腕を高く上げてみる。
どうやらいつもの制服らしかった。
腕と顔の間をゆったりと霧が流れる。
霧は単に漂っているわけではないようで、どうも右から左へとゆっくり流れているようだ。
流れ来る方法を見る。
白くぼやけているが、高い位置に太陽らしい光が見え、その僅か下に山の頂のようなシルエットがかろうじて見て取れる。
足場がどうなっているやら、あかさは勢いを付けてしゃがんでみた。
やはり全く見えない。
コンタクトはしているようで滲みははっきりしているのだが、霧が濃すぎるのだ。
もう一度顔を上げて息をする。
平衡感覚を頼りにすれば、若干山なりに傾斜しているようで、このまま山頂まで続いていそうな勘がした。
再度しゃがんで、手のひらで地面に触れる。
最初にちょんっと指が跳ねるように、続いてじっくりとなで回す。
あの砂のような感じはない。
何故砂だと思ったのだろう、あかさは自分でも不思議だったが、そうかもしれないと考えていた。
しっかり締め固まった土の印象。
立ち上がって霧から頭を出し、ぷはっと大きく息を吸う。
この霧を吸ったとしても害はないのだろうが、漫然と心を覆う薄気味悪さがそうさせた。
ほとんどがどんよりと白い世界。
太陽の光が強くてそう見えるのだ。
ぐるりと見回しても、目標物は光差す山頂しかなさそうである。
バランスを頼りに、上がるでも下がるでもなく、右手に山を仰ぎつつ歩き出す。
何か見つかるかも知れない。
道とか、標識とか、小屋とか。
何でも良かった。
人でもいい、もちろん好意的な場合に限るけれども。
夢の世界のようで、とても夢とは思えない。
あかさの第六感もそう感じていたので、もしかしたら誰か迎えに来てくれるという淡い期待もあった。
じっとしているのが最善の策だったが、ごく僅かに震え響き渡る低音がとどまることに恐怖を覚えさせる。
あの蝶、あるいは蛾がこの世界から抜けさせてくれる?
いや、大体があれらに意識があるとは思えないし、咲奈の件もあるし、あれが何かの意味を持っているだろうことは見当つくが、期待を寄せる相手としては無機質過ぎだ。
心臓が動き、値が巡り、思考が広がっていく。
だが、結局答えは出そうにない。
出るはずもない、こんな取り留めない夢なのだから。
今のあかさの心配は、夢であるならば内容がいかにも理不尽で、恐怖であることだってあり得るはずであり、それが現実、というか夢に、目前に出てくることだった。
この世界は何なのだろう。
足がすくんだ。
耳にかすかに鈴の音が届く。
聞いたことのある、小さな鈴の甲高い音。
近づいてくるようだ。
一定の間隔でリズミカルにシャンシャンと。
あかさの予想より早く近づく音に、その音の方へ振り返る。
左?もっと?
音が随分と大きくなってきた頃、ようやく方向が定まってきて、あかさは山の麓の方を見やった。
霧がゆっくりあかさを追い越し流れていくのみで、全くもって視界は無いに等しい。
だが確実に近くまで来ているその音は、もう目前だというところでぴたりと止まった。
足下の方から聞こえていたはず。
しゃがんでみようか、でも怖い。
あかさは躊躇していると、一つ猫の鳴き声がした。
一瞬驚いたあかさだったが、緊張が解けて顔がほころぶ。
それでようやく自分の顔がこわばっていたことに気づくことができた。
固まった頬を指で持ち上げ、ほぐす。
その顔はとても人に見せられない衝撃的なおもしろさがあったが、幸いにも足下に頭をすり寄せてきた鈴の持ち主は殊更におもしろく、あかさは思わず吹き出して笑った。
そこにいたのは、おそらく猫だろう。
しかし、顔は狸のようでもあるし、そのずんぐりとして二頭身でアンバランスな様は誰もが知っている猫型ロボットのようだ。
四肢を地につけ、狸顔のその猫は、かつてあかさの夢に見た、こんなことになる前の本当の寝ているときに見る夢に出てきた猫そのままだ。
夢だと大概が忘れてしまうものだが、あれは未だにはっきりと覚えている。
「ぶさっ」
何度見てもおもしろい。
いや、これは失礼にも程があるのだが、とても愛嬌があるし、そもそも自分の夢の産物なのだ、許してもらおうと、
「ごめん、ごめん」
頭をなでてみようとしゃがんだ途端、脇をすり抜けて走り出す。
頭でっかニャンコは、その名はあかさが当時命名したもので、夢で見たときと同じく鈴を鳴らしてふらりふらりと走っていく。
頭が極端に大きく重いため、方向を定めて進むことができない。
たぶんジグザグに走っているはず。
その不意を突いて姿を消した猫に小さく嘆息を漏らすあかさだったが、息が続かない。
立ち上がり鈴の音の方を見た先は、光り輝く山の方。
鈴の音は遠ざかり遙か向こう。
何もないよりマシか、あかさはとりつく島もなく、後を追って歩き出した。
遙かにそびえるあの山へ。
「坂は嫌いなんだけど…」
登山家じゃあるまいし、これを登り切れるの?
口をついてでるのはそんなことばかり。
そんなあかさを励ましているのか、頭でっかニャンコはあかさの近くまで来てはすぐにまた山へ向かう。
「よくこれで見えるよね」
誰に話すでもない、ただ寂しさを紛らわせているだけだ。
どれだけ歩いたか、傾斜はぐんぐんきつくなってくる。
こんなに登ってきたの、私?
それともあの山、実はあまり高くない?
登山なんてニュースで見ることがある程度しかしらないし、そう言うニュースは大抵遭難に関してである。
その上、学校の制服を着ての登山なんて、遭難したら前代未聞である。
ばかばかしい。
遭難したり滑落したり、捜索したり救助されたり、死んでしまったり。
ぐるぐると負のイメージが湧いてくる。
気持ちが折れそうになって、
「ちょっと休憩」
息も絶え絶えで崖の途中にとどまるあかさは、いつの間にこんな所まできたのか覚えていなかったし、頭でっかニャンコがあの足でもはや登れるはずもないことさえ気づいていなかった。
太陽が近い。
山頂はもうすぐだ。
絶え間なく霧が流れ落ちる。
眼下には一面の雲海が広がり、どこまでもそれが続いていた。
水平線から上は濃い青空が広がっている。
ここであかさは変に思った。
青空はよく見ると粒の集まりのようで、まるで青い星が幾万と瞬いているのだ。
パラパラと何かが落ちてくる。
それに何やら人の声?
いつの間にか山頂まで後一歩の所にいるあかさは、力を振り絞って手を伸ばし這い上がる。
縁に立ち上がったあかさの目の前にはぐつぐつと噴き出す溶岩が広がっていた、というわけではなく、真ん中に大きな穴の開いた、人間なら十人くらいなら入られる広さの穴がぽつんとあるだけ。
一歩踏み出すと、途端にあかさの足下が柔らかく沈む。
底なし沼のようにずぶずぶ沈み、くるぶしまで来てようやく落ち着いた。
ふわふわして落ち着き無い地面も、数歩歩けば歩くのになれてきた。
霧がもくもく湧いてくるその穴から何か音が聞こえる。
あのおぞましい低音ではなく、何か聞き慣れた感じの…。
近づいてみようとまた一歩踏み出して、あかさは目を疑った。
霧の切れ目から足の、今踏んだ地面の足跡を見れば、そこにはマットのような、スポンジのような柔らかそうなものが見え、層になったチョコレートケーキの切り口そのものが見える。
そんな馬鹿な。
本物だろうか。
そんなわけないが…。
あかさの革靴を汚している黒っぽい何かを指で少し拭い取る。
どう見てもチョコレートケーキだ。
「あーすごい」
本当に人がいた。
あかさは人がいることにも、地面のケーキにも驚いているばかりだ。
「やばい」
女の子の声?
霧をかき分け、ケーキを踏みしめつつ、穴の中心へ向かった。
霧の粒子がまだ荒い。
あかさは太陽に照らされている霧をじっと見て、これがごく小さいながらもあの虹色の煌めきだということに気づいた。
その霧のわき出る先、そこには誰かが座り込んで何かしている。
ちょうど背後になっていて、まだその人はこちらに気づいていない。
誰だろう、自分と同じ制服を着ている。
動きの止まったその人が振り向き、あかさと目があった。
驚き顔な上にチョコレートまみれではあるが、見間違いではなくちかやの顔がそこにあった。
すぐさま口の中のものを飲み下して、こちらを指さすちかや。
過酷な登山とは裏腹に、山頂では驚きばかりだが、喜びも少しばかり混じって、心震えるあかさだった。
いろんな感情がこみ上げる。
「あかささん、どうしてここに」
チョコまみれの顔が滑稽で笑い出しそうになるのを必死にこらえた。
立て続けに、
「食べてみたら?これ」
と、おもむろに地面を、チョコレートケーキを掘り出し、あかさに差し出した。
突然あかさは頭が急に重くなるのに気づき、答えを待つちかやをよそに自分の頭の上を手で探った。
短く悲鳴を上げるあかさ。
いつの間にか居なくなっていたあの猫が、急に今ここにいる。
あの猫に違いない、頭の上で見えないが、形状は手でもわかる。
そこで夢は唐突に終わりを迎えた。
ジャバジャバと水の落ちる音、暗転する景色。
何?
今のは?
疲労感は全くないが、脱力感が甚だしい。
「おもしろかったけど…」
言葉は続かない。
おかしなところが多すぎる。
「おいしかった」
つぶやく声が耳のそばで聞こえる。
ぱっと身を離して目をこらす。
寄りかかっていたのは他でもない、ちかやだった。
目が慣れていないし、あかさの携帯の照明は消えていてはっきりとは見えないが、街灯を背に浮かぶその横顔は恍惚そうなちかやのもの。
「よだれ、よだれ」
あかさはちかやの肩を揺らし、我に返ったちかやは慌てて口を拭った。
「ごめん」
謝ったのはよだれが携帯についたからだろうか?
「あのチョコレートケーキ、おいしかった?」
あかさはどうしてもストレートにちかやに夢を見たのか聞くのがためらわれた。
でも、このタイミングでぽろりと口にしても、もし間違っていてもただの聞き間違いで処理されるに違いないという腹があった。
当人に反応があるかどうか、それを見るために水面に向かって石を投げたのだ。
夢とは言え、ただの夢とは違う、非現実的な現実。
しかも、それにさっき出会ったばかりの人が出てきた。
ちかやの心の水面は確かにさざ波たったようで、オーバーなアクションで驚いてみせたちかやの顔はあかさの心の靄を晴らす笑顔だった。
だが、肝心のその反応の続きはもう確かめられなかった。
「なぁ、聞こえてるか?霧村」
声のする方を仰ぎ見ると、見知った顔の男子ががやがやと集まっていた。
誰だったろうか、とにわかには思い出せないあかさだった。
そうだ、ひさきが言っていた。
部活帰りだろう、佐村たちバスケ部の面々が大きな声で談笑している。
あかさの目線に腰をかがめのぞき込むのは、佐村だった。
じぃっと真顔で見つめられ、それが長い時間のように感じられ、あかさはたじろいだ。
「い、いつ来た?」
「今だよ。ていうか、ここでも寝てるのか?」
「そんなわけ無いじゃん」
やはりあかさの推測通り夢を見ている最中、端からは寝ているように見えていたということか。
「ふーん」
と、佐村はちかやと会釈を交わし、ちかやとは反対側の隣に少し間を取って座る。
教室での机と机の距離よりも近くに感じる。
「もう終わったのか?」
「あ、どうだろう。まだじゃない?」
実際どれだけの時間が経っていたのか、ちかやの手にある携帯を見れば良かったのだが、ちょうどライブハウスの入り口から結構な数の客の出入りが見えた。
おそらく終わったのだろう。
あかさとちかやの所にそれぞれの友人がぞろぞろと集まってきた。
弱かった街灯はしっかり周囲を照らしている。
「あぁ、来てたんだ」
「残念、終わりだよぉ」
ひさきと加織が佐村たちが手にしているチケットがもう無駄になったことを告げる。
男の子たちは低い声で残念がるが、そう悲しそうな雰囲気には見えない。
「せっかくここまで来たのにな」
歩いてここまで来たのだろう、あかさは同情していた。
「まぁしょうがないな」
「じゃぁどっか寄ってから帰ろうぜ」
休日前日で意気が上がって、今からどうするか、男子の話はあかさの予想通りに進んでいた。
ちかやの前で繰り広げられる何時になれば決まるのか誰もわからない相談が続いていた。
女子も混じって楽しそうにしている。
そして我に返る。
ちかやのあの反応の理由は?
話は途切れてしまったが、どうしてもそれだけは聞いておきたい。
隣ではちかやを含めた、おそらくこちらと似たような今からどうするかの相談の真っ最中だ。
この空気では割っては入れない。
じりじりしながら待つあかさに、佐村たちの話は耳に届かなかった。
だが、とうとう結論が出て、あかさたちの方が早く移動することになった。
せめて一言声を掛けようというところで、ちかやもそれを計っていたかのように、携帯をあかさの前に差し出した。
「これ、入れといたから」
受け取ったあかさは画面を見て、確かめた。
電話番号は入っていたし、名前も入っていた。
宗里ちかや。
画面を目で追うと、さらにあかさの心は歓喜した。
名前の後ろに「電話してね」の文字がある。
ひさきたちについて歩くあかさはちかやの方を歩きながら振り返る。
たまたま目があって笑顔を見せるちかやに、あかさはその日の夜遅く連絡を取った。
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